ピーク時をとっくに過ぎているおかげか、個人経営らしい小さなラーメンはガラガラだった。
葛西くんが「三人っす」と愛想よく言うと、エプロンをつけた白髪のおばさんが笑顔でテーブルに案内してくれる。カウンターの向こうにある厨房では、おじさんが大きな音を立てて野菜を切っていた。夫婦で切り盛りしているお店のようだ。
「すげぇ、メニューいっぱいあるじゃん。俺チャーシュー麵にしよ」
「……じゃあ、オレは塩」
「おれはどうしようかな……えっと……じゃあ、味噌ラーメンください」
悩んだくせにいちばん無難な注文をするおれを、おかみさんはニコニコしながら見守ってくれた。注文してから5分も経たないうちにラーメンが届き、おれたちはしばらく食べることに集中した。
思った通りスープが熱かったので、麺とワカメとモヤシを少しずつレンゲに乗せる。この食べ方をすると周りから必ず『ミニラーメン作ってると伸びるぞ』と笑われるけど、今一緒にいる二人はからかわないので安心だ。
テレビから流れてくる野球中継が、静かな午後の空気に溶けていく。温かいスープを飲んでいると、あの貼り紙の家が悪い夢だったように思えた。
葛西くんと志度くんが先に食べ終わると、おかみさんがお代わりの水を注ぎにきた。美味かったですと二人が言えば、目尻に皺をつくって笑ってくれる。
「お粗末様でした。お兄さんたちは、お友達の家に遊びにきたの?」
さすが地元民。おれたちが外からきた人間であることなんて、すぐに見抜かれてしまった。
どう返事するべきか迷っていると、葛西くんが「高校の課外授業で来たんです」と元気よく答える。
「不動産の登記について調べる授業で、調べたい物件を実際に見に来ました」
「あら、すごい。いまの高校生ってそんな難しい勉強してるの」
あまりに大胆な嘘に、おれは飲み込もうとしたスープでむせてしまった。
「マコト、ゆっくり食えって」
おれの背中を擦りながら、葛西くんが得意げな笑みを浮かべる。どうやら、このまま取材を任せろということらしい。
人の好さそうなおかみさんは、素直に驚きながらカウンターの椅子へ腰かけた。話好きな人のようだ。
「この辺は古い団地だから、授業で役に立ちそうな場所なんてないでしょう?」
「いや、実は俺たちの班、2丁目の家が気になってて」
「2丁目のお家?」
「ほらあの、いま売られてる家です」
あえて『貼り紙だらけの家』と言わないようにしたのは、興味本位で調べているわけじゃないというアピールだろう。
だけどそれを聞いたとたん、おかみさんの表情がぴしりと固まった。
「……田辺さんのお宅のこと?」
タナベ。
彼女の口から飛び出たその名前に、レンゲを持っていた右手がびくんと震えた。水の入ったグラスにぶつかってしまい、ガシャンと盛大な音を立ててガラスが砕け散る。
「あ……ッ、すみません!」
「いいのよ。いま片付けるから待っててね」
厨房から雑巾を持ってきて、おかみさんが濡れた床を拭く。グラスの破片を集めようとおれが手を出すと、志度くんに腕を掴まれた。
「部長、危ないんで触らないほうが」
「ご、ごめん」
「おばさん、このホウキって使っていいすか?」
「私がやるから大丈夫、座ってて」
ガラス片をホウキでかき集め、おかみさんは床を見下ろしたまま言った。
「……あのお家ね、5年前にいろいろあったのよ。旦那さんが火事で亡くなって、そのあと奥さんと息子さんもすぐにいなくなっちゃって」
火災による死亡事故。
目を合わせただけで、葛西くんと志度くんが事故物件サイトの説明文を思い出しているのが分かった。火事があったのは本当だったんだ。
けどおれは、おかみさんの言う「いなくなった家族」の方が気になった。
「あの、その息子さんって知り合いなんですか。どこかに引っ越しされたんですか?」
とつぜん食いつくように質問するするおれに、おかみさんが目を丸める。
「さぁ……どこに行っちゃったのかは分からないわね。あの当時で大学生くらいだったかな。いつもお家に引きこもってたみたいだから、私もどんな子かよく分からない。田辺さんご自身は小学校の先生で、すごく教育熱心な方だったんだけどね」
「じゃあ、あの家の貼り紙って……本当に小学校の生徒が書いたものなんすか」
葛西くんが身を乗り出す。
「そう、先生が生徒さんの作品を保管されてたんでしょう。あのお家、肝試しとかで中に入っちゃう若い人が多いから、誰かがイタズラで貼ってるのよ、多分。町内会でも見回りはしてるんだけど、あの辺はちょっと治安が悪くなっちゃって」
そこまで言うと、おかみさんは声のトーンを押さえた。
「田辺先生ね。生徒さんのご両親と揉めて、それが原因で学校を辞めさせられたそうなの。5年前の火事も、それを苦にして先生が自分で火をつけたって噂で……」
「ど、どういうことですか」
「先生の受け持ってたクラスで不登校の子がいたんだけど、その親御さんがちょっと変な人だったらしいのよ。だから田辺先生、生徒さんが学校に来れるように、お家へ直談判しに行ったのよね。それを学校側に訴えられちゃって、それで先生は……」
おかみさんが饒舌になったそのとき、奥の厨房から店主が出てきた。
「おい、どうした」
店主はおれたちを一通り眺めたあと、おかみさんへ視線を戻す。
「さっき電話鳴っただろ。出前」
おかみさんは「あらっ」と弾かれるように椅子から立ち上がった。そして、照れたように笑う。
「ごめんなさいね、つい長々と話しちゃって」
「いえいえ、こちらこそお仕事中にすみません」
あんまり長居するのは良くないと判断し、おれたちは同時に席を立ってカウンターへ向かった。
店主がレジ前に立ち、会計をしてくれる。見た目通り愛想を振りまくタイプではないようで、にこりともしない。
だけど外に出ようとしたとき、背後から初めて声をかけられた。
「二丁目の家にはいくなよ」
とつぜん聞こえた声に、おれたちは慌てて振り返る。
「……え?」
店主はお札を手早く数えて、レジの中へしまい込む。
「田辺さんの家。あそこには絶対に近づくな」
こちらを一度も見ずにそう言うと、彼はそのまま厨房の中へ消えた。
葛西くんが「三人っす」と愛想よく言うと、エプロンをつけた白髪のおばさんが笑顔でテーブルに案内してくれる。カウンターの向こうにある厨房では、おじさんが大きな音を立てて野菜を切っていた。夫婦で切り盛りしているお店のようだ。
「すげぇ、メニューいっぱいあるじゃん。俺チャーシュー麵にしよ」
「……じゃあ、オレは塩」
「おれはどうしようかな……えっと……じゃあ、味噌ラーメンください」
悩んだくせにいちばん無難な注文をするおれを、おかみさんはニコニコしながら見守ってくれた。注文してから5分も経たないうちにラーメンが届き、おれたちはしばらく食べることに集中した。
思った通りスープが熱かったので、麺とワカメとモヤシを少しずつレンゲに乗せる。この食べ方をすると周りから必ず『ミニラーメン作ってると伸びるぞ』と笑われるけど、今一緒にいる二人はからかわないので安心だ。
テレビから流れてくる野球中継が、静かな午後の空気に溶けていく。温かいスープを飲んでいると、あの貼り紙の家が悪い夢だったように思えた。
葛西くんと志度くんが先に食べ終わると、おかみさんがお代わりの水を注ぎにきた。美味かったですと二人が言えば、目尻に皺をつくって笑ってくれる。
「お粗末様でした。お兄さんたちは、お友達の家に遊びにきたの?」
さすが地元民。おれたちが外からきた人間であることなんて、すぐに見抜かれてしまった。
どう返事するべきか迷っていると、葛西くんが「高校の課外授業で来たんです」と元気よく答える。
「不動産の登記について調べる授業で、調べたい物件を実際に見に来ました」
「あら、すごい。いまの高校生ってそんな難しい勉強してるの」
あまりに大胆な嘘に、おれは飲み込もうとしたスープでむせてしまった。
「マコト、ゆっくり食えって」
おれの背中を擦りながら、葛西くんが得意げな笑みを浮かべる。どうやら、このまま取材を任せろということらしい。
人の好さそうなおかみさんは、素直に驚きながらカウンターの椅子へ腰かけた。話好きな人のようだ。
「この辺は古い団地だから、授業で役に立ちそうな場所なんてないでしょう?」
「いや、実は俺たちの班、2丁目の家が気になってて」
「2丁目のお家?」
「ほらあの、いま売られてる家です」
あえて『貼り紙だらけの家』と言わないようにしたのは、興味本位で調べているわけじゃないというアピールだろう。
だけどそれを聞いたとたん、おかみさんの表情がぴしりと固まった。
「……田辺さんのお宅のこと?」
タナベ。
彼女の口から飛び出たその名前に、レンゲを持っていた右手がびくんと震えた。水の入ったグラスにぶつかってしまい、ガシャンと盛大な音を立ててガラスが砕け散る。
「あ……ッ、すみません!」
「いいのよ。いま片付けるから待っててね」
厨房から雑巾を持ってきて、おかみさんが濡れた床を拭く。グラスの破片を集めようとおれが手を出すと、志度くんに腕を掴まれた。
「部長、危ないんで触らないほうが」
「ご、ごめん」
「おばさん、このホウキって使っていいすか?」
「私がやるから大丈夫、座ってて」
ガラス片をホウキでかき集め、おかみさんは床を見下ろしたまま言った。
「……あのお家ね、5年前にいろいろあったのよ。旦那さんが火事で亡くなって、そのあと奥さんと息子さんもすぐにいなくなっちゃって」
火災による死亡事故。
目を合わせただけで、葛西くんと志度くんが事故物件サイトの説明文を思い出しているのが分かった。火事があったのは本当だったんだ。
けどおれは、おかみさんの言う「いなくなった家族」の方が気になった。
「あの、その息子さんって知り合いなんですか。どこかに引っ越しされたんですか?」
とつぜん食いつくように質問するするおれに、おかみさんが目を丸める。
「さぁ……どこに行っちゃったのかは分からないわね。あの当時で大学生くらいだったかな。いつもお家に引きこもってたみたいだから、私もどんな子かよく分からない。田辺さんご自身は小学校の先生で、すごく教育熱心な方だったんだけどね」
「じゃあ、あの家の貼り紙って……本当に小学校の生徒が書いたものなんすか」
葛西くんが身を乗り出す。
「そう、先生が生徒さんの作品を保管されてたんでしょう。あのお家、肝試しとかで中に入っちゃう若い人が多いから、誰かがイタズラで貼ってるのよ、多分。町内会でも見回りはしてるんだけど、あの辺はちょっと治安が悪くなっちゃって」
そこまで言うと、おかみさんは声のトーンを押さえた。
「田辺先生ね。生徒さんのご両親と揉めて、それが原因で学校を辞めさせられたそうなの。5年前の火事も、それを苦にして先生が自分で火をつけたって噂で……」
「ど、どういうことですか」
「先生の受け持ってたクラスで不登校の子がいたんだけど、その親御さんがちょっと変な人だったらしいのよ。だから田辺先生、生徒さんが学校に来れるように、お家へ直談判しに行ったのよね。それを学校側に訴えられちゃって、それで先生は……」
おかみさんが饒舌になったそのとき、奥の厨房から店主が出てきた。
「おい、どうした」
店主はおれたちを一通り眺めたあと、おかみさんへ視線を戻す。
「さっき電話鳴っただろ。出前」
おかみさんは「あらっ」と弾かれるように椅子から立ち上がった。そして、照れたように笑う。
「ごめんなさいね、つい長々と話しちゃって」
「いえいえ、こちらこそお仕事中にすみません」
あんまり長居するのは良くないと判断し、おれたちは同時に席を立ってカウンターへ向かった。
店主がレジ前に立ち、会計をしてくれる。見た目通り愛想を振りまくタイプではないようで、にこりともしない。
だけど外に出ようとしたとき、背後から初めて声をかけられた。
「二丁目の家にはいくなよ」
とつぜん聞こえた声に、おれたちは慌てて振り返る。
「……え?」
店主はお札を手早く数えて、レジの中へしまい込む。
「田辺さんの家。あそこには絶対に近づくな」
こちらを一度も見ずにそう言うと、彼はそのまま厨房の中へ消えた。
