1
車庫では昼間の勤務を終えた同僚たちが乗務したタクシーを洗っていた。照度の低い蛍光灯でも車体が黒光りしているのがわかる。会社の洗車機を使わず、丁寧に手拭きをしている者がほとんどだ。感心しながら事務所へと歩を進める。
ドアを開くと、夜間勤務のドライバーらがパチンコ、スロット、競馬などギャンブルの話題で歓談していた。今日は月曜日だから迎車の客が少ないのだろう。五時にも関わらず、一同に焦りの表情は微塵もない。夜間専門の勤務形態はよくわからない。私は、朝から夕方まで、夕方から深夜まで、夕方から翌朝まで走ったあとは休み、翌日も休みを繰り返す、「交番」と呼ばれる勤務形態だ。ほぼ三勤二休なので、週に一日しか休みのない昼と夜のドライバーよりは健康的な働き方だ。ギャンブル狂たちに適当に挨拶しながら、日付と運転者名、安全運転目標を運転日報に書き込む。逃げるようにその場を離れ、アルコールチェックと体温測定をし、運行管理者に提出した。
「えーと、恩田くんね。体調はいいね。競馬はどげかいね?」
「複勝転がしでチビチビ稼いでますよ」
運転日報に押印してもらうと、タクシーのエンジンをかけ、ガスの残量、ライト、ブレーキランプ、左右ウインカー、ハザードランプ、エンジンオイル、ラジエーター液を確認した。入社五年目だが、まだオンボロ車しか乗せてもらえない。総走行距離一二〇万キロ、コラム式マニュアルトランスミッションという旧車だ。早く自由になりたかったので、個別無線を手に取った。
『一〇七、開局お願いします』
『一〇七、了解。行ってらっしゃい』
出庫して公道に出ると、JR松江駅には向かわず、島根県庁のほうへと車を走らせた。夜間専門のドライバーは個人で客を抱えている者が多く、配車指示に従わない傾向がある。駅に行ってしまえば、五分もせずに配車指示があるだろう。「交番」ドライバーは配車室に忠実な者がやるものだが、私はそうではない。私が逃げるのを配車室も知っているので、すぐに指示を飛ばしてくるかと不安だった。が、月曜日の夕刻ということもあってか、無事に県庁に到着した。
県庁の待機所は、松江市内の全社共通ルールがある。それは必ずエンジンを切ること。県が立て看板まで設置して呼びかけているのだから仕方がない。エンジンを切ってしまえば、配車指示はない。それに、夕方の県庁からタクシーに乗る客は皆無だ。庁舎からぞろぞろと出てくる無能な職員たちを眺めながら、ノンアルコールビールで抗不安薬を三錠飲んだ。かなり強い薬だが、長年の使用で耐性がついてしまっている。二〇錠くらい飲んでも平気だが、節約しなければすぐになくなる。昼間はいいが、薬なしで夜の客を相手にしていては精神が崩壊してしまう。
日が暮れて松江城がライトアップされた。気分もまずまずよくなった。センターコンソールに後付けされたドリンクホルダーへノンアルコールビールを置くと、今年で三十九歳になる同い年の相棒に架電した。
『よう、足立。今日は全然だめだろ?』
『は? おまえのせいで、もう六本も走ったぞ! 俺はこれからビール飲んでどっか逃げるけんな。月曜なのに多すぎるわ。島根県民はマジでゴミだぜ』
『僕もゴミは早く滅亡しろと切に願っとる。まあ、任せろ。どっかで一杯やっちょれや』
我が社では、「交番」ドライバーは二人一組と決まっている。夜間専門が配車室の言うことを聞かないということもあるが、平日は一時や二時で切り上げるドライバーが多い。それ以降の時間は、よほどの頑張り屋でないかぎり入庫してしまう。配車室にとっては、三時が終業時間の私たちが頼みの綱だ。とはいえ、私たちのほかに翌朝七時まで勤務する二人組がいる。いわば、最後の砦だ。明日は足立とともに砦を守らねばならない。憂鬱になった。抗不安薬を追加服用して松江駅に向かった。
まだ八時だったので、駅構内の待機所ではタクシーの行列ができていた。酔っ払いよりシラフのサラリーマンを乗せたかった。最後尾に並び、レジスター横のタッチパネルに触れ、「待機」を押した。前方を確認すると、我が社の行灯が六つ見えた。配車指示は待機順に出されるから、のんびりできそうだった。駅から乗る客もいないらしく、車列が動かない時間が四〇分続いた。車から降りて、ストレッチをしていると、前のドライバーが降車して煙草を吸いだした。退屈だったので、私も煙草に火を付けると話しかけた。
「お疲れさんです。動かんですね」
「動かんなあ。でも、おたくの会社は配車があるがな」
「ありますけど、ワンメーターばっかりですよ。さっきまで県庁に逃げてましたし」
「あんた、そぎゃんサボるもんじゃないで。コロナが終わってもこの有り様だけんな」
「そうですよね。あっ、乗った!」
私たちは煙草を足で踏み潰すと、車を一台分、前進させた。また待機地獄が続くのかとシートを倒した。すると、我が社の車が次々と車列から抜けていった。配車で抜けたのだろう。これはまずいとシートを戻して前方を見た。我が社の行灯は見えなかった。観念して駅周辺の行人を見ていたら、ピコンピコンという音とともにタッチパネルに配車指示が表示された。パネルに触れ、客の確認をした。
『東横イン前 マツオカ様』
マスクを着けると、ギアを一速に入れ、ゆっくりと車列から離れた。マツオカは、ワンメーターなうえに電子決済で領収書を要求するゴミだった。行き先は決まって松江イオン。歩いていけと何度も憤慨したこと数知れない。捨て鉢な気分で東横インに横付けし、マツオカを乗せた。わざと大きなため息をつきながら、急発進した。いつも急かしてくるので、今日はかなり速度を出した。従業員入口前で車を停め、料金メーターを切った。
「ペイペイで。あと、領収書」
「すみません。領収書は現金じゃないと出せませんので。未収書を出しますね。経理の方に渡せば大丈夫です」
「領収書は出せるでしょ。スーパーとか出してるでしょ」
スーパーやコンビニはレシートと一緒に「お客さま控え」という名の証書を発行する。レシートと控えのどちらが未収書の役割を果たしているのかはわからない。原則的に現金払いでなければ領収書を発行することはできない。なかなか理解してくれる客はいないが、受け取ってない金銭の証明はできない。それをすると発行者が罪に問われる。これまで見逃してきてやったが、今日こそはゴミに天誅を下す。私は事情をマツオカに丁寧に説明したが、ゴミの脳みそには理解できなかったようだった。
「では、私が罪を犯すところを警察に見てもらいますので、一一〇番しますね。マツオカさんも警察から話を訊かれると思います」
私はスマホを制服のポケットから取り出すと、「一一〇」とタップしてマツオカの眼前に近づけた。
「じゃ、押しますね」
「いいよ。遅刻する。つーか、もう遅刻だよ。早く紙くれ」
「安心してください。罪に問われるのは私ですから」
「もういいって言ってんだろうが!」
マツオカは未収書をひったくると物凄い速さで従業員入口へと消えていった。
その後、私は八本走った。酔っ払いばかりだったが、全員現金で支払った。日付が変わり、二時五〇分になっていた。駅に戻ると、構外待機所で足立が煙草を吸っていた。足立の車の後ろに停め、彼にマツオカに裁きを下したと話した。
「あいつか。ほんに舐めちょうわ。クレカ使うサラリーマンも無知だけんなあ」
「それな。ゴミばっかりだぜ。島根はいちど滅びたほうがいい。それより、酒は抜けたんか?」
「完全に抜けとる。さっさと帰ろうぜ」
足立はすでに運転日報を書き終えたらしく、すぐに帰って行った。たった九本では体裁が悪いため、すべての客の乗車時間と降車時間を改ざんした。運転日報の改ざんは当たり前に行われているので問題ない。よく働く人ほど改ざんしている。なぜなら、絶対に休憩時間を入れないといけないからだ。もう退社した先輩だが、一日に四〇本走ったと言うので、運転日報を見せてもらった。十五キロはあるだろう距離を八分で移動していた。残りの三十九本もおよそ車では考えられない所要時間ばかりだった。改ざんを終わらせ、時刻を確認すると、すでに三時を過ぎていた。駅構内に若い男女らしき姿が見えた。こっちに来られて乗車となると面倒だ。急いで個別無線を口元に近づけた。
『えー、一〇七、閉局お願いします』
『一〇七、了解。お疲れさまでした』
ほとんど仕事をしていないつもりだったが、目がチカチカしていた。ドリンクホルダーからノンアルコールビールを手に取り、残りを一気に飲み干した。
2
駐車場代込みで家賃三万円のボロアパートが私の根城だ。ワンルームだがキッチンやユニットバスを除いた居住空間は洋室十一畳。クローゼットもある。ドアを開けると、紫煙で充満していた。有希子の仕業だろう。
「おかえり!」
「黙れ。隣に聞こえるだろうが」
「ごめん……」
制服をクローゼットに投げ込み、部屋着に着替えると、小声で再度注意した。
「だから、ごめんて言っちょうがん!」
「うるせえよ。日本語もわからねえのか」
有希子は軽度の知的障害者だった。松江市内の中学でいじめられ、県外の養護学校を卒業後に戻ってきた。障害に理解のある会社のスーパーで品出しの仕事を十八年続けていたが、一年前から鬱病で休職している。今年で四十五歳になるから、心身ともに何か変化があっても不思議ではなかった。子供が一人いるが、父親はわからない。就学年齢に達するまで里親に託し続けるつもりでいる。有希子を私に紹介したのは足立だった。我が社のドライバーは訳あって流れ着いた者の集まりだから、表面上は仲良くしていても詳しい生い立ちや経歴などは知らないし、訊く者もいない。ただ、足立が広島県の大学を卒業後、同県で知的障害者を対象とした詐欺や性暴力をしていたことは本人から聞いていた。私は有希子を足立から引き離し、退職してヒモになる予定だった。前者は成功したが、後者は失敗した。
「おい、コンビニでピースを二つ買ってきてくれ」
「キース?」
なかなか会話が嚙み合わないので、腹が立つ。脳機能上の問題で有希子に何の落ち度もないことはわかっている。それでもつい頭に血が上ってしまう。
「それはリトルシガーだ。喫煙者なのに何で銘柄を知らないんだよ。金色ピースをくださいと言えばわかるよ。ちゃんと買ってこれたら、ちんこ舐めさせてやるよ」
「恩ちゃんのちんこ舐めたい! 絶対買って来る!」
だから、うるさいと言おうとしたが、有希子はさっとパーカーを羽織るとすぐに出かけてしまった。有希子のことだから、普通のピースではなく、青黒いパッケージのピースを買って来るような予感がした。もとより、彼女は足立から救ってくれたことを過剰なほどに感謝している。私もヒモになりたかったので、ネットで仕入れた「知的障害者は愛情を注がれることに強い喜びを感じる」という情報を利用して愛の言葉をささやき続けた。懐柔はうまくいったが、いざ同居してみると腹の立つことばかりで私の心も折れる寸前になっていた。山のように盛り上がった灰皿をトイレのなかに振るっていたら、有希子が帰って来た。ちゃんとお使いができたか、と袋の中を覗いた。
「やっぱり間違えると思った。ちんこはなし。何でそんなにバカなんだよ」
有希子はぐすっと鼻をすすったので風邪でもひいたのだろうと放っておいた。次第に何度も鼻をすすり、泣き出してしまった。
「だって、私、バカだもん。バカだけん、いくらでもバカって言っていいけん」
「ごめん。言いすぎた。しっかり説明しなかった僕が悪い」
「私がバカだから……。恩ちゃんに迷惑かけてる」
「迷惑じゃない。有希子がいなかったら、僕も生活できない。有希子は大切な人だよ」
私は部屋着を脱ぐと、布団の上に仰向けになり、ペニスを指さして、舐めるよう有希子に視線を送った。有希子はその醜い顔をほころばせると、すぐにしゃぶりついた。私はスマホでお気に入りのセクシー女優を検索し、フェラチオシーンの画像を見ていた。勃起はしなかった。有希子の技量の問題というより、私の問題だった。抗不安薬の副作用で勃起不全と不感症になっていた。有希子は暑くなったと言って全裸になった。四十四歳にしては痩身を保っていたが、乳房の膨らみはまったくない。脚は私と同じくらいの脛毛、唇の周りには濃い髭が何本も生えている。数ケ月前に魔が差してセックスしたこともあったが、そもそも私のペニスが勃たない。それでもいいと言うので、膣に挿入できているのかわからないまま腰を振り続けた。彼女は何度も絶頂に至ったようだったが、私は不満と絶望の念が混在していた。出産の影響なのかわからないが、有希子の膣内はかなり弛緩しており、そのうえ、ひどい悪臭だった。ペニスを洗っても悪臭はなかなか取れず、そのうち私は有希子とのセックスを忌避するようになった。
かわいそうだが、有希子の奮闘にも関わらず、ペニスは逆にしぼんでいっている感じがした。他のセクシー女優を見ても変わらないだろうと諦めて顔を傾けた。有希子のハンガーラックに隠れるように壁に紙が貼られていた。昨日まではなかったはずだ。もしかしたら、ずっと前からあったかもしれない。太字のペンで書いたのだろう。横目でも容易に見えた。
『恩ちゃんのじゃまだけは絶対にしないし、しないこと。勝手に触らないこと。必ず守ること』
自分もゴミだと自覚した。男は三〇歳に達すると頑固になり、柔軟な思考ができなくなると言われている。おそらくネットで得た知識だろうから、科学的な証左は何もない。それでも私は若き日の溌溂とした精神を取り戻し、自分を変えなければならない。バカゆえに純真無垢の愛で私を必要としている有希子のために、何かしてあげたいと思った。
「有希子、もういいけん。えらこと気持ちよかったわ。話しづらいならいいけん、足立のことについて教えてごさん?」
優しさなのか打算なのかわからないが、雲伯方言を少し使った。彼女はしばらく黙っていたが、落ち着いた口調で切り出した。
「足立さんと出会ったのは十五年ぐらい前。ボスがおる。ボスが指示して足立さんは動いとる」
「ほかには? 言いたくなければ……」
「ボスの手下? 手下たちとセックスさせられた。金も貸したけど返してもらってない」
足立がこんな田舎で反社会的なネットワークに肩入れしているとは想像もしていなかった。まして、ボスがいるとは。足立はもともと口達者な男だ。手練手管で知的障害者を心身ともに篭絡させることなら単独でやれるだろう。そんな彼のボスとなると、そうとうなワル、いやゴミに違いない。こういった場面に直面するとき、もっと法律の知識があったらと悔やむ。だが、私には弁護士になる資格や司法書士になる資格は法律で認められていない。
「実は、僕には有希子に話してないことがある。僕は自己破産しとる」
「うん。別に私は恩ちゃんがおればそれでいい。恩ちゃんのそばにいたい」
じっくり説明しようと思ったが、理解できないだろうと判断してやめた。それより、彼女の狂信的な愛情に甘えたままでいいのかと自問自答した。いっそどこかに蒸発してしまおうか。
「私も話してないことある。出産後に何か医者に入れられた。閉経したら取る」
「は? たぶん子宮内避妊具だろ? 有希子は入れてくれとも何とも言ってないだろ?」
「意識もうろうとしてて言ったかもしれん」
私は俯いて額に手を当てると、そのまま髪を掻きむしった。医師は知的障害者が望まぬ妊娠をしないための親切心で処置したのかもしれない。だが、それは人権侵害じゃないのか。やはり島根県民はゴミだ。もう地図上から消えてなくなればいい。
「恩ちゃんの子供が産みたい」
「気持ちはわかるけど、僕らジジイとババアだぜ。それに現代は母体の安全を優先するみたいだけんな。昔みたいに『私はどうなってもいいですから』なんて出産は通用せんで」
「私、ほんにバカだわ。バカすぎる自分が悔しい」
鬱病の有希子がこれ以上の闇に突き落とされるのはまずいので、不適切だと思ったが、話題を変えた。
「若いころからずっと気持ちいいことしてきたんだろ? 羨ましすぎる。僕が童貞を捨てたのは最近だぜ。カーセックスはしたことある?」
「ある。公園のトイレでもやった。養護学校のときは放課後に毎日やってた」
知的障害者なのに、ずっと男とセックスしてたなんて幸せじゃないかと言いかけたが、ぐっとこらえた。有希子にとって最優先事項は鬱病を治すことだ。仕事での人間関係なんてゴミだ。そもそも島根県民はすべてゴミ。鬱病は、とにかく毎日を楽しく過ごすことが大事だ。私は有希子に動画配信のサブスクを勧めた。ロバート・デ・ニーロ主演の『タクシードライバー』がいいかもしれないと思ったが、全体的に陰鬱だし、主人公と私の共通点が多い気がするので脳内で退けた。韓国ドラマ・映画にも名作は多い。悩んだすえ、アル・パチーノ主演の『セント・オブ・ウーマン』を勧めた。この作品なら間違いなく心が浄化されるだろう。
「会社はゴミ。松江もゴミ」
「そうだよ。その調子」
「会社はゴミ、松江もゴミ、島根もゴミ。どうでもよくなってきた。早く決着つけたい」
私も自暴自棄になっては仕事を辞め、何度も転職を繰り返してきた。ここは自分の居場所じゃないと少しでも気に食わなければ一蹴してきた。三十五歳までなら、若者のいないゴミ島根でも何とかなっただろう。だが、彷徨の果てに結局たどり着いてしまったのが今の会社だ。有希子も年齢的に転職は難しい。仮に転職しても、新たな職場で業務内容を覚えることは困難だろう。それは、症状が落ち着いてくれば自分でも冷静に判断できるはずだ。
カーテンから外を覗くと眩しい陽射しが目に刺さった。ゴミどもが歩いたり車を運転したりしている。宇宙人の戦艦が人知を超えた兵器でこいつらもろとも島根県を爆砕してほしいと心から願った。
3
小料理屋の大将を乗せたあと、コンビニに寄り、タッチパネルの「離れ」を押した。これは配車室への意思表示で、トイレに行っているから配車は受けれないという意味だ。私にとってそれは建前にすぎない。いつも煙草休憩のために押している。明朝まで悠久の時間がある。今日も平日だが、昨日と違って小雨が降っている。店舗外に設置されている喫煙所で三本ほど煙草を吸った。その間にタクシーや代行サービスの車が何台か目の前を通って行った。こんな日でも酒を飲みに行くのはゴミがすることだ。まだ駅に戻る時じゃないと思い、もう一本煙草に火を付けた。
空にゆらゆら昇っていく紫煙を眺めていたら、我が社のタクシーが私の車の横に停車した。まずいと感じて身を隠そうとしたが、車番で足立の車だとわかった。
「よう、恩田。サボり中か?」
「まあな。僕らの仕事は三時からが本番だけんな」
「五時ごろベロンベロンに酔ったゴミが乗ってきそうな気がするわ」
「ありそうだわー。それは乗車拒否せな。僕らゴミ清掃車じゃねえけんな」
足立は煙草を取り出すと、にやにやと私の顔を見て「俺は六本走った」と、さも働いているかのような口ぶりで話した。私は鼻から煙を出し、「僕は三本だ」と答えた。足立は二本目に乗せた若い女性が美人だったらしく、「いいねえちゃんだったなあ」と何度も口にした。そのうち、「俺としたことが名刺渡すのを忘れた。くっそ!」と口走ると、半分以上も煙草を残して車に乗った。そして、窓から顔を出し、「明後日、市役所に朝七時集合だぞ!」と手を振って走って行った。私は足立の残した吸い殻に火を付けて、またプカリプカリとやりだした。吸い口に唾液がべっとり付いていて気持ち悪かったが、根元まで吸い切った。
そうこうしているうちに四〇分が過ぎていた。私は無駄に時間を浪費しているわけではなかった。平日で唯一の固定客である佐々木さんからの連絡を待っていた。彼は松江から出雲の家に帰る。売り上げ一発逆転の切り札だ。今日は十一時に店を出ると事前に連絡があった。しかし、あと三〇分も怠けているわけにはいかない。車に戻り、「離れ」を解除した。その直後、個別無線の呼び出し音が鳴った。嫌な予感がした。恐る恐るマイクに手をかけた。
『一〇七、一〇七、よろしいでしょうか?』
今日の配車係は誰だったか。丁寧な口調に戦慄しつつ、『一〇七、大丈夫です。何でしょうか?』と応じた。
『東本町二丁目の「ビエンベニード」さんに向かってください。地図は出しておきます』
そんな店はないはずだと思ったが、仕事をしないわけにもいかず、『一〇七、了解』と返した。まもなく、配車指示がタッチパネルに表示された。続けて表示された地図を見るかぎり、店は実在するようだった。
同店は最近できたスナックらしかった。しばらく待っていると店の従業員に抱えられた金髪の男が千鳥足で歩いてきた。粗野な感じで、どう見てもゴミだった。年齢は三〇歳ぐらいだろうか。彼は泥酔していたので、従業員が「淞北台まで」と代弁した。佐々木さんとの約束もあり、男は泥酔状態だったため、断ろうかと思ったが、配車室が了としてしまった以上は従うほかなかった。
男は乗車すると、すぐに横になった。眠られるとまずいので、念のため、「お客様、淞北台でよろしいでしょうか?」と訊ねた。「うーん」とつぶやいたので、意識はあるようだった。これは急がないといけないと判断し、深夜でも信号が通常に点灯する幹線道路を避け、黄色点滅で最短距離の道を走った。
淞北台は広い。私は、「どのあたりでしょうか?」と訊いた。すると、かすかな声で「まっすぐ上がってロータリーを左」と聞こえた。次の指示を仰ぐと「突き当り右」と答えた。今にも寝てしまいそうな声だった。再度、「どのあたりでしょうか?」と訊いた。返事はなかった。男は眠ってしまっていた。「お客様、淞北台で間違いないですね?」と大声で呼びかけた。彼は一瞬だけ気を取り戻したが、「わからん」と言ってまた眠ってしまった。この時点で料金メーターを止めた。目を覚まして運賃の高さに激昂した彼が何をするかわからないからだ。
十一時になった。佐々木さんは時間通りに架電してきた。私は現状を伝え、何度も何度も詫びた。佐々木さんは、優しい口調で「そりゃ仕方ないけん。また次に頼むけんね」と言ってくれた。が、もう次はないと思って、しばらく何も考えることができなかった。
男が乗車してから一時間が過ぎた。いちど配車室に連絡を入れることにした。
『一〇七、客が家わからんくなってます。メーターは止めました。何とか起こしてみます』
『一〇七、了解しました』
このまま男が起きなければ、泥酔者を保護するため、彼を交番に連れて行かないといけない。それは彼のためでもあるが、いささか気の毒に思えた。私は道の広い場所に車を停め、彼を起こそうと必死に呼びかけた。
「お客さん、このままだと交番行かんといけんくなるで!」「ごめんけど、起きんさいや! 交番行かんといけんくなるけん!」「おまえはゴミだから料金いらん! 起きろ!」
私はあきらめてはなるまいと、およそ一時間半にわたって体も揺すって繰り返し呼びかけたが、ついぞ男は目覚めなかった。憔悴した私は配車室に報告した。交番に行くよう指示が出た。
最寄りの交番に行くと、すぐに警察官が現れた。私はこれまでの経緯を説明した。警察官が男を車から降ろそうとすると、さっきまで眠り込んでいた彼が急に目を覚まして暴れだした。彼は何か大声を発しながら、隣に駐車してあったパトカーにタクシーのドアをガンガンとぶつけた。警察官は応援要請した。ものの数分でパトカーが二台到着した。彼は警察官らにしっかりと体を抑えられながら、引きずられるように連行された。その際、彼に手錠がかけられたかは覚えていない。だが、まぎれもなく現行犯逮捕だった。
詳しいことはよくわからないが、その後、私は現行犯逮捕の証人か何かで交番に残ることになった。警察官から「刑事が来るので待っていてください」と言われた。刑事の到着まで随分と待たされた。刑事は到着すると、さもありなんと書類の山から一枚を引き抜いた。何の証言がほしいのか定かではなかったが、様々なことを訊いてきた。調書か何かわからないが、刑事は手書きだった。それも何か定型文があるようで、その型通りに書くために私の回答を誘導している節があった。
そのうち、会社の所長がやって来た。所長が来てからも刑事の文書作成は続いた。私はなぜパソコンを使わないのかと、若干イライラしていた。この刑事もゴミだと念じて心を落ち着かせた。
何時間が経過したかわからないが、ようやく刑事の質問攻めから解放された。交番の外に出ると夜が明けていた。所長はタクシーのドアとパトカーを確認しながら、「実は後ろの左ドア交換しようと思っとったけど、金かからんで済みそうだね」と微笑んだ。私は疲弊していて作り笑いすらできなかった。所長は、「明日は公休でしょ? 明後日も公休にしたけん、しっかり休みんさい」と言って帰った。
車庫に戻ると、同僚たちから労いの言葉をたくさんかけられた。疲れ果てていた私は返事もそこそこに、昨晩から今朝にかけて苦楽をともにした一〇七号車をぼんやりと見つめていた。そのうち、車内から個別無線呼び出し音が鳴っているのに気づいた。くたびれているとはいえ、エンジンを切っていなかったのかと自分でも呆れた。
『一〇七、すみません。閉局します』
『一〇七、了解。……がんばったな』
エンジンを切った。涙が出そうになった。感情が収まるのを待ってから車外に出た。込み上げる気持ちが溢れるのを同僚に見られるのが嫌だったので、足早に会社の駐車場に向かった。
帰宅後、「帰ったよ。疲れた」と有希子に声をかけた。彼女はスマホの画面から顔を上げると、「え?」と言った。私は部屋の壁を叩いた。予想以上にこぶしが痛み、小指の周辺がじわじわと熱を帯びてきた。
「今までで一番腹が立ったわ」
「ごめーん。だって音楽聴いちょったんだもん」
「今日はゴミを一匹かたづけたよ。僕は英雄だ」
有希子は怒鳴られるのを恐れているのか、何も言わなかった。疲労もあるだろうが、やたらと感情の起伏が激しかった。思い返せば、昨日は抗不安薬を飲んでいなかった。
「ノンアルコールビールを買ってごせや」
「それってコーラでしょ?」
「ちげえよ! 何で知らねえんだよ! もうコーラでも何でもいいから炭酸飲料を買ってごせ」
わかったあと言って有希子はメモを始めた。たったこれだけのことが覚えられないのかと怒りが湧出してきた。有希子が出ていくと布団に横になった。有希子の抗不安薬を飲もうと思った。自分の薬の節約になるし、有希子は譲渡したわけではなく、盗まれたのだから問題ない。有希子の私物が固まっている場所に腰を下ろして薬を探した。スーパーのビニール袋から漢方薬が透けて見えたので中を覗いた。ガサゴソ探したが、なかなか見つからない。私は、ゴミ漁りをしているゴミだった。
4
市役所に着くと、すでに足立が待っていた。煙草を吸いながら朝空を見上げていた。職業癖なのか車をタクシー待機所に駐車していた。Vネックの黒シャツにチノパンという田舎中年のスタンダードな出で立ちだった。髪形もツーブロックで自然だ。その違和感のなさが逆に猜疑心を強くさせた。
「開庁の二時間前から待機とは仕事熱心だな」
「有名なゴミ清掃車の恩田さんじゃないですか」
挨拶代わりに軽口を叩くと互いに車に乗り込んだ。足立の自宅に行くのは初めてだ。コンビを組んで三年目になるから宴会をしたいらしい。が、それは口実で、私が個人輸入した抗不安薬やバイアグラの入手が真の目的だろう。市役所をほぼ道なりに北進し、約八分で到着した。一軒家だったのは驚いた。どうせ無茶なローンでも組んでいるのだろう。「車は適当に止めろ」と言うので、その通りにして家に入った。
足立が家のどこかに行ってしまっていたので、勝手に家じゅうをうろついた。床に丸めたティッシュやビールの空き缶が無数に散らかっていた。キッチンは油まみれだった。シンクには数枚の皿がプカプカと汚水に浮いていた。ゴミ屋敷だ。リビングに向かうと、ドンドンと階段を降りてくるような音がした。足立はリビングの冷蔵庫からビールを二本取り出すと、ソファーに腰かけ「乾杯」と言って飲みだした。もてなしのできないゴミだと軽蔑しながら、私もソファーに座ってビールのプルタブを開けた。
「足立は嫁さんおるよな。どこ行った? 夫がゴミすぎて出て行ったか?」
「パチンコ屋に並んじょう。依存症だわ」
「おまえ県外出身者だろ? えらい上手に出雲弁を喋るな」
「まあ、十五年くらいおるけんな。俺の地元の方言とあんま変わらんし」
私は、そげかいと返してビールを一気に飲むと、冷蔵庫からもう一本取ってきて口をつけた。飲みながら、足立が目当てにしているであろう抗不安薬とバイアグラをカバンから出してテーブルに置いた。足立は一瞬、目を丸くしたが、すぐに哄笑した。
「おまえ、超能力者かよ。また欲しいと思っちょったとこだわ。この前やった女なんか、
『すごい! すごい!』ってヒイヒイ言ってたぜ」
足立が相手をしている女性が同意のうえでのセフレなのか知的障害者なのかわからなかった。いずれにしても自分が足立のやることに間接的に加担していることは事実だ。不愉快になったので、ビールを再び一気飲みした。
「おいおい。ここは飲み屋じゃねえよ。無限にビールはないぞ」
個人輸入は保険適用外だから薬代が高い。とくにバイアグラは高い。冷蔵庫には三五〇ミリリットル缶が二パックあったが、それでも釣り合わないほどだ。少なくともビールはすべて飲ませてもらう。その旨を足立に伝えると、「しょうがねえなあ」と頭を掻いた。
「抗不安薬はサービスだ。規制されてるのか知らんけど、個人輸入できる代物は効き目がないぞ」
「そうか? 俺には効いちょうけどな」
もうビールには関心がない様子で、足立は抗不安薬を五錠飲んだ。すぐに足りないと思ったのか、残りの五錠も飲んだ。いちどに一シートも服用するような者は立派な薬物依存症だ。足立は勤務中にも酒を飲むことがあるからアルコール依存も考えられる。そのうえ性依存症だ。夕方からの勤務のときや休日は夫婦そろってパチンコに行くと言っていたので、ギャンブル依存も確定的だ。だが、そんなことはどうでもいい。
「足立のセフレというか、愛人は知的障害者が多いんか?」
「多いかもしれんなあ。簡単にやれるからな」
逐一、冷蔵庫まで行ってビールを取るのが面倒だったので、二パックを手にしてソファーに深々と腰を下ろした。有希子が言っていたボスについて踏み込んで訊こうと思ったがやめた。私もゴミだが、粗大ゴミに天誅を下すのは警察の仕事だ。それに怖い。私ができるのは、せいぜい足立を苦しませることぐらいだ。
「そういえば、有希子と連絡が取れんけど、恩田は?」
「知らんな。僕は、はなから勃たんけんな。足立が羨ましいわ」
三本目のビールを空けて、四本目を手に取った。バイアグラとは別に、そもそも勃起しなくて悩む人のために勃起薬は存在している。個人輸入となると、値が張る。加齢のためか抗不安薬の副作用のためかわからないが、三十五歳ごろから著しく性欲が減退した。セクシーな女性を見ると欲情はする。が、もう性欲自体が邪魔で仕方がなくなっていた。
「俺、もしかしたら有希子のこと好きだったのかもしれん。可愛く思えてきとったんだよな。家に何度も行っちょうけど、いねえのよ」
「引っ越したかもしれんね」
有希子に欲情できることは素直にすごいと思った。本当に好きなのかもしれない。それが本当なのだとしたら、私はどうすればよいのだろうか。わからない。足立が真の愛に目覚めるとは到底思えなかった。ビールに口元を当てて彼を見たら、少し肩を落としている気がした。だが、こいつに有希子を渡すわけにはいかない。私は早く有希子に仕事に復帰してもらって自由を謳歌したいのだから。
「バイアグラは大量に仕入れておくわ。酒と一緒に飲むと海綿体の血流量も上がるけん、もっと女をヒイヒイ言わせられるぜ」
「おう、だんだん。これからも頼むわ」
「おまえ、エセ島根県民だろ。『だんだん』なんて年寄りしか使わんぞ」
「わざとに決まってんだろ。ゴミどもの汚い言葉なんて喋りたくもねえよ」
その後、私たちは島根県の悪いところや人間がつまらないなど、雑言で盛り上がった。ゴミはゴミでも職歴では足立は先輩だから、面倒な客の懲らしめ方など仕事上のテクニックも教わった。
文句を言ってくる客を乗せた場合、ガードレールすれすれに駐車して左ドアを封じ、右のドアは自身の体と手で押さえて閉じ込める。それを聞いて感激した。有希子の件はともかく、仕事上の相棒としては最高の人間だと思った。
夕方に代行を使って帰宅した。へべれけだったので、明日は二日酔いだ。こういうこともあろうかと事前に用意してあった一・五リットルのポカリスエットをがぶがぶと飲んだ。年齢を重ねるごとにアルコールの分解速度が落ちていた。酒が完全に抜けるのは明日の今ごろだろう。冷凍庫にアイスがないかと探したがなかった。冷蔵庫は開けなかった。有希子は食べ物と飲み物を残してラップしておく習慣がある。以前は「食べきれないなら弁当買うな!」「飲みきれないなら買うな!」と怒鳴っていたが、彼女のメンタルケアを優先するため我慢している。このままだと私も鬱病になりそうだが、ヒモになるために耐えるしかない。有希子に背を向けて布団に転がった。
「明日は二日酔いだわ。ポカリスエットかアクエリアス買っといて」
「私も二日酔いになったことある。頭痛が痛くなった」
日本語が間違っていると指摘しようとしたが、こらえた。有希子はザルだ。職場の飲み会でハイボールを二〇杯飲んだが、翌日も平気だったと聞いたことがある。
「大量に酒を飲んで頭痛がするのは当たり前だよ。翌日も痛かったら二日酔いだよ」
壁を見ていたら渦を巻いたり、スライドのように動くので寝返りを打った。有希子は適当に重ねた毛布の小山に体を預けながらスマホで動画を観ていた。私に気を遣っているのかミュート設定にしているようだった。
「足立はそのうち死ぬぞ」
「やだ。恩ちゃんに死んでほしくない!」
「足立だよ。あ、だ、ち。いつかわからんけど、この世から消える」
「何のこと言っちょう?」
「有希子は何も心配しなくていいってことだよ。とにかく一日を楽しく生きな」
バイアグラは試用したことがあるからわかる。血流量を増やすためだろうが、動悸が顕著だ。そのほか、頭痛、腹痛、鼻水など個人差はあれど副作用が尋常じゃない。酒での服用も試したが、毎日のように飲んでいたら確実に死が近づく。
「で、買い物は行ってくれないの?」
「ごめん。動画に集中しちょった。何が欲しいだ?」
「ポカリスエットかアクエリアスだよ。メモしたほうがいいよ」
吐瀉物が出ると布団が汚れるので、ビニール袋を布団の横に置いて仰向けになった。蛍光灯が直射日光のように眩しかった。ゴミには暗闇がお似合いだという神のお導きなのか。人知を超えたものや超常現象を私は信じるが、神は信じない。郷土を呪う神がいれば嬉々として信仰するだろう。考えていたら頭痛がひどくなった。気が向いた時に暖色のフロアライトを購入しよう。
5
連休明けの夜勤で張り切って働いているうち、面倒な客を乗せてしまった。またも「ビエンベニード」からの客だった。ドリンクホルダーにノンアルコールビールが置いてあることを十一時ごろから咎められている。ハンドルの左奥でギアチェンジを繰り返していたら、センターコンソールに視線が移るのは自然だろう。酔っ払いなら見つかることはないと油断していた。
客は二〇代半ばと思しき男。もといゴミ。東京に住んでいたことがあるらしく、「東京でもノンアルなんて飲んでるドライバーいなかったぞ」「おまえ、会社に連絡されたら困るだろ? どうするんだよ?」などと同じ批判を繰り返していた。私はゴミが一息入れるたび、その間隙をついて抗不安薬を二錠ずつ舌下摂取した。足立から伝授された車内封鎖は実行可能な状況にしてある。が、長引くとは思わなかったので、料金が上がらないようメーターだけ止めて平謝りを続けている。日付が変わった。
「なあ、どうすんだよ? おまえにも家族とかいるんだろ?」
「すみません」
「すみませんじゃねえよ。おまえの人生これからどうするんだよ?」
どうもこうもない。タクシードライバーの募集はいくらでもある。大型自動車免許もあるし、トラックドライバーの求人も掃いて捨てるほどある。失職を怖れているわけではない。こんなゴミに説教されているのが悔しくてたまらないのだ。同様の問答がさらに三〇分続いた。ゴミは自分より低級なゴミと映った私に説教することで満足したのだろう。走行を許可された。料金メーターをここで切ろうとしたが、彼は支払いはすると言ったので、再度メーターを回した。ゴミの家は五分もかからずに着いた。一一九〇円だった。彼は五千円を置くと、自分でドアを開けて降車した。
「おまえも頑張れよ。応援してるからな。釣りはいらねえから。とにかく頑張れよ」
そう言い残すと二階建てアパートのほうへ歩いて行った。「離れ」を押してシートを倒した。急に腹が立ったので外に出て叫んだ。
「おい! 会社じゃなくて旅客自動車協会に言わないと意味ないぞ!」
彼の姿はもう見えなかった。虚しい静寂があるだけだった。あのようなゴミこそ知的障害者ではないのか。憤りが収まらないので抗不安薬を五錠ノンアルコールビールで流し込んだ。忘れ物の確認を失念していたので、後部座席のシートとフロアマットを目視した。助手席の下も確認したが何もなかった。スマホが振動しているような音がしたため、もういちど後部座席のシートとフロアマット、助手席の下を確認した。助手席のフロアマットに落ちているスマホが光っていた。私のスマホだ。急いで助手席のドアを開け、スマホを耳に当てた。
『恩田くん? 今日は走ってる?』
懇意にしてもらっているナイトクラブ「アブリル」のママからだった。私もよく飲みに行くのでウィンウィンの関係だ。
『一時ごろって大丈夫? カリンを送ってほしいだわ』
『今日は三時までなので、大丈夫ですよ』
『じゃあ、お願い』
ママの家は八雲台の県営住宅だ。八雲台はおそらく松江市内で最大規模の広さだろう。迷路のように複雑で、何回も通って学習しないと出ることすら難しい。ママの送迎で県営住宅には何度も行ったことがあるが、住まいは少なくとも一階ではない。ドアの前で客を迎えるというのは明らかにプライバシーの侵害なので、建物から少し離れた場所で待つようにしている。
カリンちゃんはママの長女で、いちど乗せたことがある。去年の春に岡山県の四年制大学に進学した。国公立か私立かは訊いていない。島根と比べると岡山のほうがはるかに大学は多い。が、もし国公立となると通学先がかなり絞られてしまう。私のようなゴミでも良心はある。まだ十九歳なので酒は飲めないが、今日は土曜日だから店を手伝っているのだろう。ママに似て美人で礼儀正しい子だ。
ママは、女手一つでよく立派に育てたものだと感心する。「アブリル」は東本町二丁目なので気が引けたが、店から近いコンビニで待機することにした。コンビニに着くと、一時まで十五分あった。喫煙所で煙草を吸いながらスマホをいじっていたら、有希子からラインが来た。
『さびしい』
既読スルーしようとしたが、『何か食べたいものある?』と返信した。
『アイス食べたい』
適当に「オーケー」というスタンプを送った。アイスのような砂糖菓子は血糖値が乱高下するのでメンタルケアの点であまり食べさせたくなかったが、制限するのもストレスになるので、何個か買って一緒に食べようと思った。脂質も高いので、ちょっとした睡眠導入剤の代わりにはなるだろう。有希子もシングルマザーだが、いまは里親に任せて自分のことを考えたほうがいい。いざとなれば、私が父親の代わりをしてもいいと思っている。五分前になったので店に向かって発車した。
「アブリル」の前に停車して店のドアを開けた。
「あ、もうお迎えかいね」「ワシが呼んだタクシーかいな?」と店内がざわついた。
ママはスマホ片手に誰かと話しながら、「外で待っちょって!」と大声で言った。おそらく電話の相手は別れた元夫だ。事情は知らないが、接客を他の従業員に任せて怒鳴っている姿を何度も見ている。家庭生活にまつわる言葉がたびたび出ていたので元夫だろう。あくまで私の憶測を出ないが、一本芯の通った人だと改めて感心した。
歓楽街は文字通りゴミだらけで汚い。が、夜空は美しい。都会はコンクリートジャングルで空も見えないのではないか。ゴミの島根にはもったいない空だと眺めていたら、ママとカリンちゃんが出て来た。カリンちゃんは白のラウンドネックにジーンズ姿だった。普段着だと思ったが、美人が着ると洗練されて見える。髪は黒のセミロングのままで高校生のころと変わっていなかった。
「ごめんごめん。恩田くん、カリン送ったあと、もう一往復できる?」
「いいですよ。ゆっくり走って片道十二分。急いで十一分ですね。二十二分で店に戻れます」
「了解。じゃあ、待っちょうけんね」
そうは言ったものの、プロドライバーとして安全運転をゆるがせにするわけにはいかなかった。発車しようとしたらエンストした。カリンちゃんを乗せているから緊張しているのかもしれない。恥ずかしくなって急発進してしまった。先ほど痛い目にあったばかりにも関わらず、ドリンクホルダーにノンアルコールビールを置いていた。カリンちゃんは見つけても怒らないという確信があった。やはり私はゴミだ。
「久しぶりだね。いま大学は休みなの?」
「はい。高校の友達と会いたいし、お母さんも忙しそうだし」
ゴミの地で育った人とは思えなかった。心の清らかさや優しさが心地よい澄んだ声に乗って伝わってくる。
「言いたくなければいいよ。もしかして、ぼっちだから帰省したの?」
「友達いますよお。恩田さんは友達多そうですよね」
「おるけど、みんな結婚しとるけんなあ。誰も遊んでくれないよ。ぼっちみたいなもんだよ」
信号が赤になったので、ブレーキをゆっくりかけて止まった。ノンアルコールビールを取って一口飲んだ。
「ノンアルでも飲まないとやってられんくてね。嫌な人ばっか乗ってくる。神社でお祓いしてもらおうかな」
カリンちゃんは、くすっと笑うと温かみのある声で話した。
「そうなんですね。でも、島根はいい人多いですよ。地元に帰って来ると落ち着きます」
青になったので発進した。こんどはエンストしなかった。何か話したかったが、話題が思いつかなかった。当たり障りのない話題なら何時間でも話せるはずなのに、脳が機能停止したのかと思うくらい何も出てこなかった。県営住宅には、ぴったり十二分で到着した。建物から少し離れた所定の場所に車を停め、ハザードランプを点けた。
「あっという間に着いたね。カリンちゃんは島根は好き?」
「好きですよ。松江しか知らないですけど、大好きです」
カリンちゃんが財布から二千円を取り出したので制止した。料金はいらないと言えば納得しないと思ったので、一年遅れの入学祝いだと言ったら、礼を告げて降車した。
少し車を動かし、ハイビームでカリンちゃんの足元を照らした。カリンちゃんは軽い足取りで遠ざかって行った。一階の踊り場で振り返ると手を振った。表情は見えなかったが、彼女は笑顔で手を振ったのだと思う。ハイビームをスモールライトにした。そして、ライトを切った。スマホが振動したので画面を見た。有希子からのラインだった。メッセージに既読をつけた。
もはや建物の輪郭しか見えない県営住宅を前にして、ゴミのなかにもダイヤモンドがあるかもしれないと思った。いや、そうであってほしい。私は四方を明滅するハザードランプの光にずっと包まれていたかった。(了)
車庫では昼間の勤務を終えた同僚たちが乗務したタクシーを洗っていた。照度の低い蛍光灯でも車体が黒光りしているのがわかる。会社の洗車機を使わず、丁寧に手拭きをしている者がほとんどだ。感心しながら事務所へと歩を進める。
ドアを開くと、夜間勤務のドライバーらがパチンコ、スロット、競馬などギャンブルの話題で歓談していた。今日は月曜日だから迎車の客が少ないのだろう。五時にも関わらず、一同に焦りの表情は微塵もない。夜間専門の勤務形態はよくわからない。私は、朝から夕方まで、夕方から深夜まで、夕方から翌朝まで走ったあとは休み、翌日も休みを繰り返す、「交番」と呼ばれる勤務形態だ。ほぼ三勤二休なので、週に一日しか休みのない昼と夜のドライバーよりは健康的な働き方だ。ギャンブル狂たちに適当に挨拶しながら、日付と運転者名、安全運転目標を運転日報に書き込む。逃げるようにその場を離れ、アルコールチェックと体温測定をし、運行管理者に提出した。
「えーと、恩田くんね。体調はいいね。競馬はどげかいね?」
「複勝転がしでチビチビ稼いでますよ」
運転日報に押印してもらうと、タクシーのエンジンをかけ、ガスの残量、ライト、ブレーキランプ、左右ウインカー、ハザードランプ、エンジンオイル、ラジエーター液を確認した。入社五年目だが、まだオンボロ車しか乗せてもらえない。総走行距離一二〇万キロ、コラム式マニュアルトランスミッションという旧車だ。早く自由になりたかったので、個別無線を手に取った。
『一〇七、開局お願いします』
『一〇七、了解。行ってらっしゃい』
出庫して公道に出ると、JR松江駅には向かわず、島根県庁のほうへと車を走らせた。夜間専門のドライバーは個人で客を抱えている者が多く、配車指示に従わない傾向がある。駅に行ってしまえば、五分もせずに配車指示があるだろう。「交番」ドライバーは配車室に忠実な者がやるものだが、私はそうではない。私が逃げるのを配車室も知っているので、すぐに指示を飛ばしてくるかと不安だった。が、月曜日の夕刻ということもあってか、無事に県庁に到着した。
県庁の待機所は、松江市内の全社共通ルールがある。それは必ずエンジンを切ること。県が立て看板まで設置して呼びかけているのだから仕方がない。エンジンを切ってしまえば、配車指示はない。それに、夕方の県庁からタクシーに乗る客は皆無だ。庁舎からぞろぞろと出てくる無能な職員たちを眺めながら、ノンアルコールビールで抗不安薬を三錠飲んだ。かなり強い薬だが、長年の使用で耐性がついてしまっている。二〇錠くらい飲んでも平気だが、節約しなければすぐになくなる。昼間はいいが、薬なしで夜の客を相手にしていては精神が崩壊してしまう。
日が暮れて松江城がライトアップされた。気分もまずまずよくなった。センターコンソールに後付けされたドリンクホルダーへノンアルコールビールを置くと、今年で三十九歳になる同い年の相棒に架電した。
『よう、足立。今日は全然だめだろ?』
『は? おまえのせいで、もう六本も走ったぞ! 俺はこれからビール飲んでどっか逃げるけんな。月曜なのに多すぎるわ。島根県民はマジでゴミだぜ』
『僕もゴミは早く滅亡しろと切に願っとる。まあ、任せろ。どっかで一杯やっちょれや』
我が社では、「交番」ドライバーは二人一組と決まっている。夜間専門が配車室の言うことを聞かないということもあるが、平日は一時や二時で切り上げるドライバーが多い。それ以降の時間は、よほどの頑張り屋でないかぎり入庫してしまう。配車室にとっては、三時が終業時間の私たちが頼みの綱だ。とはいえ、私たちのほかに翌朝七時まで勤務する二人組がいる。いわば、最後の砦だ。明日は足立とともに砦を守らねばならない。憂鬱になった。抗不安薬を追加服用して松江駅に向かった。
まだ八時だったので、駅構内の待機所ではタクシーの行列ができていた。酔っ払いよりシラフのサラリーマンを乗せたかった。最後尾に並び、レジスター横のタッチパネルに触れ、「待機」を押した。前方を確認すると、我が社の行灯が六つ見えた。配車指示は待機順に出されるから、のんびりできそうだった。駅から乗る客もいないらしく、車列が動かない時間が四〇分続いた。車から降りて、ストレッチをしていると、前のドライバーが降車して煙草を吸いだした。退屈だったので、私も煙草に火を付けると話しかけた。
「お疲れさんです。動かんですね」
「動かんなあ。でも、おたくの会社は配車があるがな」
「ありますけど、ワンメーターばっかりですよ。さっきまで県庁に逃げてましたし」
「あんた、そぎゃんサボるもんじゃないで。コロナが終わってもこの有り様だけんな」
「そうですよね。あっ、乗った!」
私たちは煙草を足で踏み潰すと、車を一台分、前進させた。また待機地獄が続くのかとシートを倒した。すると、我が社の車が次々と車列から抜けていった。配車で抜けたのだろう。これはまずいとシートを戻して前方を見た。我が社の行灯は見えなかった。観念して駅周辺の行人を見ていたら、ピコンピコンという音とともにタッチパネルに配車指示が表示された。パネルに触れ、客の確認をした。
『東横イン前 マツオカ様』
マスクを着けると、ギアを一速に入れ、ゆっくりと車列から離れた。マツオカは、ワンメーターなうえに電子決済で領収書を要求するゴミだった。行き先は決まって松江イオン。歩いていけと何度も憤慨したこと数知れない。捨て鉢な気分で東横インに横付けし、マツオカを乗せた。わざと大きなため息をつきながら、急発進した。いつも急かしてくるので、今日はかなり速度を出した。従業員入口前で車を停め、料金メーターを切った。
「ペイペイで。あと、領収書」
「すみません。領収書は現金じゃないと出せませんので。未収書を出しますね。経理の方に渡せば大丈夫です」
「領収書は出せるでしょ。スーパーとか出してるでしょ」
スーパーやコンビニはレシートと一緒に「お客さま控え」という名の証書を発行する。レシートと控えのどちらが未収書の役割を果たしているのかはわからない。原則的に現金払いでなければ領収書を発行することはできない。なかなか理解してくれる客はいないが、受け取ってない金銭の証明はできない。それをすると発行者が罪に問われる。これまで見逃してきてやったが、今日こそはゴミに天誅を下す。私は事情をマツオカに丁寧に説明したが、ゴミの脳みそには理解できなかったようだった。
「では、私が罪を犯すところを警察に見てもらいますので、一一〇番しますね。マツオカさんも警察から話を訊かれると思います」
私はスマホを制服のポケットから取り出すと、「一一〇」とタップしてマツオカの眼前に近づけた。
「じゃ、押しますね」
「いいよ。遅刻する。つーか、もう遅刻だよ。早く紙くれ」
「安心してください。罪に問われるのは私ですから」
「もういいって言ってんだろうが!」
マツオカは未収書をひったくると物凄い速さで従業員入口へと消えていった。
その後、私は八本走った。酔っ払いばかりだったが、全員現金で支払った。日付が変わり、二時五〇分になっていた。駅に戻ると、構外待機所で足立が煙草を吸っていた。足立の車の後ろに停め、彼にマツオカに裁きを下したと話した。
「あいつか。ほんに舐めちょうわ。クレカ使うサラリーマンも無知だけんなあ」
「それな。ゴミばっかりだぜ。島根はいちど滅びたほうがいい。それより、酒は抜けたんか?」
「完全に抜けとる。さっさと帰ろうぜ」
足立はすでに運転日報を書き終えたらしく、すぐに帰って行った。たった九本では体裁が悪いため、すべての客の乗車時間と降車時間を改ざんした。運転日報の改ざんは当たり前に行われているので問題ない。よく働く人ほど改ざんしている。なぜなら、絶対に休憩時間を入れないといけないからだ。もう退社した先輩だが、一日に四〇本走ったと言うので、運転日報を見せてもらった。十五キロはあるだろう距離を八分で移動していた。残りの三十九本もおよそ車では考えられない所要時間ばかりだった。改ざんを終わらせ、時刻を確認すると、すでに三時を過ぎていた。駅構内に若い男女らしき姿が見えた。こっちに来られて乗車となると面倒だ。急いで個別無線を口元に近づけた。
『えー、一〇七、閉局お願いします』
『一〇七、了解。お疲れさまでした』
ほとんど仕事をしていないつもりだったが、目がチカチカしていた。ドリンクホルダーからノンアルコールビールを手に取り、残りを一気に飲み干した。
2
駐車場代込みで家賃三万円のボロアパートが私の根城だ。ワンルームだがキッチンやユニットバスを除いた居住空間は洋室十一畳。クローゼットもある。ドアを開けると、紫煙で充満していた。有希子の仕業だろう。
「おかえり!」
「黙れ。隣に聞こえるだろうが」
「ごめん……」
制服をクローゼットに投げ込み、部屋着に着替えると、小声で再度注意した。
「だから、ごめんて言っちょうがん!」
「うるせえよ。日本語もわからねえのか」
有希子は軽度の知的障害者だった。松江市内の中学でいじめられ、県外の養護学校を卒業後に戻ってきた。障害に理解のある会社のスーパーで品出しの仕事を十八年続けていたが、一年前から鬱病で休職している。今年で四十五歳になるから、心身ともに何か変化があっても不思議ではなかった。子供が一人いるが、父親はわからない。就学年齢に達するまで里親に託し続けるつもりでいる。有希子を私に紹介したのは足立だった。我が社のドライバーは訳あって流れ着いた者の集まりだから、表面上は仲良くしていても詳しい生い立ちや経歴などは知らないし、訊く者もいない。ただ、足立が広島県の大学を卒業後、同県で知的障害者を対象とした詐欺や性暴力をしていたことは本人から聞いていた。私は有希子を足立から引き離し、退職してヒモになる予定だった。前者は成功したが、後者は失敗した。
「おい、コンビニでピースを二つ買ってきてくれ」
「キース?」
なかなか会話が嚙み合わないので、腹が立つ。脳機能上の問題で有希子に何の落ち度もないことはわかっている。それでもつい頭に血が上ってしまう。
「それはリトルシガーだ。喫煙者なのに何で銘柄を知らないんだよ。金色ピースをくださいと言えばわかるよ。ちゃんと買ってこれたら、ちんこ舐めさせてやるよ」
「恩ちゃんのちんこ舐めたい! 絶対買って来る!」
だから、うるさいと言おうとしたが、有希子はさっとパーカーを羽織るとすぐに出かけてしまった。有希子のことだから、普通のピースではなく、青黒いパッケージのピースを買って来るような予感がした。もとより、彼女は足立から救ってくれたことを過剰なほどに感謝している。私もヒモになりたかったので、ネットで仕入れた「知的障害者は愛情を注がれることに強い喜びを感じる」という情報を利用して愛の言葉をささやき続けた。懐柔はうまくいったが、いざ同居してみると腹の立つことばかりで私の心も折れる寸前になっていた。山のように盛り上がった灰皿をトイレのなかに振るっていたら、有希子が帰って来た。ちゃんとお使いができたか、と袋の中を覗いた。
「やっぱり間違えると思った。ちんこはなし。何でそんなにバカなんだよ」
有希子はぐすっと鼻をすすったので風邪でもひいたのだろうと放っておいた。次第に何度も鼻をすすり、泣き出してしまった。
「だって、私、バカだもん。バカだけん、いくらでもバカって言っていいけん」
「ごめん。言いすぎた。しっかり説明しなかった僕が悪い」
「私がバカだから……。恩ちゃんに迷惑かけてる」
「迷惑じゃない。有希子がいなかったら、僕も生活できない。有希子は大切な人だよ」
私は部屋着を脱ぐと、布団の上に仰向けになり、ペニスを指さして、舐めるよう有希子に視線を送った。有希子はその醜い顔をほころばせると、すぐにしゃぶりついた。私はスマホでお気に入りのセクシー女優を検索し、フェラチオシーンの画像を見ていた。勃起はしなかった。有希子の技量の問題というより、私の問題だった。抗不安薬の副作用で勃起不全と不感症になっていた。有希子は暑くなったと言って全裸になった。四十四歳にしては痩身を保っていたが、乳房の膨らみはまったくない。脚は私と同じくらいの脛毛、唇の周りには濃い髭が何本も生えている。数ケ月前に魔が差してセックスしたこともあったが、そもそも私のペニスが勃たない。それでもいいと言うので、膣に挿入できているのかわからないまま腰を振り続けた。彼女は何度も絶頂に至ったようだったが、私は不満と絶望の念が混在していた。出産の影響なのかわからないが、有希子の膣内はかなり弛緩しており、そのうえ、ひどい悪臭だった。ペニスを洗っても悪臭はなかなか取れず、そのうち私は有希子とのセックスを忌避するようになった。
かわいそうだが、有希子の奮闘にも関わらず、ペニスは逆にしぼんでいっている感じがした。他のセクシー女優を見ても変わらないだろうと諦めて顔を傾けた。有希子のハンガーラックに隠れるように壁に紙が貼られていた。昨日まではなかったはずだ。もしかしたら、ずっと前からあったかもしれない。太字のペンで書いたのだろう。横目でも容易に見えた。
『恩ちゃんのじゃまだけは絶対にしないし、しないこと。勝手に触らないこと。必ず守ること』
自分もゴミだと自覚した。男は三〇歳に達すると頑固になり、柔軟な思考ができなくなると言われている。おそらくネットで得た知識だろうから、科学的な証左は何もない。それでも私は若き日の溌溂とした精神を取り戻し、自分を変えなければならない。バカゆえに純真無垢の愛で私を必要としている有希子のために、何かしてあげたいと思った。
「有希子、もういいけん。えらこと気持ちよかったわ。話しづらいならいいけん、足立のことについて教えてごさん?」
優しさなのか打算なのかわからないが、雲伯方言を少し使った。彼女はしばらく黙っていたが、落ち着いた口調で切り出した。
「足立さんと出会ったのは十五年ぐらい前。ボスがおる。ボスが指示して足立さんは動いとる」
「ほかには? 言いたくなければ……」
「ボスの手下? 手下たちとセックスさせられた。金も貸したけど返してもらってない」
足立がこんな田舎で反社会的なネットワークに肩入れしているとは想像もしていなかった。まして、ボスがいるとは。足立はもともと口達者な男だ。手練手管で知的障害者を心身ともに篭絡させることなら単独でやれるだろう。そんな彼のボスとなると、そうとうなワル、いやゴミに違いない。こういった場面に直面するとき、もっと法律の知識があったらと悔やむ。だが、私には弁護士になる資格や司法書士になる資格は法律で認められていない。
「実は、僕には有希子に話してないことがある。僕は自己破産しとる」
「うん。別に私は恩ちゃんがおればそれでいい。恩ちゃんのそばにいたい」
じっくり説明しようと思ったが、理解できないだろうと判断してやめた。それより、彼女の狂信的な愛情に甘えたままでいいのかと自問自答した。いっそどこかに蒸発してしまおうか。
「私も話してないことある。出産後に何か医者に入れられた。閉経したら取る」
「は? たぶん子宮内避妊具だろ? 有希子は入れてくれとも何とも言ってないだろ?」
「意識もうろうとしてて言ったかもしれん」
私は俯いて額に手を当てると、そのまま髪を掻きむしった。医師は知的障害者が望まぬ妊娠をしないための親切心で処置したのかもしれない。だが、それは人権侵害じゃないのか。やはり島根県民はゴミだ。もう地図上から消えてなくなればいい。
「恩ちゃんの子供が産みたい」
「気持ちはわかるけど、僕らジジイとババアだぜ。それに現代は母体の安全を優先するみたいだけんな。昔みたいに『私はどうなってもいいですから』なんて出産は通用せんで」
「私、ほんにバカだわ。バカすぎる自分が悔しい」
鬱病の有希子がこれ以上の闇に突き落とされるのはまずいので、不適切だと思ったが、話題を変えた。
「若いころからずっと気持ちいいことしてきたんだろ? 羨ましすぎる。僕が童貞を捨てたのは最近だぜ。カーセックスはしたことある?」
「ある。公園のトイレでもやった。養護学校のときは放課後に毎日やってた」
知的障害者なのに、ずっと男とセックスしてたなんて幸せじゃないかと言いかけたが、ぐっとこらえた。有希子にとって最優先事項は鬱病を治すことだ。仕事での人間関係なんてゴミだ。そもそも島根県民はすべてゴミ。鬱病は、とにかく毎日を楽しく過ごすことが大事だ。私は有希子に動画配信のサブスクを勧めた。ロバート・デ・ニーロ主演の『タクシードライバー』がいいかもしれないと思ったが、全体的に陰鬱だし、主人公と私の共通点が多い気がするので脳内で退けた。韓国ドラマ・映画にも名作は多い。悩んだすえ、アル・パチーノ主演の『セント・オブ・ウーマン』を勧めた。この作品なら間違いなく心が浄化されるだろう。
「会社はゴミ。松江もゴミ」
「そうだよ。その調子」
「会社はゴミ、松江もゴミ、島根もゴミ。どうでもよくなってきた。早く決着つけたい」
私も自暴自棄になっては仕事を辞め、何度も転職を繰り返してきた。ここは自分の居場所じゃないと少しでも気に食わなければ一蹴してきた。三十五歳までなら、若者のいないゴミ島根でも何とかなっただろう。だが、彷徨の果てに結局たどり着いてしまったのが今の会社だ。有希子も年齢的に転職は難しい。仮に転職しても、新たな職場で業務内容を覚えることは困難だろう。それは、症状が落ち着いてくれば自分でも冷静に判断できるはずだ。
カーテンから外を覗くと眩しい陽射しが目に刺さった。ゴミどもが歩いたり車を運転したりしている。宇宙人の戦艦が人知を超えた兵器でこいつらもろとも島根県を爆砕してほしいと心から願った。
3
小料理屋の大将を乗せたあと、コンビニに寄り、タッチパネルの「離れ」を押した。これは配車室への意思表示で、トイレに行っているから配車は受けれないという意味だ。私にとってそれは建前にすぎない。いつも煙草休憩のために押している。明朝まで悠久の時間がある。今日も平日だが、昨日と違って小雨が降っている。店舗外に設置されている喫煙所で三本ほど煙草を吸った。その間にタクシーや代行サービスの車が何台か目の前を通って行った。こんな日でも酒を飲みに行くのはゴミがすることだ。まだ駅に戻る時じゃないと思い、もう一本煙草に火を付けた。
空にゆらゆら昇っていく紫煙を眺めていたら、我が社のタクシーが私の車の横に停車した。まずいと感じて身を隠そうとしたが、車番で足立の車だとわかった。
「よう、恩田。サボり中か?」
「まあな。僕らの仕事は三時からが本番だけんな」
「五時ごろベロンベロンに酔ったゴミが乗ってきそうな気がするわ」
「ありそうだわー。それは乗車拒否せな。僕らゴミ清掃車じゃねえけんな」
足立は煙草を取り出すと、にやにやと私の顔を見て「俺は六本走った」と、さも働いているかのような口ぶりで話した。私は鼻から煙を出し、「僕は三本だ」と答えた。足立は二本目に乗せた若い女性が美人だったらしく、「いいねえちゃんだったなあ」と何度も口にした。そのうち、「俺としたことが名刺渡すのを忘れた。くっそ!」と口走ると、半分以上も煙草を残して車に乗った。そして、窓から顔を出し、「明後日、市役所に朝七時集合だぞ!」と手を振って走って行った。私は足立の残した吸い殻に火を付けて、またプカリプカリとやりだした。吸い口に唾液がべっとり付いていて気持ち悪かったが、根元まで吸い切った。
そうこうしているうちに四〇分が過ぎていた。私は無駄に時間を浪費しているわけではなかった。平日で唯一の固定客である佐々木さんからの連絡を待っていた。彼は松江から出雲の家に帰る。売り上げ一発逆転の切り札だ。今日は十一時に店を出ると事前に連絡があった。しかし、あと三〇分も怠けているわけにはいかない。車に戻り、「離れ」を解除した。その直後、個別無線の呼び出し音が鳴った。嫌な予感がした。恐る恐るマイクに手をかけた。
『一〇七、一〇七、よろしいでしょうか?』
今日の配車係は誰だったか。丁寧な口調に戦慄しつつ、『一〇七、大丈夫です。何でしょうか?』と応じた。
『東本町二丁目の「ビエンベニード」さんに向かってください。地図は出しておきます』
そんな店はないはずだと思ったが、仕事をしないわけにもいかず、『一〇七、了解』と返した。まもなく、配車指示がタッチパネルに表示された。続けて表示された地図を見るかぎり、店は実在するようだった。
同店は最近できたスナックらしかった。しばらく待っていると店の従業員に抱えられた金髪の男が千鳥足で歩いてきた。粗野な感じで、どう見てもゴミだった。年齢は三〇歳ぐらいだろうか。彼は泥酔していたので、従業員が「淞北台まで」と代弁した。佐々木さんとの約束もあり、男は泥酔状態だったため、断ろうかと思ったが、配車室が了としてしまった以上は従うほかなかった。
男は乗車すると、すぐに横になった。眠られるとまずいので、念のため、「お客様、淞北台でよろしいでしょうか?」と訊ねた。「うーん」とつぶやいたので、意識はあるようだった。これは急がないといけないと判断し、深夜でも信号が通常に点灯する幹線道路を避け、黄色点滅で最短距離の道を走った。
淞北台は広い。私は、「どのあたりでしょうか?」と訊いた。すると、かすかな声で「まっすぐ上がってロータリーを左」と聞こえた。次の指示を仰ぐと「突き当り右」と答えた。今にも寝てしまいそうな声だった。再度、「どのあたりでしょうか?」と訊いた。返事はなかった。男は眠ってしまっていた。「お客様、淞北台で間違いないですね?」と大声で呼びかけた。彼は一瞬だけ気を取り戻したが、「わからん」と言ってまた眠ってしまった。この時点で料金メーターを止めた。目を覚まして運賃の高さに激昂した彼が何をするかわからないからだ。
十一時になった。佐々木さんは時間通りに架電してきた。私は現状を伝え、何度も何度も詫びた。佐々木さんは、優しい口調で「そりゃ仕方ないけん。また次に頼むけんね」と言ってくれた。が、もう次はないと思って、しばらく何も考えることができなかった。
男が乗車してから一時間が過ぎた。いちど配車室に連絡を入れることにした。
『一〇七、客が家わからんくなってます。メーターは止めました。何とか起こしてみます』
『一〇七、了解しました』
このまま男が起きなければ、泥酔者を保護するため、彼を交番に連れて行かないといけない。それは彼のためでもあるが、いささか気の毒に思えた。私は道の広い場所に車を停め、彼を起こそうと必死に呼びかけた。
「お客さん、このままだと交番行かんといけんくなるで!」「ごめんけど、起きんさいや! 交番行かんといけんくなるけん!」「おまえはゴミだから料金いらん! 起きろ!」
私はあきらめてはなるまいと、およそ一時間半にわたって体も揺すって繰り返し呼びかけたが、ついぞ男は目覚めなかった。憔悴した私は配車室に報告した。交番に行くよう指示が出た。
最寄りの交番に行くと、すぐに警察官が現れた。私はこれまでの経緯を説明した。警察官が男を車から降ろそうとすると、さっきまで眠り込んでいた彼が急に目を覚まして暴れだした。彼は何か大声を発しながら、隣に駐車してあったパトカーにタクシーのドアをガンガンとぶつけた。警察官は応援要請した。ものの数分でパトカーが二台到着した。彼は警察官らにしっかりと体を抑えられながら、引きずられるように連行された。その際、彼に手錠がかけられたかは覚えていない。だが、まぎれもなく現行犯逮捕だった。
詳しいことはよくわからないが、その後、私は現行犯逮捕の証人か何かで交番に残ることになった。警察官から「刑事が来るので待っていてください」と言われた。刑事の到着まで随分と待たされた。刑事は到着すると、さもありなんと書類の山から一枚を引き抜いた。何の証言がほしいのか定かではなかったが、様々なことを訊いてきた。調書か何かわからないが、刑事は手書きだった。それも何か定型文があるようで、その型通りに書くために私の回答を誘導している節があった。
そのうち、会社の所長がやって来た。所長が来てからも刑事の文書作成は続いた。私はなぜパソコンを使わないのかと、若干イライラしていた。この刑事もゴミだと念じて心を落ち着かせた。
何時間が経過したかわからないが、ようやく刑事の質問攻めから解放された。交番の外に出ると夜が明けていた。所長はタクシーのドアとパトカーを確認しながら、「実は後ろの左ドア交換しようと思っとったけど、金かからんで済みそうだね」と微笑んだ。私は疲弊していて作り笑いすらできなかった。所長は、「明日は公休でしょ? 明後日も公休にしたけん、しっかり休みんさい」と言って帰った。
車庫に戻ると、同僚たちから労いの言葉をたくさんかけられた。疲れ果てていた私は返事もそこそこに、昨晩から今朝にかけて苦楽をともにした一〇七号車をぼんやりと見つめていた。そのうち、車内から個別無線呼び出し音が鳴っているのに気づいた。くたびれているとはいえ、エンジンを切っていなかったのかと自分でも呆れた。
『一〇七、すみません。閉局します』
『一〇七、了解。……がんばったな』
エンジンを切った。涙が出そうになった。感情が収まるのを待ってから車外に出た。込み上げる気持ちが溢れるのを同僚に見られるのが嫌だったので、足早に会社の駐車場に向かった。
帰宅後、「帰ったよ。疲れた」と有希子に声をかけた。彼女はスマホの画面から顔を上げると、「え?」と言った。私は部屋の壁を叩いた。予想以上にこぶしが痛み、小指の周辺がじわじわと熱を帯びてきた。
「今までで一番腹が立ったわ」
「ごめーん。だって音楽聴いちょったんだもん」
「今日はゴミを一匹かたづけたよ。僕は英雄だ」
有希子は怒鳴られるのを恐れているのか、何も言わなかった。疲労もあるだろうが、やたらと感情の起伏が激しかった。思い返せば、昨日は抗不安薬を飲んでいなかった。
「ノンアルコールビールを買ってごせや」
「それってコーラでしょ?」
「ちげえよ! 何で知らねえんだよ! もうコーラでも何でもいいから炭酸飲料を買ってごせ」
わかったあと言って有希子はメモを始めた。たったこれだけのことが覚えられないのかと怒りが湧出してきた。有希子が出ていくと布団に横になった。有希子の抗不安薬を飲もうと思った。自分の薬の節約になるし、有希子は譲渡したわけではなく、盗まれたのだから問題ない。有希子の私物が固まっている場所に腰を下ろして薬を探した。スーパーのビニール袋から漢方薬が透けて見えたので中を覗いた。ガサゴソ探したが、なかなか見つからない。私は、ゴミ漁りをしているゴミだった。
4
市役所に着くと、すでに足立が待っていた。煙草を吸いながら朝空を見上げていた。職業癖なのか車をタクシー待機所に駐車していた。Vネックの黒シャツにチノパンという田舎中年のスタンダードな出で立ちだった。髪形もツーブロックで自然だ。その違和感のなさが逆に猜疑心を強くさせた。
「開庁の二時間前から待機とは仕事熱心だな」
「有名なゴミ清掃車の恩田さんじゃないですか」
挨拶代わりに軽口を叩くと互いに車に乗り込んだ。足立の自宅に行くのは初めてだ。コンビを組んで三年目になるから宴会をしたいらしい。が、それは口実で、私が個人輸入した抗不安薬やバイアグラの入手が真の目的だろう。市役所をほぼ道なりに北進し、約八分で到着した。一軒家だったのは驚いた。どうせ無茶なローンでも組んでいるのだろう。「車は適当に止めろ」と言うので、その通りにして家に入った。
足立が家のどこかに行ってしまっていたので、勝手に家じゅうをうろついた。床に丸めたティッシュやビールの空き缶が無数に散らかっていた。キッチンは油まみれだった。シンクには数枚の皿がプカプカと汚水に浮いていた。ゴミ屋敷だ。リビングに向かうと、ドンドンと階段を降りてくるような音がした。足立はリビングの冷蔵庫からビールを二本取り出すと、ソファーに腰かけ「乾杯」と言って飲みだした。もてなしのできないゴミだと軽蔑しながら、私もソファーに座ってビールのプルタブを開けた。
「足立は嫁さんおるよな。どこ行った? 夫がゴミすぎて出て行ったか?」
「パチンコ屋に並んじょう。依存症だわ」
「おまえ県外出身者だろ? えらい上手に出雲弁を喋るな」
「まあ、十五年くらいおるけんな。俺の地元の方言とあんま変わらんし」
私は、そげかいと返してビールを一気に飲むと、冷蔵庫からもう一本取ってきて口をつけた。飲みながら、足立が目当てにしているであろう抗不安薬とバイアグラをカバンから出してテーブルに置いた。足立は一瞬、目を丸くしたが、すぐに哄笑した。
「おまえ、超能力者かよ。また欲しいと思っちょったとこだわ。この前やった女なんか、
『すごい! すごい!』ってヒイヒイ言ってたぜ」
足立が相手をしている女性が同意のうえでのセフレなのか知的障害者なのかわからなかった。いずれにしても自分が足立のやることに間接的に加担していることは事実だ。不愉快になったので、ビールを再び一気飲みした。
「おいおい。ここは飲み屋じゃねえよ。無限にビールはないぞ」
個人輸入は保険適用外だから薬代が高い。とくにバイアグラは高い。冷蔵庫には三五〇ミリリットル缶が二パックあったが、それでも釣り合わないほどだ。少なくともビールはすべて飲ませてもらう。その旨を足立に伝えると、「しょうがねえなあ」と頭を掻いた。
「抗不安薬はサービスだ。規制されてるのか知らんけど、個人輸入できる代物は効き目がないぞ」
「そうか? 俺には効いちょうけどな」
もうビールには関心がない様子で、足立は抗不安薬を五錠飲んだ。すぐに足りないと思ったのか、残りの五錠も飲んだ。いちどに一シートも服用するような者は立派な薬物依存症だ。足立は勤務中にも酒を飲むことがあるからアルコール依存も考えられる。そのうえ性依存症だ。夕方からの勤務のときや休日は夫婦そろってパチンコに行くと言っていたので、ギャンブル依存も確定的だ。だが、そんなことはどうでもいい。
「足立のセフレというか、愛人は知的障害者が多いんか?」
「多いかもしれんなあ。簡単にやれるからな」
逐一、冷蔵庫まで行ってビールを取るのが面倒だったので、二パックを手にしてソファーに深々と腰を下ろした。有希子が言っていたボスについて踏み込んで訊こうと思ったがやめた。私もゴミだが、粗大ゴミに天誅を下すのは警察の仕事だ。それに怖い。私ができるのは、せいぜい足立を苦しませることぐらいだ。
「そういえば、有希子と連絡が取れんけど、恩田は?」
「知らんな。僕は、はなから勃たんけんな。足立が羨ましいわ」
三本目のビールを空けて、四本目を手に取った。バイアグラとは別に、そもそも勃起しなくて悩む人のために勃起薬は存在している。個人輸入となると、値が張る。加齢のためか抗不安薬の副作用のためかわからないが、三十五歳ごろから著しく性欲が減退した。セクシーな女性を見ると欲情はする。が、もう性欲自体が邪魔で仕方がなくなっていた。
「俺、もしかしたら有希子のこと好きだったのかもしれん。可愛く思えてきとったんだよな。家に何度も行っちょうけど、いねえのよ」
「引っ越したかもしれんね」
有希子に欲情できることは素直にすごいと思った。本当に好きなのかもしれない。それが本当なのだとしたら、私はどうすればよいのだろうか。わからない。足立が真の愛に目覚めるとは到底思えなかった。ビールに口元を当てて彼を見たら、少し肩を落としている気がした。だが、こいつに有希子を渡すわけにはいかない。私は早く有希子に仕事に復帰してもらって自由を謳歌したいのだから。
「バイアグラは大量に仕入れておくわ。酒と一緒に飲むと海綿体の血流量も上がるけん、もっと女をヒイヒイ言わせられるぜ」
「おう、だんだん。これからも頼むわ」
「おまえ、エセ島根県民だろ。『だんだん』なんて年寄りしか使わんぞ」
「わざとに決まってんだろ。ゴミどもの汚い言葉なんて喋りたくもねえよ」
その後、私たちは島根県の悪いところや人間がつまらないなど、雑言で盛り上がった。ゴミはゴミでも職歴では足立は先輩だから、面倒な客の懲らしめ方など仕事上のテクニックも教わった。
文句を言ってくる客を乗せた場合、ガードレールすれすれに駐車して左ドアを封じ、右のドアは自身の体と手で押さえて閉じ込める。それを聞いて感激した。有希子の件はともかく、仕事上の相棒としては最高の人間だと思った。
夕方に代行を使って帰宅した。へべれけだったので、明日は二日酔いだ。こういうこともあろうかと事前に用意してあった一・五リットルのポカリスエットをがぶがぶと飲んだ。年齢を重ねるごとにアルコールの分解速度が落ちていた。酒が完全に抜けるのは明日の今ごろだろう。冷凍庫にアイスがないかと探したがなかった。冷蔵庫は開けなかった。有希子は食べ物と飲み物を残してラップしておく習慣がある。以前は「食べきれないなら弁当買うな!」「飲みきれないなら買うな!」と怒鳴っていたが、彼女のメンタルケアを優先するため我慢している。このままだと私も鬱病になりそうだが、ヒモになるために耐えるしかない。有希子に背を向けて布団に転がった。
「明日は二日酔いだわ。ポカリスエットかアクエリアス買っといて」
「私も二日酔いになったことある。頭痛が痛くなった」
日本語が間違っていると指摘しようとしたが、こらえた。有希子はザルだ。職場の飲み会でハイボールを二〇杯飲んだが、翌日も平気だったと聞いたことがある。
「大量に酒を飲んで頭痛がするのは当たり前だよ。翌日も痛かったら二日酔いだよ」
壁を見ていたら渦を巻いたり、スライドのように動くので寝返りを打った。有希子は適当に重ねた毛布の小山に体を預けながらスマホで動画を観ていた。私に気を遣っているのかミュート設定にしているようだった。
「足立はそのうち死ぬぞ」
「やだ。恩ちゃんに死んでほしくない!」
「足立だよ。あ、だ、ち。いつかわからんけど、この世から消える」
「何のこと言っちょう?」
「有希子は何も心配しなくていいってことだよ。とにかく一日を楽しく生きな」
バイアグラは試用したことがあるからわかる。血流量を増やすためだろうが、動悸が顕著だ。そのほか、頭痛、腹痛、鼻水など個人差はあれど副作用が尋常じゃない。酒での服用も試したが、毎日のように飲んでいたら確実に死が近づく。
「で、買い物は行ってくれないの?」
「ごめん。動画に集中しちょった。何が欲しいだ?」
「ポカリスエットかアクエリアスだよ。メモしたほうがいいよ」
吐瀉物が出ると布団が汚れるので、ビニール袋を布団の横に置いて仰向けになった。蛍光灯が直射日光のように眩しかった。ゴミには暗闇がお似合いだという神のお導きなのか。人知を超えたものや超常現象を私は信じるが、神は信じない。郷土を呪う神がいれば嬉々として信仰するだろう。考えていたら頭痛がひどくなった。気が向いた時に暖色のフロアライトを購入しよう。
5
連休明けの夜勤で張り切って働いているうち、面倒な客を乗せてしまった。またも「ビエンベニード」からの客だった。ドリンクホルダーにノンアルコールビールが置いてあることを十一時ごろから咎められている。ハンドルの左奥でギアチェンジを繰り返していたら、センターコンソールに視線が移るのは自然だろう。酔っ払いなら見つかることはないと油断していた。
客は二〇代半ばと思しき男。もといゴミ。東京に住んでいたことがあるらしく、「東京でもノンアルなんて飲んでるドライバーいなかったぞ」「おまえ、会社に連絡されたら困るだろ? どうするんだよ?」などと同じ批判を繰り返していた。私はゴミが一息入れるたび、その間隙をついて抗不安薬を二錠ずつ舌下摂取した。足立から伝授された車内封鎖は実行可能な状況にしてある。が、長引くとは思わなかったので、料金が上がらないようメーターだけ止めて平謝りを続けている。日付が変わった。
「なあ、どうすんだよ? おまえにも家族とかいるんだろ?」
「すみません」
「すみませんじゃねえよ。おまえの人生これからどうするんだよ?」
どうもこうもない。タクシードライバーの募集はいくらでもある。大型自動車免許もあるし、トラックドライバーの求人も掃いて捨てるほどある。失職を怖れているわけではない。こんなゴミに説教されているのが悔しくてたまらないのだ。同様の問答がさらに三〇分続いた。ゴミは自分より低級なゴミと映った私に説教することで満足したのだろう。走行を許可された。料金メーターをここで切ろうとしたが、彼は支払いはすると言ったので、再度メーターを回した。ゴミの家は五分もかからずに着いた。一一九〇円だった。彼は五千円を置くと、自分でドアを開けて降車した。
「おまえも頑張れよ。応援してるからな。釣りはいらねえから。とにかく頑張れよ」
そう言い残すと二階建てアパートのほうへ歩いて行った。「離れ」を押してシートを倒した。急に腹が立ったので外に出て叫んだ。
「おい! 会社じゃなくて旅客自動車協会に言わないと意味ないぞ!」
彼の姿はもう見えなかった。虚しい静寂があるだけだった。あのようなゴミこそ知的障害者ではないのか。憤りが収まらないので抗不安薬を五錠ノンアルコールビールで流し込んだ。忘れ物の確認を失念していたので、後部座席のシートとフロアマットを目視した。助手席の下も確認したが何もなかった。スマホが振動しているような音がしたため、もういちど後部座席のシートとフロアマット、助手席の下を確認した。助手席のフロアマットに落ちているスマホが光っていた。私のスマホだ。急いで助手席のドアを開け、スマホを耳に当てた。
『恩田くん? 今日は走ってる?』
懇意にしてもらっているナイトクラブ「アブリル」のママからだった。私もよく飲みに行くのでウィンウィンの関係だ。
『一時ごろって大丈夫? カリンを送ってほしいだわ』
『今日は三時までなので、大丈夫ですよ』
『じゃあ、お願い』
ママの家は八雲台の県営住宅だ。八雲台はおそらく松江市内で最大規模の広さだろう。迷路のように複雑で、何回も通って学習しないと出ることすら難しい。ママの送迎で県営住宅には何度も行ったことがあるが、住まいは少なくとも一階ではない。ドアの前で客を迎えるというのは明らかにプライバシーの侵害なので、建物から少し離れた場所で待つようにしている。
カリンちゃんはママの長女で、いちど乗せたことがある。去年の春に岡山県の四年制大学に進学した。国公立か私立かは訊いていない。島根と比べると岡山のほうがはるかに大学は多い。が、もし国公立となると通学先がかなり絞られてしまう。私のようなゴミでも良心はある。まだ十九歳なので酒は飲めないが、今日は土曜日だから店を手伝っているのだろう。ママに似て美人で礼儀正しい子だ。
ママは、女手一つでよく立派に育てたものだと感心する。「アブリル」は東本町二丁目なので気が引けたが、店から近いコンビニで待機することにした。コンビニに着くと、一時まで十五分あった。喫煙所で煙草を吸いながらスマホをいじっていたら、有希子からラインが来た。
『さびしい』
既読スルーしようとしたが、『何か食べたいものある?』と返信した。
『アイス食べたい』
適当に「オーケー」というスタンプを送った。アイスのような砂糖菓子は血糖値が乱高下するのでメンタルケアの点であまり食べさせたくなかったが、制限するのもストレスになるので、何個か買って一緒に食べようと思った。脂質も高いので、ちょっとした睡眠導入剤の代わりにはなるだろう。有希子もシングルマザーだが、いまは里親に任せて自分のことを考えたほうがいい。いざとなれば、私が父親の代わりをしてもいいと思っている。五分前になったので店に向かって発車した。
「アブリル」の前に停車して店のドアを開けた。
「あ、もうお迎えかいね」「ワシが呼んだタクシーかいな?」と店内がざわついた。
ママはスマホ片手に誰かと話しながら、「外で待っちょって!」と大声で言った。おそらく電話の相手は別れた元夫だ。事情は知らないが、接客を他の従業員に任せて怒鳴っている姿を何度も見ている。家庭生活にまつわる言葉がたびたび出ていたので元夫だろう。あくまで私の憶測を出ないが、一本芯の通った人だと改めて感心した。
歓楽街は文字通りゴミだらけで汚い。が、夜空は美しい。都会はコンクリートジャングルで空も見えないのではないか。ゴミの島根にはもったいない空だと眺めていたら、ママとカリンちゃんが出て来た。カリンちゃんは白のラウンドネックにジーンズ姿だった。普段着だと思ったが、美人が着ると洗練されて見える。髪は黒のセミロングのままで高校生のころと変わっていなかった。
「ごめんごめん。恩田くん、カリン送ったあと、もう一往復できる?」
「いいですよ。ゆっくり走って片道十二分。急いで十一分ですね。二十二分で店に戻れます」
「了解。じゃあ、待っちょうけんね」
そうは言ったものの、プロドライバーとして安全運転をゆるがせにするわけにはいかなかった。発車しようとしたらエンストした。カリンちゃんを乗せているから緊張しているのかもしれない。恥ずかしくなって急発進してしまった。先ほど痛い目にあったばかりにも関わらず、ドリンクホルダーにノンアルコールビールを置いていた。カリンちゃんは見つけても怒らないという確信があった。やはり私はゴミだ。
「久しぶりだね。いま大学は休みなの?」
「はい。高校の友達と会いたいし、お母さんも忙しそうだし」
ゴミの地で育った人とは思えなかった。心の清らかさや優しさが心地よい澄んだ声に乗って伝わってくる。
「言いたくなければいいよ。もしかして、ぼっちだから帰省したの?」
「友達いますよお。恩田さんは友達多そうですよね」
「おるけど、みんな結婚しとるけんなあ。誰も遊んでくれないよ。ぼっちみたいなもんだよ」
信号が赤になったので、ブレーキをゆっくりかけて止まった。ノンアルコールビールを取って一口飲んだ。
「ノンアルでも飲まないとやってられんくてね。嫌な人ばっか乗ってくる。神社でお祓いしてもらおうかな」
カリンちゃんは、くすっと笑うと温かみのある声で話した。
「そうなんですね。でも、島根はいい人多いですよ。地元に帰って来ると落ち着きます」
青になったので発進した。こんどはエンストしなかった。何か話したかったが、話題が思いつかなかった。当たり障りのない話題なら何時間でも話せるはずなのに、脳が機能停止したのかと思うくらい何も出てこなかった。県営住宅には、ぴったり十二分で到着した。建物から少し離れた所定の場所に車を停め、ハザードランプを点けた。
「あっという間に着いたね。カリンちゃんは島根は好き?」
「好きですよ。松江しか知らないですけど、大好きです」
カリンちゃんが財布から二千円を取り出したので制止した。料金はいらないと言えば納得しないと思ったので、一年遅れの入学祝いだと言ったら、礼を告げて降車した。
少し車を動かし、ハイビームでカリンちゃんの足元を照らした。カリンちゃんは軽い足取りで遠ざかって行った。一階の踊り場で振り返ると手を振った。表情は見えなかったが、彼女は笑顔で手を振ったのだと思う。ハイビームをスモールライトにした。そして、ライトを切った。スマホが振動したので画面を見た。有希子からのラインだった。メッセージに既読をつけた。
もはや建物の輪郭しか見えない県営住宅を前にして、ゴミのなかにもダイヤモンドがあるかもしれないと思った。いや、そうであってほしい。私は四方を明滅するハザードランプの光にずっと包まれていたかった。(了)



