火曜日の外来は、雨だった。
朝から灰色の雲が低く垂れ込め、待合の窓ガラスには細かな雨粒が張りついている。
「今日はずっと降りそうですね」
受付横でカルテを整理していると、遠野が窓の外を見ながら言った。
「帰る頃が一番ひどいかもしれないですね」
「月島さん、車でしたっけ?」
「はい」
「よかった」
何気ない会話。
それだけなのに、“よかった”の一言が胸に残る。
自分の帰りを気にしてもらえることなんて、最近ほとんどなかった。
診療は昼を過ぎても忙しかった。
高熱患者。
点滴。
予約外受診。
気づけば、休憩もまともに取れないまま夕方になっていた。
「月島さん、これ」
処置室へ戻った日菜に、遠野が小さな紙パックを差し出す。
「え?」
「休憩行けてないですよね」
温かいカフェオレだった。
「……ありがとうございます」
「倒れられると困るので」
冗談みたいに笑う遠野に、日菜も少しだけ笑い返す。
ただ、それだけで十分だった。
紙パックを持つ指先が少し熱い。
優しくされることに、こんなにも慣れていなかったんだと思う。
外来が終わる頃には、雨脚はさらに強くなっていた。
スタッフたちが「最悪」「びしょ濡れだ」と騒ぎながら帰っていく。
日菜もロッカーで着替え、鞄を持って廊下へ出た。
その時だった。
「あれ」
遠野が立ち止まる。
「傘、ない」
「え?」
「診察室に置いたと思ったんですけど」
困ったように笑う遠野の肩越しで、外の雨が白く煙っているのが見えた。
日菜は少し迷った。
ほんの数秒。
でも、その数秒が長かった。
「……駐車場までなら」
「え?」
「車、近いので」
言った瞬間、自分で驚く。
何を言ってるんだろう。
けれど遠野は、一瞬だけ目を細めて、それから静かに笑った。
「ありがとうございます」
二人で一本の傘に入る。
肩が触れないように、少し距離を空ける。
近いのに、触れない。
触れないようにしている。
その距離が、余計に苦しかった。
雨音だけが周囲を満たしている。
「寒くないですか?」
「大丈夫です」
「ならよかった」
優しい声。
すぐ隣にいるのに、日菜は遠野を見られなかった。
こんなの、ただの親切だ。
分かっている。
なのに。
車が見えた瞬間、日菜は少しだけ寂しいと思ってしまった。
「ありがとうございました」
「いえ……」
傘を閉じる。
そこで初めて、遠野が近くにいたことを実感する。
雨の匂い。
白衣に残った消毒液の匂い。
全部が近い。
「月島さん」
「はい?」
「風邪ひかないでくださいね」
その言葉だけ残して、遠野は雨の中を走っていった。
日菜はしばらく車に乗れなかった。
濡れた傘を握ったまま、自分の心臓の音を聞いていた。
朝から灰色の雲が低く垂れ込め、待合の窓ガラスには細かな雨粒が張りついている。
「今日はずっと降りそうですね」
受付横でカルテを整理していると、遠野が窓の外を見ながら言った。
「帰る頃が一番ひどいかもしれないですね」
「月島さん、車でしたっけ?」
「はい」
「よかった」
何気ない会話。
それだけなのに、“よかった”の一言が胸に残る。
自分の帰りを気にしてもらえることなんて、最近ほとんどなかった。
診療は昼を過ぎても忙しかった。
高熱患者。
点滴。
予約外受診。
気づけば、休憩もまともに取れないまま夕方になっていた。
「月島さん、これ」
処置室へ戻った日菜に、遠野が小さな紙パックを差し出す。
「え?」
「休憩行けてないですよね」
温かいカフェオレだった。
「……ありがとうございます」
「倒れられると困るので」
冗談みたいに笑う遠野に、日菜も少しだけ笑い返す。
ただ、それだけで十分だった。
紙パックを持つ指先が少し熱い。
優しくされることに、こんなにも慣れていなかったんだと思う。
外来が終わる頃には、雨脚はさらに強くなっていた。
スタッフたちが「最悪」「びしょ濡れだ」と騒ぎながら帰っていく。
日菜もロッカーで着替え、鞄を持って廊下へ出た。
その時だった。
「あれ」
遠野が立ち止まる。
「傘、ない」
「え?」
「診察室に置いたと思ったんですけど」
困ったように笑う遠野の肩越しで、外の雨が白く煙っているのが見えた。
日菜は少し迷った。
ほんの数秒。
でも、その数秒が長かった。
「……駐車場までなら」
「え?」
「車、近いので」
言った瞬間、自分で驚く。
何を言ってるんだろう。
けれど遠野は、一瞬だけ目を細めて、それから静かに笑った。
「ありがとうございます」
二人で一本の傘に入る。
肩が触れないように、少し距離を空ける。
近いのに、触れない。
触れないようにしている。
その距離が、余計に苦しかった。
雨音だけが周囲を満たしている。
「寒くないですか?」
「大丈夫です」
「ならよかった」
優しい声。
すぐ隣にいるのに、日菜は遠野を見られなかった。
こんなの、ただの親切だ。
分かっている。
なのに。
車が見えた瞬間、日菜は少しだけ寂しいと思ってしまった。
「ありがとうございました」
「いえ……」
傘を閉じる。
そこで初めて、遠野が近くにいたことを実感する。
雨の匂い。
白衣に残った消毒液の匂い。
全部が近い。
「月島さん」
「はい?」
「風邪ひかないでくださいね」
その言葉だけ残して、遠野は雨の中を走っていった。
日菜はしばらく車に乗れなかった。
濡れた傘を握ったまま、自分の心臓の音を聞いていた。
