週に一度、恋をする

水曜日の朝。

 日菜は眠りが浅かったせいか、目覚ましが鳴る前に目を覚ました。

 薄暗い部屋の中で、隣を見る。

 夫は背を向けたまま眠っていた。

 静かな寝息。
 それ以上でも、それ以下でもない。

 昔は、この人の隣にいるだけで安心していた気がする。

 いつからだろう。
 会話が減って、必要なことしか言わなくなったのは。

 日菜はそっと布団を抜け出し、キッチンへ向かった。

 朝食の準備。
 子どもの支度。
 洗濯。

 毎日同じことの繰り返し。

 忙しいはずなのに、ふとした瞬間に遠野の言葉を思い出してしまう。

『僕も同じなので』

 あれは、どういう意味だったんだろう。

 考えないようにしても、頭から離れない。

「ママ?」

 娘の声に、日菜ははっとした。

「ごめん、ぼーっとしてた」

「疲れてる?」

「ちょっとだけね」

 そう言って笑うと、娘は小さく頷いた。

「ママ、最近ちょっと優しいね」

 胸が止まりそうになる。

「え?」

「なんか怒らなくなった」

 無邪気な言葉だった。

 でも、その一言が日菜には痛かった。

 自分では気づいていなかった。

 遠野と出会ってから、少しだけ心に余裕ができていること。

 誰かに“自分”として見られるだけで、人はこんなにも変わってしまうのか。

 その日の外来は、朝から混雑していた。

 インフルエンザ疑い。
 予約外受診。
 採血待ち。

 休む暇もなく動き続ける。

 そんな中だった。

「月島さん」

 遠野の声。

 反射みたいに顔を上げる。

「すみません、この患者さんの採血追加お願いできますか?」

「はい」

 ただ業務連絡をしただけ。

 それだけなのに。

 自分の名前を呼ばれるたび、胸の奥が静かに揺れる。

 患者には名字で呼ばれる。
 後輩にも名字。
 家では“ママ”。

 “月島さん”

 その呼び方だけが、不思議とちゃんと自分を見てもらえている気がした。

 昼休憩。

 日菜が休憩室でコーヒーを淹れていると、遠野が入ってきた。

「あ、すみません」

「先生も休憩ですか?」

「五分だけ」

 遠野は紙コップを片手に、少し疲れたように椅子へ座る。

「今日すごいですね」

「火曜日だからですかね」

「毎週こうなんですか?」

「だいたい」

「月島さん、倒れないでくださいね」

 冗談みたいに言われたその言葉に、日菜は少し笑った。

「先生こそ」

「僕は意外と丈夫です」

「そう見えないです」

「ひどいな」

 二人で笑う。

 その瞬間。

 休憩室の扉が開いた。

「あ、ごめんなさい。お邪魔でした?」

 後輩看護師だった。

 その何気ない一言に、日菜の心臓が強く鳴る。

「違うよ」

 少し早口で否定すると、後輩は「あはは、分かってますって」と笑いながら冷蔵庫を開けた。

 けれど日菜は、そのあと急に落ち着かなくなった。

 ――見られた。

 ただ話していただけなのに。

 何も悪いことなんてしていないのに。

 それでも、“誤解されるかもしれない”と思った瞬間、息が苦しくなる。

 遠野は何も言わなかった。

 けれど、帰り際。

「月島さん」

「はい?」

「気にしなくて大丈夫ですよ」

 静かな声だった。

 その優しさが、また苦しかった