その日、外来が終わったのは予定より遅かった。
急患対応が重なり、処置室は最後まで慌ただしいままだった。
時計を見ると、もう二十時を過ぎている。
「月島さん、先上がってください」
「大丈夫、あとこれだけだから」
後輩にそう返しながら、日菜は処置台を拭いた。
疲れていた。
肩も重い。
頭もぼんやりする。
それでも、今日は少しだけ気持ちが軽かった。
火曜日だったから。
「まだ残ってたんですね」
聞き慣れた声に振り返る。
遠野だった。
ネクタイを少し緩め、白衣を腕に掛けている。診療中より少しだけラフな姿に、日菜の胸が静かに波打った。
「先生こそ」
「書類地獄です」
遠野が苦笑する。
その表情が、なんだか普通の“男性”に見えてしまって、日菜は慌てて視線を逸らした。
「帰りですか?」
「はい」
「駅まで?」
「駐車場です」
「ああ、そっちか」
二人で並んで歩き出す。
夜の病院は昼間と違って静かだった。
自動ドアの開閉音だけがやけに響く。
こんなふうに職場の男性と歩くことなんて、いつ以来だろう。
別に悪いことをしているわけじゃない。
ただ帰る方向が同じなだけ。
それなのに、誰かに見られていないか気になった。
「月島さん」
「はい?」
「この前、すみませんでした」
「え?」
「困らせましたよね」
“誤解されたら困るので”
あの日、自分が言った言葉だ。
日菜は胸の奥がじくりと痛むのを感じた。
「……あれは」
「ちゃんとしてる人なんだなと思いました」
遠野は責めるような口調ではなかった。
むしろ穏やかだった。
だから余計に苦しい。
「私はただ……」
「分かってます」
遠野は小さく笑う。
「僕も同じなので」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
同じ。
何が?
聞き返したかったのに、喉が動かなかった。
夜風が吹き、木々が揺れる。
病院の駐車場が見えてきたところで、遠野が足を止めた。
「ここですよね」
「……はい」
「お疲れさまでした」
「先生も」
それだけ。
本当に、それだけなのに。
遠野が離れていく背中を見ながら、日菜は動けなかった。
“僕も同じなので”
その言葉だけが、何度も頭の中で繰り返される。
車に乗り込んでエンジンをかけても、しばらく発進できなかった。
嬉しかった。
そう思ってしまった自分が、一番苦しかった。
急患対応が重なり、処置室は最後まで慌ただしいままだった。
時計を見ると、もう二十時を過ぎている。
「月島さん、先上がってください」
「大丈夫、あとこれだけだから」
後輩にそう返しながら、日菜は処置台を拭いた。
疲れていた。
肩も重い。
頭もぼんやりする。
それでも、今日は少しだけ気持ちが軽かった。
火曜日だったから。
「まだ残ってたんですね」
聞き慣れた声に振り返る。
遠野だった。
ネクタイを少し緩め、白衣を腕に掛けている。診療中より少しだけラフな姿に、日菜の胸が静かに波打った。
「先生こそ」
「書類地獄です」
遠野が苦笑する。
その表情が、なんだか普通の“男性”に見えてしまって、日菜は慌てて視線を逸らした。
「帰りですか?」
「はい」
「駅まで?」
「駐車場です」
「ああ、そっちか」
二人で並んで歩き出す。
夜の病院は昼間と違って静かだった。
自動ドアの開閉音だけがやけに響く。
こんなふうに職場の男性と歩くことなんて、いつ以来だろう。
別に悪いことをしているわけじゃない。
ただ帰る方向が同じなだけ。
それなのに、誰かに見られていないか気になった。
「月島さん」
「はい?」
「この前、すみませんでした」
「え?」
「困らせましたよね」
“誤解されたら困るので”
あの日、自分が言った言葉だ。
日菜は胸の奥がじくりと痛むのを感じた。
「……あれは」
「ちゃんとしてる人なんだなと思いました」
遠野は責めるような口調ではなかった。
むしろ穏やかだった。
だから余計に苦しい。
「私はただ……」
「分かってます」
遠野は小さく笑う。
「僕も同じなので」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
同じ。
何が?
聞き返したかったのに、喉が動かなかった。
夜風が吹き、木々が揺れる。
病院の駐車場が見えてきたところで、遠野が足を止めた。
「ここですよね」
「……はい」
「お疲れさまでした」
「先生も」
それだけ。
本当に、それだけなのに。
遠野が離れていく背中を見ながら、日菜は動けなかった。
“僕も同じなので”
その言葉だけが、何度も頭の中で繰り返される。
車に乗り込んでエンジンをかけても、しばらく発進できなかった。
嬉しかった。
そう思ってしまった自分が、一番苦しかった。
