『私も探さないようにします』
それが最後のメッセージだった。
それから一週間。
二人は本当に連絡を取らなかった。
火曜日も。
水曜日も。
何も変わらない日常だけが過ぎていく。
日菜は仕事をして、娘を迎えに行き、夕飯を作る。
夫は相変わらず帰りが遅い。
何も変わらない。
何も。
それなのに。
心の中だけが静かだった。
苦しいほど静かだった。
遠野のいない時間に、少しずつ慣れていく自分が怖い。
忘れてしまうのだろうか。
そう思った瞬間。
胸が締めつけられた。
忘れたくない。
その気持ちだけは変わらなかった。
金曜日の夕方。
病院を出ようとした時だった。
受付の電話が鳴る。
「月島さん、お電話です」
「私ですか?」
「先生から」
胸が大きく鳴る。
受話器を握る手が震える。
「お電話代わりました」
数秒の沈黙。
そして。
『……約束、破りました』
遠野の声だった。
日菜は何も言えなかった。
『連絡しないって決めたのに』
静かな声。
少しだけ笑っている。
でも、その笑い方はどこか寂しかった。
「先生……」
『ごめんなさい』
その一言だけで十分だった。
遠野も我慢していた。
ずっと。
「何かあったんですか」
自然と口から出た。
業務の電話なら、理由があるはずだと思いたかった。
でも。
『何もありません』
遠野は少し間を置いて続けた。
『何もないのに電話しました』
胸が苦しくなる。
それは、自分に会いたかったということだから。
「先生」
『はい』
「私も」
言葉が止まる。
言ってはいけない。
でも。
「電話、待ってました」
沈黙。
電話の向こうで、小さく息を呑む音がした。
『その一言で』
遠野の声が少し震える。
『今日一日、頑張ってよかったって思いました』
日菜は目を閉じた。
もう駄目だ。
こんな言葉を交わしてしまったら。
離れられるわけがない。
その時、遠くで病院のチャイムが鳴る。
業務終了を知らせる音。
現実へ戻る合図。
『帰ってください』
遠野が静かに言う。
『今日は、ちゃんと』
その優しさが苦しい。
「先生も」
『はい』
「ちゃんと帰ってください」
お互い、小さく笑う。
切ろうとしても、誰も電話を切らない。
あと少しだけ。
あと一分だけ。
そんな沈黙が続いたあと。
『……また火曜日に』
その言葉に、日菜の心臓が止まりそうになる。
遠野は学会でしばらく来られないはずだった。
それなのに。
「来るんですか?」
『来ます』
短い返事。
その一言だけで。
日菜の止まりかけていた時間が、また静かに動き始めた。
