「僕は」
遠野の声。
そして。
「言わないでおきます」
その言葉を最後に、日菜は振り返らなかった。
振り返れば終わる気がした。
終わってしまうのか。
始まってしまうのか。
自分でも分からなかった。
その日の夜。
娘を寝かしつけたあとも、遠野の言葉が頭から離れなかった。
言わないでおく。
それはつまり、言いたい言葉があるということだ。
自分も同じだった。
だから苦しい。
スマホを手に取る。
メッセージは来ていない。
当たり前だ。
あんな別れ方をしたのだから。
それなのに画面を何度も確認してしまう。
来ないと分かっているのに。
翌週。
火曜日ではない普通の日。
日菜は内科外来の記録整理をしていた。
「月島さん」
後輩看護師が声を掛ける。
「遠野先生、しばらく来ないらしいですよ」
ペンが止まる。
「え?」
「学会とか講演会とか重なってるみたいで」
胸が嫌な音を立てた。
「次いつ来るか分からないって」
「……そうなんだ」
平静を装う。
でも手が少し震えていた。
会えない。
火曜日が来ても。
その事実が思った以上に重かった。
昼休憩。
誰もいない休憩室。
日菜は窓の外を眺めていた。
会えないなら忘れられるだろうか。
少し距離を置けば。
また普通に戻れるだろうか。
そう思った瞬間。
胸の奥が苦しくなった。
忘れたくない。
その感情が先に浮かんでしまう。
最低だと思う。
でも本当だった。
夕方。
業務が終わりかけた頃、スマホが震えた。
心臓が跳ねる。
画面を見る。
遠野だった。
短いメッセージ。
『しばらく火曜日行けなくなりました』
たったそれだけ。
なのに涙が出そうになる。
続けてもう一通。
『ちゃんと離れられるかもしれませんね』
日菜はしばらく画面を見つめた。
離れる。
その言葉が痛い。
これが正しい。
正しいはずなのに。
震える指で返信を打つ。
何度も消して。
何度も書き直して。
最後に送ったのは、一言だけだった。
『そうですね』
送信。
すぐ既読がつく。
でも返事は来ない。
それで終わり。
それが正しい距離。
そう思うのに。
スマホを握りしめたまま、日菜は小さく目を閉じた。
遠野がいない火曜日。
その長さを、まだ知らなかった。
