週に一度、恋をする

 『今、隣に行きたいって思ってます』

 その言葉のあと、日菜は何も返せなかった。

 苦しい。

 嬉しい。

 怖い。

 全部が一緒に押し寄せて、息がうまくできない。

『……ごめんなさい』

 遠野が静かに言う。

『困らせることしかできない』

「先生」

 日菜は小さく息を吐いた。

「これ以上、優しくされたら……」

 続きが言えない。

 遠野は黙ったまま待っていた。

 その沈黙が、余計に苦しい。

「私、本当に戻れなくなる」

 ようやく出た声は震えていた。

 電話の向こうで、遠野がゆっくり息を吐く。

『もう、半分くらい戻れてない気がします』

 涙が出そうになる。

 同じだった。

 二人とも分かっている。

 これは、越えてはいけない感情だ。

『月島さん』

「はい」

『一回、ちゃんと話しませんか』

 胸が大きく鳴る。

「……話してます」

『病院じゃなくて』

 呼吸が止まりそうになる。

 病院の外。

 つまり、“ただの同僚”じゃない場所。

「先生」

『会いたいです』

 真っ直ぐな声だった。

 誤魔化さない。

 逃げない。

 その言葉が、どうしようもなく胸へ刺さる。

 会いたい。

 本当は、自分も同じだった。

 でも。

 もし会ったら。

 もう、“何もない関係”ではいられない気がした。

「……駄目です」

 絞り出すように言う。

『どうしてですか』

「会ったら、たぶん好きになるから」

 言った瞬間、静寂が落ちた。

 しまったと思った。

 もう隠せない。

 遠野は何も言わない。

 でも電話の向こうで、息を呑む気配だけが伝わる。

「ごめんなさい」

 日菜は慌てて言葉を重ねる。

「今の忘れてください」

『無理です』

 即答だった。

 苦しいくらい優しい声。

『そんなこと言われて、忘れられるわけない』

 胸が熱い。

 もう駄目だ。

 自分たちは、完全に境界線の外へ来てしまった。

 しばらく沈黙が続く。

 でも、不思議と切れなかった。

 ただ相手の呼吸を聞いているだけで、離れたくなくなる。

 その時だった。

 玄関の開く音。

 日菜の身体が強張る。

 夫が帰ってきた。

「……っ」

『月島さん?』

 遠野の声。

 日菜は咄嗟に口を押さえる。

 リビングから夫の足音が聞こえる。

「ただいまー」

 日常の声。

 現実の音。

 その瞬間、日菜は急激に怖くなった。

 何をしているんだろう。

 自分は。

「……ごめんなさい」

 小さく呟く。

『え?』

「切ります」

 震える指で通話を終える。

 スマホの画面が暗くなる。

 その暗闇の中で、日菜はしばらく動けなかった。

 “会わない”

 そう決めていたはずなのに。

 もう心だけは、完全に遠野へ向かってしまっていた。