次の金曜日が来るまで、自分でも驚くほど長く感じた。
会いたいわけじゃない。
そう思おうとするたび、喫茶店で触れた指先を思い出す。
あれはただの偶然だ。
ただの、よくある接触。
なのに。
洗濯物を畳んでいる時も、夕飯を作っている時も、ふとした瞬間に思い出してしまう。
「ママ、聞いてる?」
息子の声で、日菜ははっと顔を上げた。
「あ、ごめん。何?」
「明日、図工あるって言った」
「ああ、うん。準備しとくね」
夫はソファに座ったまま、テレビを見ている。
その横顔を見ながら、日菜は妙な罪悪感に襲われた。
何もしていない。
本当に、何も。
それなのに、隠し事をしているみたいだった。
金曜日の外来は朝から混んでいた。
受付前には人が溢れ、ナースステーションの電話は鳴りっぱなし。
処置室を行き来しながら、日菜はできるだけ“普通”を意識した。
考えない。
意識しない。
ただ仕事をする。
「月島さん」
呼ばれた瞬間、心臓が跳ねる。
顔を上げると、遠野がカルテを持ったまま立っていた。
「この採血、追加でお願いします」
「……はい」
声が少しだけ上ずった気がして、日菜は慌てて視線を落とした。
遠野は何も気づいていないみたいに、いつも通り穏やかな表情をしている。
それが少しだけ悔しい。
午前の診察が落ち着いた頃、休憩室で缶コーヒーを開けていると、後輩看護師が笑いながら入ってきた。
「遠野先生って、なんかかっこいいですよね」
思わず、手が止まる。
「……そう?」
「静かな人って逆に気になります」
何気ない会話のはずなのに、胸の奥がざわついた。
「優しいし」
「優しいかな」
「え、月島さんには結構話してません?」
その瞬間、日菜は息を止めた。
「別に、普通だよ」
慌てて缶コーヒーを口に運ぶ。
冷たいはずなのに、喉が妙に熱かった。
午後。
診察室へ書類を届けに入ると、遠野が一人で電子カルテを見ていた。
「失礼します」
「ありがとうございます」
それだけの会話。
そのまま出ようとした時だった。
「プリン、どうでした?」
不意に聞かれ、日菜は振り返る。
「……え?」
「この前。結局食べました?」
一瞬で、喫茶店の空気が蘇る。
病院ではしないはずの会話。
なのに遠野は、何でもないことみたいに聞いてくる。
「食べました」
「美味しかったですか」
「……美味しかったです」
自分でも分かるくらい、声が柔らかくなる。
その時。
「先生、次の患者さん入りまーす!」
廊下から声が飛ぶ。
遠野はいつもの表情に戻り、
「お願いします」
とだけ言った。
空気が切れる。
日菜もすぐ仕事の顔へ戻る。
でも診察室を出たあとも、胸の奥だけが落ち着かなかった。
病院では、ただの医師と看護師。
そのはずなのに。
誰にも知られていない小さな秘密を、二人だけが持ってしまった気がした。
会いたいわけじゃない。
そう思おうとするたび、喫茶店で触れた指先を思い出す。
あれはただの偶然だ。
ただの、よくある接触。
なのに。
洗濯物を畳んでいる時も、夕飯を作っている時も、ふとした瞬間に思い出してしまう。
「ママ、聞いてる?」
息子の声で、日菜ははっと顔を上げた。
「あ、ごめん。何?」
「明日、図工あるって言った」
「ああ、うん。準備しとくね」
夫はソファに座ったまま、テレビを見ている。
その横顔を見ながら、日菜は妙な罪悪感に襲われた。
何もしていない。
本当に、何も。
それなのに、隠し事をしているみたいだった。
金曜日の外来は朝から混んでいた。
受付前には人が溢れ、ナースステーションの電話は鳴りっぱなし。
処置室を行き来しながら、日菜はできるだけ“普通”を意識した。
考えない。
意識しない。
ただ仕事をする。
「月島さん」
呼ばれた瞬間、心臓が跳ねる。
顔を上げると、遠野がカルテを持ったまま立っていた。
「この採血、追加でお願いします」
「……はい」
声が少しだけ上ずった気がして、日菜は慌てて視線を落とした。
遠野は何も気づいていないみたいに、いつも通り穏やかな表情をしている。
それが少しだけ悔しい。
午前の診察が落ち着いた頃、休憩室で缶コーヒーを開けていると、後輩看護師が笑いながら入ってきた。
「遠野先生って、なんかかっこいいですよね」
思わず、手が止まる。
「……そう?」
「静かな人って逆に気になります」
何気ない会話のはずなのに、胸の奥がざわついた。
「優しいし」
「優しいかな」
「え、月島さんには結構話してません?」
その瞬間、日菜は息を止めた。
「別に、普通だよ」
慌てて缶コーヒーを口に運ぶ。
冷たいはずなのに、喉が妙に熱かった。
午後。
診察室へ書類を届けに入ると、遠野が一人で電子カルテを見ていた。
「失礼します」
「ありがとうございます」
それだけの会話。
そのまま出ようとした時だった。
「プリン、どうでした?」
不意に聞かれ、日菜は振り返る。
「……え?」
「この前。結局食べました?」
一瞬で、喫茶店の空気が蘇る。
病院ではしないはずの会話。
なのに遠野は、何でもないことみたいに聞いてくる。
「食べました」
「美味しかったですか」
「……美味しかったです」
自分でも分かるくらい、声が柔らかくなる。
その時。
「先生、次の患者さん入りまーす!」
廊下から声が飛ぶ。
遠野はいつもの表情に戻り、
「お願いします」
とだけ言った。
空気が切れる。
日菜もすぐ仕事の顔へ戻る。
でも診察室を出たあとも、胸の奥だけが落ち着かなかった。
病院では、ただの医師と看護師。
そのはずなのに。
誰にも知られていない小さな秘密を、二人だけが持ってしまった気がした。
