週に一度、恋をする

 『……もう遅い気がします』

 遠野のその言葉が、日菜の胸から離れなかった。

 電話を切ったあとも、ベランダでしばらく動けなかった。

 戻れない。

 その感覚だけが、静かに身体へ染み込んでいく。

 日曜日。

 久しぶりに、家族三人で出掛けることになった。

 ショッピングモール。

 娘は朝から嬉しそうだった。

「ママ、早く行こう!」

「はいはい」

 夫も珍しく穏やかだった。

 娘と手を繋ぎ、ゲームコーナーではしゃいでいる。

 普通の家族。

 本来なら、守りたかった場所。

 日菜は少し離れた場所から、その背中を見つめた。

「どうした?」

 夫が振り返る。

「え?」

「ぼーっとしてる」

「……ちょっと疲れてるだけ」

 また“大丈夫”も言えなかった。

 自分が嘘ばかりついている気がする。

 昼食を取るために入ったフードコートは混雑していた。

 娘が「ラーメン!」とはしゃぎながら席へ走っていく。

 その姿に笑いながら、日菜はふと周囲へ目を向けた。

 そこで、呼吸が止まりそうになる。

 遠野だった。

 一瞬、見間違いかと思った。

 でも違う。

 少し離れた席。

 遠野が、女性と向かい合って座っていた。

 年齢は四十代くらいだろうか。

 落ち着いた雰囲気の綺麗な人。

 テーブルには子ども用のジュースも置かれている。

 家族。

 たぶん。

 当然だ。

 遠野には家庭がある。

 分かっていた。

 最初から。

 なのに。

 胸の奥が、鋭く痛んだ。

「ママ?」

 娘の声ではっとする。

「どうしたの?」

「……なんでもない」

 慌てて笑う。

 でもうまく笑えていない気がした。

 遠野はこちらに気づいていない。

 その方がいい。

 そう思うのに。

 ほんの少しだけ、“気づいてほしい”と思ってしまった自分がいた。

 最低だ。

 日菜は俯いたまま紙コップの水を握る。

 夫が娘へ「こぼすなよ」と笑っている。

 普通の光景。

 自分もその中にいる。

 なのに、心だけが遠くにある。

 その時だった。

 遠野が顔を上げる。

 目が合った。

 一瞬。

 本当に、一瞬だけ。

 遠野の表情が止まる。

 驚いたように。

 苦しそうに。

 でもすぐに、何事もなかったように視線を逸らした。

 日菜は息をするのも苦しかった。

 見てしまった。

 遠野にも、守るべき場所がある。

 当たり前の現実。

 なのに。

 どうしてこんなに苦しいんだろう。

 帰り道。

 助手席で眠る娘を見ながら、日菜は窓の外をぼんやり眺めていた。

 夫が運転しながら言う。

「今日、楽しかったな」

「……うん」

 本当は、ちゃんと幸せなはずなのに。

 胸の奥だけが、静かに泣いていた。