週に一度、恋をする

 「あれ、遠野先生?」

 若い看護師の明るい声。

 その瞬間、日菜の心臓は強く縮み上がった。

 遠野はすぐにいつもの表情へ戻る。

「会議終わりで休憩してたんです」

「珍しいですね、裏いるの」

 看護師は笑いながら缶ジュースを取り出した。

 日菜はうまく笑えなかった。

 何も悪いことはしていない。

 ただ話していただけ。

 なのに、“見られた”というだけで苦しくなる。

「月島さんもサボりですか?」

 冗談っぽく言われ、日菜は慌てて首を振る。

「違うよ、休憩」

「ですよねー」

 笑い声。

 その何気ない空気の中で、自分だけが異常に緊張している。

 遠野はそれ以上何も言わなかった。

 きっと同じように、境界線を意識している。

 その日の帰り道。

 日菜は車を運転しながら、何度も昼間のことを思い出していた。

 もし、あの看護師が何か勘づいたら。

 もし、噂になったら。

 職場。
 家庭。
 子ども。

 全部壊れるかもしれない。

 怖い。

 なのに。

 遠野といる時間を、もう失いたくないと思ってしまう。

 家へ帰ると、夫が珍しく早く帰宅していた。

「おかえり」

「……ただいま」

 リビングには夕飯の匂いが広がっている。

 テレビの音。
 娘の笑い声。

 ちゃんとした家庭。

 本来なら、自分が守らなければいけない場所。

「今日さ」

 夫がビールを開けながら言った。

「今度の日曜、休み取れそう」

 日菜は少し驚く。

「え?」

「どっか行く?」

 その言葉に、胸が痛んだ。

 嬉しいはずなのに。

 ちゃんと夫婦みたいな会話なのに。

 なぜか、素直に喜べない。

「……うん」

 笑ったつもりだった。

 でもきっと、少し不自然だった。

「どうした?」

「え?」

「疲れてる?」

 夫が珍しくこちらを見る。

 その視線に、日菜は息が詰まりそうになった。

 罪悪感。

 胸の奥へ重く沈んでいく。

「大丈夫」

 また、その言葉。

 本当は全然大丈夫じゃない。

 夜。

 娘を寝かせたあと、日菜は一人でベランダへ出た。

 春の夜風が少し冷たい。

 スマホが震える。

 胸が跳ねる。

 画面を見る。

 遠野だった。

 メッセージではなく、短い着信。

 数秒迷う。

 出てはいけない気がした。

 でも。

 指は自然に通話ボタンを押していた。

「……はい」

『起きてました?』

 低い声。

 聞いただけで、安心してしまう。

「先生こそ」

『今日、すみませんでした』

「何がですか」

『裏で会ったこと』

 遠野の声は静かだった。

『月島さん、すごく顔色変わってたから』

 ちゃんと見られていた。

 そのことが苦しい。

 嬉しい。

 全部ぐちゃぐちゃになる。

「……怖かったです」

 気づけば、本音が零れていた。

 電話の向こうで、遠野が小さく息を呑む。

『僕もです』

 その声が少し掠れている。

「先生」

『はい』

「私たち、戻れますかね」

 沈黙。

 春の風だけが静かに吹いていた。

 遠野はしばらく何も言わなかった。

 それから、苦しそうに笑う。

『……もう遅い気がします』

 その言葉が、日菜の胸へ静かに落ちていった。