「月島さんも」
その言葉を最後に、遠野は静かに笑って去っていった。
日菜はしばらく駐車場で動けなかった。
冷たい風が頬を撫でる。
呼ばれた。
また、“日菜さん”って。
それだけなのに、胸の奥がどうしようもなく苦しい。
車へ乗り込み、ハンドルへ額を押しつける。
もう駄目だ。
こんなの。
ちゃんとしなきゃいけないのに。
なのに。
火曜日が終わるたび、次の火曜日を待ってしまう。
翌日。
外来は比較的落ち着いていた。
遠野はいない。
それなのに、処置室へ入るたび昨日の声を思い出してしまう。
『今日は、ちゃんと呼ばないと帰れない気がして』
あんなこと、普通言わない。
優しすぎる。
ずるい。
「月島さん?」
後輩看護師の声で、日菜ははっとした。
「大丈夫ですか? ぼーっとしてる」
「ごめん、寝不足かも」
笑って誤魔化す。
本当は、眠れていない。
遠野のことを考える時間が増えるたび、自分の中の何かが壊れていく気がする。
昼休憩。
日菜は病院裏の自販機前で缶コーヒーを買っていた。
外の空気が吸いたかった。
誰もいない場所で、少しだけ頭を冷やしたかった。
「甘いやつ飲むんですね」
突然聞こえた声に、心臓が跳ねる。
振り返る。
遠野だった。
「先生……今日いたんですか」
「会議が長引いて」
そう言いながら、遠野はブラックコーヒーを買う。
二人並んで自販機の前に立つ。
病院の裏口。
少し冷たい風。
まるで職場じゃないみたいだった。
「月島さん」
また、その呼び方。
わざと戻しているのが分かる。
「はい」
「ちゃんとしようと思ってるんです」
静かな声だった。
「僕も」
日菜は缶コーヒーを握る手に力が入る。
「でも」
遠野は少し笑った。
「会うと、全部駄目になる」
胸が痛い。
同じだった。
距離を取ろうとしても。
忘れようとしても。
会えば、全部揺れる。
「先生」
「はい?」
「……なんで、こんなことになったんでしょうね」
本音だった。
もっと若い頃なら、違ったのかもしれない。
独身だったら。
子どもがいなかったら。
もっと簡単に好きになれたのかもしれない。
遠野は少しだけ目を細めた。
「火曜日があったからじゃないですか」
「え?」
「毎週、会ってしまったから」
その言い方が、少しだけ寂しかった。
二人とも分かっている。
この関係に未来がないことを。
だから余計に、今この瞬間が苦しい。
その時だった。
「あれ、遠野先生?」
背後から声がした。
若い看護師だった。
日菜の身体が強張る。
「こんなところで何してるんですか?」
遠野は一瞬だけ日菜を見たあと、いつもの穏やかな笑顔に戻った。
「休憩ですよ」
「珍しいですねー」
看護師は笑いながら自販機へ向かう。
何も知らない。
何も気づいていない。
なのに。
日菜は急に息苦しくなった。
自分たちは今、“境界線の外側”へ足を踏み出しかけている。
そんな気がした。
その言葉を最後に、遠野は静かに笑って去っていった。
日菜はしばらく駐車場で動けなかった。
冷たい風が頬を撫でる。
呼ばれた。
また、“日菜さん”って。
それだけなのに、胸の奥がどうしようもなく苦しい。
車へ乗り込み、ハンドルへ額を押しつける。
もう駄目だ。
こんなの。
ちゃんとしなきゃいけないのに。
なのに。
火曜日が終わるたび、次の火曜日を待ってしまう。
翌日。
外来は比較的落ち着いていた。
遠野はいない。
それなのに、処置室へ入るたび昨日の声を思い出してしまう。
『今日は、ちゃんと呼ばないと帰れない気がして』
あんなこと、普通言わない。
優しすぎる。
ずるい。
「月島さん?」
後輩看護師の声で、日菜ははっとした。
「大丈夫ですか? ぼーっとしてる」
「ごめん、寝不足かも」
笑って誤魔化す。
本当は、眠れていない。
遠野のことを考える時間が増えるたび、自分の中の何かが壊れていく気がする。
昼休憩。
日菜は病院裏の自販機前で缶コーヒーを買っていた。
外の空気が吸いたかった。
誰もいない場所で、少しだけ頭を冷やしたかった。
「甘いやつ飲むんですね」
突然聞こえた声に、心臓が跳ねる。
振り返る。
遠野だった。
「先生……今日いたんですか」
「会議が長引いて」
そう言いながら、遠野はブラックコーヒーを買う。
二人並んで自販機の前に立つ。
病院の裏口。
少し冷たい風。
まるで職場じゃないみたいだった。
「月島さん」
また、その呼び方。
わざと戻しているのが分かる。
「はい」
「ちゃんとしようと思ってるんです」
静かな声だった。
「僕も」
日菜は缶コーヒーを握る手に力が入る。
「でも」
遠野は少し笑った。
「会うと、全部駄目になる」
胸が痛い。
同じだった。
距離を取ろうとしても。
忘れようとしても。
会えば、全部揺れる。
「先生」
「はい?」
「……なんで、こんなことになったんでしょうね」
本音だった。
もっと若い頃なら、違ったのかもしれない。
独身だったら。
子どもがいなかったら。
もっと簡単に好きになれたのかもしれない。
遠野は少しだけ目を細めた。
「火曜日があったからじゃないですか」
「え?」
「毎週、会ってしまったから」
その言い方が、少しだけ寂しかった。
二人とも分かっている。
この関係に未来がないことを。
だから余計に、今この瞬間が苦しい。
その時だった。
「あれ、遠野先生?」
背後から声がした。
若い看護師だった。
日菜の身体が強張る。
「こんなところで何してるんですか?」
遠野は一瞬だけ日菜を見たあと、いつもの穏やかな笑顔に戻った。
「休憩ですよ」
「珍しいですねー」
看護師は笑いながら自販機へ向かう。
何も知らない。
何も気づいていない。
なのに。
日菜は急に息苦しくなった。
自分たちは今、“境界線の外側”へ足を踏み出しかけている。
そんな気がした。
