週に一度、恋をする

 「……困ります」

 そう答えたのに。

 日菜の胸は、ずっと熱いままだった。

 階段踊り場の窓から見える空は曇っている。

 遠野は電話の向こうで、小さく笑った。

『ですよね』

 困ったような、でも少し安心したみたいな声。

「先生」

『はい』

「もう電話切ります」

 本当は切りたくない。

 でも、このまま声を聞いていたら駄目になる。

『……はい』

 遠野も、それ以上は何も言わなかった。

 優しい。

 最後まで。

 通話が切れたあと、日菜はスマホを握ったまま目を閉じる。

 名前で呼ばれた。

 たった一度。

 それだけなのに、もう元には戻れない気がした。

 午後の外来。

 日菜は意識的に遠野を見ないようにしていた。

 診察補助。
 採血。
 患者対応。

 忙しく動いていれば、少しは平静でいられる。

「月島さん」

 それでも、声だけで分かってしまう。

「はい」

「この患者さん、処置室お願いします」

「分かりました」

 ちゃんと“月島さん”に戻っている。

 当たり前だ。

 あれは事故みたいなものだった。

 知らないふりをしなければいけない。

 なのに。

 日菜は少しだけ寂しいと思ってしまった。

 夕方。

 診療が終わり、スタッフたちが帰り始める。

 更衣室では後輩たちが笑いながら話していた。

「遠野先生って優しいよね」

「分かるー。なんか大人って感じ」

 胸がざわつく。

 日菜はロッカーの扉を閉める音が少し大きくなった。

「月島さん?」

「……ごめん、疲れてるだけ」

 笑って誤魔化す。

 自分でも驚く。

 今、嫉妬した。

 そんな資格、どこにもないのに。

 病院を出ると、外は冷たい風が吹いていた。

 駐車場へ向かう途中。

「日菜さん」

 低い声。

 反射みたいに振り返る。

 遠野だった。

 誰もいない。

 でも病院の外だ。

 見られるかもしれない。

「……先生」

「ごめんなさい」

 遠野は少し苦しそうに笑った。

「今日は、ちゃんと呼ばないと帰れない気がして」

 胸が痛い。

「先生、やめてください」

「やめた方がいいですか」

 静かな声。

 日菜は答えられない。

 やめてほしい。

 でも、本当は呼ばれたい。

 そんな矛盾を抱えたまま、日菜は視線を落とした。

「……ずるいです」

 遠野が少しだけ笑う。

「月島さんも」

 その言い方があまりにも優しくて。

 日菜はもう、自分の気持ちを否定できなくなっていた。