「……困ります」
そう答えたのに。
日菜の胸は、ずっと熱いままだった。
階段踊り場の窓から見える空は曇っている。
遠野は電話の向こうで、小さく笑った。
『ですよね』
困ったような、でも少し安心したみたいな声。
「先生」
『はい』
「もう電話切ります」
本当は切りたくない。
でも、このまま声を聞いていたら駄目になる。
『……はい』
遠野も、それ以上は何も言わなかった。
優しい。
最後まで。
通話が切れたあと、日菜はスマホを握ったまま目を閉じる。
名前で呼ばれた。
たった一度。
それだけなのに、もう元には戻れない気がした。
午後の外来。
日菜は意識的に遠野を見ないようにしていた。
診察補助。
採血。
患者対応。
忙しく動いていれば、少しは平静でいられる。
「月島さん」
それでも、声だけで分かってしまう。
「はい」
「この患者さん、処置室お願いします」
「分かりました」
ちゃんと“月島さん”に戻っている。
当たり前だ。
あれは事故みたいなものだった。
知らないふりをしなければいけない。
なのに。
日菜は少しだけ寂しいと思ってしまった。
夕方。
診療が終わり、スタッフたちが帰り始める。
更衣室では後輩たちが笑いながら話していた。
「遠野先生って優しいよね」
「分かるー。なんか大人って感じ」
胸がざわつく。
日菜はロッカーの扉を閉める音が少し大きくなった。
「月島さん?」
「……ごめん、疲れてるだけ」
笑って誤魔化す。
自分でも驚く。
今、嫉妬した。
そんな資格、どこにもないのに。
病院を出ると、外は冷たい風が吹いていた。
駐車場へ向かう途中。
「日菜さん」
低い声。
反射みたいに振り返る。
遠野だった。
誰もいない。
でも病院の外だ。
見られるかもしれない。
「……先生」
「ごめんなさい」
遠野は少し苦しそうに笑った。
「今日は、ちゃんと呼ばないと帰れない気がして」
胸が痛い。
「先生、やめてください」
「やめた方がいいですか」
静かな声。
日菜は答えられない。
やめてほしい。
でも、本当は呼ばれたい。
そんな矛盾を抱えたまま、日菜は視線を落とした。
「……ずるいです」
遠野が少しだけ笑う。
「月島さんも」
その言い方があまりにも優しくて。
日菜はもう、自分の気持ちを否定できなくなっていた。
そう答えたのに。
日菜の胸は、ずっと熱いままだった。
階段踊り場の窓から見える空は曇っている。
遠野は電話の向こうで、小さく笑った。
『ですよね』
困ったような、でも少し安心したみたいな声。
「先生」
『はい』
「もう電話切ります」
本当は切りたくない。
でも、このまま声を聞いていたら駄目になる。
『……はい』
遠野も、それ以上は何も言わなかった。
優しい。
最後まで。
通話が切れたあと、日菜はスマホを握ったまま目を閉じる。
名前で呼ばれた。
たった一度。
それだけなのに、もう元には戻れない気がした。
午後の外来。
日菜は意識的に遠野を見ないようにしていた。
診察補助。
採血。
患者対応。
忙しく動いていれば、少しは平静でいられる。
「月島さん」
それでも、声だけで分かってしまう。
「はい」
「この患者さん、処置室お願いします」
「分かりました」
ちゃんと“月島さん”に戻っている。
当たり前だ。
あれは事故みたいなものだった。
知らないふりをしなければいけない。
なのに。
日菜は少しだけ寂しいと思ってしまった。
夕方。
診療が終わり、スタッフたちが帰り始める。
更衣室では後輩たちが笑いながら話していた。
「遠野先生って優しいよね」
「分かるー。なんか大人って感じ」
胸がざわつく。
日菜はロッカーの扉を閉める音が少し大きくなった。
「月島さん?」
「……ごめん、疲れてるだけ」
笑って誤魔化す。
自分でも驚く。
今、嫉妬した。
そんな資格、どこにもないのに。
病院を出ると、外は冷たい風が吹いていた。
駐車場へ向かう途中。
「日菜さん」
低い声。
反射みたいに振り返る。
遠野だった。
誰もいない。
でも病院の外だ。
見られるかもしれない。
「……先生」
「ごめんなさい」
遠野は少し苦しそうに笑った。
「今日は、ちゃんと呼ばないと帰れない気がして」
胸が痛い。
「先生、やめてください」
「やめた方がいいですか」
静かな声。
日菜は答えられない。
やめてほしい。
でも、本当は呼ばれたい。
そんな矛盾を抱えたまま、日菜は視線を落とした。
「……ずるいです」
遠野が少しだけ笑う。
「月島さんも」
その言い方があまりにも優しくて。
日菜はもう、自分の気持ちを否定できなくなっていた。
