週に一度、恋をする

 「本当は、名前で呼びたいくらい」

 その言葉が、頭から離れなかった。

 帰宅してからも。
 シャワーを浴びている時も。
 娘の髪を乾かしている時も。

 “名前で呼びたい”

 たったそれだけなのに、胸の奥が熱くなる。

 日菜は洗面台の鏡を見つめた。

 頬が少し赤い。

 こんなの、高校生みたいだと思う。

 もう三十五歳なのに。

「ママ?」

 娘が眠そうに立っていた。

「どうしたの?」

「今日、機嫌いい」

 その言葉に、日菜は一瞬固まる。

「……そう見える?」

「うん」

 娘は何気なく笑って、また寝室へ戻っていく。

 残された日菜は、静かに息を吐いた。

 駄目だ。

 こんなの。

 自分だけの問題じゃなくなっている。

 翌週の火曜日。

 病院へ向かう車の中で、日菜は何度も自分へ言い聞かせていた。

 今日は普通にする。

 距離を戻す。

 それでいい。

 それしかない。

「おはようございます」

 遠野の声。

 胸が揺れる。

「……おはようございます」

 いつも通りの朝。

 いつも通りの外来。

 なのに、二人の間だけ何かが変わってしまっている。

 名前で呼びたい。

 その一言を知ってしまったから。

 午前中。

 診察室前で患者誘導をしていた時だった。

「日菜さん」

 一瞬、誰に呼ばれたのか分からなかった。

 振り返る。

 遠野だった。

 でも遠野自身も、言った瞬間に気づいたみたいに目を見開いていた。

 周囲の音が遠くなる。

 日菜の心臓が大きく鳴る。

「……あ」

 遠野が小さく息を呑む。

「すみません」

 すぐに言い直そうとした。

 でも。

 日菜はその“日菜さん”という響きが、頭から離れなかった。

 名前。

 初めて呼ばれた。

 たったそれだけなのに。

 こんなにも特別だった。

「月島さん、カルテ――」

 後輩看護師の声で、日菜ははっと我に返る。

「ご、ごめん」

 慌ててカルテを受け取る。

 遠野は少し離れた場所で、困ったように笑っていた。

 昼休憩。

 日菜は誰もいない階段踊り場へ逃げ込んでいた。

 胸がうるさい。

 名前を呼ばれただけ。

 それだけなのに。

 スマホが震える。

 画面を見る。

 知らない番号。

 でも、もう分かる。

『……すみません』

 電話越しの遠野の声は、少し掠れていた。

「先生」

『本当にすみません。今の』

「……聞こえてましたよ」

『最悪ですよね』

 遠野が苦笑する。

 日菜は階段の壁へそっと背を預けた。

「びっくりしました」

『嫌でした?』

 その問いに、日菜はすぐ答えられなかった。

 嫌じゃない。

 むしろ、嬉しかった。

 でも。

「……困ります」

 本当は、泣きたくなるくらい嬉しかった。