「これ以上優しくしないでください」
そう言ったのは、自分だった。
なのに。
日菜はその夜、遠野の優しさばかり思い出していた。
疲れている時にくれる温かい飲み物。
忙しい時に掛けてくれる声。
“倒れないでくださいね”と笑う顔。
全部、ずるい。
優しくされるたび、戻れなくなる。
翌週の火曜日。
外来は朝から混雑していた。
待合には患者が溢れ、スタッフたちも慌ただしく動き回っている。
日菜は採血準備をしながら、できるだけ遠野を見ないようにしていた。
目が合うだけで苦しいから。
「月島さん」
それでも名前を呼ばれる。
「はい」
「少し顔色悪くないですか?」
「大丈夫です」
「大丈夫って顔じゃない」
低い声。
心配そうな目。
その優しさが嬉しくて、苦しくて、逃げたくなる。
「先生」
「はい?」
「みんな見てます」
思わず小さな声で言うと、遠野は一瞬だけ黙った。
それから苦笑する。
「……気をつけます」
少し寂しそうだった。
その顔を見るたび、日菜の胸も痛む。
昼過ぎ。
ようやく患者が落ち着き始めた頃、後輩看護師が笑いながら言った。
「月島さんと遠野先生って、空気似てますよね」
心臓が止まりそうになる。
「え?」
「なんか静かで優しい感じ」
悪意はない。
ただの雑談。
でも日菜は、一気に息苦しくなる。
「そんなことないよ」
慌てて否定すると、後輩は「そうですか?」と首を傾げた。
遠野は少し離れた場所でカルテを見ていた。
聞こえていたかもしれない。
そう思うだけで落ち着かない。
夕方。
診療が終わり、スタッフが少しずつ帰り始める。
日菜は処置室で最後の片付けをしていた。
「お疲れさまです」
振り返る。
遠野だった。
「……お疲れさまです」
二人きり。
その状況だけで緊張する。
「今日、後輩さんに言われてましたね」
日菜の手が止まる。
「聞いてたんですか」
「聞こえました」
遠野は少し笑った。
「嫌でした?」
答えられない。
嫌じゃない。
むしろ少し嬉しかった。
でも、嬉しいと思うこと自体が危ない。
「……先生」
「はい?」
「私たち、ちゃんとしなきゃ駄目ですよね」
遠野は静かに目を伏せた。
「そうですね」
正しい答え。
でもその声は少し掠れていた。
沈黙が落ちる。
言いたいことはたくさんあるのに、どれも言葉にならない。
その時、不意に遠野が小さく笑った。
「でも」
「え?」
「月島さんって呼ぶたび、少し嬉しいんです」
胸が強く鳴る。
遠野は困ったように続けた。
「本当は、名前で呼びたいくらい」
息が止まりそうになる。
そんなこと、言わないでほしい。
期待してしまうから。
日菜は何も言えなかった。
ただ、自分の鼓動の音だけがうるさい。
遠野はそんな日菜を見て、小さく笑った。
「……困らせました?」
日菜はゆっくり視線を落とす。
もう、何度困らせられたか分からない。
それでも。
嫌だと思えない自分が、一番危なかった。
そう言ったのは、自分だった。
なのに。
日菜はその夜、遠野の優しさばかり思い出していた。
疲れている時にくれる温かい飲み物。
忙しい時に掛けてくれる声。
“倒れないでくださいね”と笑う顔。
全部、ずるい。
優しくされるたび、戻れなくなる。
翌週の火曜日。
外来は朝から混雑していた。
待合には患者が溢れ、スタッフたちも慌ただしく動き回っている。
日菜は採血準備をしながら、できるだけ遠野を見ないようにしていた。
目が合うだけで苦しいから。
「月島さん」
それでも名前を呼ばれる。
「はい」
「少し顔色悪くないですか?」
「大丈夫です」
「大丈夫って顔じゃない」
低い声。
心配そうな目。
その優しさが嬉しくて、苦しくて、逃げたくなる。
「先生」
「はい?」
「みんな見てます」
思わず小さな声で言うと、遠野は一瞬だけ黙った。
それから苦笑する。
「……気をつけます」
少し寂しそうだった。
その顔を見るたび、日菜の胸も痛む。
昼過ぎ。
ようやく患者が落ち着き始めた頃、後輩看護師が笑いながら言った。
「月島さんと遠野先生って、空気似てますよね」
心臓が止まりそうになる。
「え?」
「なんか静かで優しい感じ」
悪意はない。
ただの雑談。
でも日菜は、一気に息苦しくなる。
「そんなことないよ」
慌てて否定すると、後輩は「そうですか?」と首を傾げた。
遠野は少し離れた場所でカルテを見ていた。
聞こえていたかもしれない。
そう思うだけで落ち着かない。
夕方。
診療が終わり、スタッフが少しずつ帰り始める。
日菜は処置室で最後の片付けをしていた。
「お疲れさまです」
振り返る。
遠野だった。
「……お疲れさまです」
二人きり。
その状況だけで緊張する。
「今日、後輩さんに言われてましたね」
日菜の手が止まる。
「聞いてたんですか」
「聞こえました」
遠野は少し笑った。
「嫌でした?」
答えられない。
嫌じゃない。
むしろ少し嬉しかった。
でも、嬉しいと思うこと自体が危ない。
「……先生」
「はい?」
「私たち、ちゃんとしなきゃ駄目ですよね」
遠野は静かに目を伏せた。
「そうですね」
正しい答え。
でもその声は少し掠れていた。
沈黙が落ちる。
言いたいことはたくさんあるのに、どれも言葉にならない。
その時、不意に遠野が小さく笑った。
「でも」
「え?」
「月島さんって呼ぶたび、少し嬉しいんです」
胸が強く鳴る。
遠野は困ったように続けた。
「本当は、名前で呼びたいくらい」
息が止まりそうになる。
そんなこと、言わないでほしい。
期待してしまうから。
日菜は何も言えなかった。
ただ、自分の鼓動の音だけがうるさい。
遠野はそんな日菜を見て、小さく笑った。
「……困らせました?」
日菜はゆっくり視線を落とす。
もう、何度困らせられたか分からない。
それでも。
嫌だと思えない自分が、一番危なかった。
