休日に一人で外へ出ることなんて、久しぶりだった。
息子は夫と義実家へ行っている。
「たまには休めば?」
珍しく夫にそう言われたものの、気を遣われたというより、“いない方が楽”と言われた気がして、日菜は曖昧に笑うしかなかった。
昼過ぎまで家にいたが、結局落ち着かず、軽く化粧だけして車を出した。
向かった先は、先日遠野に話した川沿いの喫茶店だった。
本当に静かな店だ。
古い木の扉。少し暗い照明。窓際に並ぶ琥珀色のランプ。
一人になりたい時、時々来る。
カラン、とベルを鳴らして店に入った瞬間、日菜は足を止めた。
窓際の席。
本を読んでいた男が、ゆっくり顔を上げる。
「あ……」
遠野だった。
一瞬、呼吸が止まる。
私服姿を見るのは初めてだった。
病院ではきちんと閉じられている雰囲気が、今日は少し柔らかい。
ネイビーのシャツに細いフレームの眼鏡。
白衣がないだけで、別人みたいだった。
「……こんにちは」
先に口を開いたのは遠野だった。
「こんにちは……」
「本当に来たんですね」
その言い方に、日菜は思わず笑ってしまう。
「先生こそ」
「静かな店、好きなんです」
そう言って、本を閉じる。
帰ろうかと思った。
でも、“偶然ですね”だけで帰るのも不自然で、日菜は小さく迷ったあと、
「隣、いいですか」
と聞いていた。
「もちろん」
向かいではなく、隣。
それだけで少し緊張する。
コーヒーを注文してからも、最初はほとんど会話が続かなかった。
流れるジャズの音だけが静かに響く。
「こういう店、よく来るんですか?」
先に話しかけたのは遠野だった。
「たまにです。家だと落ち着かなくて」
言ってから、少しだけ後悔する。
余計なことを言った気がした。
でも遠野は何も聞かなかった。
「分かります」
ただ、それだけ返ってくる。
その距離感が心地良かった。
病院では絶対にしない話をした。
好きな季節。
昔好きだった映画。
甘いものが苦手なこと。
休日、何をして過ごすか。
どうでもいい話ばかりなのに、不思議なくらい気を遣わなかった。
窓の外では、川沿いの桜が少し揺れている。
こんな穏やかな時間、いつぶりだろう。
「月島さん」
「はい?」
「笑うと、病院にいる時と全然違いますね」
不意にそう言われ、日菜の指が止まる。
「……そうですか?」
「ええ」
遠野は穏やかにコーヒーを飲みながら、
「病院だと、いつも気を張ってる」
と言った。
誰にも言われたことのない言葉だった。
胸の奥が、少しだけ痛くなる。
帰り際。
レジで同時に伝票へ手を伸ばした瞬間、指先が触れた。
本当に、一瞬だった。
それなのに、触れた場所だけ熱を持ったみたいに離れない。
「あ……すみません」
慌てて手を引く日菜に、
「いえ」
遠野は小さく笑った。
外へ出ると、夕方の風が少し冷たい。
「じゃあ、また来週」
病院で交わすのと同じ言葉。
でも、その響きだけが少し違って聞こえた。
その日は、本当に何もなかった。
なのに帰宅してからも、日菜は何度も、自分の指先を見てしまっていた。
息子は夫と義実家へ行っている。
「たまには休めば?」
珍しく夫にそう言われたものの、気を遣われたというより、“いない方が楽”と言われた気がして、日菜は曖昧に笑うしかなかった。
昼過ぎまで家にいたが、結局落ち着かず、軽く化粧だけして車を出した。
向かった先は、先日遠野に話した川沿いの喫茶店だった。
本当に静かな店だ。
古い木の扉。少し暗い照明。窓際に並ぶ琥珀色のランプ。
一人になりたい時、時々来る。
カラン、とベルを鳴らして店に入った瞬間、日菜は足を止めた。
窓際の席。
本を読んでいた男が、ゆっくり顔を上げる。
「あ……」
遠野だった。
一瞬、呼吸が止まる。
私服姿を見るのは初めてだった。
病院ではきちんと閉じられている雰囲気が、今日は少し柔らかい。
ネイビーのシャツに細いフレームの眼鏡。
白衣がないだけで、別人みたいだった。
「……こんにちは」
先に口を開いたのは遠野だった。
「こんにちは……」
「本当に来たんですね」
その言い方に、日菜は思わず笑ってしまう。
「先生こそ」
「静かな店、好きなんです」
そう言って、本を閉じる。
帰ろうかと思った。
でも、“偶然ですね”だけで帰るのも不自然で、日菜は小さく迷ったあと、
「隣、いいですか」
と聞いていた。
「もちろん」
向かいではなく、隣。
それだけで少し緊張する。
コーヒーを注文してからも、最初はほとんど会話が続かなかった。
流れるジャズの音だけが静かに響く。
「こういう店、よく来るんですか?」
先に話しかけたのは遠野だった。
「たまにです。家だと落ち着かなくて」
言ってから、少しだけ後悔する。
余計なことを言った気がした。
でも遠野は何も聞かなかった。
「分かります」
ただ、それだけ返ってくる。
その距離感が心地良かった。
病院では絶対にしない話をした。
好きな季節。
昔好きだった映画。
甘いものが苦手なこと。
休日、何をして過ごすか。
どうでもいい話ばかりなのに、不思議なくらい気を遣わなかった。
窓の外では、川沿いの桜が少し揺れている。
こんな穏やかな時間、いつぶりだろう。
「月島さん」
「はい?」
「笑うと、病院にいる時と全然違いますね」
不意にそう言われ、日菜の指が止まる。
「……そうですか?」
「ええ」
遠野は穏やかにコーヒーを飲みながら、
「病院だと、いつも気を張ってる」
と言った。
誰にも言われたことのない言葉だった。
胸の奥が、少しだけ痛くなる。
帰り際。
レジで同時に伝票へ手を伸ばした瞬間、指先が触れた。
本当に、一瞬だった。
それなのに、触れた場所だけ熱を持ったみたいに離れない。
「あ……すみません」
慌てて手を引く日菜に、
「いえ」
遠野は小さく笑った。
外へ出ると、夕方の風が少し冷たい。
「じゃあ、また来週」
病院で交わすのと同じ言葉。
でも、その響きだけが少し違って聞こえた。
その日は、本当に何もなかった。
なのに帰宅してからも、日菜は何度も、自分の指先を見てしまっていた。
