『無理です』
電話が切れたあとも、その声が耳に残っていた。
日菜はキッチンの床へ座り込んだまま、しばらく動けなかった。
無理。
遠野が、そう言った。
自分と同じだった。
番号を消せない。
終わらせられない。
戻れない。
もう、気持ちを誤魔化せる段階じゃなかった。
翌朝。
ほとんど眠れないまま、日菜は仕事へ向かった。
鏡を見ると、少し顔色が悪い。
「月島さん、大丈夫ですか?」
後輩看護師に声を掛けられ、日菜は慌てて笑う。
「大丈夫」
本当は全然大丈夫じゃない。
遠野の声を思い出すたび、胸が苦しくなる。
外来は朝から混雑していた。
その忙しさだけが救いだった。
考える暇がない。
動いていれば、少しは平静でいられる。
でも。
「月島さん」
その声だけで、全部崩れる。
振り返ると、遠野が立っていた。
いつも通り穏やかな顔。
なのに。
昨夜、“無理です”と言った人と同じ顔には見えなかった。
「……おはようございます」
「おはようございます」
視線が合う。
一瞬だけ。
それだけなのに、昨夜の空気が蘇る。
電話越しの声。
深夜の沈黙。
消せない番号。
全部。
「先生、採血結果です」
「あ、ありがとうございます」
指先が触れそうになって、二人同時に止まる。
その不自然さに、自分たちが一番気づいていた。
昼休憩。
日菜はスマホを開いたまま、ぼんやり画面を見つめていた。
メッセージアプリ。
遠野の名前はない。
当然だ。
連絡先を交換していない。
してはいけない。
なのに、どこか安心している自分もいた。
もし交換してしまったら、もっと戻れなくなる。
その時。
「月島さん」
顔を上げる。
休憩室の入口に遠野が立っていた。
「少しだけいいですか」
周囲に人はいない。
それなのに、日菜の鼓動は一気に速くなる。
「……はい」
遠野は少し迷うような顔をして、それから小さく息を吐いた。
「昨日、電話してすみませんでした」
「先生、毎回謝りますね」
「だって困らせてるので」
苦しそうに笑う。
その顔を見ると、責められない。
「でも」
遠野は静かに続けた。
「月島さんの声、聞けて嬉しかった」
胸が痛い。
そんなふうに言わないでほしい。
嬉しくなるから。
期待してしまうから。
「先生」
「はい」
「これ以上優しくしないでください」
震える声だった。
遠野は少しだけ目を伏せる。
「……無理かもしれないです」
その答えが、あまりにもずるかった。
好きにならない方が、無理だった。
