「……駄目です」
そう言ったのは、自分だった。
なのに。
帰宅してからも、胸の奥がずっと痛かった。
キッチンで夕飯を温めながら、日菜はぼんやりと電子レンジの光を見つめる。
娘が学校であったことを話している。
「今日ね、図工でね――」
「うん」
「ママ聞いてる?」
「聞いてるよ、ごめんね」
ちゃんと笑えているだろうか。
ちゃんと母親ができているだろうか。
急に不安になる。
遠野の顔が浮かぶたび、罪悪感みたいなものが胸に広がった。
夜。
夫はリビングでスマホを見ていた。
テレビの音だけが流れている。
日菜は向かい側へ座り、何気ないふりで口を開く。
「今度の日曜、どこか行く?」
「日曜?」
「うん。せっかくだし」
夫は少し考えるような顔をしたあと、スマホから視線を外さず言った。
「その日、たぶん仕事」
「……そっか」
それで会話は終わった。
責めたいわけじゃない。
夫が悪いわけでもない。
ただ、自分たちはもう“夫婦としての会話”を失っている気がした。
遠野といる時みたいに、些細な一言で笑うこともない。
その違いに気づいてしまう自分が嫌だった。
翌週の火曜日。
日菜は意識的に遠野を避けていた。
必要以上に話さない。
目を合わせない。
休憩もずらす。
これでいい。
これ以上近づいたら、本当に戻れなくなる。
「月島さん」
それでも、名前を呼ばれるだけで胸が揺れる。
「採血結果、机置いておきますね」
「……ありがとうございます」
遠野も距離を取っているのが分かった。
穏やかに。
無理に近づかず。
それが逆につらい。
午前の診療が終わる頃には、日菜はどっと疲れていた。
逃げ続けるのって、こんなに苦しいんだ。
昼休憩。
誰もいない処置室で、日菜は一人コーヒーを飲んでいた。
静かだった。
外来のざわめきが遠く聞こえる。
その時、扉が開く。
顔を上げると、遠野だった。
「……すみません」
遠野は入ってきたものの、少し困ったように立ち止まる。
「別のところ行きますね」
そう言って出て行こうとした背中を、日菜は反射的に呼び止めていた。
「先生」
遠野が振り返る。
その目を見た瞬間、また後悔した。
呼ばなきゃよかった。
でも、もう遅い。
「……逃げないでください」
小さな声だった。
自分でも驚くくらい弱い声。
遠野はしばらく何も言わなかった。
静かな沈黙。
それから、苦しそうに笑った。
「逃げてるの、月島さんの方でしょう」
図星だった。
何も言い返せない。
遠野は少しだけ近づく。
近い。
でも触れない。
「僕だって」
低い声。
「平気じゃないんです」
その言葉に、日菜の心が静かに崩れていく。
もう、ただの火曜日には戻れなかった。
そう言ったのは、自分だった。
なのに。
帰宅してからも、胸の奥がずっと痛かった。
キッチンで夕飯を温めながら、日菜はぼんやりと電子レンジの光を見つめる。
娘が学校であったことを話している。
「今日ね、図工でね――」
「うん」
「ママ聞いてる?」
「聞いてるよ、ごめんね」
ちゃんと笑えているだろうか。
ちゃんと母親ができているだろうか。
急に不安になる。
遠野の顔が浮かぶたび、罪悪感みたいなものが胸に広がった。
夜。
夫はリビングでスマホを見ていた。
テレビの音だけが流れている。
日菜は向かい側へ座り、何気ないふりで口を開く。
「今度の日曜、どこか行く?」
「日曜?」
「うん。せっかくだし」
夫は少し考えるような顔をしたあと、スマホから視線を外さず言った。
「その日、たぶん仕事」
「……そっか」
それで会話は終わった。
責めたいわけじゃない。
夫が悪いわけでもない。
ただ、自分たちはもう“夫婦としての会話”を失っている気がした。
遠野といる時みたいに、些細な一言で笑うこともない。
その違いに気づいてしまう自分が嫌だった。
翌週の火曜日。
日菜は意識的に遠野を避けていた。
必要以上に話さない。
目を合わせない。
休憩もずらす。
これでいい。
これ以上近づいたら、本当に戻れなくなる。
「月島さん」
それでも、名前を呼ばれるだけで胸が揺れる。
「採血結果、机置いておきますね」
「……ありがとうございます」
遠野も距離を取っているのが分かった。
穏やかに。
無理に近づかず。
それが逆につらい。
午前の診療が終わる頃には、日菜はどっと疲れていた。
逃げ続けるのって、こんなに苦しいんだ。
昼休憩。
誰もいない処置室で、日菜は一人コーヒーを飲んでいた。
静かだった。
外来のざわめきが遠く聞こえる。
その時、扉が開く。
顔を上げると、遠野だった。
「……すみません」
遠野は入ってきたものの、少し困ったように立ち止まる。
「別のところ行きますね」
そう言って出て行こうとした背中を、日菜は反射的に呼び止めていた。
「先生」
遠野が振り返る。
その目を見た瞬間、また後悔した。
呼ばなきゃよかった。
でも、もう遅い。
「……逃げないでください」
小さな声だった。
自分でも驚くくらい弱い声。
遠野はしばらく何も言わなかった。
静かな沈黙。
それから、苦しそうに笑った。
「逃げてるの、月島さんの方でしょう」
図星だった。
何も言い返せない。
遠野は少しだけ近づく。
近い。
でも触れない。
「僕だって」
低い声。
「平気じゃないんです」
その言葉に、日菜の心が静かに崩れていく。
もう、ただの火曜日には戻れなかった。
