週に一度、恋をする

 「……そうですね」

 遠野のその言葉が、日菜の胸に静かに残っていた。

 正しい返事だった。

 誰かに見られて噂になるような関係ではいけない。
 まして、お互い家庭がある。

 分かっている。

 ちゃんと。

 それなのに、胸の奥が少しだけ冷たくなった。

 午後の外来は、妙に忙しかった。

 予約外受診が重なり、待合は人で溢れている。

「月島さん、点滴追加お願いします!」

「はい!」

 考える暇もなく動き続ける。

 その方が楽だった。

 遠野のことを考えずに済むから。

 けれど、人は見たくないものほど意識してしまう。

 遠野はいつも通りだった。

 患者に穏やかに話しかけ、スタッフへ丁寧に礼を言う。

 何も変わらない。

 変わってしまったのは、自分の方だ。

 夕方。

 ようやく診療が落ち着いた頃、日菜は処置室で一人カルテ整理をしていた。

 そこへ遠野が入ってくる。

「お疲れさまです」

「……お疲れさまです」

 少しだけぎこちない。

 自分でも分かる。

 遠野はその空気に気づいているはずなのに、何も言わなかった。

「今日、大変でしたね」

「火曜日は毎回こんな感じです」

「月島さん、ちゃんと休んでます?」

「先生この前、それ言いましたよね」

「言いましたっけ」

「言いました」

 少しだけ笑う。

 その瞬間、空気が柔らかく戻る。

 ――戻れてしまう。

 それが怖かった。

「月島さん」

「はい?」

「この前の電話」

 心臓が止まりそうになる。

「……はい」

「すみませんでした」

 遠野は静かな声で言った。

「熱があると、人って少し変になるので」

 冗談っぽく笑っている。

 けれど日菜は、その言葉に少しだけ傷ついてしまった。

 なかったことにされるんだ。

 当たり前なのに。

 そうしなければいけないのに。

「別に……気にしてないです」

 うまく笑えただろうか。

 分からない。

 遠野は少しだけ日菜を見つめ、それから静かに息を吐いた。

「月島さんは、ずるいですね」

「え?」

「そうやって平気な顔するから」

 低い声だった。

 今まで聞いたことのない声。

 日菜は何も言えなかった。

 処置室には蛍光灯の白い光だけが落ちている。

 近い。

 近いのに、触れられない。

「先生」

 自分でも、なぜ呼び止めたのか分からなかった。

 遠野が振り返る。

 その目を見た瞬間、言葉が出なくなる。

 ――行かないで。

 一瞬、そんな言葉が浮かんだ。

 でも言えるわけがない。

「……お疲れさまでした」

 結局、それしか言えなかった。

 遠野は少しだけ寂しそうに笑った。

「はい。お疲れさまでした」

 遠ざかる背中を見ながら、日菜は静かに目を閉じる。

 もう戻れない。

 何も始まっていないのに。

 ただ優しくされた温度だけが、消えなくなっていた。