次の火曜日までの数日間、日菜は意識的に忙しくしていた。
仕事を詰め込んで。
家事を片付けて。
子どもの宿題を見て。
考える時間をなくせば、少しは落ち着くと思った。
でも駄目だった。
ふとした瞬間に思い出す。
電話越しの声。
静かな笑い方。
“声を聞きたくなってしまって”という言葉。
忘れようとするほど、鮮明になる。
火曜日の朝。
日菜は鏡の前で自分を見つめていた。
髪を整える。
薄く口紅を引く。
それだけのことなのに、“誰かを意識している自分”に気づいてしまう。
「ママ、今日なんか違う」
朝食を食べながら、娘が言った。
「え?」
「きれい」
思わず苦笑する。
「ありがとう」
こんなことで嬉しくなるなんて、単純だと思う。
病院へ着くと、外来はすでに慌ただしかった。
検査説明。
点滴準備。
予約変更。
忙しさに紛れて、少しだけ緊張が薄れる。
その時だった。
「おはようございます」
遠野の声。
胸が大きく鳴る。
顔を上げると、遠野がいつものように立っていた。
「……おはようございます」
たった一週間ぶりなのに、久しぶりに感じる。
遠野は少しだけ笑った。
「この前はすみませんでした」
「いえ。体調大丈夫ですか?」
「もう元気です」
そう言いながら、遠野は少しだけ日菜を見る。
その視線が長く感じて、日菜は逃げるようにカルテへ目を落とした。
午前の診療は忙しかった。
けれど、遠野がいるだけで空気が違う。
ピリついた外来が、少し柔らかくなる。
患者への声の掛け方。
スタッフへの話し方。
遠野はいつも穏やかだった。
「先生って、怒らないですよね」
処置の合間、日菜が言うと、遠野は少し困ったように笑う。
「怒りますよ、普通に」
「想像できないです」
「月島さんには?」
「え?」
「怒った方がいいですか?」
冗談みたいに言われ、日菜は思わず笑ってしまう。
「遠慮しときます」
二人で笑う。
その瞬間だった。
「……仲良いですね」
後ろから聞こえた声に、日菜の身体が強張る。
若い看護師だった。
「あ、いや、そういう意味じゃなくて」
慌てて笑いながら去っていく。
悪意なんてない。
ただの軽口。
なのに、胸の奥が一気に冷える。
遠野も一瞬だけ黙った。
空気が変わる。
「……すみません」
なぜか、日菜はそう言ってしまった。
「なんで月島さんが謝るんですか」
遠野の声は穏やかだった。
でも、その優しさが今は少し苦しい。
日菜は視線を落としたまま、小さく言う。
「こういうの、よくないですよね」
遠野はすぐに答えなかった。
少しだけ間が空く。
それから静かな声で言った。
「……そうですね」
その言葉は正しかった。
正しいのに。
胸の奥が、少しだけ痛かった。
仕事を詰め込んで。
家事を片付けて。
子どもの宿題を見て。
考える時間をなくせば、少しは落ち着くと思った。
でも駄目だった。
ふとした瞬間に思い出す。
電話越しの声。
静かな笑い方。
“声を聞きたくなってしまって”という言葉。
忘れようとするほど、鮮明になる。
火曜日の朝。
日菜は鏡の前で自分を見つめていた。
髪を整える。
薄く口紅を引く。
それだけのことなのに、“誰かを意識している自分”に気づいてしまう。
「ママ、今日なんか違う」
朝食を食べながら、娘が言った。
「え?」
「きれい」
思わず苦笑する。
「ありがとう」
こんなことで嬉しくなるなんて、単純だと思う。
病院へ着くと、外来はすでに慌ただしかった。
検査説明。
点滴準備。
予約変更。
忙しさに紛れて、少しだけ緊張が薄れる。
その時だった。
「おはようございます」
遠野の声。
胸が大きく鳴る。
顔を上げると、遠野がいつものように立っていた。
「……おはようございます」
たった一週間ぶりなのに、久しぶりに感じる。
遠野は少しだけ笑った。
「この前はすみませんでした」
「いえ。体調大丈夫ですか?」
「もう元気です」
そう言いながら、遠野は少しだけ日菜を見る。
その視線が長く感じて、日菜は逃げるようにカルテへ目を落とした。
午前の診療は忙しかった。
けれど、遠野がいるだけで空気が違う。
ピリついた外来が、少し柔らかくなる。
患者への声の掛け方。
スタッフへの話し方。
遠野はいつも穏やかだった。
「先生って、怒らないですよね」
処置の合間、日菜が言うと、遠野は少し困ったように笑う。
「怒りますよ、普通に」
「想像できないです」
「月島さんには?」
「え?」
「怒った方がいいですか?」
冗談みたいに言われ、日菜は思わず笑ってしまう。
「遠慮しときます」
二人で笑う。
その瞬間だった。
「……仲良いですね」
後ろから聞こえた声に、日菜の身体が強張る。
若い看護師だった。
「あ、いや、そういう意味じゃなくて」
慌てて笑いながら去っていく。
悪意なんてない。
ただの軽口。
なのに、胸の奥が一気に冷える。
遠野も一瞬だけ黙った。
空気が変わる。
「……すみません」
なぜか、日菜はそう言ってしまった。
「なんで月島さんが謝るんですか」
遠野の声は穏やかだった。
でも、その優しさが今は少し苦しい。
日菜は視線を落としたまま、小さく言う。
「こういうの、よくないですよね」
遠野はすぐに答えなかった。
少しだけ間が空く。
それから静かな声で言った。
「……そうですね」
その言葉は正しかった。
正しいのに。
胸の奥が、少しだけ痛かった。
