週に一度、恋をする

電話を切ったあとも、日菜はしばらく車を発進できなかった。

 スマホの通話履歴。

 そこに残る“遠野”の文字を、何度も見てしまう。

 消した方がいい。

 そう思うのに、指が動かない。

 まるで消してしまったら、本当に何もなかったことになる気がした。

 帰宅すると、リビングの電気だけがついていた。

 夫はまだ帰っていない。

 娘はソファで眠っていた。

「……こんなところで寝たら風邪ひくよ」

 小さな身体を抱き上げる。

 温かい。

 柔らかな寝息。

 その瞬間、日菜の胸に強い罪悪感が広がった。

 何をしているんだろう。

 母親なのに。
 妻なのに。

 誰かの声を待ってしまっている。

 娘を寝室へ運び、毛布をかける。

「ママ……」

 半分眠ったまま、娘が小さく呟く。

「ん?」

「今日、嬉しそう」

 日菜の動きが止まった。

「……そう見える?」

「うん」

 娘は安心したように再び眠ってしまう。

 日菜はしばらくその場から動けなかった。

 嬉しい。

 その感情を、自分がもう隠しきれていないことが怖かった。

 深夜。

 夫が帰宅した音で目が覚める。

 時計を見ると、一時を過ぎていた。

「起きてたの?」

「今起きた」

 短い会話。

 夫はネクタイを緩めながら冷蔵庫を開ける。

「明日も早い?」

「普通」

「そっか」

 そこで会話は終わった。

 昔は、“今日どうだった?”とか、“疲れてない?”とか、そんな話をしていた気がする。

 でも今は、お互い生活を回すための報告しかない。

 それが悪いわけじゃない。

 きっと、こういう夫婦はたくさんいる。

 なのに。

 たった数分の電話で心が動いてしまう自分が、どうしようもなく苦しかった。

 眠れないまま、日菜はスマホを手に取る。

 通話履歴を開く。

 遠野。

 その名前を見ただけで、胸が熱くなる。

 消した方がいい。

 本当に。

 見られたら困る。
 自分でも危ないと思っている。

 なのに。

 画面を見つめたまま、結局消せなかった。

 その代わり、日菜はスマホを伏せ、深く息を吐く。

 ――声を聞きたくなってしまって。

 あの言葉を思い出すだけで、苦しくなる。

 嬉しくて。

 苦しくて。

 もう、ただの“職場の人”ではいられなくなっていた。