午後の外来は、いつも少しだけ空気が緩む。
午前中の混雑が嘘みたいに静かになった処置室で、月島日菜は使い終わったトレーを片付けていた。
消毒液の匂い。電子カルテの起動音。遠くで鳴る電話。
毎日変わらないはずの景色なのに、その日は妙に疲れていた。
昨夜、夫とはほとんど口をきいていない。
洗い物をしている横で、ソファに寝転んだままスマホを見ていた背中を思い出し、日菜は小さく息を吐いた。
朝は朝で、息子を急かしながら自分の準備をして、気づけばコーヒーも飲めないまま家を出た。
いつからこんな毎日になったんだろう。
考える暇もなく、毎日は過ぎていく。
「月島さん」
不意に名前を呼ばれ、日菜は振り返った。
診察室の入り口に、遠野が立っていた。
週に一度だけ外来に来る非常勤医。
五十代とは思えないほど姿勢が綺麗で、無駄なことを話さない人だった。
「あ、はい」
「今日、混んでましたね」
いつもの落ち着いた声。
「ですね。午前、全然終わらなくて」
「顔、疲れてます」
一瞬、言葉に詰まる。
そんなことを言われたのは、いつぶりだろう。
「……出てました?」
「少し」
遠野はそれ以上何も言わず、電子カルテへ視線を戻した。
優しいわけじゃない。
特別近いわけでもない。
でも時々、誰も気づかないことに気づく。
その距離感が少し苦手で、少しだけ気になっていた。
「先生、コーヒー飲みます?」
沈黙をごまかすように聞くと、
「飲みます」
短く返ってくる。
給湯室で紙コップにインスタントコーヒーを入れながら、日菜は小さく肩を回した。
「甘いやつ苦手でしたっけ」
「覚えてたんですね」
「前に残してたので」
そう言うと、遠野は少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
それだけなのに、なぜか心臓が変に跳ねる。
自分でも意味が分からなかった。
ただの会話だ。
ただの先生だ。
恋愛なんて、もうずっと前に自分の人生からなくなったものだと思っていた。
なのに。
「月島さん」
「はい?」
「この辺で、静かな喫茶店知りません?」
思わず顔を上げる。
「喫茶店、ですか?」
「病院の近く、チェーンばっかりで」
「ああ……」
日菜は少し考えてから、小さく笑った。
「川沿いの古い喫茶店なら。静かですよ」
「へえ」
「プリン美味しいです」
そう言うと、遠野は珍しく興味を持ったように目を細めた。
「今度行ってみます」
その瞬間、外来の呼び出し音が鳴る。
空気が切れる。
「先生、次の患者さんお願いします!」
廊下から看護師の声が飛び、遠野はすぐ仕事の顔に戻った。
「行きます」
それだけ言って診察室へ戻っていく背中を見送りながら、日菜は紙コップを握り直した。
たったそれだけの会話だった。
それなのに、その日の帰り道。
なぜか日菜は、川沿いの喫茶店の前で足を止めていた。
午前中の混雑が嘘みたいに静かになった処置室で、月島日菜は使い終わったトレーを片付けていた。
消毒液の匂い。電子カルテの起動音。遠くで鳴る電話。
毎日変わらないはずの景色なのに、その日は妙に疲れていた。
昨夜、夫とはほとんど口をきいていない。
洗い物をしている横で、ソファに寝転んだままスマホを見ていた背中を思い出し、日菜は小さく息を吐いた。
朝は朝で、息子を急かしながら自分の準備をして、気づけばコーヒーも飲めないまま家を出た。
いつからこんな毎日になったんだろう。
考える暇もなく、毎日は過ぎていく。
「月島さん」
不意に名前を呼ばれ、日菜は振り返った。
診察室の入り口に、遠野が立っていた。
週に一度だけ外来に来る非常勤医。
五十代とは思えないほど姿勢が綺麗で、無駄なことを話さない人だった。
「あ、はい」
「今日、混んでましたね」
いつもの落ち着いた声。
「ですね。午前、全然終わらなくて」
「顔、疲れてます」
一瞬、言葉に詰まる。
そんなことを言われたのは、いつぶりだろう。
「……出てました?」
「少し」
遠野はそれ以上何も言わず、電子カルテへ視線を戻した。
優しいわけじゃない。
特別近いわけでもない。
でも時々、誰も気づかないことに気づく。
その距離感が少し苦手で、少しだけ気になっていた。
「先生、コーヒー飲みます?」
沈黙をごまかすように聞くと、
「飲みます」
短く返ってくる。
給湯室で紙コップにインスタントコーヒーを入れながら、日菜は小さく肩を回した。
「甘いやつ苦手でしたっけ」
「覚えてたんですね」
「前に残してたので」
そう言うと、遠野は少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
それだけなのに、なぜか心臓が変に跳ねる。
自分でも意味が分からなかった。
ただの会話だ。
ただの先生だ。
恋愛なんて、もうずっと前に自分の人生からなくなったものだと思っていた。
なのに。
「月島さん」
「はい?」
「この辺で、静かな喫茶店知りません?」
思わず顔を上げる。
「喫茶店、ですか?」
「病院の近く、チェーンばっかりで」
「ああ……」
日菜は少し考えてから、小さく笑った。
「川沿いの古い喫茶店なら。静かですよ」
「へえ」
「プリン美味しいです」
そう言うと、遠野は珍しく興味を持ったように目を細めた。
「今度行ってみます」
その瞬間、外来の呼び出し音が鳴る。
空気が切れる。
「先生、次の患者さんお願いします!」
廊下から看護師の声が飛び、遠野はすぐ仕事の顔に戻った。
「行きます」
それだけ言って診察室へ戻っていく背中を見送りながら、日菜は紙コップを握り直した。
たったそれだけの会話だった。
それなのに、その日の帰り道。
なぜか日菜は、川沿いの喫茶店の前で足を止めていた。
