ゾンビがあふれる世も末に

〈詩サイド〉

 一心不乱に点滴スタンドを振り回していた。
 幸いにも室内は暴れるには困らない広さがあった。点滴スタンドを振り回すたびに、脇にある手術台の存在感を感じることだけが唯一の問題点だった。ただこの手術台は強固に固定されており、部屋の片隅に避けることはできなかったから、我慢するしかない。
 傍からから見ればオレは狂人に見えるかもしれない。
 実際のところ、オレは冷静だった。いや、それだと語弊がある。架空の敵を作り出し、それと対峙することによって、なんとか平静を保つことができている状態だ。
 点滴スタンドを振り回すことがどうして平静を保つことに繋がるのか。他者には理解できないかもしれない。それを語るには、まずオレの生い立ちを語らねばならない。

 オレの名は月夜烏(つきよがらす)(うた)
 オレの人生は物心ついたころから剣と共にあった。
 月夜烏といえば剣道の業界ではそれなりに有名だ。オレの祖父や両親は高段者だし、指導者としても名高い。祖父が師範を務める月夜烏剣道場は、剣道を嗜む者の中では重みのある名として広く知られている。
 年の離れた兄達も月夜烏剣道場に通っていたから、幼いオレが剣を握ったのも当然の流れだった。遊びや勉学、色恋沙汰も疎かにするほど、取り憑かれたように毎日剣を振っていた。剣を振っていない時間は食事か睡眠くらいしかなかった。
 だからこそオレにとって剣を振るうということは息を吸うことと同義だった。つまりもっとも日常に馴染んでいる行為であり、精神統一にもつながる行為でもあるということだ。

 長い間剣を振っていたことで、オレはだいぶ落ち着きを取り戻してきていた。今の精神状態ならば現状を冷静に受け入れることができるだろう。
 オレはいま見慣れない室内にいる。一人だ。周囲には人の気配はない。そして検査着と裸足という装いだ。
 中央に手術台、それから手術台を照らす無影灯。すぐそばには患者の状態を確認するモニタと、さまざまな器具が置かれたキャスター付きの棚。その他にも名前も用途もわからない機材が並んでいる。
 最初は病院の出術室のように思えたが、どうやら少し様子が違うようだ。手術台にはまるで囚人を捕らえるような拘束具が取り付けられていたし、室内はあちこちがドス黒く汚れていて清潔とは程遠い。棚におかれた瓶は不気味な色をしていて、医薬品というより毒薬に見えた。壁の一面はガラス張りになっており、通路から室内が観察できるようになっている。
 まるで人体実験を行う実験室、あるいは被験者を苦しめるための拷問室のように見えた。
 何故オレはこんな場所にいるのだろうか。
 いまのところ何も思い出せなかった。一つずつ、記憶を遡っていくしかない。

 思い出せる最後の記憶は、剣道部の強化合宿に参加していた時の記憶だ。
 夏休みを利用した三泊四日の合宿だった。とはいっても、本格的に剣を振るったのは初日の数時間だけで、活動のほとんどがバーベキューや川遊びといった交流や遊びをメインとした課外活動ばかりだった。
 オレが所属する剣道部は弱小部活だから、本格的な稽古が行われなかったのは自然な流れだった。オレもそれは承知していたから、剣のことは忘れ友人たちと共に珍しい遊びを満喫していた。
 オレらしくない休暇の過ごした方だったが――それについては色々な理由の末のことだし、現状には関係のないことなので省略する。
 話を戻そう。
 遊び疲れたオレたちは、宿泊場所である旅館の一室に川の字に敷布団を並べてみんなで横になった。
 旅館はとても古かった。風呂トイレは全室共有だったし、部屋に鍵もかけられなくて、みんな文句をこぼしていた。オレはこういう宿は初めてだったから、むしろ新鮮で、誰よりも楽しく過ごせていたと思う。そんなオレを友人達はからかうように笑っていた。笑い声に包まれながら、誰かが部屋の明かりを消したことを覚えている。
 布団が固くて文句を言っていた友人たちも、疲れからくる心地よい睡魔には抗えるわけがなく、あっけなく眠りについた。オレも例外ではなく日付が変わる前に眠りに落ちていった。
 それから……はっきりとした記憶はない。
 朧げに残っている記憶をありのまま口にすると、こうなる。眠っていたオレは何者かによって担がれて旅館から連れ出され、旅館の駐車場に停まっていた車に担ぎ込まれた。友人たちも同じように車内に転がっていたと思う。オレはそれらの行為を見ていたが、眠気のあまり何も考えられなかった。ただ目の前の光景が夢の中の出来事のように思えて、どこか他人事のように眺めていたことだけは覚えている。
 そして、目が覚めたら手術台の上に横たわっていたというわけだ。
 どう平和的に解釈しても誘拐だろう。それも通常の誘拐ではなく、人体実験を目的とした誘拐――そんな非現実的なことあるわけないと思いつつも、室内を見渡すと妄想だと切り捨てられない。
「まずは、現状把握だ」
 こんな状況でも声が震えないのは、剣の修行によって鍛えられた精神のおかげだろう。オレはよほどのことがない限り取り乱すようなことはしなかった。
 点滴スタンドを剣のように携えて慎重に室内を探る。
 周囲には誰もいない。わざわざ誘拐したというのに拘束もせず見張りもおかないなんて妙だ。
 ただ、手首には拘束時についたと思われる赤い跡ははっきりと残っていた。そして破壊された拘束具がだらしなく手術台に転がっている。意識のないときは拘束されていたようだったが、なにか予想外の問題があって拘束が解かれたように見えた。
 部屋に鍵はかかっていなかった。部屋を出て、室外の様子も確認することにする。
 病院などを連想させる無機質な通路だ。
 すぐそこの部屋の扉が開いていたので覗いてみると、ロッカールームだった。誰の姿もなかったのでロッカールームで衣類を探すことにした。検査着は目立つだろうし、何よりも動きにくい。裸足でウロウロするのも危険だろう。
 ロッカーに入っていたパーカーとサルエルパンツ、それから運動靴を拝借した。どれもサイズがあわないが、ウエストの紐をきつくしめ、靴紐もきっちりと結べば、着られないことはない。
「……?」
 着替えをしていた手を思わず止める。
「……これは……」
 オレは幼い頃から剣道に励んでいたから、筋肉隆々とまでは言えないが、程よく筋肉がついた体型だった。しかし現状は、随分と痩せ細って骨のように華奢になっている。
 ロッカーに取り付けられた鏡を覗き込む。
 友人たちと川遊びやバーベキューではしゃいだ時の日焼けは跡形もなく、病的な色白になっていた。肌の下の血管が透けて見えそうだ。肩上ほどだった黒髪は腰まで伸びていた。
 記憶の中にある自分と、鏡に映る自分は、まるで別人のようだ。
「一体何が……」
 あまりの自分の豹変ぶりに動揺した。何よりも、自分自身の変化に気づけなかった鈍さに狼狽した。いつもだったらどんな小さな変化でも肉体の違和感には気づいていたはずだ。
 動揺を吹き飛ばすように首を振る。
 こんな状況なのだから、気が動転していて変化に気づけなかったのも仕方がない、と自分に言い聞かせる。それよりも問題はどのくらい時間が経っているのか、ということだ。
 長く伸びた黒髪をロッカーにあった髪ゴムで結いつつ、手がかりを探す。ロッカールームは随分と荒れていた。目的もなく荒らされたわけではなさそうだった。ほとんどのロッカーには、捨て損ねたゴミや、使い古した服、身だしなみを整える道具、無機質なロッカーを飾る写真や飾りしか残されていなかった。どうやら持ち主たちが急いでロッカーから大事なものだけ取り出して、後片付けもせずに飛び出したらしい。
 これ以上ここにいても手がかりになるようなものはなさそうだ。オレはロッカールームを出て、別の部屋を探索することにした。

 そのあとも長い時間、施設をうろつくことになった。
 ほとんどの部屋がロックされて中に入れなかったから、調べることができた部屋は数少ない。確認した範囲ではどこの部屋も同じような状態だった。
 室内はまるで夜逃げの後にように荒れている。しかしここがどこなのか、どういった場所なのか、何が起こったのか、それが分かるようなものは一切残されていない徹底ぶりだ。電話機はあったが、もちろん通じることはなく外部との連絡手段は見つからない。
 室内を散策する間、警戒を怠ることはなかったが、拍子抜けするほど人の気配を感じることはなかった。
「この施設は廃棄されたのか……?」
 それなら人がいないことも、重要な書類も全て持ち出されていることも納得できる。それがあまりにも急な出来事だったため、オレの存在は忘れ去られて、放置されていたということだろうか。資料を処分する前に、一番に処分されそうなものだが……。
「みんなは大丈夫だろうか……」
 記憶が夢でなければ、合宿に参加した友人たちも同様に誘拐されているはずだ。
 彼らを探そうと探索を進める。
「……!」
 ふと物音がして、オレは開いていた扉の陰に素早く身を隠した。
 音が聞こえるのは通路の先。姿は見えないから、きっと曲がり角の先に誰かがいるのだろう。オレは音を立てていないから相手には気付かれていないはずだ。
 相手が味方かどうかまだわからない。むしろここはオレを誘拐した敵の本拠地だ。友好的ではない相手であるという前提のもと、慎重に動いた方がいいだろう。
「…………」
 気配を殺して物音に耳を澄ませる。
 音は段々とこちらに近づいてきている。足音は一人。片足を引きずっているような足音だ。怪我でもしているのだろうか。怪我をしている相手なら、体格差があっても問題なく勝てるだろう。
 電気スタンドを両手に構えて静かに息を吐く。
 音はどんどん近づいてくる。今扉の影から身を乗り出せば、相手の姿が見えるくらい近づいているだろう。もちろん自分の姿を晒すなどという愚かな真似はしない。
 音の発信源が真横に立つ。
「……っ……」
 危うく声をあげかけた。いや、実際小さな悲鳴くらいは漏れていたかもしれない。それでも向こうは、まるでオレの存在など見えないかのように横を通り過ぎていった。
 彼は……確かに足を引きずっていた。左の足首から先を失っていたから、歩くのに不自由するのは当然だろう。しかし彼はそんなことを気にしていないかのように、骨がむき出しとなった足を引きずりながら、ゆっくりと通路を進んでいた。
 顔のほとんどが原型を留めないほど崩壊していたので、彼がどんな人相の持ち主だったのか想像もつかなかった。首筋から右肩にかけて抉り取られたような酷い傷口が広がっていて、かろうじて右手は繋がっているような状態だった。何よりも不気味に見えたのが、彼の全身の皮膚は死人のような灰色をしていることだ。何かの病気だろうか。それとも……。
「……!」
 あまりの衝撃に、うっかり握っていた点滴スタンドを手放ししてしまった。手を伸ばす余裕もなく、それは通路に叩きつけられて、頭に響くほどの酷い物音を立てた。
「…………」
 傷だらけのソレは物音を辿るようにゆっくりとこちらに視線を向ける。白色の濁った瞳がオレを見つめる。
 オレは息を止めてソレを見上げていた。視線を交わっていたのは、恐らくほんの一瞬だ。ソレはオレに全く興味を示さず、無関心な様子で視線を外すと、通路の先に視線を戻した。そして痛々しい足を引きずって、また通路を進んでいった。
「おい、お前……」
 思わず声をかけたが、ソレはもう振り向きもしなかった。
 アレは一体なんなんだろうか。あんな酷い傷で動き回るなんて普通の人間にはできないし、肌もまるで死人のようで、まるで映画で見たゾンビみたいだった。
 自分の考えに思わずゾッとした。ゾンビみたいだった……アレを表現するのに、もっともふさわしい言葉に思えたからだ。
「……」
 オレはアレが来た道を進むことにした。
 アレを回避するためではない。こちらに無関心なアレが危険な存在とは考えてはいない。ただ、アレがやって来た道を辿ることで、あの酷い怪我の理由を探ることが出来るのではないかと考えた。
 通路を慎重に進む。
 また物音が聞こえた。物音の正体を大体は予想をしていたから、オレはもう驚かなかった。
 オレを迎えたのは、アレと同じような状態の人間――ほとんど死んでいるように見える、傷だらけの人だった。
 今度は一人じゃなく、十人近い集団だった。無傷に見えるやつもいた。腕から血を出しているだけの軽傷の人もいたが、脳が露出してしまっている人もいた。どんなに重傷なやつでも、まるで痛みを感じないようにウロウロと徘徊するように動き回っている。
 共通して彼らに言えることは、灰色に変色した肌色を持ち、黒目が白く濁っているということ。虚ろな眼差しをオレに向けることはあっても、全員無関心な様子で敵意は感じないということ。そして一つのことに留まることはせず、常に動き回っているように見えることだった。もっとも、何か目的があるというわけでもなく、ただ意味もなく同じ場所を周回しているように見えた。
 集団の中には、オレが着ていた検査着と同じものを着たものがいた。そいつは特に外傷はなく綺麗に見えたが、やはり肌は灰色に変色し、死人のような白い瞳をしている。
 オレの記憶と随分と印象は違っていたが、そいつは同級生の鳥海だった。
「鳥海……」
 鳥海はオレと同じ剣道部員だ。剣道の腕はいまいちだったが、並外れた身長と筋肉が自慢で、その腕力だけで押し切るシンプルな戦法を好んでいる奴だった。鳥海も合宿に参加していたから、同じように拉致されて施設に連れてこられたのだろう。
 鳥海とはそれなりに仲が良かった。だけど彼は素っ気ない視線を一瞬オレに向けただけで、やはり他の者と同じように無関心な様子で視線を逸らした。
「……みんな、こんな状態なのか……」
 新種のウイルス感染だろうか? だとするとこの施設は感染症の研究所ということは考えられないだろうか。剣道部員たちがウイルスに感染し、この施設に収容された。そこで何らかの事故が起こってウイルスが流出し、施設全体に広まって、職員たちは施設を封鎖して逃亡した……。あくまで知識もない高校生の想像に過ぎないが、その可能性も捨てきれない。
 とにかく、どんな場所であれオレ一人じゃ手に負えない状況であることは確かだ。外に出て誰かに助けを求めるべきだろう。
 施設の探索を切り上げて、外に通じる道を探すことにした。
 外に出る窓や扉はなかなか見つからなかった。諦めて非常用の階段をいくつか登っていくうちに、ようやく外に通じる窓を発見した。どうやらオレが居たのは地下施設で、今ようやく地上階に出たらしかった。
 地下施設は無機質で、如何にも研究施設といった様子の内装だったが、地上階は打って変わって生活感が感じられる入院病棟、あるいは介護施設のような内装だった。地下と変わらず徘徊する顔色の悪いソレは大勢いたが、地下と比べると年齢層が高く、ほとんどが老人だった。介護施設らしいという推測は正しいように思えた。介護施設は地下の施設を隠すカムフラージュだろうか。そうだとしたら巻き込まれた老人は気の毒としか言いようが無い。
 窓から外に出る。周辺は森に囲まれていた。緑豊かな環境にある老人ホームといった売り文句だったに違いない。これなら施設で問題が起こったとしても、外部に知れ渡るまで時間がかかるだろう。
 外は真っ暗だった。正確な時刻は時計がないからわからなかったが、夜がだいぶ更けていることだけは確かだ。
 オレは整備された道路を歩いて、人のいる場所を目指すことにした。
「残念だけど、お前ともここでお別れだな……」
 ここまでオレを支えてくれた点滴スタンドは置いていくことにした。ただでさえ今のオレは筋肉が衰えて弱っている。長く重い点滴スタンドを担いで、慣れない山道を下りきる自信はなかった。
 山中を迷う心配もあったが、幸いにもきちんと整備された車道が続いていたし、標識もしっかりとしていたから、その心配は杞憂だった。想定外だったのはオレがいた施設が想像以上に山奥にあったことだ。人のいる場所を目指すには、かなりの距離を歩く覚悟が必要にあるだろう。
 早足で、しかし道迷いと転倒を避ける為に注意は怠らず、慎重に山を下る。
 三時間程度は歩いただろうか。夜があけて辺りが明るくなってきたころ、ようやく辺りにまばらながら住宅が現れた。どこの住宅も電気が点いていないし静かだ。まだ住人は寝ているのだろう。
 住宅に助けを求めても良かったが、まだ歩く程度の体力は残っている。どうせなら交番を目指した方がいいだろう。オレは歩みを止めることなく進んでいく。
 ようやく見覚えのある駅名を示す標識を見つけた。オレの記憶が正しければ、該当の駅の前には交番があったはずだ。標識には駅まで四・五キロメートルとあるから、徒歩でも一時間もあれば辿り着けるだろう。
 だが――
「眠い……」
 突如、急激な眠気に襲われた。眠さのあまり思わず足を止めてしまうほどだった。
 一晩中休まずに動き回っていたから、疲れが溜まったのだろうか。それにしても、路上にも関わらず今にも倒れて眠り込んでしまいそうなほど、酷い眠気だ。
「せめて……人気のある場所まで……」
 先程見かけた住宅まで戻るべきか。いや、それならこのまま進んだ方がいい。少なくとも人気の多い通りにでるはず。早朝でも営業している店もあるだろうし、大通りなら交通量も多いから通行人だっているはずだ。
 気を抜けば一瞬で気を失いそうな状態だったが、なんとか気力だけで意識を保って、必死に両足を動かして道を進む。だいぶ遅い足取りだったが、時間をかけて、ようやく大きな通りに出ることができた。
「……どういうことだ……?」
 結論から言うと、期待した光景は得られなかった。
 あちこちで事故の後のように車が横転し、血だらけの人が倒れていた。それらの人たちはどう見ても亡くなっているようだった。遠巻きにでもそう思えるのは、それらの痕跡は決して新しくはなく、事故からだいぶ長い間放置されているように見えたからだ。
 通り沿いにあった店舗は廃墟のようにほとんどの窓ガラスが割れていて、車が正面から突っ込んで建物が半壊しているところもあった。まるで大災害の跡のようだ。もちろん店として正常に機能していないのは明らかだ。
 とりあえずわかったことは、オレが助けを求めるような状況ではないと言うことだ。
「う……」
 何があったのか気にはなるが、まずはこの異常なまでの眠気をどうにかしないといけない。このままではマトモに考えることすらもできない。
 とにかくどこかで仮眠をとろう。
 オレは覚束ない足取りで近くにあった建物に入る。それがなんの建物だったのか把握すら余裕もなかったが、建物内は広々としていて、商品を陳列するような棚が並んでいたから、きっとスーパーかなにかだろう。
 入り口で眠りこけるのはあまりにも無防備だ。オレは無意識にそう考えて奥へと進んでいく。
「……?」
 どこかで物音が聞こえた気がして思わず足を止める。
 誰かいるのだろうか。それなら、助けを求められるだろうか。かろうじてそこまで考えたが、行動に移せるほどの元気はなかった。じっとその場に立ち止まったまま眠気と戦うのが精一杯だ。
 待て。今、後ろに誰かいたような――
 反応する前に、急に全身が投げ出されたような衝撃を覚えて、思考が全て吹き飛んだ。
「…………」
 気がついたら地面に倒れ込んでいた。
 いつの間に倒れていたんだろう。まったく理解が追いつかなかったが、とりあえず確信できることは、倒れ込んでしまったらもう眠気に抗うことはできないと言うことだった。
 底なし沼に沈むように、オレの意識は眠りに落ちていった。

「……っ!」
 思考が突如クリアになる感覚とともに、閉じていた目を見開く。
 ついさっきまで夢の中に引き摺り込まれそうになっていたのに、一気に現実に駆け戻ったような感覚だ。
 どのくらい寝ていたのだろうか。状況把握をしなくては。素早く身を起こして周囲を見渡す。
 体感では一瞬意識を失っていた感覚だったが、どうやら楽観的すぎたらしい。オレのいる場所はまったく見覚えのない、マンションの一室を思わせる小さな部屋だった。
 調度品は非常にシンプルで、オレが横になっていた寝袋と、近くに簡易テーブルとパイプ椅子があるだけだった。空室を急遽寝室にしたようなチグハグ感のある部屋だ。
 窓はあったが雨戸が閉じられていた。部屋の電気はついていない。簡易テーブルの上に置かれたランタンタイプのライトが唯一の光源となっていた。
「あ……目が覚めた?」
 パイプ椅子には黒髪の少女が座っていた。
 少女からは敵意は感じない。オレは構えそうになった拳をそっと下ろした。少女はオレが一瞬見せた敵対行動には気づかず、心配そうな表情でオレを見つめていた。
「さっきはごめんなさい……」
「さっき?」
 オレは記憶をたどる。眠気のあまり記憶が曖昧だが、そういえば眠ってしまう前に硬いものでぶん殴られたような衝撃があった。無意識に頭を押さえる。
 パイプ椅子から立ち上がった少女が、床に膝をついて、オレの横に座った。
「私の仲間があなたを……えっと、殴ったの。出血はなかったけど、一応しばらくは安静にしておいた方がいいかもしれない……まだ痛む?」
「……痛みは、別に。ここは?」
「私たちの……なんて言えばいいのかな……安全地帯……住まい……とりあえず、そういうところなの。とにかく安全な場所だから、心配はしないで」
 少女の言葉は辿々しくて、聞いた者をますます不安を感じるような弱々しさがあった。
 オレは慎重に少女を観察した。黒髪を肩まで伸ばした大人しそうな少女だ。武道の心得がないことは隙だらけの様子ですぐにわかる。素手の一撃で簡単に無効化することが出来そうだ。
 心配げな表情は演技に見えない。ひとまずは警戒する必要はないだろうと判断する。
「あの……私、みんなに知らせてくるから……少しだけ、待っていて」
 少女が急に赤面して、部屋を飛び出していった。
 向こうがこちらを見つめていたから、オレも思わず少女を観察したが、無遠慮すぎたのかもしれない。

 しばらくして戻った少女は、オレを部屋から連れ出して、別の部屋に案内した。
 そこは簡易の会議室のような部屋だった。中央に簡易テーブルが置かれていて、それを囲むようにパイプ椅子が並んでいる。オレが寝ていた部屋と同じく雨戸が閉まり、電気もついていなかったが、意外にもテーブルの中央に置かれたライトが明るいおかげで不便は感じなかった。
 室内にいたのは男性が三人。そこにオレと、オレを案内した少女が合流し、合計五人となったわけだが、それだけで手狭に感じるほど室内は狭かった。
「目が覚めたみたいだね」
 中央に座っていた青年が友好的な声色ででオレを出迎えた。
 穏やかな微笑みを浮かべた青年で、その落ち着いた様子と高身長から、オレよりも年上と推測する。体格はしっかりしているから運動は得意そうだ。但し隙だらけの佇まいは、武術や格闘技は未経験のように見える。
 話の主導権を握っているから、彼がこのチームのリーダー的な存在なのだろう。
「どうぞ、座って」
 椅子を促されてオレは彼の正面に座った。
 迎え入れた態度は友好的だったが、それが表面上だけであることは明らかだった。全員から警戒されているような刺々しい視線を感じる。とはいえどこか余裕も感じられることから、オレを信用していないが、脅威と感じていないようだということがわかった。
 それも仕方がない。今のオレは死人のように青白いし、手足も枝のように細い。少女相手なら勝てるだろうが、男子相手では全く相手にならないだろう。
「とりあえず自己紹介をしようか。俺は西条。賎機大学の二年生だ」
 賎機大学の名は聞いたことがある。オレが気を失った場所から、そう遠くはない場所にあったと記憶している。
 西条と名乗った青年は、次に横に座る青年を促し、
「彼は清原。同じ賎機大学の二年生で、君を殴ったのは彼なんだ。それについては本当にすまない」
「ふん」
 清原は挨拶代りに鼻を鳴らした。睨むような視線が特徴的な警戒心の強そうな青年だった。体格はかなり良く、態度も堂々としている。彼はきっと、オレが少しでも妙な行動を起こせば迷わずに拳を振るうことが出来るだろう。油断できない相手だ。
「で、あいつが日森だ」
「よろしくね〜」
 端に座っていた青年は日森というらしい。
 派手に染めた髪とヘラヘラと微笑む様子は、一見すると軽薄な印象を受ける。背は高いが、ひょろりとしていて腕っ節が強そうなタイプには見えない。警戒には値しないタイプだが……何故か貼り付けたな微笑みに胡散臭さを感じ、言葉に言い表すことができない不気味さを覚える。
「最後に、君を案内したのが宮野さんだ。日森と宮野さんは賎機大学の一年生で、俺たちはオカルト研究会に所属する仲間なんだ」
 オカルト研究会なんて本当にあるのか。そんなものを研究してどんな意味があるんだろう。大学というのはよく分からない。
「君の名を聞いてもいいかい?」
「月夜烏。月夜烏詩だ」
「同学……ではないよね。もしかして高校生?」
 今のオレでは虚勢を張ったところで無意味だ。隠すことなく肯定を意味して頷く。
「高校って、年下じゃねぇか」
 清原が舌打ちした。明らかに友好的ではない態度だ。
「こっちにはガキを抱え込む余裕はねえよ。こんなひょろひょろじゃ力仕事も期待できねぇだろうし。さっさと追い出そうぜ」
「清原くん、酷いこと言わないで……」
 宮野は消え入りそうな声量で独り言のように呟いたが、そのピシャリと言い放つ様子は、わかりやすく清原を黙らせようとしていた。短気そうな清原は怒るかと思ったが、意外にもバツが悪そうに口を閉ざす。
「宮野さんの言う通りだ。一方的に攻撃しておいて、それはあんまりだろう。せめて怪我が完治するまでは俺たちには彼を保護する責任があると思う」
 リーダーの西条も宮野の味方をするように強い口調で反論する。今度は、清原は遠慮なく意見を返した。
「西条、警戒心がなさすぎるんじゃねぇか。こいつが感染してないとは言い切れねぇんだぞ。いつ変異して俺たちを襲うかわからねぇ」
「彼は感染していない。傷がないことは清原も確かめただろう? 仮に感染していたとしたら、もう潜伏期間を過ぎているから、とっくに発症しているはずだ」
「……感染?」
 オレは思わず口を挟んだ。やはり新種のウイルス感染ということだろうか。
「いったい何が起こっているんだ?」
「えっ……」
 誰もが驚いたようにオレを見たので、逆に戸惑ってしまった。
 何か変なことを言っただろうか。自分の発言を思い返し、そう言えば自分の持つ情報がひどく曖昧で憶測ばかりであることを思い出した。
「オレは……」
 自分の境遇をどう説明したらいいのか分からず、言葉を探すように少しの間だけ黙り込んだ。
「……オレは、部活の合宿に行っていて……それがマトモと言える最後の記憶だ。その時は少なくとも、感染なんて心配はいらなかった」
「記憶喪失……ということかい?」
 正確にいうと、意識がなかっただけで記憶喪失ではないとは思うが、詳細を話す必要はないだろう。オレは肯定とも取れるように曖昧に頷いた。
「わからないけど……そういうふうに言えるのかもしれない」
「部活の合宿と言ったよね。それはいつのことか覚えているかい?」
「七月の終わりだ。確か最終週の土曜から三泊四日で――」
「今は十二月だ」
「……なんだと?」
 筋肉が落ち、髪が伸びるくらいだから、少しくらいの年月は経っているだろうとは思っていた。まさか半年も経っていたのは予想外だった。つまりオレはあの施設で半年間も意識不明の状態だった事になる。その間に何かが起きて「感染」が広がったということだろうか。
 衝撃は相当大きかったから、思わず動揺を顔に出してしまった。感情を制御できないのは未熟者の証だ。しかし、むしろ今回はそれが功を成した。
 オレの動揺はとても演技とは思えない様子だったから、西条はオレの言い分を信じたようだった。
「どうやら彼には、今の状況を説明した方が良さそうだね」
「こいつの言うことを信じんのか? めちゃくちゃ怪しいじゃねぇか」
「こんな状況で嘘を言う必要はないだろう。それに見てみろ。こんなに痩せていて弱っているし、仮に何か企んでいるとしても大した脅威じゃない――」
 西条は「しまった」というように口を閉ざし、バツが悪そうな視線をオレに向けた。彼らがオレを信用していないのはわかっていたことだ。しかしわざわざ何か反応してやる必要もないだろう。オレが何も言わずに机を見つめていると、西条はオレが彼の問題発言を聞き逃したと思ったらしく、ホッとした様子で胸を撫で下ろした。どんな抜けた奴でも目の前で会話した内容を聞き逃すことなんてないと思うが。
「と、とにかく……話をするくらい、問題はないだろ?」
 今度は清原も異論は唱えなかった。但しそれは譲歩ではなく、何かあれば力尽くでオレを制圧できるという自信ゆえの許容だろう。確かに今のオレが清原に殴りかかったとしても、一発目は入るだろうが、腕力不足で傷すら与えることはできないだろう。そうなったら反撃されてゲームオーバーだ。
「最初にアレが発生したのは、ちょうど君が合宿に行っているころだったよ」
 西条が状況を説明するように話始めたから、オレは机から視線をあげる。
「……アレ?」
「正式名称は特にない。感染者、あるいはゾンビとかクリーチャーと呼ぶ人もいる。死人のような見た目で、あちこち血を流しながら決して死ぬことはなく徘徊し、血肉を求めて彷徨っている。ビジュアルが完全にゾンビ映画とかに出てくるそれだからね。一目見ればわかると思う」
 施設で遭遇したアレのことだ。オレは直感的にそう思ったが、今度は表情には出さない。
「アレがどこからどうやって現れたのかは、俺たちもわかっていない。最初は暴動とか、新種の感染症かと思ったくらいだ。SNSでもそう言われていたからね。誰も大事には捉えてなかったし、遠くの出来事のように思っていた。ただアレに噛まれた人たちが、数時間もしないうちに同じような状態になって――」
「それは、元は人間だったということか?」
「ああ、そうだ。奴らに噛まれると数時間で発症して奴らと同じようになってしまうんだ。俺たちの目の前で発症したのを見たことがある」
 つまりオレが感染していないのは、眠っていた半年の間、偶然にも感染者に「噛まれなかったから」ということだ。あの施設には感染者がたくさんいたから、意識がないときに噛まれていてもおかしくはなかった。もし抵抗できない状態に噛まれていたら――そう考えるだけで、ゾッとしてしまう。
「それからは爆発的に感染が広がっていったよ。俺たちはあの日、サークルの活動で大学に出ていた。オカルト研究会だからね。夜の学校が活動場所だったんだ。休日の夜だったから人はほとんどいなくて、大学に比較的感染者が少なかったのが幸いした――そうじゃなかったら、何も知らないあの時の俺たちは感染者から逃れられなかったと思う」
「それじゃあ、ここは……」
「大学のサークル棟だよ。と言っても、敷地の隅に追いやられた狭くて小さな建物だけどね。幸いにも大学には厳重な門があるから、アレらは簡単には大学の敷地内には入ってこない。もちろん完全ではないから外に出る時は十分に注意してくれ。奴らは音に敏感で、どんな音でも聞き逃さないから」
「……そこまで警戒する必要があるのか?」
 少なくとも最初に遭遇した感染者は、とても大人しく、積極的に人を襲うようには見えなかった。確かに音を立ててしまった時は敏感な様子で視線を向けてきていたが、それはただ音に反応しているだけのように見えた。奴らに噛まれないようにするだけなら、刺激を与えないようにすれば良いだけだから、比較的簡単に思える。
 西条は無知な子どもの相手をするような、妙な微笑みを浮かべた。
「君は本当に記憶がないようだね」
「?」
「一度でもアレに襲われたら、そんな質問をしないだろう。半年間生き延びた人間が一度もアレに遭遇しなかったなんてことは絶対にありえない。恐らくストレスか、逃げている時に頭を打つかなんかして、記憶を無くしてしまったんだろうね」
「……それって、清原くんが殴ったから、じゃない……?」
 宮野が遠慮がちに口を挟んだ。視線は非難するように清原を見ている。
「確かに……その可能性は、あるな」
 西条は困ったように唸った。
 オレは正確に言うと記憶喪失ではないから、もちろん清原の暴力は全くの無関係だ。しかし無知は記憶喪失のせい、記憶喪失は清原の暴力の影響だと勘違いしてくれた方が好都合だったので、あえて黙っていた。
「チッ……」
 清原は気まずそうに目を逸らすと、部屋を出ていった。
「周辺の見回りに行ってくる」
 去り際にそれだけ残して。西条が慌てた様子で「一人で行くな!」と呼び止めたが、清原が戻ってくる気配はなかった。
「ごめん、俺は清原についていくよ。宮原さん、あとは任せていいかい?」
「えっ、あ、うん、大丈夫……気をつけて行ってきてね」
 西条も清原を追って部屋を出ていく。部屋にはオレ、宮野、そして自己紹介以来ずっと黙っている日森だけが残された。後を引き受けた宮野が、遠慮がちにこちらを見上げてくる。
「あの……そ、そうだ、お腹……空いてない?」
 宮野はオレの返事を待たず、もう慌ただしく荷物を漁っていた。
「簡単なものしかないけど……暖かいスープを用意するね。そんなに薄着で寒いでしょ……?」
 そういえば西条が今は十二月だと言っていた。自分が着ているのはパーカー一枚だ。厚手のパーカーとはいえ、真冬の服装とはいえない。しかし寒さは一切感じないのは、きっと色々あって神経が興奮しているから、感覚が麻痺しているんだろう。
 宮野は手慣れた様子でカセットコンロを用意して、湯煎してレトルトスープを温め始めた。日森はニコニコと微笑みながらこちらを見ていたが、適切な距離感を保つかのように、自分から何かを言う様子はない。
「いくつか知りたいことが……」
 遠慮がちに声をかけると、宮野が素早く反応した。
「な、何かな?」
「外の状況は? 救助はどうなってる?」
「えと……ごめんね。具体的には何も答えられないの。テレビもラジオも止まっちゃったし……数ヶ月前までは、自衛隊の人が救助に来てたり、ヘリが飛んでいたりしたけど……今ではそういうのも、見かけないかな……感染者はたくさん見かけるけど……」
「大学の敷地内に、他に人はいるのか?」
「最初は逃げてきた人が何人かいたけど、今ではみんな感染してしまって……大学で残っているのは、私たちくらいじゃないかな……?」
「……なるほど」
 思ったよりも危機的な状況らしい。それにしても西条達には余裕があるように見えるのは、何ヶ月もこんな生活を続けていて感覚が麻痺してしまっているのだろうか。
「雨戸を閉めている理由は、防音のためか?」
「あ、これは……」
 宮野の表情に暗い影が落ちる。
「……防音もそうだけど……今では食料とか電池とか貴重で……そういうのを独占しようとする人がいるの。灯りが外に漏れると、私たちの居場所が他の人にばれちゃうから……」
 感染者対策ではなく、他の人間たちに居場所を知られないようにするためらしい。どうやら人類は、未曾有の危機に直面しても手を取り合うことはせず、身勝手な行動を繰り返しているようだ。
「……どうぞ。熱いから、気をつけてね」
 温めたスープを器に移して、宮野がテーブルに並べていく。三人分だ。温めていないレトルトスープが二つ脇に避けてあるので、西条と清原はあとで食べるのだろう。
「やった、カボチャスープだ!」
 日森が子どものようにはしゃいで手を伸ばした。彼らにとっても貴重な食事のようで、二人ともすぐにスープを口に運ぶ。オレは食欲はなかったが、せっかく温めてもらったことだし、有り難くいただくことにした。
「…………」
 スープは無味無臭だった。冷たくも温かくもなかった。
 手を止めて宮野と日森の様子を盗み見する。二人はまるで冷えた手を温めるように皿を持って、味わうようにしてスープを飲んでいた。美味しそうに食べているのは演技だろうか。それとも二人とも精神的に追い詰められた結果、味覚や触覚が鈍くなっているのだろうか。
 いや、それともオレが――
「どうしたの?」
 声をかけてきたのは日森だった。オレは動揺を隠しているつもりだったが、些細な表情変化を日森に気づかれたらしい。どうやら彼は観察眼に長けているようだ。
「……味がしない」
 隠しても意味がないので、素直に打ち明ける事にした。彼らの反応も確かめたかったということもある。
 日森はキョトンとして、宮野はスープを飲む手を止めた。二人は顔を見合わせると、さっと顔色を変える。二人の様子に不審な点はない。
「そ、それって……味覚障害ってことかな……? 清原くんが殴ったせい?」
「可能性はあるね。頭部を強く打つと神経路に障害が生じることがあるって、聞いたことはあるし。あのバカ、帰ったら説教しよう」
「そうだね……あの人は、どうしてあんなに後先考えないんだろう……」
 二人とも清原に対してあまり良い感情は抱いていないということは明らかだった。日森は清原を馬鹿にしているというか、格下に見ているように思える。宮野は日森以上に清原を軽蔑しており、嫌悪すらしているように見えた。
「詩くん、本当にごめんね……味がしなくても、ちゃんと食べた方がいいよ。そうしたらゆっくり休んで。頭の怪我は怖いから、しばらくは安静にしておかないと……」
「……わかった」
 色々腑に落ちないことはあったが、オレは大人しく宮野に従う事にした。
 なんだか妙だった。味もしない。匂いもしない。十二月なのに寒くもない。腹も減っていない。こんなにも不調があると言うのに、気分は全く悪くなかった。本当に頭の怪我が原因なのだろうか?
 味をしないものを無理やり口に突っ込むのは、なかなか苦痛を伴う作業だった。ようやく食べ終えた頃、清原と西条が戻ってくる気配がした。宮野が「もう休もう」と部屋からオレを連れ出したので、戻ってきた二人と鉢合わせすることはなかった。
 宮野に連れて行かれたのは、オレが最初目を覚ました部屋だった。オレが寝袋に横になるのを確認すると、宮野は部屋を出て行った。それからすぐに、閉められた扉の向こうから、宮野が清原に激しく問い詰めている声が聞こえた。
 しばらく横になっていたが、騒音のせいか、なかなか眠りにつけなかった。


〈日森サイド〉

 誰しも一度くらいは、退屈な日常生活が一変する妄想をしたことがあると思う。
 それこそ、謎の感染病が広まりゾンビが世界中に溢れていくなんて妄想、ありきたりと思われるくらい誰でも考えることだろう。それってつまり、誰もがマンネリ可した日常に飽き飽きしていて、非日常的な展開を待ち望んでいるってことじゃないだろうか。
 何が言いたいかって?
 まず、妄想の重要性を話す前に、俺の話を聞いてほしい。
 俺の名前は日森優太郎。
 はっきりいって俺の人生はめちゃくちゃ退屈だ。
 俺の実家は、一般家庭に比べて裕福な家庭の分類に入る。仕事熱心な父親と、教育熱心な母親。選別された優秀な友人。家柄の釣り合った美人な婚約者。何年先までの昇進が決定している保証された未来。両親によって用意された「日森優太郎」という人格を、鍛え抜かれた知的な微笑を浮かべて演じ切るという、ただそれだけが俺に与えられた唯一の仕事だった。
 そんなクソがつくほど退屈な人生を押し付けられた俺が、両親に刃向かう度胸を持った年齢になって、絶賛反抗期に陥ったことは言うまでもない。
 人生で一番の反抗は、親の決めた大学を受験せず田舎にある無名の大学を選択したことだった。もちろんめちゃくちゃ怒られたけど、俺は両親の説教を無視し続けた。
 最終的に折れたのは両親だった。父親が「自由にできるのは今だけだから」と、珍しく人間味のある言葉を零した日のことを今でも覚えている。
 俺というのもなかなかなつまらない奴で、こんな退屈な人生は嫌だと反抗的な態度を取りつつも、この資本主義社会において両親が用意したレールに乗ることが最善手であることを理解してしまっていた。だから両親が言う通り、自由にできるのは今だけなんだなってことを本能的に察していた。つまりどこまでも現実主義者だったわけだ。両親も俺の本来の性質を理解していたから、愚かな行動はとらないだろうと、最終的には俺の自由な大学生活を許容していたのだろう。

 大学でオカルト研究会に所属したのは、退屈な人生を送る自分へのせめても慰めだった。
 非現実的な世界に浸ることは、大学卒業後のリアルな人生とは真逆の体験で、すごく楽しかった。サークルメンバーは気が合わない奴ばかりだったけど、普段話す機会のない奴と交流するのは新鮮で面白かった。
 それでも大学卒業のことを考えると憂鬱になった。それが最善手であることを理解しながら、本位ではない選択だったから気が乗らなかった。何か良い手はないかと考えていたとき、今回の騒動がおきた。
 最初は「面倒が起きたな」程度の認識だった。
 単なる大学周辺で起きた暴動かと考えていたせいだった。少し待てば収まる程度の騒ぎで、むしろこの騒ぎが原因で安全性を疑問視した両親が寮生活に苦言するのではないかと、そのことばかり不安に思っていたくらいだ。
「お父さんが怒るかも……サークル活動のこと、秘密にしてたから」
 宮野さんがそんなことを心配していたのを覚えている。俺も大いに同意した。
「ニュースになると思う? 俺もなるべく両親にバレたくないんだよね」
「警察とか来てるし、連絡はいっちゃうんじゃないかな……」
 籠城したサークル棟で、二人でのんきに肩を落としていた。
 そのときサークル棟にいたのは、俺と同学年の宮野さん、そして西条先輩と清原先輩の四人だけだったから、俺は必然的に宮野さんと話すことが多くなった。宮野さんと親しいというわけではなく、西条先輩や清原先輩と話すよりはマシだという、ただそれだけの理由だった。恐らく彼女も同じだったと思う。そんな俺たちの薄い友情を清原先輩は面白くなさそうに睨んでいた。本人から聞いたわけじゃないけど、きっと清原先輩は宮野さんのことを好きなんだと思う。
 一日経っても騒動は収まらなかったけど、俺たちはさほど不安を覚えていなかった。サークル棟は防災用の非常食や水の備蓄が豊富だったし、トイレやシャワー室もあったというのも理由の一つだ。
 何よりも非現実的な出来事に心が躍った。これからどうなってしまうんだ、困ったなぁ勘弁してくれよ、なんて言いながらも、全員が非日常感にワクワクとしていたに違いないと思う。

 そんなことをしているうちに、あっという間に日々が過ぎていった。
 最初は楽天的だった俺たちも、次第にただ事ではないと気づき始めていた。サークル棟から眺める景色に、逃げ回る人の姿や、警察や自衛隊の姿が見えなくなった。代わりに徘徊するゾンビのような姿が増えた。あちらこちらで事故や火災が発生していたが、パトカーはもちろん救急車や消防車は一台も来なくなった。そして電気がとまり、携帯も通じなくなった。少し遅れて水も出なくなった。
 大学の本校舎のほうに、何人も負傷者が逃げ込んでいたのを見たことがある。俺たちは孤立したサークル棟にいたから、それを窓から眺めただけだった。
 正義感を見せようとした西条先輩が「俺たちも、手助けしに校舎へ行った方がいいんじゃないか」と言ったけど、清原先輩が「素人が言っても邪魔なだけだ」と反対した。それらしいことを言っていたが、きっと厄介事を避けただけに違いない。西条先輩も実は怪我人の勢いにびびっていたのか、あるいはいったん正義感を見せておきたかっただけなのか、それ以上は何も言わなかった。
 結論から言うと、清原先輩の判断が正しかった。
 負傷者を受け入れて数時間後、本校舎の方から怒声や悲鳴が聞こえ始めた。驚いて本校舎の方を見ると、蜘蛛の子を散らすように人が逃げ出していた。ゾンビのような動きをしたやつが、それを追って行ったのが見えた。
 逃げ出したうちの一人が足を絡ませて転んでしまった。恐らく女の子だったと思う。
 あっという間の出来事だった。転んだ少女にゾンビのような奴らはものすごい勢いで群がっていった。すぐさま少女の体はゾンビで見えなくなって、続いて助けを求めるような絶叫が大学の敷地内に響き渡った。よく見えなかったけど、奴らは少女の体に歯を立てて肉を食べているように見えた。
 長い間、少女の苦しそうな絶叫が聞こえていた。
 やがてそれも聞こえなくなったと思ったら、少女の体に群がっていた奴らがさーっとはけていった。残されたのは、血まみれになった少女の体だけだった。
 俺たちはサークル棟の窓から唖然とその様子を眺めていた。すると少女の体が痙攣するのが見えた。まだかろうじて生きているようだった。
「だ、大丈夫か……!?」
 正義感に背中をおされた西条先輩が声をかけたときだった。少女が急に起き上がったと思ったら、生気のない不気味な灰色の瞳で、辺りを見渡し始めた。口からは血がダラダラとこぼれていて、周囲を見渡すたびに赤いそれが周囲に飛び散っていた。
 咄嗟に俺は西条先輩の首根っこを掴んで窓から身を引いた。
 少女は声の主を見つけることを諦めたらしい。うなり声をあげながら、血だらけの体を引きずるようにして、定位置を探すように校舎の方に戻っていった。
 この時から俺たちはなんとなく状況を察し始めていた。
 原因は不明だが、人間の肉を食事とするゾンビのようなものが増殖し、徘徊しているということ。奴らに噛まれて死亡した人は感染し、同様の化け物になること。たとえ軽症の場合でも、噛まれた数時間後に感染するらしいということも、後々にわかった。恐らく接触感染に近いものなのではないかと俺たちは予測した。
 そして、これは決して楽観的な状況ではなく、恐らく予想以上に広範囲で起きている出来事だということも、身に沁みて感じていた。

 こんな状況だったけど俺は前向きだった。
 こうなってしまったら親の言いなりになる必要はなくなった。なにせ今は生きるか死ぬかの状況で、高学歴も就職も婚約者も、まったく無価値なものになってしまったのだから。
 すなわち親の敷いたレールが最善手ではなくなったということだ。
 安全地帯に引きこもるのも、食料や備品のために死地へ赴くのも、チームを組んで仲間と共に感染者に立ち向かうのも、独裁者となってチームを操るのも、各自がやりたいようにやればいい。
 つまり完全なる自由。
 そんな中で、最大の問題となったのがサークル棟に残ったメンバーだった。

 これはサークル棟にあった食料が底を尽きた時の話だ。
 西条先輩がまず「近くのコンビニまで食料調達に行こう」と提案した。誰も何も言わなかったから仕方なく俺が意見した。
「駅前のところだよね。まともなのが残ってると思う?」
「行ってみないとわかんねぇだろ。つか、後輩のくせにため口使うな。敬語使え」
 清原先輩が即座に嚙みついてくる。なんで一年長く生きてるだけの奴に敬語を使わないといけないんだろう。理解できなかったので流しておく。
「いや、日森の言うことも一理ある……」
 西条先輩はまだまともだった。口調など気にせず問題を議論する。
「それに、近場の方が安全と思ったけど、駅前は人が多いから感染者も多いかもしれない。場所を変えよう。まずは人が少なくて、それでいて見渡しがいい、たくさんの食料があるような場所を探さないと。できれば徒歩圏内がいい。地図はどこにあったかな」
 それはそれで慎重すぎる気がする。条件にあう場所をピックアップしているうちに餓死してしまうだろう。仕方がなく俺がまた口を開いた。
「住宅街がいいんじゃない? 人も他に比べて少ないだろうし、住宅なら施錠されていても侵入しやすいし」
「そんな。それは不法侵入じゃないか?」
 西条先輩の空気を読めない発言に、思わず吹き出しそうになった。お前はスーパーでお金を払って食料調達するつもりだったのかな?
「そんな状況じゃねぇだろ。生きるか死ぬかの話だぞ」
 今度は清原先輩がまともなことを言った。こいつらは互いの馬鹿な発言で我に返る仕組みになっているらしい。
「けどよ、やっぱスーパーとかコンビニの方がいいんじゃねぇか。住宅なんて食料があっても量なんか知れてるし、そもそも腐ってるだろ」
「さすが清原先輩、もっともな意見だけど、みんなそう考えるんじゃない? どの住宅にも防災用の非常食くらいはあると思うし」
「みんなって、誰だよ。どうせ生き残ってる奴なんていねぇよ」
「じゃあ、どこに行くかあてはあるの?」
「当然だろ。俺がいい場所を知ってっから、案内する」
 ダメだって、そんな根拠のない言い方じゃ、慎重すぎる西条先輩は安心できないんだから。案の定、納得していない西条先輩が、不安そうに口を挟んでくる。
「それなら、場所をあらかじめ教えてくれ。一番安全なルートを考えないと」
「場所なんてどこでもいいだろ。俺がわかってんだから」
「濁すところを見ると、日森の指摘を無視した場所なんだろ?」
「うるせぇな……」
 西条先輩と清原先輩の終わりのない口論が始まった。俺と宮野さんは目配せすると、小さく溜め息を吐いた。
 溜め息が出ない方がおかしい。西条先輩は自分がリーダーだと思っているのか、チームを仕切りたがるくせに、あまりにも決断力がなくて頼りなかった。清原先輩は考えるよりも先に口や手が出るタイプで、文句ばかり言うくせに解決能力はない。宮野さんは慎重に状況を見定めているようだったけど、自分から動く気配は見せないから頼りにできない。
 つまりのところ、ともに生き抜く仲間としてサークルメンバーはあまりにも気が合わなかったわけだ。
 こんな状態では自由に動けるわけがなかった。
 俺はとにかく好きなように生きたい。だけど自殺志願者ではない。十分にやりきった後に死ぬならまだしも、一人で無計画に外に飛び出していって、意味もなく死ぬのはごめんだ。

 結局俺たちの意見がまとまらず、馬鹿な議論を散々しているうちに空腹が無視できない状況になってしまった。
 とりあえず一番近場のコンビニへ、四人で様子を見に行こうということで意見がまとまった。コンビニに食料があればよし、なければ周囲の状況、つまり感染者の数や生き残りの状況を確認して戻る、という作戦だ。
 俺はコンビニに食料が残っている希望はほとんどないと思ったけど、これ以上馬鹿馬鹿しい議論を聞かされるくらいなら、無駄足でもいいから動いてくれるほうがマシだと考えていた。
 コンビニまでの道は徒歩五分程度だ。
 それまでの道のりは静かで平和なものだった。これは想定内だった。今までサークル棟から外を観察していた結果、感染者は日が昇っている間は、室内に引きこもっていることがわかっていたからだ。奴らは夜行性らしい。だから外をそーっと歩けば、彼らは眠っていて俺達には気づかなかった。
 幸いにもコンビニに潜んでいる感染者はいなかった。しかし既に別の誰かに荒らされたあとで、まともな食糧なんて残っていなかった。手ぶらで帰るのも癪だったので、地面に転がっていたガムと洗濯用の洗剤、雑誌をいくつか鞄に詰めた。
「このままじゃ帰れねえ」
 空腹で気が立っている清原先輩が声を荒げて言った。即座に宮野さんが「しーっ」と人差し指を立てると、清原先輩は大人しく声のボリュームを落とした。
「思った通り、あいつら日中は大人しい……このままはしごして、食料を確保しようぜ」
「突発的な行動はよくないけど……確かに食糧問題は危機的だ。行くとしたら、ここから一番近くにあるスーパーだね。大型だから、少しは食料が残っているかもしれない……」
 西条先輩も空腹のあまり、いつもより慎重さに欠けているようだった。
 一旦戻って計画を立て直すだけの余裕もなかったのは確かだった。容易くコンビニにたどり着いたことで警戒心も薄れていたこともあったかもしれない。全員一致で、引き続き食料を探すことになった。

 スーパーでは一歩間違えれば誰かが死んでいたと思う。
 スーパーに感染者はいなかった。代わりにそこを根城にしていた人たちに出会った。年齢層は様々だったが、ほとんどが二十代から三十代のように見えた。人数ははっきりと分からなかったけど、俺たちよりも多いのは確かで、見えただけでも十人はいたようだった。無計画でまとまらない西条チームと違って、彼らは既に自分たちの生き残り方を見出し、統一された動きをして、目的のために躊躇いもなく行動する力を持っていた。
 彼らは略奪者だった。それも感染者はもちろん普通の人間を殺すことを躊躇わない、相当の悪人となり果てていた。
 スーパーの敷地に入った途端に俺たちは監視の目に見つかり、襲撃された。それでも四人が無事にサークル棟へ逃げ帰れたのは、偶然に近い幸運と、清原先輩の喧嘩慣れのおかげだったと思う。
 この時、奴らが投げた瓶が当たって、宮野さんは足に軽傷を負った。宮野さんはそれ以降、怖がって外に出ることはなくなった。そして西条先輩はより一層慎重になったし、清原先輩はさらに警戒心が強くなった。
 臆病になった西条チームは、感染者と攻撃的な人間に怯えながら、近場の住宅に残った非常食を漁って細々と暮らしていた。

 そんな時に彼……詩と名乗った少年に出会った。
 懐疑的になっていた清原先輩が、思わず彼を問答無用で殴ってしまったのも、まぁ無理はなかった。
 ただちょっとやり過ぎだとは思う。どう見ても彼は武器を持っていなかったし、なによりも非常に弱り切っていたから、そんなに急いで殴る必要はなかったはずだ。地面に倒れた彼を囲んで、清原先輩と西条先輩は睨み合った。
「殴ることはないだろ! まだこの子が敵対しているかもわからないのに!」
「スーパーでの出来事を忘れたのかよ! 気づかれる前にやらないと、こっちがやられるかもしれねぇんだぞ!」
「だったら気づかれないうちに距離をとればいいだろ! どうしてそんなに攻撃的なんだ……!」
 口喧嘩する二人を無視して、俺は彼の怪我を見ていた。怪我は大したことはなかった。たぶん、清原先輩は口ではああ言いながらも、無抵抗の人間を殴ることに躊躇するようなまともな人間性を残していたんだろう。
「とにかく、連れ帰って介抱しよう。気を失った女の子を放置したらかわいそうだ」
「西条先輩、この子たぶん男だよ」
「え?」
「はっ?」
 髪が長くて、びっくりするくらい色白で、女子よりも細くて整った顔立ちをしていたから勘違いしかけたけど、骨格は間違いなく男性のものだった。西条先輩だけではなく、清原先輩も驚いたように彼を見下ろした。どうやら、怪我が大したことなかったのは、清原先輩が彼を女子だと勘違いしたからもあるようだ。
 いや、女子だと思いながら殴るって人としてどうなの?
「……それは、いいとして……そろそろ夜だ。置いていったら、確実に感染者の餌食になってしまう。連れて帰ろう……」
 幸いにも西条先輩の主張は変わらなかった。
 俺も西条先輩の意見に同意したので、結局、清原先輩が折れることとなった。ちなみに、帰り道は俺が彼を背負うことになったけど、想像していたよりもずっと軽くて、負担にはならなかった。
 俺は死人のように冷え切っていた彼を心配して、何度も顔を覗き込んだ。そのたびに彼が微かに息をしているのを確認して、ほっと安堵した。

 詩くんは変わった奴だった。
 今にも倒れてしまいそうなか弱い見た目をしているのに、見知らぬ年上たちに囲まれても臆することなく堂々としている。ぼんやりしていて隙だらけのように見えるのに、ぴりぴりとした緊張感みたいなものが彼を包んでいて、一緒にいるとなぜか不安にさせられるような感覚になる。
「あいつをこのままここに置いておく気か?」
 清原先輩が苛立った様子で夕食のスープをがっついていた。宮野さんから詩くんのことで怒られたばかりだったから、余計に気が立っているようだった。向かい合って夕食を取っていた西条先輩は、自分勝手な清原先輩に流石に腹を立てていた。
「宮野さんから聞いただろう。彼の記憶喪失や体の不調は、お前のせいなんだぞ、清原」
「少しこづいただけでそうなるかよ……」
「お前の態度や行動は全く同意できないし、改めるべきだ。この先出会う人々を問答無用で殴っていくつもりか? 今回はこれだけで済んだけど、誤って人を殺してしまうことだってあるかもしれないんだぞ。俺はお前にそんなことをしてほしくない」
「……チッ」
「まったく……けどまぁ、確かに警戒する気持ちもわかる」
 意外にも西条先輩は情に流されるばかりではなかった。どうやら、どちらかというとお人よしよりも慎重さが上をいくようだった。
「彼本人は警戒するような対象じゃない。宮野さんですら力で彼に勝てるかもしれないくらい、彼は弱っているからね。ただ……彼が奴らの手駒という可能性もある」
 奴らというのはスーパーを根城としている略奪者のことを言っているのだろう。詩くんが彼らの指示によって、俺たちの根城を探ろうとしている可能性は、確かにないとは言い切れない。
「仮にそうだったとすると、記憶喪失も体の不調も嘘ということになる……けど、怪我を負わせたのは事実だ。放っておくことは絶対にできない」
「はぁ……甘ちゃんかよ」
「もちろん、だからといって放置することはしないよ。妙なことをさせないように誰か見張りをつけよう。誰がいいだろうか。彼が比較的気を許しているのは宮野さんだろうけど……」
 この場に宮野さんはいなかったが、彼女の反応は容易に想像がつく。清原先輩の行動に不信感を抱き、詩くんの味方をしている宮野さんが大人しく指示に従うとは思えない。
「女子にそんなことさせられるかよ」
「確かにね。じゃあ、日森に任せよう」
「へっ?」
 雑誌を読むふりをしていて聞き耳を立てていた俺は、急に名指しされて思わず顔をあげた。
「なんで俺?」
「清原は絶対に無理だし、俺もいろいろやることがあるから無理だ。消去法で日森にしか頼めない」
 いろいろやることって、意味もなくアレコレ悩むことを言ってる? それなら俺にだって出来そうだけど。
 でも詩くんがどんな奴なのか興味はある。それにその程度のことで仕事をしていると思ってくれるなら、悪くない提案かもしれない。
「まぁいいけどね。でも俺、子ども苦手なんだよなぁ。親戚の子どもにいつも無視されてたし」
「お前って舐められそうだもんな」
「お年玉代わりにお札の束で頬をぶっ叩いてやったことがあったけど、無視されるようになったのは、それからだったかな。子どもなら喜びそうだと思ったのに。今どきの子どもに現金なんか渡したから、清原先輩が言うように舐められたのかなぁ」
「…………」
 清原先輩は誤って生のゴーヤを噛んでしまったかのような変な顔をして黙った。
「そんじゃ、早速任務を遂行してまいりま〜す」
 俺は雑誌を片手に持ったまま、さっさと部屋を後にした。

 子どもが苦手っていうのは受け流す言い訳ではなくて、八割くらい本音だった。
 でもその心配は杞憂だった。詩くんはほとんどの時間、寝ていたからだ。
 ご飯のたびに宮野さんが起こしに来るけど、詩くんは本当に調子が悪いらしく、形だけのご飯を食べて、また寝てしまう。たまの起きている時間は、詩くんのほうから世間話はいっさいなく、外の世界についていろいろ質問してきた。無表情とも言えるくらい感情的にならない詩くんは、あまり高校生らしくなくて話し辛さを感じることはなかった。
 夜の時間は俺も自室に戻ったけど、深夜に何度か起きて詩くんの部屋を覗いた。その時も彼は横になっていて、ぐっすり眠っているようだった。
「寝言もないし、いびきもかかない。寝相もめちゃくちゃいい。つまり今のところ怪しさ満載だね。あんなに静かに寝るなんて、ほんとに人間?」
 朝食を食べながら西条先輩に報告する。
 西条先輩と清原先輩はいつも一緒に行動するから、当然のように清原先輩も同席していた。宮野さんは詩くんと一緒に、彼の部屋で朝食をとっているので不在だ。
 清原先輩が「ふざけんな」と言うように睨んできたので、溜め息を吐きつつ肩をすくめた。
「誰かと連絡をとろうとする素振りなんかないよ。そもそも詩くん、ずっと寝てばっかで部屋の外から出るのも滅多にないことなんだから」
「夜はどうなんだよ? お前も寝ずに見張ってるわけじゃないだろ?」
「そりゃずっと見張るのは無理だけど、表は施錠してあるし、バリケードもある。一人でごそごそしてたら誰かしら気づくと思うけど?」
「確かにそうだね」
 西条先輩は既にほとんど詩くんを疑っていないようだった。しかしそれは俺の観察の結果を受けてというより、ここ数日の詩くんの様子を見て判断しているように見えた。
 詩くんは記憶喪失がゆえに、急激に変わってしまった世界情勢に戸惑いを隠せないようで、見るからに思い悩んでしまっていた。あの真っ白な顔を真っ青にして、何時間も考え込んでいる姿は同情心を誘う。この感情移入しづらい俺ですらそう思うのだから、本来お人よしの西条先輩が何も思わないわけがなかった。
 清原先輩はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「なら、そろそろ働いてもらわねぇとな。動かない奴を養う余裕はねぇぞ」
「いずれはそのつもりだけど、それはまだ早いよ。せめてもう少し体調が戻ってもらわないと。……いやでも、かなり落ち込んでいるようだから、むしろ体を動かしたほうが気分転換になるかもしれない……だけど、それも負担になる可能性も……」
 相変わらず西条先輩は慎重すぎるゆえに優柔不断だった。
 そんなに悩むことか? 俺は思わず笑いをもらすと、西条先輩は不思議そうに首を傾げた。
「本人に聞いてみたら早いんじゃないの?」
 俺が気軽に言うと、西条先輩はようやく「それもそうか」と答えを得たようだった。


〈詩サイド〉

 西条たちと出会ってから一週間が経った。
 置いてもらっている身で贅沢は言えないが、正直に言うとここはあまり居心地がよくない。
 清原は敵意と警戒心を隠そうとしないから、彼の気配がするたびに無意識に身構えてしまい無駄に疲れる。
 西条は表向きは親切だが、分かりやすくこちらを探るような質問をしてくる。西条がオレの何を疑っているかはわからないが、彼の意味不明な質問はオレを疲労させる。
 日森にいたっては堂々と「君のこと監視させてもらう!」と宣言して四六時中付きまとってくる始末だ。まぁ日森に関しては、側でだらだらと雑誌を読んでいることがほとんどで、実際何かしかけてくるわけではないから特に問題はなかった。
 例外は宮野だけで、彼女はとても親切だった。食事の用意をしてくれたり、何気ない会話をして気を遣ってくれる。宮野からは悪意や警戒心を感じないから、少なくとも無駄に身構える必要がなくてオレも気が楽だ。
 とはいえ、西条達がオレを警戒するのも無理はないことだから、全員に宮野のような対応を求めているわけではない。むしろ宮野が特殊な例であり、西条たちの対応が一般的だろう。
 今のオレは体力、筋力共に最低レベルとなっている弱者だ。怪我のことがあるとはいえ、無条件で安全な寝床と食事を提供してもらっているのだから、むしろ感謝しなければならない状況だろう。
 今日も宮野が朝食の乾パンを持って部屋にやってきた。
「詩くん、調子はどう?」
 朝は非常に眠気が強くて、頭がぼーっとしてしまう。オレは眠りそうになるのを必死にこらえつつ頷く。
「大丈夫」
「眠そうだね……ちゃんと夜に眠れてる……?」
「もちろん」
 正直に言うと夜はほとんど寝ていない。ただ頻繁に日森がのぞきにくるから、寝たふりをして横にはなっているが。
 乾パンを一口頬張る。相変わらず何の味もしない。そもそも食欲もわかないから、どうも食べる気がせず自然と食事の手は止まってしまう。
 それにしても凄く眠い。剣を握っていれば覚醒するかもしれない。しかしそんなことをしたら、西条たちがますます警戒するだけだろう。剣を握ることは諦めるしかない。
「詩くん……詩くんってば」
「……あ、なに……?」
 いつの間にか宮野に呼ばれていたらしい。眠気をこらえて顔をあげると、いつの間にか部屋には西条と清原、そして日森がやってきていた。相変わらず清原は喧嘩腰の態度で鋭い視線を向けてきているが、西条はここ数日でいくらか警戒を緩めているようだった。
「おはよう。調子は……あまりよくないみたいだね」
 西条の視線は、オレの手に握られたままほとんど消費されていない乾パンに向けられていた。食欲がないだけで調子が悪いわけではない。オレが否定するように首を振ると、何故か西条は痛々しいものを見るような同情の眼差しを向けてきた。
「実は今日……いい天気だし、久しぶりに食料調達に行こうと思ってね。君と出会ってから一度も行っていなかったから……」
 そういえばここ一週間、西条達は外出せずに建物内にいた気がする。
「それで、提案なんだけど……君も一緒にどうかな?」
「西条くん! なんでそんなこと言うの……!?」
 宮野がいち早く反応して声を荒げた。彼女は顏を真っ赤にして睨むように西条を見据えている。どちらかというと小動物が怒ったような感じで迫力はなかったが、予想外の反応に西条は慌てたようだった。
「ご、誤解しないでくれ、宮野さん。俺は別に、彼を無理に働かせようとか、そういう意図で言っているんじゃない」
「じゃあ、どういう意味なの?」
 宮野はオレのことを抱きしめた。まるで幼い子どもを守るような動作だ。何故か清原の目つきがますます悪くなる。清原はともかく、宮野からは悪意は感じないし、とりあえずオレはされるがままになっている。
「ずっとこもっていたら、余計に気が滅入るんじゃないかと思ってね……少しでも外に出たら、気分転換になると思うんだ」
「馬鹿なこと言わないで……外に出て、なにがどう気分転換になるっていうの?」
「確かに外は危険だ。けど、こんな日の光も差さない室内にこもっていたら良くないことも、宮野さんだってわかってるだろう?」
「それは、そうだけど……」
「君はどうかな? もちろん、気が進まないなら断ってくれて構わないよ」
 西条達の視線はオレに集う。
 正直に言うと西条の提案は悪くない。体の調子がおかしかったこともあって、しばらくは大人しくしていようと活動的なことは控えていた。しかしいつまで経っても改善する兆しが見えないうえ、このままじっとしていたら体だけではなく感覚も鈍りそうだ。こうなったらむしろ無理矢理にでも体を動かすべきではないか。とはいえ、筋力が落ちて満足に戦えない状態で一人で行動するのは自殺行為だ。
 だから西条たちに同行できるなら好都合である。清原はともかく、西条からはもう悪意や敵対心を感じないから、少しくらいなら背中を預けても問題はないだろう。
「同行させてほしい」
「! そうか……それは良かった」
 西条はほっとしたように微笑んだ。それが彼の優しさゆえの微笑みなのか、ごくつぶしをなんとか出来たことに対しての安堵なのか、オレにはよくわからない。どちらにしてもオレには影響がないし、西条達に頼り切っているオレに文句を言う資格はない。
「じゃあ、朝食のあと、早速出発しよう。宮野さんは、いつも通り戸締りと見張りを頼むよ」
「……うん、分かった。お願いだから、気を付けてね……?」
 最後の言葉は明らかにオレに向けられていたので、オレは頷いて返した。それでもまだ彼女から視線を感じたので、顔をあげて宮野の顔を見返す。彼女は何か考え込むようにじっとオレを見つめていたが、やがて何かを諦めたような表情で首を振った。
「……ううん。やっぱり、私もいく……」
「はぁ!?」
 宮野の心変わりに一番に反応したのは清原だった。
「なんでだよ? 外は危ねぇからお前は中で待ってるって、いつも言ってんだろ!?」
「清原くん、大きな声を出さないで……」
 宮野が嫌がるように俯くと、清原は「うっ」と唸って静かになる。宮野は何かを決意するように胸の前でぎゅっと握って、清原ではなく西条に向けて言った。
「そう、外は危ないの……逃げなくちゃいけなくなった時、西条くんたちは詩くんをどうするの? 詩くんはたぶん走れないよ」
「それは……もちろん、どんな状況でも、俺たちがちゃんと彼を連れて帰るよ」
「本当に? 悪いけど私は、そこまであなたたちを信用できない……」
 宮野はちらりと清原に視線を飛ばした。宮野は「あなたたち」と言ったが、清原個人を指しているのは彼女の態度を見れば一目瞭然だった。
「だから私がついていくの。別に構わないでしょ? 荷物持ちが増えることは、いいことなんだから……」
 宮野の声は小さくて、決して強い声色ではなかった。しかし彼女の表情と言葉には意志の強さを感じる。宮野はもう何を言われても考えを変えないだろう。西条は困ったように、宮野と何も言えなくなった清原を見比べていた。
「宮野さんの言う通り、人が増えても悪いことはないんだし、みんなで行けばいいじゃん」
 日森が空気の読めないような様子で、気軽に言った。西条は助け舟を得たように「そ、そうだな。それがいい。そうしよう!」と、重くなった空気を吹き飛ばすように妙に明るい様子で頷いた。

 一週間ぶりに外に出る。
 いい天気だ。日差しを浴びた瞬間、酷い眩暈を感じて思わずよろめいてしまった。
「だ、大丈夫……?」
 宮野がすぐに体を支えてくれる。オレはぐるぐると回る視界をなんとか堪えながら「大丈夫」とだけ返した。
 いや、大丈夫じゃない。今にも意識を手放しそうだ。何故こんなに眠いんだろう。
 隣にいたはずの宮野の声が遠くの方で聞こえる。方向感覚が鈍り、自分の体がどうなっているのか理解ができなくなってくる。
「……?」
 ふと意識が戻ってくる。まだ眠気は残っているが、気を張っていれば耐えられるレベルになった。顏をあげると日傘を広げた日森と目があった。
 何故か日森は微笑みを引っ込めて目を大きく見開いた。だがすぐに何事もなかったかのように微笑みを浮かべた。その取り繕うような様子が逆に違和感を強く残したが、オレの視線を微笑みで流す日森は、あくまでなかったことにするつもりのようだった。
 仕方がなく日森のことは忘れて、現状把握のために周囲を見渡す。
 地面に座り込んだオレを宮野が支えてくれていた。日森が日傘をさして、日陰を作ってくれていたようだ。西条も傍に膝をついて心配するようにオレを見ている。清原だけ距離を取って立ち、面倒臭そうな態度を隠すことなくこちらを睨んでいた。
「だ、大丈夫なの?」
 宮野が泣きそうな様子でオレの背中をさすっている。今度こそ本当に大丈夫だったので大きく頷く。
「もう大丈夫。急に動いたから、眩暈がして」
「そう……? それならいいけど……無理はしないでね」
「貧血かな? これ使う?」
 日森が日傘を差しだしてきたから迷いなく受け取った。
 なんとなく感じる。オレにはこれが必要だ。

 バリケードで封鎖されている表門からではなく、用意された脚立を使って塀を乗り越えて、大学の敷地を出る。ここまでの道のりは西条達も手馴れているらしく、足取りに迷いはなかった。
「校舎のほうにはまだ感染者がいるけど、日中は奴らも寝ていて大人しいからね。こっちの道からいけば、音も校舎まで届かないし、安全なんだ」
 西条はそう言っていたが、感染者を恐れているような小声だった。
 外に出てからは、全員で警戒しながらゆっくりと足を進めた。先頭はゴルフクラブを持った清原。次に金属バットを構えた西条。中央にオレと宮野。最後尾に日森だ。武器を持っているのは清原と西条だけで、宮野と日森は大きなカバンを背負っている。どうやらそれなりに役目が決まっているようだ。
 オレは目深にフードをかぶり、日傘をさして、思案する。やたら眠いのは体調不良のせいかと思っていたが、どうやらこれはおかしい。日中だけ眠くなる……それも日光に当たると更に眠くなるらしい。この症状は感染者のそれと似ているように思えてならない。
 しかしオレは噛まれていない。奴らのように人間の肉を食べたいとも思わないし、奴らと違って意識もはっきりとしている。奴らとは決定的に異なっている。
 いや、待てよ。オレが目を覚ましたのは、あの怪しげな施設だった。
 仮に……あの施設で今回の大惨事の切っ掛けとなる実験がされていたとしたら?
 そこで実験体となっていたと思われるオレは一体なにをされた?
 この症状はその実験のせいなのか?
「聞いてもいい?」
 いつの間にか横に日森が立っていた。注意力散漫になっていたようだ。横に人が立っていることにも気づけないなんて。気を引き締めていかなければ。
「君って外国人とのハーフだったりする?」
「……何故?」
「目の色、青っぽいでしょ。あ、それとも実はカラコン?」
「…………」
 オレは日本人だ。瞳の色は……確か茶色に近い黒だったはずだ。
 日森にからかわれているのだろうか。いや、先ほどの反応は瞳の色に驚いたからだと思えば辻褄があう。あの表情は決して演技ではなかった。
 いつから瞳の色が変わった?
 最後に鏡を見たのは……あの研究所だ。あのとき瞳の色はどうだったか。まったく覚えていない。そもそも自分の顏なんてじっくり見ないし、あの時は気が動転していて瞳の色など見向きもしなかった。
 宮野たちの反応を思い出してみる。サークル棟にいたとき、誰も瞳の色を対して反応を示さなかった。ということは瞳の色が変化したのは最近か? 
 いや、サークル棟は雨戸を締め切っていていつも薄暗い。それにオレはいつも寝ていたから、いままで気づかれなかったという可能性も大いにあり得る。
 ……ダメだ。考えることは後にしよう。今は外だ。いくらオレが戦力外だとしても、せめて周囲を警戒するくらいはしなければならない。
 オレたちはいま、大学から徒歩で三十分程度離れた住宅街に来ている。
 感染者たちは建物の中で寝ているらしく静かだ。大通りと違って荒れた様子はほとんどない。それでも日常と異なると感じるのは、乗り捨てられた車をよく見かけるせいだろう。
 ここに来るまで生きている人間の姿は一人も見かけなかった。必要以上に外出せず建物内に引きこもっているだけなのか、それとも生存している人間自体が少ないのか。この周辺に限って言えば、恐らく後者が正しいのだろう。生活音の皆無さがそれを知らしめているように感じる。
「ダメだ、ここも入られた後だ」
 いくつかの住宅を確認した西条が、肩を落としながら仲間と合流する。
「この辺りは、既に人の手が入っているみたいだね……」
「場所を移すか?」
「そうだね。誰かが入った後だとめぼしいものはほとんど残っていないし、まだ人がいる可能性もある。危険を冒してまでここに残る必要はないと思う」
 西条の意見に誰も反対意見は出さなかった。
「さて、どこに向かうか……」
「近くにちぃせぇスーパーがあったろ。じいさんとばあさんがやってた、インスタントラーメンとか調味料とか置いてるやつ。一応寄ってかねぇ?」
「ああ……そうだね。あまり物は置いていなそうだけど、その方がむしろ期待できるかもしれない。少し寄るだけなら、そう危険もないだろうし‥‥」
 一同は清原の提案通り、近所にあるスーパーを目指すこととなった。
「おい、見ろよ」
 先頭を歩く清原が足を止めた。
 彼の視線は前方にあるバスの停留所に向けられている。ベンチと屋根が用意されているタイプのもので、もちろんバスを待つ者はいなかったが、代わりに日陰でじっと蹲る姿があった。
「感染者だ」
 サラリーマンのように見えた。スーツのあちこちは噛みちぎられており、肉がえぐれ、骨が見えているところもある。体を丸めるようにして日陰に縮こまり、死んだように動かない。どうやら眠っていて、まだオレたちには気づいていないようだ。
 西条は一度足を止めた。彼は遠回りをしようと、周囲を見渡して安全な道を探し始めたが、清原は足を止めなかった。
「おい、清原……」
 西条の静止を無視して、清原はどんどん感染者に迫っていく。
 清原は大胆にも足音を殺していなかった。足音に気付いた感染者が眠りから覚醒し、素早く顔をあげた。その瞬間、ゴルフクラブが顔面にめりこんだ。清原が躊躇わずに振りかぶったそれが、感染者の顔面を叩き潰していた。
 倒れこむ感染者。清原は感染者の胸を踏みつけると、何度も何度も、執拗にゴルフクラブで頭を殴りつけた。
「っ……」
 宮野が声にならない悲鳴をあげたので、オレは彼女の視界を遮るように前に立った。
 清原のそれは、あまりにも洗練されていないものだった。ひたすら力任せで、傲慢さが見え隠れする、ただ痛めつけるための暴力だけだった。宮野が怯えるのも無理はなかった。
「これが感染者だ」
 ぴくりとも動かなくなった感染者を蹴りつけながら、清原は得意げな視線をオレに向けた。
「寝ていても、少しの音に反応して襲ってきやがる。夜だと動きが早くなるからもっと厄介だ。やるなら昼間にしとけ。但しこいつらを殺すためには、頭を完全につぶさなきゃならねぇ。まぁ、そんな細腕のお前じゃ、武器すらマトモに振れねぇだろうけどな」
 感染者を殺すことは致し方ないとして、わざわざ苦しめて殺す必要があるのだろうか。これではあまりにも死者が報われない。
 どうやら清原はオレに対して苛立っており、当てつけのためだけにあのようなパフォーマンスをしたらしかった。にやにやと笑う清原は明らかにオレの反応を楽しみ、見下していた。
 オレは清原に嫌悪感を抱いたが、刃向かうことはするべきではないと考えた。清原の行動は褒められたものではないが、ここでは彼が一番の戦力、つまり命綱だ。世話になっている身として下手に反抗しないほうがいいだろう。
「なるほど。お手本に感謝する。もしお前が感染したら、このようにして殺すことにしよう」
「……ハァ!?」
「ぶふっ」
 日森が変な声で吹き出した。清原が日森を睨むが、彼は気にすることなくげらげらと笑い始めた。
「日森、てめぇ! 笑ってんじゃねぇ!」
「ダメだよ、清原先輩。たぶん今のね、フラグだと思うよ。この後清原先輩は感染して、詩くんにぼっこぼこにされて殺されちゃうんだ。同じように顔面に一回、頭に五回食らってね。あ、詩くんはひょろひょろだから、三倍くらいは多く殴られるかも」
「やめないか、日森。清原もだ。こんなところで騒ぐなんて、どうかしてるぞ」
 見かねた西条が止めに入る。流石に状況は心得ているのか、清原も日森も大人しく黙った。とはいえ日森はまだ笑みを噛みしめており、清原は殺意の籠った眼差しでオレを睨んでいた。
 おかしい。素直に従ったのに。オレは清原の精神状態がわからず首をひねる。
「……!」
 不意に視線を感じて、反射的に振り返る。
 見たところ人影はない。日陰に潜む感染者の視線だろうか。いや、一瞬のことだったし、気のせいだったかもしれない。なにせ最近のオレの感覚はめちゃくちゃで、どうも信用できない。
「……詩くん、もう行くみたい」
 周囲を見渡していて遅れたオレを、宮野が心配して呼ぶ。オレは頷いて彼女の後を追った。

 清原が言っていた個人経営のスーパーは、住宅街から十分ほど歩いた場所にあった。
 店の規模はとても小さい。老人が趣味の延長線で経営しているような庶民的なスーパーだった。近所の人がちょっとした買い物のついでに、何時間も雑談をして帰るような、そんな場所のように見えた。
 入り口は施錠されていなかった。窓ガラスは割れていたし、どこからでも簡単に侵入できそうだ。反して店内があまり荒らされていないように見えるのは、外から見るとなんの店なのか分かりにくいからかもしれない。
 清原を先頭に慎重に店内へ入る。店内は雑多としていて死角が多かったが、割れた窓から外の光が入り込み、見回すのに困らない程度の明るさはあった。
「俺と清原で店内の安全を確認する。日森と宮野さんは俺たちが通った後に、何か使えるものがないか探してみてくれ。詩くんは――」
 西条はチラリとオレを見て、 
「入り口で、誰も来ないように見張っていてくれ」
 どうやら体調のことで彼に気を使わせてしまったらしい。与えられた役割は明らかに一番楽な役割だった。オレが頷いたのを確認すると西条は武器を構え直す。
 店内はあまり広くない。入り口からすぐ目の前にレジがあり、左手に商品棚がいくつか並んでいる。西条がレジを突っ切って奥の商品棚から、清原は入り口側の商品棚から進み、店内を隈なく確認するつもりのようだ。
「おっ……ラッキー。乾麺だ」
 日森が小声ながらも興奮を抑えきれない声をあげる。彼がうどんの乾麺を鞄に詰め込むのを見て、宮野もわずかな希望に抱くように店内を見渡した。
「あった……!」
 宮野も食料を発見した。レジの向こう側、壁に設置された棚に蜂蜜らしき瓶が並んでいる。宮野は甘いものが好きなのだろう。嬉しそうに口元を綻ばせて、彼女は鞄を肩から下ろしながら、小走りに駆けて行った。
 背伸びした宮野が棚の上の瓶に手を伸ばした時だった。
「あ!」
 西条が短く声を上げた。
 明らかに注意を引くための声だったと思うが、それはあまりにも無意味な声だった。これでは何を言いたいのか全くわからない。
 オレは素早く西条の視線を追う。レジに設置された小さな棚――棚の両開きの扉がいつの間にか空いていた。恐らく西条はこの扉が開いたのを見て声を上げたのだろう――から、老婆のような体が転がり出てきた。
 感染者だ。
 棚の中で体を丸めて眠っていたのだろう。すぐそばで音がしたので、覚醒して飛び出てきたらしい。それは、ぐるりと首を回して一番近くの獲物……宮野を見た。
 老婆とは思えないスピードで宮野へと飛びかかった。宮野は唖然とした表情で全く反応ができていない。彼女から一番近いところにいるのは西条だ。しかし彼も硬直したまま動かない。
 オレは無意識のうちに駆け出していた。
 レジに飛び乗り強く蹴る。
 今のオレの筋力では大してスピードはでないだろう――と思ったが。
「!?」
 レジを強く蹴った勢いで、オレは天井近くまで飛び上がった。
 ちょうど宮野の真上あたりだ。オレは空中でくるりと一回転して、天井を蹴り、一気に下降する。下降の勢いを利用して振り上げた日傘は、感染者の頭部をたやすく叩き割った。
「きゃっ……」
 宮野は無事だったが、驚きのあまり後ろに倒れ込みそうになっていた。オレは素早く手を伸ばし、宮野の手を掴んで、倒れ込むことを阻止する。
 同時に頭部を叩き割った感染者の様子を観察する。それは痙攣してはいたものの、再び動き出す気配はなかった。
 どうやら感染者の肉体は人間よりも脆いらしい。少し力を込めて頭部を叩きつけただけで、感染者はすぐに動かなくなっていた。
「……ふむ」
 オレは日傘を血振りしながら思案する。てっきり筋力が落ちたと思っていたが、予想以上に動ける――いやむしろ半年前よりも体は動く。以前は頭ではわかっていても体が追いつかず、反応できないことがあったが、今は思う通りに体が動くような感覚すらあった。
「お、お前……」
 唖然とした声がして顔をあげる。今更になって駆けつけた清原が、化け物を見るような顔をしてオレを見ていた。
「今の……どうやって」
「ああ……剣道部だったから」
「ふざけるなよ!」
 清原は急に激昂した。何が癇に障ったのか分からないが、恐らく彼もオレと同じ違和感を覚えているのだろう。オレのような体つきで先程のような動きをするのは、あまりにも非現実的である。
「清原」
 西条がオレたちの間に割って入った。清原を抑えるような態度だったが、その警戒した瞳はこちらを見ている。
「落ち着け。その、詩くん……ありがとう。君がいなかったら、宮野さんは危なかったと思う」
 確かにあの様子じゃ西条はまったく動けなかっただろうし、オレがいなければ宮野は噛まれてしまっていただろう。
「詩くん……」
 オレの背中で震えていた宮野が、素早く動いて、西条の警戒に塗れた視線を遮った。
「助けてくれて、本当に、ありがとう」
 死の恐怖を味わったばかりの宮野は泣いているかと思いきや、意外にもほっとした微笑みを浮かべて、オレを見上げていた。その視線からは警戒心も悪意も感じない。
「すごく強いんだね。びっくりしちゃった……」
「ああ……オレも、半年前と同じように動けることにびっくりしている……」
「腕は大丈夫? 痛めてない?」
 宮野の人の良さにオレは驚きを隠せなかった。先程死にかけたばかりだと言うのに、自分のことは気にせずに他人の心配をしている。オレの腕を掴んだ宮野は、さっと顔色を変えるとオレを見上げた。
「詩くん……体、冷え切ってるよ。帰ったら温かいご飯にしなきゃ」
「いや、別に大丈夫だから」
「遠慮しないで。さっき日森くんが乾麺を拾ってたし……温かいうどんなら、作れそうだから」
 清原はずっとオレを睨んでいる。西条も警戒の色を隠さずオレを遠巻きに観察している。宮野がいつも通りなのは、重くなった空気を察して、あえてオレのためにそう振舞ってくれているのだろうと今更気づいた。
 日森だけは本当にいつも通りだった。オレが気づいた時はもう、彼は何も気にすることなく鼻歌まじりに食料を鞄に詰め込んでいた。
 

〈日森サイド〉

 あの日を境に俺たちの関係は確実に変化した。
 原因は明らかに詩くんだった。
 人間離れした動きで感染者を瞬殺した詩くんは、相変わらずほとんど喋らないけど、弱々しくぼんやりとした様子はすっかり消え去って、隙を伺う野生動物のような様子に変化した。長く伸びた前髪から覗くあの青い瞳に見つめられると、背中に冷たいものが走るような感覚を覚える。
「あいつはヤバい」
 元から詩くんに警戒心を抱いていた清原先輩は、ますます彼を危険視するようになった。こういう時、以前の西条先輩なら詩くんをフォローするような発言をしていたけど、今は清原先輩に同意する立場に変化していた。
「うまく言えないけど、俺もそう思う。彼は危険だ。宮野さんはどうしてる?」
「相変わらずあいつの傍だ」
「どうして宮野さんは、明らかに怪しい奴のところにいるんだ?」
「知らねぇよ!」
 宮野さんは最初から詩くんに依存していた。最初は自分よりも弱者の立場である詩くんに対して、加護欲のようなものを抱いているように見えた。けれど命を救われた今は、恐らく彼女は詩くんに恋をしてしまっている。
 無理もないと思う。あんなスーパーヒーローのような助けられ方をしたら、俺だって惚れてしまうだろう。
「おい。さっき奴の部屋に行ってただろ。なんか知らねぇのかよ」
 苛立った様子の清原先輩が、ストレスのはけ口を見つけたようにぎろりと俺の方を見る。
 俺の推測を清原先輩に言うべきではないということは、空気が読めないと定評のある俺でも流石に察することができた。宮野さんの態度は明らかだからすぐにバレるだろうけど。俺の口から言うことで、俺が清原先輩の激怒の対象になることは避けたい。
 俺は面倒事を嫌うように、軽く肩をすくめて見せた。
「別に何も言ってなかったよ。まぁ推測にはなるけど、彼女は命を救われたことになるんだし、警戒よりも感謝の方が強いんじゃない?」
「俺もいつもあいつを助けてるだろうが! けど宮野から一言も感謝の言葉なんて聞いたことねぇぞ!」
「俺に怒らないでよ。俺は宮野さんじゃないし、そんなの知らないよ」
 まぁ確かに。同じ行動をしているのに、詩くんは惚れられて、清原先輩は嫌悪されているのは不思議だ。
 理由として考えられるのは、態度とか、見た目の違いだろうか?
 清原先輩の「助けてやったんだから感謝しろよ(あわよくば付き合えよ)」という、まるで世界中の人が清原先輩に従うことが当然のような態度と、女子受けの悪そうな睨みつけるような視線と強面の外見。
 反して詩くんの一切裏表のない、見返りを求めない清々しい態度と、見惚れるような整った顔立ち。
 戦い方でも差がつく。暴力という一言で表せる野蛮な戦い方をする清原先輩と、まるで剣舞のような凛とした美しさで、無駄のない戦い方をする詩くん。
 一般的に言えば、後者の方がウケがいいってことは考えなくてもわかることだ。
「それなのに、ここでは詩くんのほうが警戒されてるなんて、変だなぁ」
「なんだって?」
「なんでもない」
 うっかり考えを口に出していたらしい。俺は慌てて首を振って話を逸らす。
「確かに、詩くんがあんなに強かったのは意外だったけど、そこまで警戒する必要ってある?」
「ただ強いだけならそこまで警戒はしないさ」
 答えたのは、まるで「自分が一番冷静に状況を判断できている」とでも言いたげな様子の西条先輩だ。
「問題は、今まで実力を隠して弱いように見せかけていたことだ」
「彼は清原先輩に殴られて、本当に体調が悪そうに見えたけど、それが演技だってこと?」
「いや……確かにあれは演技のように見えなかった。だけど、そもそも殴られたのもわざとかもしれない。背後からの攻撃だったとはいえ、彼なら清原の攻撃くらいは簡単に避けられたはずだ。日森も見ただろう。あの速さと身のこなし……一撃で感染者を殺す技術……普通じゃない」
「うん? かっこいいじゃん。何が悪いの?」
「日森、お前……バカなのか?」
 清原先輩が心底馬鹿するように俺を見た。ショックのあまり何も言い返せないでいると、二人は俺を無視して話を続ける。
「やばいのが、あの動きがほんの一瞬の間に行われたってことだ。俺ですら目で追うこともできなかった。その気になれば簡単に俺たちをやれるはずだ」
「ああ。冷静に考えてみると、他にも不審な点も多い。彼はこの一週間、まともに食事をとっていないはずだ。水分もほとんどとっていない。それなのに彼は一度も空腹や体調不良を訴えたことがなかった。まさか……」
 西条先輩は言葉の途中で、ある可能性に気付いたようだ。
「誰かから食料を受け取っていた? そうか、それなら日中ばかり眠っていることも説明がつく……彼は仲間と夜中に落ち合うため、日中に睡眠をとっていたんだ」
「ちょ、ちょっと待った。流石に飛躍しすぎじゃない?」
 我に返った俺が慌てて口を挟むが、西条先輩は俺の言葉なんて聞いちゃいなかった。もう自分の考えが正しいと信じて疑わない様子だ。詩くんがやけに強いというところから、なんでそこまで話が飛ぶんだろう。理解できない西条先輩の思考回路に思わず苛立ちを覚える。
 いけないいけない。ここは冷静に話さないと。喧嘩腰になったら逆効果だ。感情任せになって関係がギスギスしても、困るのは俺だからね。
 確かに詩くんには不可解な行動が多い。ずっと寝ているし、食事もとらない。けどその状態には本人も戸惑っている様子だった。決して悪意を持って何かを隠しているようには見えなかった。とはいえ、俺の主観的な意見を述べたところで、西条先輩は納得してくれないだろう。
「まだいろいろと怪しいってだけだし、確証が得られるまで、もう少し様子を見てみたら?」
 俺は慎重に言葉を選んだ。西条先輩を納得させることができて、清原先輩を激情させない言葉を。
「下手に俺たちが構えて、詩くんに警戒されるのも良くないだろうし。それに、詩くんめっちゃ強いんだしさ。今のところ彼も俺たちに友好的なんだから、この後のことも考えると、できるなら良好な関係を築けたほうが俺らにも有利だと思うんだよね」
「……確かに、日森の言う通りだな」
 よかった、さすがに西条先輩は冷静になってくれたらしい。清原先輩は不満げにこちらを睨んでくるが何も言わない。いつもなら「力づくで聞き出せば早ぇだろ!」と言うところだけど、今回ばかりは攻撃的な発言をすることもできないようだった。さては詩くんにビビってるな。
「よし……なら、これからやるべきことは二つだ」
 散々考えた末、西条先輩は方針を決定した。
「一つ目は、彼に話を聞くこと。あくまで俺たちは彼に友好的であることを全面に出しつつ、彼が何者なのか聞き出す必要がある。俺たちが納得できるような説明を素直に話してくれるなら、問題は解決だ。ただ彼が変に誤魔化したり、警戒するような素振りを見せたら、それ以上は聞かない。これは俺がやろうと思う。清原じゃ喧嘩になるだろうし、宮野さんはきっと引き受けてくれない。日森に頼む手もあるけど……日森の場合は、微妙な匙加減が苦手だから、直球に聞いてしまうだろうからね」
 あんたならできるとは思えないよ。もちろん思っても言わないけど。
「二つ目は、彼が仲間と落ち合っている証拠をつかむことだ。これは清原と日森に頼みたい」
「ってなると、寝ずの番をしてあいつを見張るか?」
 清原先輩ってバカなの? 
 別にさっき「バカ」呼ばわりされたこと、根に持ってるわけじゃないけど、あえてここは俺もきちんと意見を出して、清原先輩の考えなしを露呈させる必要がある。
「俺はそんな不毛なこと、絶対に嫌だからね。詩くんがそもそも本当に行動を起こすのかもわからないし、二人でやったって確実に寝不足になるし。まぁ日中寝てていいなら寝ずの番をしても構わないけど、そうもいかないだろうし」
 詩くんと出会ってからまともに食料調達ができていないから、備蓄はもう底を尽きている。今日だって想定外の出来事があってすぐに帰ってきてしまったから、またすぐに食料調達に行かないといけないだろう。つまり籠城生活も意外と忙しいのだ。
「そもそも、西条先輩は証拠が欲しいんだよ、清原先輩。一晩中見張ってたら向こうも警戒して動かないと思うんだけど。それより確実なのは、彼が動いたらこちらにもわかる仕組みを作っておくことかな。例えば、あちこちの部屋の扉に開けたらわかるような細工をしておくとか。仮に詩くんが夜中どこかに行っているとしたら、詩くんの部屋、それから外部へ続く扉が開けられるはずだ。これを数日繰り返せば、彼が夜中にどういうルートでどこへ行っているのか把握できる」
「日森……すごいじゃないか。確かにその方法なら、彼に気付かれずに外へ出ている証拠を集めることができる!」
 西条先輩は思惑通りに、俺の提案を高く評価した。渋い顔をする清原先輩に、俺はこっそり勝ち誇った笑みを向ける。
 そもそもの話になるけど、俺は西条先輩や清原先輩と違って、詩くんを疑っていない。だから一晩中見張るなんて馬鹿げていることは絶対にしたくない。意味もなく寝不足になって終わるだろうから。だからこそ、できる限り俺に負担にならない方法を提案したわけだ。
 数日やってみてなんの成果を得られなければ、きっと諦めるだろう。もちろん清原先輩はしつこく疑うだろうけど。少なくとも流されやすい西条先輩は、詩くんの無害さに感化されてまた警戒心を緩めるはずだ。


〈詩サイド〉

 久しく感じていなかった幸福感に包まれている。
 剣を――正しくは剣ではなく傘だったが――握った結果だ。いや、それだけでは説明がつかない高揚感がオレを包んでいる。
 たぶん、オレは再び剣を握る理由を得ることができて嬉しいのだろう。

 オレは月夜烏の名で生まれ、物心ついたころから剣を握っていた。
 有難いことに才能はあったと思う。そして剣に対する興味も人一倍あった。勝ち負けにこだわりはなかったが、技術を磨くことは興味があった。
 結果、幼いオレは神童ともてはやされるくらいの力をつけた。父と祖父はオレに大きな期待を寄せていたと思う。もちろんそれは月夜烏の名を継ぐことを意味する。それは子ども目線で見ても明らかなことだった。それでもオレが重圧に押し潰されなかったのは、剣が好きだったこともあるし、父と祖父の期待に応えられることが純粋に嬉しかったからだ。
 転機となったのは中学三年の時だ。
 久々に道場に戻った父が稽古に参加していた。ひょんなことから父と試合をすることになり、オレは父の「手加減は不要だから、全力で来い」という言葉に従って、持てる力のすべてをもって父と剣を交えた。
 詳しい試合内容は省こう。
 結果だけを言うと、オレの圧勝だった。父はこんなにも弱かったのかと拍子抜けしたくらいだった。父が手加減をしたのかと疑ったが、父は甘えを許さずとにかく強さにこだわる人だったから、その考えはすぐに捨てた。
 その時のオレは精神的に未熟だったと思う。手合わせに感謝するよりも先に、父への失望が態度に出てしまった。
 そんなオレを父は鬼のような形相で見つめていた。オレは自分の態度の悪さが父を怒らせたと思ったから、「すぐに部屋に戻れ」という父の命令に大人しく従った。
 その後、態度不良という理由でオレは謹慎処分を食らった。
 謹慎処分中は道場に近寄ることも許されず、剣を握れない日々が続いた。家族と食事を取ることも許されず、別室で一人食事をとった。家中に不穏な空気が蔓延していた。オレはただ黙って時間が経つのを待っていた。
 そして中学を卒業すると同時に家を追い出された。
 当時入学予定だった剣道の強豪高校は辞退することになった。代わりに実家から遠く離れた高校の入学を強制された。その高校は剣道とは無縁の――かろうじて剣道部だけは存在する程度の――高校だった。
 用意された学生寮で一人暮らしを始めることになり、そして高校卒業後は金銭的援助を打ち切ることを通告された。二度と実家に戻るなと命令されたようなものだった。
 この時になってようやく、未熟なオレが父に勝つことは許されないことだったのだと、遅まきながら理解した。

 このころから人生の目標を見失っていた。
 無意識のうちに高校の部活動は剣道部を選択したが、それは馴染んだ遊びをするような感覚で、もう以前のような剣に対する盲目的な意欲は失っていた。
 やろうと思えば一人でも剣を極めることはできたとは思う。しかし、そうしようとは思わなかった。
 剣を極めた結果がどうなった?
 家族に捨てられ、オレの居場所はなくなった。共に稽古をした友人たちとも離れ、もう連絡すら取っていない。再び剣を握ったところで、何か得られるとは思えなかった。
 そして今に至る。
 オレは再び剣を握っている。生きていくために必要な力となった。もう家族のために剣を握る必要も、誰かに強制されて剣を捨てる必要もない。ただオレが生き抜くために、剣が必要だ。

「ちょっといいかい?」
 西条が部屋にやってくる。足音で察していたオレは動じなかった。意表をつかれた宮野は驚いた顔をして、立ちふさがるようにオレの前に立った。
「なんの用なの……?」
「宮野さん、構えないでくれ。少し彼と話したいだけなんだ」
「話?」
 オレは宮野の肩越しに、西条を見つめる。
「どうぞ」
「ありがとう。話っていうのは、君のこれからのことなんだ」
 西条の立ち位置は、向かい合って話すには少々距離が離れすぎていた。西条は強く警戒している。彼のぎこちない体の動き、強張った表情、いつもより少し低めの声から、緊張が見て取れる。表面上は相変わらず親切なふりをしているが、作った表情を無理矢理浮かべているその様は下手くそな役者のようだった。
 一度は縮まったように見えた距離感も、オレが剣を握ったことを切っ掛けに、再び遠く離れたことは明らかだった。
「だいぶ元気が戻ってきたようだからね。あんな……動きができるわけだし」
 西条の声色に怯えた様子が混じったのは、きっと気のせいではないだろう。西条はまるで失言を取り消すように首を振ると、早口で言葉を続けた。
「ああ、だから出て行けという話ではなくて……もちろん、このままここに残ってくれても構わないんだ。でも、俺たちは……その、まだ信頼関係を築けてはいないと思う。だけど、君に俺たちと協力したいという気持ちがあるなら、俺たちは君と良い関係を築けるように努力するし、喜んで、君を仲間として受け入れるつもりだ」
 探るような視線を向けられるが、オレの表情からは何も読み取れないだろう。西条は動揺するように視線を彷徨わせたが、それを隠すように言葉を続ける。
「それとも……君がここを離れるつもりなら、それはそれで、受け入れようと思う。君の帰りを待つ人がいるとしたら、引き留めたら申し訳ないからね……あ、とはいっても、君は記憶喪失だったね。でも、少しは思い出してきたんじゃないかな? 最初に比べると、君の雰囲気もだいぶ変わってきたようだし――」
 西条の態度や言葉選びは、不審人物を相手に慎重になっているというより、畏怖する相手に少しでも友好的態度を見せておこうとするような感じだった。西条は明らかにオレに対して恐怖心を抱いている。オレが西条達に危害を加えることができる対象と判断したからだろう。リーダーとして当然の判断だ。
 西条は言葉を切って、オレの反応を待つように黙り込んだ。ようやくわかりやすい問いかけがきたので、オレは首を振って返す。
「記憶は戻ってない。ただ、現状に慣れてきただけだ」
「……そうか。記憶は残念だけど、気持ちが落ち着いたのなら、よかったよ」
「さっきの話だけど、オレは、いつまでもここに世話になるつもりはない。近いうちに出ていこうとは、考えてる」
「え!?」
 驚いたように声をあげたのは宮野だった。西条は表情を硬くしたが、それは驚きというより警戒を強めたような様子だ。
「行く当てがあるっていうことかい?」
「そういうわけでもない」
 ここに残るメリットがないというだけだ、と心の中で付け加える。
 剣を振って生きるのに安全な場所に籠城する必要はない。そしてオレを警戒する西条達は、剣を振るうにあたって障害にしかならない。西条からしてみても、警戒対象のオレがさっさと出て行ってくれるのは大歓迎だろう。適当な理由でも言っておけば深く追求せず納得するはずだ。
「ただ、少し外の様子を見に行こうと思って」
「……そうか。それなら、すぐに出発する必要はないんだろう? 宮野さんも寂しがるし、もうしばらくはここにいるといい」
 てっきりすぐに追い出されるかと思っていたから、予想外の引き留めに、オレは思わず西条の顏を見つめる。西条は何故か緊張感を強めた様子だった。
「構わないだろう?」
 西条は畳みかけるように、もう一度強めの様子で問いかける。どう見ても歓迎されていないのに何故引き留めるのだろう。
 それとも歓迎されていないというのはオレの考えすぎか?
 いや、これはただの勘だが、西条のそれは善意ではない。西条は何か企みを持って――それもオレにとって不利になるようなことを――オレをサークル棟から出したくないと考えているように思える。
「……わかった。そうする」
 どっちにしろ確認したいことがある。
 今は適当に頷いておいて、隙を見て出ていけばいいだろう。

 数日前のオレの考えは甘かったと認めざる得ない。
 西条のあの怯えながらも緊張感をまとった表情は、決意の表れだったらしい。
 西条はあの日からオレに対して容赦なくなった。毎日しつこくオレのもとを訪れて、尋問に近い問いかけを繰り返してくる。口調こそ柔らかいが、その鬼気迫る表情はオレを親の仇と思っているかのようだ。
 どうやら西条はオレが「何か企んでいる」ことにしたいらしいが、生憎オレは西条がどんな答えを求めているのかもわからない。オレの返答が満足いくものではないことが分かると、西条は「また顔を見に来るよ」とオレを気にかけるような言葉を吐きながら「次は隠し切れないぞ」というような顔をして去っていく。
 厄介なのは西条だけではない。
 オレが少しでも部屋から出ると、今度は清原がオレの後をついてくるようになった。少しサークル棟内を探検しただけでも「何を企んでんだ?」と難癖をつけてくる。階段を下っただけでも「まさか世話になるだけなって、逃げるつもりじゃねぇだろうな!」と怒鳴りつけてくる。わざとオレを怒らせたいのかと思わせるほど理不尽な態度だ。
 日森も態度が変わった。
 彼はオレに無関心になり、あえて距離を撮るように付きまとうことはなくなった。一度だけ顔をあわせたが、困惑した表情で、オレの背後で怒鳴り散らす清原にちらりと視線を飛ばしていた。彼とはそれっきり顔をあわせていない。
 態度を変えなかったのは宮野だけだった。
 彼女は相変わらずご飯の時間にやってきて、食事を用意してくれる。食事の後は他愛のない話を聞かせてくれて、オレが眠そうな態度を見せるとそっと部屋を出ていく。
 一度、騒音で目が覚めたことがある。宮野が西条や清原と揉めている声だった。宮野はオレの前では決して態度を変えなかったが、オレを庇って仲間内で孤立しているのは明らかだった。
 オレはそんな宮野に対して冷たくするわけにもいかず、できる限り愛想よく対応することにした。ただ異性の友情というものもよくわからず、変にぎこちなさが残るのは仕方がない。
「詩くんがここを出る時、私もついていったら、迷惑、だよね……?」
 食事のとき、宮野が消え入りそうな声で言った。
 オレは咄嗟に周囲の気配を探る。部屋の周りには誰もいないから、会話を盗み聞ぎされている心配はないだろう。
「外は危険だと思う」
 オレの返事は遠巻きの拒否だった。はっきり断らなかったのは、拒否することへの申し訳なさがあったのからだと思う。
「ここにいたほうが安全だ」
「わかっているんだけど……あの人たちと……この先、やっていける気がしなくて。私、苦手なの……西条くんと清原くんが」
「それは、大いに同意するけど」
 そこははっきり頷くと、宮野はくすっと笑った。
「でも、変に気をつかわないでね。私があの人たちと意見があわないのは、元からなの……詩くんのせいじゃないからね」
 オレが宮野に対して申し訳なさを感じていることを、彼女は気づいていたらしい。返事に困って黙っていると宮野はまた笑った。
「考えておいてね。それだけで嬉しいから……」
「……うん」
 いくら考えたとしても、オレの考えはかわらないだろう。
 敵を前にした時、オレはたぶん、守ることよりも戦うことを優先してしまう。敵を倒すことばかり考えてきたせいで、守ることに慣れていないせいだ。身を守る術を持たない宮野はすぐに死んでしまうだろう。
 仮に彼女が「それでもいい」と言ったとしても、オレは困る。宮野はオレを責めないだろうが、オレはやはり自分を責めるだろう。他人の命を預かれるほどオレはまだ精神的に強くはないし、わざわざ他人の命の重みを背負う意味もわからない。

 なるべく早くここを出よう。例え西条達がそれを望んでいなくても、結果的には、それが全員にとって最善のように思えた。
 素直に西条に「もう出ていく」と伝えるのは、あまり良い手ではないだろう。彼らはオレを恐れながらも、何故か監視下に置こうとしているからだ。
 つまり彼らに気付かれずにそっと出ていく必要がある。それにあたって事前に確認すべきことがある。
 オレは寝たふりをしながら気配を探る。
 雨戸が閉まっているせいで時間間隔が狂っているが、恐らく時刻は深夜に近い。サークル棟は静まり返っており、ほとんどの人物が眠りについている時刻だ。起きているのは、オレと、オレを見張る人物くらいだろう。
 扉の向こう側に気配がある。姿は見ていないから断定はできないが、二人分の気配と息遣いを感じるから、恐らく西条と清原だろう。彼らはじっと息を殺して、扉を少しだけ開き、室内で眠るオレをじっと観察している。
 最近は毎晩こうだ。
 彼らはオレが大人しく眠っているだけでは納得できないらしく、毎晩しつこく観察し続けて粗探しを行い、やがて諦めたように帰っていく。何かを期待して、夜のうちに何度もやってくることもある。
 一度だけ室内に入ってきたこともある。
 オレは目を閉じて寝たふりをしていて彼らが一体何をしていたのかはよくわからないが、何か探しているのか、足音を殺しながら室内を徘徊していた。
 今日の西条と清原は観察するだけで満足したらしい。気配が遠のいていったことを確認して、オレは身を起こす。今までの経験上、彼らが短いスパンで見張りに来ることはなかったから、しばらくは寝たふりをする必要もないだろう。
 オレは壁に立てかけてあった日傘を手に取って部屋を出る。通路はしんと静まり返っていて、誰の気配もない。灯りもないため真っ暗だが、闇に慣れた目は特に不便を感じることはない。オレは足音を殺しながらも、速足で通路を進む。
 全ての窓に雨戸が閉められており、一階の出入り口はバリケードと施錠がされているのは、既に調査済みだ。西条達が外に出る時は一階の窓から出ているが、夜中に雨戸を開け閉めすることは音を立てるリスクがあるためできない。
 結論、外に出るためには屋上を使用するしかない。屋上へ続く扉は施錠されているが、内側から簡単に外れた。
 屋上に出る。灯りを漏らす家は一つもないせいで外は驚くほど真っ暗だ。
 今日のオレの目的は二つだ。
 一つは誰にも気づかれずに外に出るための手段の確保。
 もう一つは、オレの憶測が正しいか検証するため。
 一つ目は屋上に辿り着いた時点で解決した。サークル棟は三階建てだが、備品に避難用のはしごがあったのを確認してあるので問題はない。
 二つ目の目的だが――
 オレは屋上の手すりにつかまりながら身を乗り出して、周囲を見渡す。西条の話では校舎の方には感染者がたくさんいて、夜になると大学の敷地内を徘徊しているという。
「……居た」
 サークル棟のすぐそばの花壇に人影がある。長い髪がぼさぼさに乱れていて顏はよく見えないが、赤黒く染まったシャツとジーパンを履いている女性のようだ。俯きがちにじっと花壇の方を見ている。
 こうして見ていると感染者なのか普通の人間なのか判別ができない。まぁ、こんな真夜中に大胆に外をうろついているのは、大体は感染者と思って問題ないだろう。
「なぁ、ちょっといいか!」
 オレは屋上から声をかけた。西条たちに気付かれたくなかったので、大声とまではいかなかったが、花壇の傍にいる感染者には届いたはずだ。
 感染者は血で汚れた顏をあげて、オレを見上げる。白く濁った瞳と目が合うが、彼女はすぐに興味をなくしたように花壇に視線を落とした。
「……はぁ」
 溜息をつきながら、そっぽ向いてしまった感染者の後頭部を眺める。
 オレの憶測は当たっていた。オレは感染者から捕食対象として見られていない。つまりオレは、生きている人間ではなく、感染者と同じ存在として認識されている。
 何故かはわからない。恐らくオレを連れ去った奴らが関係しているのだろうが、手掛かりはなにもない。
 ただ一つはっきりしているのは、このことを他の奴らに――特に西条や清原に――知られたくないということだ。今でさえ必要以上にオレを警戒している彼らが、このことを知ったらますますおかしな行動を起こすに違いない。
 明日の夜にここを出よう。
 本当は今晩中にもここを出たいところだが、さすがに宮野にだけは別れの挨拶をしておくべきだろう。


〈日森サイド〉

 詩くんは見事に俺の期待を裏切った。
 以前の詩くんなら一日の九割は寝ていて、残りの一割はぼんやり食事をしているだけだった。でも最近の詩くんは、昼はうろうろとサークル棟を見て回り、夜は俺たちの目を盗んでなにかをしている。
 扉に仕掛けたちょっとした細工を信じるならば、詩くんは夜中のうちに部屋をでているし、窓を開けようとした形跡もある。昨晩は屋上に行ったらしいということも分かった。
「やっぱり、俺の予想通り、彼は誰かと連絡を取っているんだ!」
 西条先輩が鬼の首を取ったかのように騒ぎ出したのは言うまでもない。
「これ以上彼を自由にさせるのはまずい。もう既に敵にいろいろと情報を流されてた後かもしれないけど……」
「やっぱこんなまわりくどい方法じゃなくて、最初から追い出しておけばよかったんじゃねぇか!」
 清原先輩はお前のせいだと言うように俺を睨んでくる。俺は素知らぬ顔をして雑誌をめくった。
 確かに詩くんの行動は予想外ではあったけど、清原先輩のように考えなしに行動したって良い結果が得られたとは到底思えない。むしろ俺の慎重な行動のおかげで情報が一つ集まったのだから誉めてほしいくらいだ。つまり一ミリも俺に悪いところはないんだけど、頭に血が上っている清原先輩に何を言っても通じないだろうから、こういう時は無視するのに限る。
 と、俺の手から強引に雑誌が奪われた。
「日森、先輩が話しているときくらい、雑誌を読むのをやめないか」
 雑誌を奪い、説教してきたのは西条先輩だ。
 西条先輩も俺の意見に同意したくせに、まるで全てが俺のせいだと言わんばかりに落胆した顔をこちらに向けていた。俺は呆れかえって肩をすくめつつも、大人しく従うことにする。
「はいはい、すみませんでした~」
「日森! いい加減にしないか!」
 何をどういい加減にすればいいのかわからないから、もう面倒になって黙っておくことにする。そうするとようやく西条は満足したらしく、説教から俺を開放した。
 感情任せに怒鳴りつけてくる清原先輩も厄介だけど、自分だけの正義を振りかざしてくる西条先輩もこれはこれで厄介だなぁ。
「今晩は彼の部屋を見張って、彼が出ていこうとしたところを問い詰めようと思う」
 雑誌を奪われた俺は、まるで西条先輩と清原先輩の話し合いに参加しているような立ち位置で、二人の会話を聞く羽目になってしまった。
「こちらには証拠が揃っているし、彼はもう誤魔化すことはできないはずだ」
「んなちんたらしていていいのかよ。証拠があるんなら、今すぐにでも問い詰めてやったほうがよくねぇか」
「いや、ここは慎重に行こう。証拠だけじゃなく、実際に外に出ようとしているところを問い詰めたほうが効果があるからね」
 でたよ、西条先輩の心配性。これで詩くんが屋上で立ちションしてるだけだったら、どうするつもりなんだろうな。
「あいつが敵だって確定したらどうすんだよ」
「俺はあくまで平和的に解決したいと考えているよ。もしそれが無理だったとしたら……三対一なら、俺たちに勝ち目はあると思うか?」
 いや、俺を戦力にいれないでもらいたいんだけど。
「ムズいだろうな。お前らが俺くらい動けるならともかく、ずぶの素人じゃ、戦力にならねぇ。とはいえ、武器を持って立ってるだけでも意味はあると思うぜ。どんな奴でも、武器を持った奴を無視するわけにはいかねぇからな」
「なるほど……確かに、例えば相手が子どもでも、武器を持っていたらそれだけで脅威になるものだからね。じゃあ、準備しておくよ」
 詩くん相手じゃ、こちらが武器を用意したところでなんの意味もない気がするけどね。そう思ったけど、俺は口を挟まなかった。何を言っても、この二人は考えを変えないだろう。
 口を挟まない代わりに、俺は真面目な顔をして身の振り方を考えていた。
 西条先輩と清原先輩にはいろいろと問題がある。視野の狭さ。独善的な考え方。他責思考ゆえに過ちから何も学ばない愚かさ。そして二人の致命的欠点は幼稚さだ。このままでは彼らを待つのは破滅だけだろう。
 俺は溜息をつきながら席を立った。
「どこ行くんだよ」
「武器になりそうなものを探してくる。俺だけマイウェポンがないからね」
 夜が更けるまでそう時間もないことだし、急がないと。

 表だって準備するわけにもいかず、支度は予想以上に手間取ってしまった。もう外は暗くなっている。時刻は十九時を過ぎていた。時計の時刻がずれていない前提の話になるけど。
 西条先輩と清原先輩は夕食を取っていた。俺は詩くんの動向を見張ると伝えて、一人で詩くんの部屋に向かっている。
 詩くんの部屋は二階だ。
 予想通り、室内では詩くんと宮野さんが話をしていた。詩くんは寝袋の上に胡坐をかき、宮野さんはすぐそばにクッションを敷いて座っている。
「日森くん……この部屋にくるなんて、珍しいね」
 突然訪問した俺に、宮野さんは遠巻きに嫌味を言う。彼女が詩くんのことで西条先輩と清原先輩と揉めている時、俺は巻き込まれたくなくて近寄らないようにしていた。宮野さんはどっち付かずの俺に苛立っていたらしい。
「先輩たちの雑用で忙しくてね」
 俺は宮野さんの攻撃的な態度をすらりとかわして、素早く扉を閉める。
 部屋は詩くんが来た当初から、ほとんど変わりはない。詩くんはあまりインテリアに興味がないらしい。彼が唯一持ち込んだのは俺が渡した日傘だった。
 俺が改まった様子でテーブル近くの椅子に腰かけると、宮野さんは明らかに戸惑ったような顔をした。
「何かあったの?」
「実は、ちょっと面倒なことになって……ん?」
 声を落として話し出そうして、少し椅子を二人に寄せたとき、組んだ足に何かが当たる。どうやらテーブルの裏面に固い何かが出っ張っていて、それが俺の足に当たったらしかった。
 何気なくテーブルの下を覗いた俺は思わず動きを止める。テーブルの裏に黒い何かが取り付けられている。それは手のひらに収まるくらいのサイズの四角形をしていて、頭部からぴんと十五センチくらいのアンテナが伸びていた。
「なにこれ?」
 取り外そうとしたけど、テーブルの裏に両面テープでくっ付いているらしく、簡単には取り外せない。つられてテーブルの下を覗いた宮野さんも首をかしげた。
「テーブルの金具じゃないの……?」
「ちょっと違うように見えるけど。アンテナみたいのがついてるし……」
 詩くんは無表情で成り行きを見守っている。彼の位置からは、テーブルの裏にあるそれは死角になって見えないようだ。
 もしかして、これって盗聴器ってやつ?
 いつの間にこんな場所に仕掛けられていたんだろう。詩くんがやってきたころはなかったはずだ。この部屋にテーブルを運んで設置したのは俺だから、それは断言できる。ということは、それ以降に誰かが詩くんを監視するために設置したってこと?
 詩くんってことはないだろう。自分で自分を監視する必要はない。
 宮野さんだって除外していい。彼女はいつもこの部屋にいて、詩くんと好きなだけ話をできるんだから。
 清原先輩も可能性は低い。あいつはそういったことをコソコソやれるタイプではないから、こういったことを企んでいたら絶対に俺が気づくはずだ。
 可能性が高いのは西条先輩だ。
 扉が開く音がして、俺は咄嗟に椅子に座りなおした。
「……やっぱり。嫌な予感がしたんだ」
 扉を開けたのは西条先輩だった。後ろには清原先輩もいる。まさか俺が盗聴器に気付いたことを勘付かれたか?
 いや、まだ誤魔化せる。俺は自然な調子で白を切ることにした。
「嫌な予感って、どういう意味?」
「日森のことだから、隠れて見張るなんて真似はできないと思ってね。まさか堂々と部屋の中にいるなんて、そこまで軽率だとは思っていなかったけど」
 あ、そっちか。どうやら盗聴器の件はまだ気づかれていないらしい。
 そういえば俺は、詩くんの動向を見張る体で西条先輩たちから離れたんだった。それなのに堂々と室内にいたら、そりゃ何してんだって話にはなるだろうな。
 俺は笑って誤魔化そうとしたが、西条先輩の後ろに立つ清原先輩が、金属バットとゴルフクラブを持っていることに気付いて、笑みをひっこめる。
 もう作戦を決行する気か?
 どうやら俺の行動が、西条先輩たちの不安を煽り、作戦を早めてしまったようだ。
 西条先輩と清原先輩が部屋に入り、扉を閉める。
 この部屋は広くないから、全員が集まるとやたらと圧迫感がある。宮野さんがただならぬ雰囲気を察して、庇うようにして詩くんの前に立った。詩くんは相変わらず何も言わず、ただじっと西条先輩を見ている。
「場所を変えない?」
 俺は咄嗟に提案した。この部屋ではまずい。
「日森、一体なんだ?」
「いやぁだって、五人が入るにはこの部屋は狭いし。それに――」
 言葉の続きは、そっと西条先輩に耳打ちした。
「狭いと強制的に一対一になるし、武器も振り回しにくいよ。広い方が何かとやりやすいんじゃない?」
「……それもそうだな」
 三対一の争いになることを想定した西条先輩は、狭い部屋では不利だと気付いたようだ。西条先輩は少し悩んだ後、部屋の扉を開けた。
「歩きながら話そうか。詩くん、来てくれるかい?」
「…………」
 詩くんは無言で立ち上がった。
 彼は全く躊躇わず、西条先輩の後に続いて部屋を出ていく。宮野さんも慌てて詩くんの後を追った。彼らを見張るように、武器を持った清原先輩が後に続く。
 部屋に取り残された俺は、一度部屋を見渡して、それからなんとなく壁に立てかけられていた日傘を手に取った。
 きっとこんなんでも、手ぶらよりはマシなはずだ。

 西条先輩は一階のロビーで足を止めた。
 ロビーはサークル棟の出入り口にある広い空間だ。いまは遠い過去となった大学生活のとき、ここはテーブルと椅子が置かれた開放型の休憩所のような場所だった。今ではテーブルと椅子がバリケードに使われて不在のため、ただ悲しくがらんとした空間になっている。サークル棟で広い場所と言ったら、屋上を抜かせば間違いなくここだろう。
 西条先輩が詩くんと向き合うように立ち、清原先輩は詩くんの背後に立っている。宮野さんは詩くんから少し離れた場所で、不安げな様子で様子を伺っている。
 俺は立ち位置の調整に非常に苦労した。近すぎても巻き込まれそうで嫌だし、かといって、あまり離れすぎても不自然だ。
 結局出入り口とは真逆の場所に立つことにした。少し四人と離れてはいるけど、ここなら逃走経路を塞ごうとしているようにも見えるし、問題ないだろう。
「本当は君が外に出ようとしたときを見つけて、話しをしようと思っていたんだ」
 西条は慎重に話し出す。
「昨晩、屋上に行っただろう?」
「……オレ以外の気配はなかったと思ったが」
 詩くんが呟いた。返事というより、ただ不思議に思ったことを口に出したような感じだ。
 初めて詩くんの意表をついたような形となった西条先輩は、ちょっと得意げに微笑んだ。
「日森が扉に仕掛けをしてくれたんだ。開けたらわかるような仕掛けをね」
「……」
 詩くんがちらりと俺を見る。詩くんはどこまでも無表情だったけど、ワンテンポ遅れてこちらを見た宮野さんは、まるで裏切り者を断罪するかのような眼差しだった。俺は困ったように微笑み返した。これでも頑張って平和的方法を考えたんだけどなぁ、と訴えるように肩をすくめる。
「何故夜の時間に屋上に行ったのか、教えてもらってもいいかな?」
「外の空気を吸いにいっただけだ」
「わざわざ夜遅くに?」
「どんな時間に行っても詩くんの勝手でしょ……? 建物の外に出たわけじゃないんだし……どうしてそんなに文句をつけたがるの?」
 見かねた宮野さんが口を挟むが、西条先輩はひるまない。
「屋上だけじゃないだろう? 君は夜のうちに何度も部屋をでているし、窓を開けようとした形跡もある。あるいは窓から外に出たことがあるのかもしれない。どうかな?」
「!」
 詩くんが驚いたように大きく瞬きをした。
 図星故の驚愕なのかと思いきや、どこか様子が変だ。焦りとか動揺はまったく感じられない。ただ困惑や戸惑いのようなものを、彼の無表情から読み取ることができた。
 詩くんはまるで意図を推しはかるようにじっと西条先輩を見つめていたが、やがて諦めたように溜息を吐いた。
「悪いが、質問の意図が全くわからない。お前たちはオレに何か期待しているようだけど、一体どんな返事をすれば満足するんだ?」
「……妙な返しだな。俺たちは、君に真実を語ってほしいと思っているだけだ」
「真実? オレは昨晩以外、夜間に部屋をでたことがない。早くここから出たいと思っているけど、それには何の企みも思惑もない。ここにいるのが息苦しいから早めに出ていきたいだけだ。そう言って納得してもらえるとは、もちろん思ってもいないが」
 珍しく詩くんはイラついているようだった。もちろん無表情は崩していないけど、言葉の節々に苛立ちのようなものを感じる。
 詩くんが嘘を言っているようには見えない。だけど、彼が夜中にサークル棟を動き回っているのは事実だ。もちろんこの目で確かめたわけじゃないけど、扉の仕掛けが毎日不具合を起こすとは思えないから、やはりそれは疑うことない真実だ。
「第一、扉の仕掛けとか言っていたが、夜に扉をあけてこそこそオレを見張っているのは、そっちじゃないのか」
 詩くんの言葉に俺はハッと気づく。慌てて清原先輩を押しのけて、詩くんに詰め寄る。「おい!」と清原先輩が激怒するけど、それは無視でいい。
「詩くん、今のって、夜に誰かが部屋に入ってきたってこと?」
「うん」
 詩くんは俺の勢いに戸惑いながらも素直に頷く。こういうところは、年齢相応の高校生っぽいなと思わなくもない。
「それっていつ?」
「数日前だ。……三日前とかだと思う」
「姿は見た?」
「いや。オレは寝たふりをしていたし。お前じゃないなら、あの二人なんじゃ?」
 俺は犯人に自白を求めるように、西条先輩と清原先輩を見る。二人は否定するように首を振った。
 どちらかが嘘をついている? いや、たぶんそうじゃない。
「西条先輩……詩くんの部屋にあった盗聴器って、先輩の?」
「はっ? 盗聴器??」
 西条先輩は素っ頓狂な声を出した。詩くんは無表情だったが、宮野さんが小さく悲鳴をあげた。彼女は「盗聴器ってどういうこと?」と震える声で叫んだが、悪いけどこれも無視だ。清原先輩は唖然としている。たぶんこいつは、話の問題点についていけず、ただ急に出てきた「盗聴器」というパワーワードに衝撃を受けている。
 全員嘘をついているように見えない。
 もし仮に、夜に詩くんの部屋の扉を開けた奴と、盗聴器を仕掛けた奴が同一人物だとしたら?
 それは扉の仕掛けを知らない人物、そして詩くんの動向を見張りたい人物ということになる。
 そしてその条件に該当する人物は、この五人の中にはいない。
「なんかこれ、やばい気がする。もし誰か嘘をついてるなら、素直に言ってもらえる? 俺としては、実はこの中の誰かの企みでしたって言われた方が、百倍マシなんだけど」
「日森? 一体何を言っているんだ?」
「仮に、だけどね。みんなが嘘をついていないとしたら、それってつまり――」
 このサークル棟に俺たち以外の誰かがいるってことになる。
 俺がそう言う前に、詩くんが素早く顔をあげた。
「誰かくる」
「え?」
 詩くんの視線は俺の背後に向いていたから、俺は慌てて振り返る。
 詩くんの視線の先――出入口とは逆方向の、室内へと続く通路。夜だし、電気もついていない上に雨戸が閉め切っているせいで、通路の先は真っ暗だ。
 俺と清原先輩がほぼ同時に通路の先をライトで照らした。ちなみに、小型の手回し充電式のライトは詩くん以外は全員が持っている。
 通路の先は誰もいなかった。足音もしない。
 ――いや、徐々に聞こえてくる。
 通路の先の階段を下るような足音。それも一人二人の音じゃない。複数人の足音だ。しかもその騒々しく聞こえ始めた足音から、そいつらは自分たちの存在を隠すつもりがないということが分かる。
「誰だ!!」
 見えない相手に対して清原先輩が威嚇する。こういう時の清原先輩は無駄に頼もしいけど、相手がもし感染者だったら命取りの行動だ。
 しかし、足音は怒声に反応して駆けつけてくることもなく、全く怯むことはなかった。奴らはマイペースに歩を進め、やがて通路の先にその姿を見せる。
「あいつらは……」
「くそっ……そういうことかよ」
 西条先輩が絶句し、清原先輩が忌々しそうに吐き捨てる。宮野さんが声にならない悲鳴をあげて後退した。
 姿を見せたのは、俺たちよりも年上の大人の男性たち。数は十人くらい。全員が薄汚れた服を着ているけど、それは不潔というよりも、戦を勝ち残った戦士のような重々しさを感じる。それぞれの手には、バールや斧といった手軽だが殺傷能力が十分ある武器が握られている。武器はあちこちがどす黒く汚れており、それが見せかけの武器ではないことは明らかだった。
 俺たちは奴らの姿を見た瞬間、それが誰なのか理解した。
 以前俺たちを襲った、スーパーを根城としている略奪者たちだ。
 俺は瞬時に状況を把握した。夜中にサークル棟を歩き回っていたのはこいつらだった。そして詩くんの部屋に盗聴器を仕掛けたのも奴らだろう――いや、偶然にもその部屋の盗聴器に気付いただけで、あちこちに盗聴器が仕掛けられているかもしれない。
 随分と用意周到だ。彼らは一度で俺たちからすべてを奪うつもりなんだろう。
 俺たちと少し距離をとって、略奪者たちは足をとめる。
 彼らのリーダー格と思われるひときわ派手な男性が、一歩だけ前に出る。彼はにやにやとした笑みを浮かべて、俺たちを撫でまわすように眺めた。
「よう、久しぶりだなぁ」
「……どういうつもりだ?」
 西条先輩が気圧されていたから、清原先輩が代わりに応えた。
 清原先輩はこういう時、臆する態度がダサいと思っているらしいので、無謀にも対面するような位置に立つ。
「ここは俺たちの場所だ。勝手に入ってくんじゃねぇ。いや、そもそもどうやって入った?」
「なんだって? ここがお前らの場所?」
 略奪者のリーダー――名前がないと不便だから、リーダーくんと呼ばせてもらう――が漫才でも眺めている様子で大声で笑い出した。すると彼の仲間たちも笑い出す。笑うだけでも随分と統制が取れていることがわかる。
「ルールを教えてやろうか? 今はどこも誰の場所でもねぇんだよ。つまり、奪ったもん勝ちってことだ。ところで、この場所は過ごしやすそうだなぁ? 外壁もあるし、部屋数もある。なにをしても外に聞こえない防音性の高い部屋ってのも、気に入ったぜ」
「俺たちの後をつけていたのか……? 俺たちの物資を奪うために?」
「物資? いや、違うね。すべてを奪うためだ」
 西条先輩は何も返せなかった。彼はもう顔を真っ青にさせて、今にもちびりそうな様子だった。
 宮原さんも同じく真っ青な顔色で、失神していないのが意外なくらいだった。
 清原先輩はすっかり戦意喪失してしまった仲間を庇うように立って、ゴルフクラブと金属バットを二刀流で構えた。真正面から戦ったところで、人数と武器で劣っているこちらに勝ち目なんてないのは目に見えているのに。
 俺はなんとか逃げ道がないか、頭をフル回転させていた。
 幸いなことに、場所が俺の味方をしている。ちょっとした隙さえあれば、事態は好転できるかもしれない。
「まぁ待て。戦ってもいいが、その前に一つ提案がある」
 リーダーくんは意外にもそこまで血気盛んではなかった。
 だけど奴らの提案なんていかにも怪しい。しかし西条先輩は希望を得たというようにすぐに飛びついた。
「て、提案だと?」
「ああ。至極簡単な取引だ。そいつを渡せ。そうすればお前らを見逃してやる」
 やっぱり何かを企んでいるようだ。リーダーくんが指差したのは――意外にも詩くんだった。
 盛んな若い男性たちが要求するのだから、てっきり紅一点の宮野さんを指名するかと思った。確かに詩くんも女子のように整った顔立ちをしているけど。もしかしてリーダーくんは、美少年が好きな人なんだろうか。
 西条先輩も予想外の展開に分かりやすく動揺していた。
「か、彼を? 何故だ? 彼が君たちの仲間だからか?」
「はあ? ああ、そうか。お前らは最後までそのガキのことを、俺たちのスパイじゃないかって疑ってたらしいな」
 やっぱり盗聴器を仕掛けていたのはこいつらだったか。だけど彼らは俺たち以上に、事情を知っているようだ。
「馬鹿だよなぁ。そのせいで、とんでもない機会をパーにしてんだからな」
「ど……どういう意味だ?」
「そいつは感染者だ。そうだろ?」
 リーダーくんの最後の言葉は、明らかに詩くんに向けられていた。
 詩くんは何も答えなかった。否定も肯定もせず、ただじっと睨むようにリーダーくんを見つめている。
 思い返せば、俺も何かしら詩くんには思うところがあった。例えば体型に反して人間離れをした動き。ほとんど取らない食事から、日中ほとんど寝ていること。そしてまるで死人のように白すぎる肌に、冷え切った体。
 だからこそ、リーダーくんの言葉を全員がすんなり受け入れてしまった。
「……そうだとしたら、ますますわからない」
 西条先輩は詩くんから距離を取りながら、リーダーくんと詩くんを見比べる。
「感染者だとしたら……傍に置くのは危険なんじゃないのか?」
「使い方によるだろ。そいつはとんでもねぇ強さを持ってる。それから感染者の捕食対象にならない。飼い慣らせば俺たちの手駒として使えるってわけだ」
「……本当に、彼を引き渡せば俺たちのことは見逃してくれるのか?」
「西条くん……!」
 宮野さんが思い留まらせるように名を呼んだが、西条先輩は彼女の声を聞こえないフリをした。
「彼を引き渡すだけで、俺たちの安全を保障して、この場所にも立ち寄らないと誓ってくれるのか?」
「ああ、もちろん。なんなら、同盟を組んでやってもいいぜ。つまり、互いに物資の交換をしたり、情報交換をしたりだな」
 どう考えても怪しい取引だ。力に物を言わせる彼らが、詩くん一人を引き渡すだけで、こんなにも親切な態度になるわけがない。
 そもそも彼らに俺たちと同盟を組むメリットがない。これは俺たちをその気にさせるためだけの甘い罠に違いない。
 西条先輩もその可能性には気づいているだろう。しかし、仮に詩くんを渡さない選択をしたとして――結局、この人数差では勝ち目なんてない。俺たちは殺され、全てを奪われて終わりだ。それなら大人しく彼らに従い、少しでも生き残る可能性のある選択をすべきだ――慎重で臆病な西条先輩だから、そう考えたのだろう。
「……清原、武器を」
 西条先輩は清原先輩から金属バットを受け取る。そしてその矛先を、略奪者たちではなく詩くんに向けた。
「すまない……けど、俺にとって大事なのは、サークル仲間なんだ」
 西条先輩にとって大事なのは、サークル仲間じゃなくて自分自身なんじゃないだろうか。もちろんこれは俺の憶測に過ぎないけど。
 西条先輩が詩くんに武器を向けたのは、あくまで略奪者たちに向けて「あなたたちに従おう」と言う意思を見せるためのパフォーマンスのように見えた。だけど同時に武器を構えた清原先輩は、気に食わない詩くんを堂々と殴れる機会を得たと言わんばかりに、隠すことなく闘志を向けている。
 宮野さんは雰囲気に呑まれ、ブルブルと震えて、ただ切羽詰まった顔をして詩くんを見ている。彼女は今にも詩くんを庇うように飛び出しそうで、危険な状態だ。
 俺はあくまで傍観者を徹底した。持っていたものを全て床に捨て、無抵抗であることをアピールしながら、彼らから距離を取っていた。
 結局、詩くんは西条先輩と清原先輩、そして十人ほどいる略奪者に囲まれてしまうこととなった。完全に四面楚歌の状態で、詩くんは無表情だった。状況を把握するように静かに全員を見つめている。
 そして、笑った。
 詩くんが笑ったのは、これが初めてだった。それは、普段の彼の無気力さからは想像できない、まるで楽しみを見出したかのように生き生きとした、微笑みだった。
 彼は身勝手な西条先輩たちや、如何にも悪者といった略奪者に対して、怒りや軽蔑の感情を向けていなかった。むしろ悪意を歓迎すらしているような表情だ。
「うだうだと探られるより、よっぽどこっちの方が分かりやすくていい状況だ」
 詩くんはただ楽しそうに笑って、言い捨てる。
 そして自然な流れで、足元に転がっていた日傘――俺が部屋から持ち出して捨てたやつだ――のハンドルを片足で踏み、反動で立ち上がったそれを片手で受け取る。
 詩くんは日傘を剣のように構えた。
「悪いが、オレはどんな格下相手にも、全力でいく主義なんだ」
 詩くんは素早かった。
 あっという間に一番近かった西条先輩と距離を詰めた。全身の重みを乗せた日傘を、西条先輩の後頭部に叩きつけ――西条先輩は声をあげる間もなく地面に叩きつけられた。
 ゴルフクラブを振りかぶった清原先輩が詩くんに迫る。「危ない!」と宮野さんが悲鳴をあげたが、その悲鳴よりも早く、すでに詩くんは反応していた。
「大振りが過ぎる。素人だな」
 清原先輩がゴルフクラブを振り下ろすよりも早くに、詩くんが日傘で清原先輩の喉を突く。清原先輩は一瞬息を詰まらせたような声を出して、後ろにぶっ倒れた。
「全員でかかれ!」
 唖然とその様子を見ていたリーダーくんが、遅まきながら仲間に指示を出す。詩くんはむしろ楽しそうに笑った。
「望むところだ!」
 彼なら本当にこの人数でも勝ってしまいそうな勢いだ。いや、いくら強いとは言っても、相手は刃物を持っている。一発でも当たれば詩くんの動きは鈍るだろうし、不利なことに変わりはない。
 俺だってただ戦いを観察しているわけではなかった。すぐ近くの部屋に念の為隠しておいた荷物がある。俺はその中から、複数個をまとめてくくった爆竹を三個ほど取り出して、躊躇いもなくライターで導火線に火を付けた。
 狙うのは略奪者達の足元だ。導火線は短いから、投げつけてすぐに閃光を発して大きな爆発音をあげた。
「熱っ! なんだ!?」
「爆弾か!?」
 少量しかないから殺傷能力はない。
 ただ少しの間、奴らを怯ませるには十分だ。
「詩くん、宮野さん! こっち!」
 俺は二人の手を取って駆け出していた。
 爆発がただの爆竹だと略奪者たちが気づいた頃には、俺たちはもう戦場だったロビーを抜け出して、通路を駆けていた。
 戦うことを楽しんでいたように見えた詩くんだったから、てっきり俺の手を振り払うかと思ったけど、意外にも大人しく俺のあとをついてきている。
「詩くん、大丈夫!?」
 走りながら宮野さんが詩くんを心配している。どうやらリーダーくんが振るった斧の切っ先が、頬に掠ったらしかった。傷は大きくないけど、血が流れているのが見える。
「大丈夫」
 詩くんはそう言いながらも、悔しそうに舌打ちした。
「くそ、剣道じゃ有効打突にならないから、油断した……」
 まぁ確かに、剣道じゃ顔に掠ったくらいじゃ一本にはならないだろうね。
「それよりも走って!」
 稼げた時間はほんの数秒しかない。もう冷静になった略奪者たちは、後ろから俺たちを追ってきている。
「どうするの……!?」
「奴らを全員倒すのは無理だ。とりあえず逃げないと!」
 出入り口は真逆の方向だから除外だ。
 窓から出る方法もあるけど、雨戸を開けている間に略奪者たちに追いつかれてしまうだろう。
「あっ!」
 宮野さんが躓いて、大きく体のバランスを崩した。詩くんが素早く腕を掴んだおかげで彼女は転倒せずに済んだけど、すぐに体勢を整えるのは不可能だ。
 こうなったら仕方がない。
「こっち!」
 俺たちが飛び込んだのは、放送サークルの活動拠点となっていた部屋だった。
 この部室は特殊だ。防音を意識しているため、出入り口の扉が二つという二重構造になっている。とはいえ本格的な放送室ではなく、あくまで平凡な部屋だったものを放送サークルの人々が手作りでもう一枚防壁を作ったに過ぎない。耐久性はあまり期待できないだろう。
 二枚の扉に鍵をかける。途端に、扉の向こうから怒声と、扉を殴る鈍い音が聞こえてくる。
「扉が壊されちゃう……!」
「急いで窓開けて! 外に出るしかない!」
「で、でも外は……感染者がいっぱいいるんじゃないの……?」
「ここに残りたかったらご自由に!」
 一枚目の扉が破壊された音がする。やはり低予算で作られた扉は、斧の前ではちっとも役に立たない。
 しかしそれで十分だった。窓は既に開いていた。
 俺たちは窓を飛び越えて外に出ようとして――
「待て!」
 詩くんが日傘を突くと、ちょうど横から飛び出してきた感染者の顔面に突き刺さった。どうやら音を聞きつけた感染者がサークル棟に集まってきているらしい。暗くてよく見えないけど、外からたくさんのうめき声が聞こえる。
 俺と宮野さんは思わず室内へ後ずさった。俺たちは武器を持っていない。このまま外に飛び出したら感染者の餌食になってしまう。
「オレがやる!」
 詩くんは身軽な様子で窓から外に飛び出して、長い髪を靡かせながら闇夜に着地する。
 詩くんは次々と日傘で感染者たちを薙ぎ倒していった。まるでモグラ叩きのような光景だ。感染者たちは詩くんを無視して俺たちに突進してきていて、詩くんはそれをひたすら叩き落としていた。
 二枚目の扉も破壊されようとしている。このまま室内に留まれば、後ろから斧でざっくりやられて終わりだ。
 外にはまだ感染者がいたけど、俺は詩くんの腕前を信じて、窓から外に飛び出た。宮野さんは俺の思い切った行動を見ていたはずだけど、続くことはしなかった。
 この時の行動が命運を分けた。
 外に飛び出た俺は、感染者の勢いにヒヤリとしただけで済んだ。
 感染者の勢いに怖気付いて、室内に留まった宮野さんは――
「わあああ!」
 悲鳴が聞こえた。
 その悲鳴が、扉を一枚挟んだ向こう側から聞こえたということは、割とすぐに理解することができた。だけど、扉を破壊するために躍起になっていた略奪者が悲鳴をあげている理由はわからなかった。
 何が起こったんだろうと考える間もなく、二枚目の扉が破壊された。
 飛び出してきたのは略奪者たちの一人だった。
 彼は何故か肩から血を流していて、血相を変えていた。彼は室内にいた宮野さんには目もくれず、彼女を突き飛ばして退かせると窓から外に飛び出した。そこをちょうど詩くんが横なぎに払った傘が足にぶち当たって、盛大にずっこけていた。
 男に突き飛ばれた宮野さんは、状況把握をする間もなく室内に倒れ込んでしまっていた。そこに飛びかかっていったのはリーダーくん――灰色の肌に、白く濁った瞳という、明らかに感染している様子の――だった。
 宮野さんの悲鳴が響き渡った。
 外で感染者の相手をしていた詩くんは、驚いて室内を見る。リーダーくんが宮野さんの頭部を守る突き出した腕に噛み付いているところだった。
「くそっ!」
 詩くんの判断は早かった。先程転ばせた男が落とした鍬を拾うと、俺に投げて渡す。
「先に行け!」
「わかった!」
 俺は迷わず駐車場の方に向かって駆け出した。持ち出していた鞄の中にバイクのキーが入っている。これは俺の愛車のキーだ。いざという時の逃走手段として、西条先輩達にはずっと秘密にしていたけど。
 みんなが大騒ぎしてくれているおかげで、幸いにも俺は感染者と出くわさなかった。
 宮野さんは噛まれていた。彼女はもう助からないだろう。詩くんはあの場所に残って宮野さんを助けるつもりだろうか。もし彼が負傷した宮野さんを連れて現れたら――その時は、彼との付き合いもここまでになるだろう。
 俺はバイクに跨ってエンジンをかける。
 さて、詩くんを待つべきかどうか。
 ここに留まれば止まるほど危険は高まる。ただ彼の実力は手放すのは惜しい。詩くんは「逃げろ」じゃなくて「先に行け」と言っていたし、あとで合流するつもりがあるのは明らかだった。もう少しだけ待つことにしよう。
 やがて暗闇から足音が聞こえる。俺はいつでも発車できるような状態で、足音の主を探す。姿を見せたのは詩くんだった。ボロボロになった日傘を手に持っている。反して乱れがない綺麗な黒髪はひと暴れした後とは思えない。見たところ頬以外の怪我はなく、そして一人だった。
「宮野さんは?」
 詩くんは責めるような眼差しで俺を見たけど、すぐにため息混じりに答えてくれた。
「感染したら、頭を潰すしかないんだろう。オレは……そうしたまでだ」
 俺だったら責任を負いたくないから宮野さんを放置して逃げるだろうけど、詩くんはわざわ宮野さんにトドメをさしたらしかった。非情に見えるようで、宮野さんを人間として死なせてあげる唯一の方法だ。
「随分と優しいんだね」
「……なんで急に、奴らから感染者が?」
「さぁね。奴らのリーダーが発症してたみたいだし、感染してたのを隠してたんじゃないの? 奴らは夜中に動き回っていたみたいだし、むしろ今まで無事だった方が奇跡的というか――」
 俺は詩くんの頬から流れる血に目をとめた。
 ……まさかね。彼の血がたまたま体内に入ったとして、もし仮に詩くんの血液も感染力があるとしても、発症するにはあまりにも潜伏期間が短すぎる。
 詩くんはボロボロになって使い物にならなった日傘をその場に捨てた。骨が折れ、血まみれになったそれは、一体どれだけの感染者の息の根を止めたんだろうか。多分俺よりも多くの感染者を殺していることは確かだった。
 代わりに俺が持つ鍬を渡すと、詩くんはそれを受け取って、当然のように俺の後ろに乗った。俺も何も言わずにバイクで走り出した。
 大学の表門はそう簡単には開かないけど、裏門は内側から鍵を開けるだけでいいから、そちらを選択する。
 夜の街を走る。
 俺たちの他に通行する車はないし、夜のドライブは最高だった。感染者はたくさんいたけど、奴らの速度はバイクには敵わないから、問題にもならない。
「……日傘を買いに行かないとね」
 目指すは大型のホームセンターだ。


〈詩サイド〉

 日森は一時間ほどバイクを走らせた。
 たぶん先程の奴らが追ってくる可能性を念のため考慮して、できるだけ遠くへ逃げたんだろう。
 その間オレたちの間には会話は一切なかった。特に話すこともなかったということもあったが、なによりもバイクの二人乗りというのは思いのほか風が強く、呑気に会話なんてできるような状況ではなかったというのが強かった。
 日森はよく名前を見るホームセンターの屋上駐車場に入り、そこにバイクを停めた。屋上駐車場には思ったよりも車が停まっていたが、見た限りではどの車も無人だった。
 オレたちは駐車場のすぐ近くにあった屋内の休憩スペースで休憩をとることにした。
 そこは休憩用のテーブルと椅子、それから自販機やごみ箱だけが置かれた、手狭な部屋だった。出入口は一つだけだ。その扉は内開きだったから、扉の前にテーブルと椅子を積上げて、念のためのバリケードを作る。
「ああ、疲れた」
 椅子とテーブルはバリケードに使ってしまったから、日森は床に座り込んだ。オレも少し離れたところに座る。
 彼が持っている鞄には、小型のランプと、少量の水と食料、それから救急セットが詰め込まれていた。あの状況でこれだけのものを持ち出すのは不可能だ。あらかじめ用意しておいたものと考えていいだろう。
「最初から脱出するつもりだったのか?」
「まぁね。西条先輩たちが暴走してて、もう俺の手には負えなくて。もともと俺は、あの場所に居座る気もなかったから、いい機会だったんだよね。まぁ、思ってたのとは違った展開になったけど……」
 爆竹などあまりにも用意周到過ぎると思ったが、どうやら西条たちと喧嘩別れした時のために、用意をしておいたらしい。殺傷能力がなく注意をひくためだけのものだったのは、そのためだろう。
 日森は救急セットを取り出した。大きめのガーゼを取り出して、消毒用のアルコールをたっぷり垂らしている。そしてそれを、おもむろにオレの頬に押し当てた。
「いっ…!」
 オレは痛みのあまり思わず飛び上がった。
 日森は笑いながら、しつこくオレの頬にガーゼを押し付け、ようやく離したと思ったら、今度は大きいサイズの絆創膏を傷口に押し当てた。
「はい、手当完了。感染者なのに痛みはあるんだね?」
「……やるならやると、最初に……」
「はいはい、ごめんって。それより食事は?」
 日森は鞄から携帯食を取り出してこちらに差し出すが、オレは首を振る。相変わらず食欲はない。
「いらない」
「だよねぇ。まぁ、過度なダイエットはやめておきなよ」
 日森は明らかにふざけている。それも、暗い雰囲気を盛り上げようと無理に明るくふるまっているのではなく、本当に楽しそうな様子だ。
 あんなことがあったのに、何故いつもと同じ調子――むしろサークル棟にいた頃より生き生きとしていられるのだろう?
 そもそもオレはなぜ、こいつと一緒にいる?
「ふふっ」
 ふと日森が楽しそうに笑い出した。オレはギョッとしつつも、日森があまりにも愉快そうに笑うものだから、問いかけずにはいられない。
「なんだ?」
「いや、幼いころ、母に言われたことを思い出しちゃって。親よりも先に死んだら地獄へ落ちるよってね。それでつい、どれだけの人が地獄に落ちたのかなって考えたら、なんだか妙に母の言葉が馬鹿々々しく思えて」
 笑い出すほど面白くはなかったが、子どものころに言い聞かせられた忠告が馬鹿馬鹿しく思える経験は詩にもある。
「そんなこと、言われたことないな」
「死のうとしたことある?」
「ない」
「それなら機会はないかもね」
 まるで自分はその機会があったかのような口ぶりだ。オレが探るような眼差しで見ていることに気付いた日森は、まるでオレの思い違いを楽しむように、また愉快そうに笑った。
「期待に沿えなくて申し訳ないけど、俺もないよ。ただ、当てつけに口に出したことがある。死んでやろうかと宣言することが最高の脅しになるような家庭環境だったからね」
「それは……あまりお前向きの環境ではないように思えるな」
「はは、確かに。一般的に見れば、恵まれた環境なんだろうけどね。でも、一歩を踏み出すことでさえ自由に決められないような、そんな環境だったよ」
 少し話を聞くだけでも日森の育った環境が特殊だったことがわかる。しかし彼からは決してネガティブな印象は感じず、むしろ清々しい表情をしている。
 オレはだんだんと、日森の伝えようとしていることがわかってきたような気がした。
 今の世界は両親の目を気にする必要がない。ややこしいしがらみは何もない。オレも誰かの目を気にして剣を封じる必要もなく、ただ好きに剣を振り、生きていくだけでいい。運悪く失敗して死んだって、それが誰かの重荷になることもないし、世界が変わるわけでもない。
 日森がこんなことを話し始めたのは、きっとオレを似たもの同士と感じているからだろう。少なくともオレは似た何かを感じ始めている。
「この先のことを考えるとわくわくするんだ。こんなに楽しいなら、もっと早くに決断するべきだったな。どうやら俺も、だいぶ洗脳されていたみたいだ。あの慎重で臆病な西条先輩と、無計画に突っ走る命知らずな清原先輩に挟まれていたら、ついついバランスを取ろうとしちゃうんだよね」
 西条と清原……彼らは今どうしているだろう。
 オレが与えたダメージは致命傷ではない。とはいえ、しばらくは痛みで満足に動けないだろう。サークル棟に感染者が入り込んだことを考えたら最悪の結末も有りうる。運よく感染者の手を逃れて逃げ切ったとしても、サークル棟を襲った奴らと手を取り合って仲良く過ごせるとは思えない。
「あの二人はどうなったと思う?」
「心配?」
「心配とはちょっと違う……お前はあの人たちと付き合いが長かったのに、何も思わないのか?」
「う~ん、難しい質問をするね。詩くんはどう感じてる?」
「どうって……」
 部外者のオレと、彼らの仲間だった日森では、感じるものはかなり違うだろう。オレの意見を聞いてどうするつもりなのかよくわからないが、素直に応じることにする。
「オレはただ成り行き上そうなっただけで、あの人たちと親しかったわけじゃない。あの人たちにとっていい結果にならなかったのは、残念だったと思うけど。ただそれだけだ」
「宮野さんはどうなの?」
 宮野のことを考えると、西条や清原とは違った感情が浮かんでくる。こちらはもっと複雑な感情で、一番近い感情を述べるなら「後悔」だろう。
 ただし彼女を助けられなかったことの後悔ではない。オレの実力では、どう立ち回っても無力な宮野を守ることは不可能だった。
 この後悔は、宮野に対してのオレの振る舞いについてのものだ。彼女はたぶん、オレの実力を過大評価していたし、オレが味方だと思い込んでいた。オレが自分のことしか考えない自分勝手な奴で、誰かを守り切る力もない中途半端な実力の持ち主だとわかっていたら、慎重な彼女はもっと違った選択をしていただろう。そうしたら生き残れていたかもしれない。
 そう考えると、ついつい後悔してしまう。いや、宮野の選択は彼女自身が決めたことで、それに対してオレが後悔をすること自体が傲慢な考えだ。
 オレはしばらく黙って考え込んでいた。この傲慢な考えを口にするつもりはなかった。けれどこの感情を「残念だった」の一言で片づけるつもりもなく、どう表現すべきか悩みに悩んだ。
「よくわからない……ただ、彼女もここにいたらとは思う」
 結局これくらいしか言えなかった。日森はにっこりと微笑んで「わかるよ」というように頷いた。
「一緒に過ごした時間が違うだけで、大体俺も同じだよ」
「……そうか。なるほど」
「まぁ、宮野さんはこの状況を楽しめるようなタイプじゃないから、この場にいてもあっという間に愛想をつかされるだろうけどね。何て言ったって、この場所はいつ感染者が襲ってくるかわからない危ない場所だし、一緒にいる俺たちがこの状況を楽しむ異常者だから」
 日森は冗談を言って笑ったが、その言葉はなんとなくだが、オレを励ますようなものに思えた。まぁ、日森は気を遣うようなタイプには見えないし、ただ思ったことを言っただけかもしれない。
 日森は鞄から封筒型寝袋を取り出すと、手早く広げたそれに体を滑り込ませた。
「そろそろ寝るよ。日傘が欲しいなら、探しておいで」
 確かに普通の人間ならそろそろ眠気が来る時間だ。
 オレはちっとも眠くないから、効率を考えるならば、明日のための日傘を探しておいた方がいいかもしれない。だけど、そうしてしまったらこの部屋を守るものはなくなり、日森は無防備の状態のまま眠ることになるだろう。
「いい。明日お前が起きたら、探しに行く」
「まさか俺のこと心配してくれてる? だったら、別に気にしなくていいよ」
「オレは運転ができないから。運転手がいないと困るんだ」
「ははっ、そういうことか」
 日森はひとしきり笑っていたが、やがて眠そうに大あくびをして、そのまま目を閉じて大人しくなった。
 彼のぶつぶつと独り言を呟くという特殊な寝言が聞こえるまで、そう時間はかからなかった。

 日が昇り始めてオレの眠気が強くなったころ、日森が伸びをしながら起床する。
 その後は二人でホームセンター内を散策した。
 ホームセンター内はかなり荒らされていた。まとまった食料や飲料は残っていないだろうが、これだけ広いのだから取りこぼしくらいなら期待できるだろう。
 建物内に潜む感染者の数はそこまで多くはなかったから、対処は簡単だった。彼らが暗闇で大人しく眠っていればスルーし、物音で目を覚ましたときは鍬で静かにさせて、散策を続ける。
 日傘は苦労することなく見つけることができた。さすが有名なホームセンターというだけあって種類は豊富だ。その中でも際立って遮光性が高いと宣伝されていた、裏地が黒色のしっかりとした作りの日傘を選択する。
 オレの後ろを鼻歌交じりでついてきていた日森は、商品を眺めつつ少しでも気になるものがあれば鞄に詰め込んでいた。そのせいでオレが日傘を見つけたころには、鞄はパンパンに膨れ上がっていた。
「このあとヒマ?」
 日森のそれは学校帰りに声をかけるような気軽さだった。
「特に用事はない」
「じゃあ、俺が行きたいところに付き合ってよ」
「いいけど……っと」
 オレたちの会話で目を覚ました感染者が日森めがけて飛びかかってきたため、鍬で頭をたたき割る。日森はまるで野良猫が通り過ぎたかのように無関心で、一連の流れを目で追うだけだった。反応自体はできているから、思ったよりも彼の反射神経は悪くないのかもしれない。
 倒れこんだ感染者はもう動く気配はないから心配はいらないだろう。それにしてもこの感染者、どこかで見たような服を着ている。
「この人、ここの店員じゃん」
 なるほど。ホームセンターの店員が着る制服だったか。
 日森はおもむろに感染者の服を漁る。たぶんカードキーなど役に立つ物がないか確認しているんだろう。ホームセンター内には関係者以外立ち入り禁止で鍵がかかっている部屋があったし、そこを解錠できたら役に立つ物が手に入るかもしれない。
「おっ、ラッキー。見てよこれ」
 日森がテンションをあげながら取り出したのは、車の鍵だった。
「車が使えるなら、もうちょっと荷物増えても平気そうだね」
「鍵だけあっても使えないと思うけど」
「持ち歩いているくらいだから車通勤でしょ。それに店員用の場所に車が置いてあるだろうから、見つけるのも簡単そうだ」
「なるほど」
「問題はその車がそもそも動くかってことだね。半年間は動かしてないだろうし、バッテリー上がってるかも。あとはガソリン問題もあるけど、素人の俺たちじゃどうしようもないし……そこはまぁいいや、おいおい考えてこう」
 こういうとき日森は年上だと実感させられる。やはりオレはまだ世間知らずで、こういう時に何が大事で何が問題となってくるのか全く想定ができない。
 外に出ると、今日も憎いくらい良い天気だった。フードをかぶって日傘をさしていれば、なんとか眠気には勝つことができる。とはいえ夜間よりも動きが鈍くなることは避けられないだろう。
 日森は相変わらず休日にショッピングを楽しむテンションだし、ここはオレが一層気を引き締めていかねばならない。日森が目当ての車を探しているとき、オレは周囲の警戒に努めた。
 車は意外にも簡単に見つかった。
 黄色の軽自動車だ。普通車よりも力はないだろうが、小回りはきいて市街地を走るのには便利そうだ。よく道路を走っているところを見かけたことがある。記憶の中の車よりも色がくすんで見えるのは、たぶん屋外に放置された結果、ボディが劣化してしまったんだろう。
 日森が運転席に乗って車内を弄り始めた。車のことはよくわからないが、とりあえずエンジンは問題なくかかるようだった。
「よし、今のところ問題なし。ガソリンの残量も問題なし。幸先良いね」
「なにか必要なら取ってくるけど」
 ラゲッジスペースに鞄を詰め込みながら、運転席の方に声をかける。
「じゃあ、適当に必要そうなもの持ってきてくれる?」
「わかった」
 鍬は車に置いて日傘だけ持ち、またホームセンターに戻る。
 オレ一人で行動するときは物音を気にする必要がない。詰みあがった段ボールを大胆にひっくり返すこともできるし、感染者が持っている鞄を拝借して中を確認することもできるから、探索の効率は一気に上がる。そんなことをしているうちに、意外と食料品は集まってくる。
「なにもないかと思ったけど……缶詰は結構あるんだな……」
 なんとなくカレーの缶詰ばかり残っている気がする。確かに空腹で飲み物もなく、疲労状態の時、冷たいカレーを単体で食べるのはちょっと重たいようにも思える。
 まぁオレが食べるわけじゃないし、なんでもいいか。
 棚から拝借した段ボールにあるだけの缶詰を突っ込む。食料や飲料の他にも石鹼や洗剤、電池やライターなども有れば助かるだろうと思われるものも詰め込んでいく。三十分近く探索して、ようやく段ボールはいっぱいになった。
 そろそろ車に戻ろう。
 日森は大丈夫だろうか。駐車場は屋外にあるから、よほどのことがなければ感染者は寄ってこないとは思うが、何せ日森は騒がしい奴だ。騒音が感染者を呼び寄せる可能性もある。
 オレの心配をよそに、日森は駐車場で試運転という名の爆走を行い、楽しんでいた。
 こういう車、たまに深夜とか走っているのを見たことがあるな。
 日森はオレの姿を見つけると、轢きそうな勢いでこちらに突進してくる。思わず身構えたが、車はオレを轢く寸前で急ブレーキをかけた。
「怖……」
「ん? なに?」
「……なんでもない。これ、適当に詰めてきたから」
「ありがと」
 ダンボールを受け取った日森は、中を覗き込むと「カレーじゃん! やったー!」と歓声をあげた。どうやら日森の胃袋は胃もたれは縁がないらしい。
 オレは車の後部座席に乗りこんだ。
「少し寝る」
「オッケー。良い夢を!」
 日森のテンションの高い鼻歌を聞きながら、後部座席に寝転がる。
 先ほどの様子を見る限り、日森の運転はとても荒そうだ。問題なく眠れるだろうか――などと心配したが、横になって気が抜けた瞬間、オレは即座に眠りに落ちていた。


〈日森サイド〉

 走行中、詩くんはずっと寝ていた。やっぱり車を見つけて良かった。俺の愛車を置いていくことは苦渋の選択だったけど、バイクじゃこうはいかない。
 運転中にぼんやりと昨日の会話を思い出す。
 詩くんは昨日の出来事を気にしているみたいだった。宮野さんと仲が良かったし、落ち込んでいるのも無理はないと思ったけど、ちょっと違うようだ。どちらかというと後悔とかそういうものに近いように感じた。
 宮野さんの死に対して、詩くんに一切非はない。宮野さんは自分の身を守る術すら持とうとしていなかったし、生き残るための判断も人任せにしているところがあった。そんな彼女を詩くんが守る責任も義務はない。詩くんは高校生にしては達観しているから、それ自体は理解しているようだった。
 だけどそう簡単に割り切れないのが人間ってやつなんだろう。「自分のせいじゃないか」とか「違った判断をしていれば助かったんじゃないか」とか、ふと浮かんできた思考が自分を責める切っ掛けになってしまう。
 つまり俺と違って詩くんは心根が純粋でいい奴ってことだ。
 俺は簡単に割り切ることができるから、正直言ってノーダメージだ。むしろ宮野さんが生き残ってここにいたとしても、俺はともに行動することは拒否していたと思う。了承できるのは利用価値もあり、思考回路が似通っている詩くんだけだろう。
「はぁ〜……」
 ずっと運転しっぱなしだったから、さすがに疲れてきた。
 気分転換に少し散歩でもしようかと、道路の真ん中に停車して車を降りる。キーは俺が持って車にはロックをかけておくことにする。詩くんなら感染者に襲われる危険はないだろうけど、悪意を持った人間が通りかからないとも限らない。詩くんは見た目が整っているから、偶然にも欲求不満の輩が通りかかって襲われる可能性だってあるからね。
「いい天気だなぁ」
 鍬を片手にのんびりと歩く。
 山の中の国道だ。それほど広いとはいえない道だけど、例え乗り捨てられた車で渋滞が起こっていても、周りが広い歩道だったり畑や林道だったりするから脇に避けやすい。人が比較的少ないのもメリットだ。
 デメリットがあるとあれば視界がよくないことだ。木々のせいで日陰も多く、そのせいか日中なのにうろつく感染者を運転中にけっこう見かけた。とはいえ、車なら奴らをまくことは簡単だ。感染者は聴覚はめちゃくちゃいいし、餌に対する貪欲さは凄まじいけど、長距離のマラソンは苦手なのである。
 体をほぐす程度の散歩をしてから車に戻る。
 車内を覗くと詩くんはまだ寝ていた。いつものことだけど、あまりにも静かに寝るから本当に生きているのか心配になってくる。運転席に戻った俺は、手を伸ばして詩くんの頬にかかる黒髪をそっと横によける。そして露わになった首筋に触れた。相変わらずひんやりしているけど、呼吸をするように微かに上下している。
「っ!」
 飛び起きた詩くんの射貫くような鋭い眼差しが俺を捉えるのと同時に、強い力で腕を掴まれる。
 詩くんは空いた手で日傘を掴み、その切っ先を素早く俺に突き付けた。
 それは目にもとまらぬ速さで、俺の喉元の真横を過ぎていく。
 詩くんが攻撃の直後に相手が俺だと気づき、切っ先を少し横にずらしたということはすぐにわかった。彼が気づくのが少しでも遅れていたら、日傘は俺の喉を強く突いていただろう。詩くんは気まずそうに手を離した。
「……悪い……」
 しゅんとして素直に謝る詩くんは、先ほどの殺気交じりの形相と打って変わって、叱られた子どものような態度で、ちょっと可愛いと思ってしまった。俺は気にしてないように笑う。
「いや、こっちこそ驚かしてごめん。生きてるか確認しようと思ったんだけど、心配はいらないようだね」
「?」
 詩くんは不思議そうに眉を寄せた。どうやら自分の行儀が良すぎる寝相について自覚がないらしい。
「いつ発症するか心配ってことか?」
「まぁね。ってか、詩くんって本当に感染してんの?」
「たぶん……」
 詩くん本人も自信がない様子だ。俺は車を出しながら話を続ける。
「たぶんって、どういうこと? 噛まれたわけじゃないんだ?」
 詩くんはひょいっと身軽な様子で、助手席に移動した。眠気はまだあるようだけど、朝よりはマシになっているらしい。
「わからない。ここ半年の記憶がなくて」
「ああ、あれ本当の話だったんだ」
「正確に言うと、記憶喪失なのか、ずっと意識がなかったのか、わからないんだけど」
「どういうこと?」
 詩くんは状況を詳しく話してくれた。どうやら秘密を打ち明けるくらいには俺のことを信用してくれているらしい。というより、仲間もいない俺に漏らしたところでなんの害にもならないだろうって思ったのかもしれない。
 詩くんの話は要約すると、こんな感じだ。
 夏休みに剣道部の合宿に行っていたところ、正体不明の集団によって拉致された。そこからの記憶はない。気づいたら研究所のような場所に放置されていて、外は半年の月日が流れていた……ということだ。
 出会ったばかりの詩くんが混乱しているように見えたのは、やっぱり演技じゃなかったようだ。目が覚めたら世界がこんな状態になっていて、しかも自分の様子もおかしいとなったら、そりゃ誰だって混乱するだろうな。
「そいつら、一体どういう目的で君たちを拉致したんだろうね」
「さぁ。いろいろ見てみたけど、手掛かりになりそうなものは残されてないようだった。地下に隠しているような場所だったし、まともな施設ではないんだろうけど」
「なんか怪しいね。もしかしたら今回のゾンビ騒動と関係してたりして。それなら詩くんの特殊な症状も、研究の成果だと言われれば納得できるし」
「どうだろうな……確かに怪しいとオレも考えたけど、そう断言できるようなものは何一つなかったし、冷静に考えると大それた研究を行えるような、大きな研究所には見えなかった……」
 研究所の実験の結果なのか。それとも意識不明の時に感染者に噛まれたけど、詩くんの体質が理由で発症しなかったのか。判断するには材料が足りない。まぁ、詩くんの言う通りだとすれば、前者の可能性は低く、後者のほうがまだ可能性が高そうだけど。
「そういや、家族の様子とか見にいった方がよかったんじゃない?」
 俺の家庭環境が特殊だったからすっかり忘れていたけど、詩くんはまだ高校生だった。家族の安否が気になるのが一般的なはずだ。しかし詩くんは見るからに興味をなくして窓の外に視線を飛ばした。
「いや、興味ない……あ、でも」
 こちらに視線を戻した見た詩くんは、無表情ながら目を輝かせている。
「感染後も生前の身体能力を引き継ぐんだったら、一度家に戻ってみるのもいいかもしれない」
「それって……ああ、詩くんのご両親も強いってことか」
「そうだと思う。会って確かめたいんだ」
 詩くんは難解な返答をした。期待するような表情はそのままだったけど、声色には少し複雑な感情が混ざりあっているような感じがした。なんていうか、期待を通り越して切実に願っているような印象だ。俺の家も相当だけど、詩くんの家庭も複雑そうだなぁ。
「じゃあ、行ってみる? 詩くんちってどこ?」
「あ……いや、行かなくていい。すごく遠いし。そっちこそ行きたいところがあるんだろ。どこなんだ?」
「遊園地だよ」
「……??」
 詩くんは眉間にたくさんの皺をよせて首を傾げた。俺の言葉を理解しようとして頑張ったけど、やっぱりよく分からなかったみたいな顔をしている。
「富士山の近くにある遊園地、知ってる?」
「……ああ、まぁ……名前だけくらいは」
 詩くんは戸惑いを隠すように指先で長い髪の毛をいじっていた。その反応を見る感じ、名前どころか存在すら知らないんだろうなと俺は予測する。
「夏休み中にサークルメンバーと一緒に行く予定だったんだ。あそこには本物が出るって噂されてる、有名なお化け屋敷があるからね」
 詩くんはとりあえずと言った様子で「ふんふん」と相槌を打った。理解が追いついていないし興味もない様子だったけど、一応最後まで話は聞いてくれるらしい。
「けっこう楽しみにしてたんだよ。メンツはともかく、そういう遊園地って初めてだったから。だけど楽しみにしきれない理由があって。お化け屋敷には俺以外の人間がいるじゃん?」
「うん……まぁ、そうだろうな」
「けど今は廃墟になってるはず。だからこそ今こそ行くべきだと思って。それに朽ちたお化け屋敷ってロマンを感じない? できればお化け屋敷に住みたいくらいだけど……どうかなぁ? 無理だと思う?」
「え? さあ……」
「そうだね、わかんないよね。行ってから考えてみようか」
「……うん……好きにすれば……」
 詩くんは始終難しい顔をしていたけど、最後まで反対意見は言わなかった。

 車を走らせていると、こじんまりとした道の駅を見つけた。休憩所がメインで、おまけに少し地元の野菜が売っているようなところだ。山中で人も少ないだろうし、もしかしたら食料品の残りが期待できるかもしれない。休憩がてら少し寄ってみようという話になって、道の駅の駐車場に車を停めた。
 駐車場に車が一台停まっているけど、車内は無人だ。道の駅の中も真っ暗で静まり返っていて誰もいないように見える。
 詩くんは自然な様子で俺よりも前に立つと、道の駅の扉の手をかけた。
「ん……」
 扉は木造りのもので、押して入るタイプのものだった。だけど鍵がかかっているのか扉が開く気配はない。俺は他の侵入口を探すため周囲を見渡した。扉を何度か押していた詩くんは、
「ふんっ!」
 回し蹴りを放って扉をぶち破った。
 見た目に似合わない、ずいぶんと脳筋な方法の強行突破だ。
 扉はあっけなく開け放たれた。どうやら鍵がかかっていたわけではなく、扉の内側にバリケードがあって扉が開かなかったようだ。
 ん? バリケードってことは――
「うわあああ!」
 突如、雄叫びとともに真っ暗な室内から誰かが飛び出してくる。
 俺が相手を目視するより早く、詩くんは動いていた。
 相手が振り上げた棒状のものを、詩くんは日傘ですり上げて、軌道をそらした。相手はたまらずバランスを崩す。
 決してその隙を逃さない詩くんは、日傘を顔面に叩きつけようとして――
「まっ、待った! 降参だ!」
 詩くんはぴたりと行動を止めた。
 日傘は相手をぶちのめす寸前で止められていた。少しでも遅かったら顔面直撃だっただろう。
「お、俺の負けだ。なんでも渡すから、どうか命だけは……」
 ひれ伏して命乞いをしているのは、俺たちよりも年上の、たぶん三十歳くらいの男性だった。よく言えば人の良さそうな、悪く言えば頼りがいのなさそうなのんびりとした顔つきをしている。しかも今は恐怖のあまり半泣きだったので、ますます情けないことになっていた。
「…………」
 日傘をひっこめた詩くんは、気まずそうな表情で俺を見た。どうやら詩くんって、ちょっと人見知りらしい。
 詩くんを下がらせて、俺は男性の前に立った。
「ええっと、おじさん? 驚かせてごめん。俺たち、別にそういう目的で来たわけじゃないんだけど」
「……え?」
 土下座する勢いだった男性は恐る恐る俺を見上げてくる。俺はにっこり微笑んで無害アピールをした。詩くんは俺の後ろに隠れて、気まずそうに男性を見ている。たぶん、外見だけなら俺たちは好青年と美少女のカップルに見えるから、警戒心を緩めるには大いに役立つだろう。
 案の定、男性の誤解はすぐに解けた。男性は「椎名」と名乗った。もともとこの付近に住んでいて、畑で野菜を作る両親を手伝う片手間、この道の駅で働いていたらしい。パンデミック後は、ここを拠点として籠城していたという。
 道の駅には椎名さんの他にもう一人生存者がいた。椎名さんの娘である「つくば」ちゃんだ。今年六歳というその少女は、父親とは似ても似つかない気が強そうな子どもだった。
 俺たちは無礼を詫びてすぐにその場を去ろうとしたけど、椎名さんに「少しでいいから休憩していってほしい」と引き留められた。
「頼むよ。生きている人間に会うことなんて、もう何ヶ月ぶりなんだ。娘も寂しがってるし……」
 頼み込む椎名さんの後ろで、つくばちゃんは一人でバリケードのアスレチックに夢中だった。寂しがっているようには見えない。まぁ椎名さんはどう見ても悪人には見えなかったし、もし悪人だったとしても詩くんの敵じゃないし、俺も情報収集をしたかったから断る理由もなかった。
「じゃあ、お言葉に甘えて。そろそろ日も暮れるし一晩お邪魔しようかな?」
「ああ、よかった。じゃあ御馳走するから、適当にくつろいでくれる?」
 椎名さんはがちゃがちゃとカセットコンロを用意し始めた。
 さて、俺は遠慮なく休憩スペースに座らせてもらうことにする。詩くんも何も言わずに隣に座った。やることもないし、喋ることもないし、気まずい上に眠いし、とりあえず近くに座っとこうといった様子だ。
「…………」
 ふと気配を感じて振り返る。いつの間にか後ろにつくばちゃんが立っていて、子どもらしい純粋な眼差しで、興味津々な様子で俺を見上げてきていた。
 俺、子ども苦手なんだけどなぁ。
 まぁ最近は詩くんという年下と普通に話せているし、もしかして克服できているかもしれない。
「こんにちわ、つくばちゃん!」
 俺は張り切って笑顔で挨拶をした。するとつくばちゃんは虫でも見たような顔をして、そっぽ向いた。
 なんでなの。
 彼女は俺から逃げるように素早く走り出すと、詩くんの背中に抱き着いた。
「!?」
 詩くんはギョッとして固まった。戸惑う詩くんに、つくばちゃんはキャッキャッと楽しそうだ。俺との態度の違いに驚いてしまう。
「あれ、珍しいな、つくばが女の子に懐くなんて……」
 椎名さんも驚いているけど、驚き方がちょっと俺とずれている。
「おじさん、詩くんは男だよ」
「あ、そうなの。じゃあ納得だな。つくばは無類の美形好きなんだ」
「……な、なんてあからさまなんだ……」
 まぁでも、それなら俺も納得できる。俺は美人というよりかっこいい系だからね。
 それから椎名さんはカセットコンロで野菜たっぷりの鍋を作ってくれた。この辺の畑で野菜を作っているらしい。鍋には肉も少量入っていて、これは干し肉をいれたのだとか。貴重な肉を惜しみなくふるまうあたり椎名さんの人の良さが出ている。
 鍋をつつきながら椎名さんと情報交換をする。
 結論から言うと真新しい情報はほとんどなかった。椎名さんが置かれている状況は俺たちとさほど変わらないもので、少し違うと言えば感染拡大の時期くらいだろうか。俺たちが住む地域では七月の後半くらいから感染が爆発的に広がったけど、椎名さんのところでは八月に入ってからだったらしい。
「そこのところが、ちょっと妙なんだよな」
「妙って?」
「ここってすごく田舎だろ? だけど都会で暴動の話が出てから、あっという間にここも感染者でいっぱいになって……どうやってこんなに広がったんだ? 空気感染の可能性も考えたけど、それならとっくに俺たちも感染しているはずだし……」
 言われてみればそうだ。感染拡大があまりにも早過ぎた気がする。
 例えばフェスかなんかで感染が広がったとして、それなら一部で爆発的に感染が広がる理由はわかるけど、そこから全国へ広がるには、普通なら数か月くらいはかかりそうなものだ。
 二人で真面目な話をしているとき、詩くんとつくばちゃんは仲良く話をしながらご飯を食べていた。正確にはつくばちゃんのお遊びに詩くんが付き合わされていた、というべきか。
「あなたぁ、ごはんよぉ」
 つくばちゃんは楽しそうな様子で、スプーンですくった野菜を詩くんに「あーん」と差し出している。詩くんは困ったように俺の方に視線を飛ばしてくるけど、俺は面白いからスルーしていた。
「お、オレはもう腹いっぱいだから……」
「ご飯は食べないとだめなの! ほら、お口あけて?」
「…………」
 いや、めっちゃ面白い。腕利きの詩くんも幼い女の子を力づくで黙らせることは出来ないらしい。幼女に「あーん」される詩くんを見ながら、俺はニヤニヤと口元が緩むのを我慢できない。
「そうだ。妙といえば、もう一つ気になることがあったな」
 真面目に考え込んでいた椎名さんの言葉で、俺も真面目な顔に戻る。
「気になること?」
「最後に外の人に会った時、聞いた話なんだけど……」
 椎名さんが話し出したのは、とある駅ビルを拠点にしているグループの話だった。彼らはかなり大きなグループで、驚くほど強い勢力を持つらしい。
「それって……銃で武装してるとか?」
「いや、そうじゃないらしい。彼らはみんな大した武装はしていないけど、人間とは思えないほどの強い力を持つらしい。聞いた話だから、真実なのかわからないけど……例えば、ビル三階から飛び降りても無傷だったり、片手で人の骨を握りつぶしたり……」
 俺は思わず鍋をつつく手を止めた。チラリと詩くんの様子を盗み見るけど、詩くんはつくばちゃんの猛攻に疲弊しきっていて、こちらの話を聞いていないようだ。俺は不自然にならないように笑って相槌をうつ。
「おじさん、それって本気? どう考えても騙されてるっぽいけど」
「……やっぱり? 俺も聞きながら嘘くさいなぁとは思ってたんだ……」
「話としては面白いけどね。他に何か聞いてる?」
「うーん。聞いた話じゃ、奴らは人を襲って連れ去っているらしい。どういう目的かはわからないが……」
「なんで誘拐?」
 身の回りの雑用をさせるため? それとも肉壁用とか? あるいはストレスや性欲の発散に?
 他にも用途は考えられそうだけど、この話だけでは目的の特定は難しそうだ。
「こんな不思議な話も聞いたなぁ。そいつらは日中はビルにこもっていて、夜になると生存者を探すために行動するとか」
「!」
「変な話だよな。普通なら感染者が眠っている日中に行動する方が安全なのに。わざわざ夜に行動するなんて……」
「……まぁ、夜のほうが襲撃には適してると思うし、そいつらもそう考えたんじゃない? 大抵の人は夜になれば特定の場所に籠るし、昼に動き回って集中力が切れてる人も多い。それに、自分たちの気配も消しやすいからね」
「あ、なるほどなぁ。日森くんは頭がいいな……」
 俺は当たり障りのないことを答えながら、また詩くんを見た。
 人間離れした動きに、日中はこもって夜に行動する奴ら。まるで詩くんのようだ。深く考えていなかったけど詩くん以外にもそういった症状の人……つまり、感染したけど生前の姿や意識を保っている人が居たっておかしくないわけだ。

 その日は椎名さんのところで夜を明かした。
 ちなみに夜の見張りは椎名さんがすると譲らなかったから、俺はありがたく眠らせてもらった。眠る必要がない詩くんは退屈しているかと思ったけど、夜中に確認した限りでは、布団にもぐりこんでくるつくばちゃんとの戦いで忙しかったようだ。
 朝ごはんをご馳走になってから、俺たちは椎名さんと別れた。
 たった半日程度の付き合いだったけど、つくばちゃんは詩くんのことが相当気に入ったらしく、別れ際には詩くんに抱き着いて離れなかった。そのせいで椎名さんがつくばちゃんを無理やり引きはがした隙に、慌てて車を出す羽目になって、ロクに挨拶も出来ない別れになった。今頃きっと不機嫌になったつくばちゃんに椎名さんが手を焼いているだろうということは、想像に容易い。
 車内で詩くんはぐったりしていた。俺はその様子が面白くって、存分にからかうことにした。
「詩くん、モテモテだねぇ。別れちゃって良かったの? この先しばらくは女の子に出会えないかもしれないよ」
「本当にそう思ってるなら、正気を疑うぞ。最後の様子、どんなホラー映画よりも怖かった……」
 確かに。ホラー映画も顔負けなくらいの絶叫を放ち、全身のすべての力をもって詩くんに抱き着くつくばちゃんの様子は、はたから見ていても結構怖かった。
「高校でもモテたの?」
「……いや。オレ、男子校だったし」
「そうは言っても、他校と交流くらいはあるもんじゃないの? あと学校帰りにナンパしたりされたりとか」
 ナンパという単語に詩くんがちょっと呆れたようにため息を吐いたのは、たぶん聞き間違えじゃない。
「さあ……オレは遊びに出かけることなんて、ほとんどしなかったし。そもそも学生寮に住んでたから、外にもほとんど出なかったな」
「え? そんな奴って本当にいるの? 後輩の女の子から「放課後待ってます(はーと)」なんてメッセージ貰ったり、校門で女子高校生に待ち伏せされたりとか、経験ない?」
「……放課後呼び出すとか、今どきそんなことする奴いるのか?」
「意外といるよ? きっとシチュエーションにこだわりがあるんだろうね。だってメッセージアプリで「付き合ってください」「お返事は?」なんて言っても、まるで業務連絡みたいじゃん」
「うーん……効率はいいと思うけど……?」
「大抵の人は、恋愛に効率は求めないと思うけどね」
 詩くんはくそ真面目に考え込んで唸っていた。この様子じゃ、誰かが詩くんに淡い恋心を抱いてアプローチしていたとしても、ほとんど気づいてなさそうだな。
「……くぁ……」
 詩くんが大あくびをした。念のために言うけど、退屈な話題に眠くなったわけじゃなくて、そろそろ詩くんのお眠の時間帯だ。彼が後部座席に横になってしまう前に、相談すべきことをしておかないと。
「寝る前に目的地を相談していい?」
「ん……? 遊園地じゃなかったのか?」
「最終的にはね。ちょっと気になることがあって」
 俺は椎名さんから聞いた話を詩くんに伝える。
「椎名さんが聞いた話が本当だとしたら、奴らが詩くんと同じ状態である可能性は高い。もしそうなら、ちょっと様子を見ていくのも手かなと思って。ちょうど奴らの拠点は通り道だし」
 詩くんはちょっと考え込んだ。俺の提案にメリットがあるのか考えているんだろう。すぐに彼の表情は生き生きとし始めた。
「オレと同じってことは、それなりに強いってことか」
「一応言っておくけど、俺の目的はそんな好戦的なもんじゃないよ」
「……ああ、情報収集か」
「そう、もしかして詩くんに重要な後遺症が隠されてるかもしれないじゃん。もしくは隠された秘密が明かされるとか。そういうのってワクワクするし、聞いておいて損にもならないし、聞けそうなら聞いてこうよ。ちょっと見てヤバそうならさっさと離れればいいし」
「わかった。オレも楽しめそうだから、問題はない」
「じゃあ目的地決定だ。着いたら起こすから、今のうちに寝といて」
 詩くんは素直に頷いて、後部座席に横になった。
「おやすみ」
「ああ、あんぜんう……」
 言葉の途中で、詩くんは寝落ちてしまった。
 何を言いかけたんだろう。思わず考えたけど、車内に「交通安全」のお守りがヒントとして揺れていて、すぐに答えは分かった。たぶんだけど、安全運転しろよ、ってところかな。


〈詩サイド〉

 日森に起こされたのは、日暮れの時間帯だった。
「二時間くらいで着けると思ったけど、めちゃくちゃ時間かかっちゃったよ」
 日森は固まった体をほぐすように伸びをした。
 本来ならば出発地点からそう遠くない距離だったらしいが、オレは土地勘がないから、土地名を言われてもよくわからなかった。ただ、カーナビも地図もなく道によっては迂回する必要がある状態で、暗くなる前に到着できたのは日森の運転技術の高さと勘の良さのおかげだと言えることだけは分かった。オレが運転していたら、一生目的地にたどり着けなかったかもしれない。
「椎名さんが言っていたのは、あのビルだね」
 日森が指さしたのは駅前にある二十五階建てのビルだ。オレたちはそこから少し離れた場所に車を停めて、遠巻きにビルを見上げている。
「見張りがいるな」
 オレはすぐにビルの窓から外を眺める人影に気付いた。日森も目をこらすように細めたが、諦めたように肩をおとした。
「目ぇいいね。俺にはなんも見えないや。何人いる?」
「見える限りでは二人。二人とも同じ窓から周囲を見張ってる。えーっと……六階だな」
「あ、本当だ。よく見ると、なんかいる気がする。あの位置からならこの周辺は見渡せるし、二人で十分ってことなのかも。一応他の角度からも見てみよっか」
 日森の提案でビルの周りをぐるりと回る。ビルの四方に見張りが二人ずつ居て、周辺を見張っているようだった。これならどの方面から攻められても、すぐに気づくことができるだろう。
「厳重な警備だね。正面から行ったらすぐにバレちゃいそうだ。いや、むしろ好都合か。俺たちは隠れて何かしたいわけじゃないし。俺たちに気付いて、何人かが外に出てきてくれたら助かるんだけど……」
「オレが行って、何人か引きずりだしてこようか」
 もうすぐ日も暮れるし、相手が数人程度なら抵抗されても問題ないはずだ。
 オレの提案に日森は笑いをこらえるような変な顔をした。馬鹿にされている感じはしないが、まるで珍獣を眺めるような目つきになっている気がする。
「……それって、どういう感情の表情なんだ?」
「そうだねぇ。正直に言うと、呆れ三割、愉快七割ってところかな。でも、期待を裏切らない提案であることは確かだよ」
「そのわりには賛成じゃないみたいだな」
「そりゃそうだよ。作戦が成功すれば詩くんのかっこいいシーンを見逃すし、失敗すれば俺は何が起こったのかよくわからないまま、一人で取り残されることになる。だったら二人で行くか、二人でやめるかにしたほうがよくない?」
 日森の感性は理解しがたいことも多かったが、彼にとって単独行動するメリットがないということだけは理解できた。オレも別に単独行動をしたいというわけでもないし、拒否する理由はないだろう。
「わかった。そういうことなら、一緒に行こう」
「よし、じゃあ車はここに置いていこうか。カレーの缶詰を奪われたらショックで立ち直れないから」
 カレーは別にどうでもいい気がするけど、日森にとっては死活問題らしい。
 例のビルからはまだ距離があり、周辺の建物の陰で死角になっている場所だから、見張りにはオレたちの存在は気付かれていないだろう。
 オレは日傘を持ち、日森は鍬と懐中電灯を持って、歩き始める。まだ少し日が残っているから、フードをかぶって日傘をさすことを忘れない。
「詩くんはどう予想する?」
 ビルまで距離はまだある。呑気に歩きながら、日森が急に問いかけてくる。
「なにが?」
「今から会う相手。一体どういう集まりなのかなって。全員が詩くんのような……つまり、感染者なのかな? それともただの腕利きを集めただけの戦闘集団? どっちにしろ、強い奴の集まりなら詩くんは勧誘されそうだよね」
「それでお前は誘拐されるって?」
「うわ、そっか。あいつらって人を誘拐してるヤバい奴らなんだよね。俺にも友好的な態度をとってくれるかなぁ。もしヤバそうなら、さっさと逃げるから宜しくね」
「そうしてくれ」
 日森は本当に危ない状況になれば、オレを置いて勝手に逃げるだろう。そうしてくれた方がむしろ気が楽だ。
 五分ほど歩く。駅ビルがすぐそこに見えるところまでやってきた。
 日は落ち、辺りは暗くなってきている。それと共に眠気もすっかりなくなり、意識がクリアになっていくのが分かる。だからこそ、路地の暗がりからやってくる気配にすぐに気づくことができた。
「誰か来た」
「マジで? 俺にはわかんないけど」
 気配は四人だ。慎重な足音からして、相手もオレたちに気付いていて、そのうえで距離を詰めてきていることが分かる。
「おーい、こんにちはー?」
 日森が暗闇に向けて、挨拶を放った。それは明らかに適当で「見えないけどいるんだったら一応挨拶かますか」みたいな態度だったが、相手の動揺を誘うには十分だった。
 気配は困惑するように動きをとめた。
 それからたっぷり数秒後、気配を消すことを諦めて、堂々と姿を見せた。
 読み通り四人だ。年齢に一貫性はない。二十代くらいの女が一人、オレと同い年くらいに見える男が一人、残りの二人は四十代から五十代くらいに見える男女だ。
 若い二人が互いに距離を置いた状態で後ろに立ち、年上の二人がペアを組むように、前に出ている。彼らは立ち位置すらルール化されており、背後に組織的なものが存在することがうかがえる。しかし彼らの陣形にはぎこちなさを感じた。特に若い二人はそれが顕著で、オレたちを警戒するよりも、年上二人の仲間の機嫌を損なわないことに意識がいっているように見える。
 全員が一応片手に武器になるものを持ってはいるが、服装は非常にラフで、武装とはほど遠いものを感じた。
「この子たち、どうやってこっちに気付いたの?」
「わからん。姿は見られてないはずだ……」
 年上の男女二人が、低い声で動揺を口にしている。あれで気配を殺しているつもりだとしたら、こいつらも大したことがないな。
「あのー、ちょっと聞きたいんだけど」
 日森はどんな相手でも態度を変えない。いつも通りの軽薄そうな調子で、
「君たちってまさか、噂にきく駅ビルを拠点としてるっていう、超強い奴ら?」
「……」
「もしそうなら、ちょっと話を聞かせてもらいたいんだけど。君たちって――」
 日森の言葉を最後まで聞くことはなく、男の方が動いた。同時にオレも地を蹴る。
 男は持っていた鉄パイプを日森に向けて振り下ろしていた。
 意外と早い。日森の腕を引っ張って下がらせたオレは、男の攻撃を回避する余裕はなく、日傘で受け止める選択をした。
「っ!」
 一撃はかなり重く、オレの腕力では受け止めるのは無理だった。力を逃がすように軌道を受け流し、地に落ちた鉄パイプを踏みつけて、武器を無効化させる。
 男の判断は早かった。振り下ろしが受け流されたとわかるや否や、空いた手をオレに向けて伸ばしてくる。
 狙いは首だ。あの怪力に捕まれば、一瞬で戦闘不能に陥るだろう。
 ここは一旦下がって距離を……いや、むしろ好機だ。
 オレは避けなかった。
 男の大きな手がオレの喉を掴み、呼吸が止まる。同時にオレは男を逃がさないように、その腕を掴んでいた。男がオレの喉を握りつぶすより早く、強く突きだした日傘が、男の喉を突く。
「グッ……」
 男はたまらずオレを開放し、後方に下がる。
 喉を押さえているが、大した傷は与えられなかった。どうやら日傘が深く突き刺さる前に、男は強く後ろに飛んで衝撃を緩和したらしかった。
 こいつ、結構強い。腕力もあるし、なにより喧嘩慣れしている。
「詩くん、こいつら結構やばくない?」
 後ろに立つ日森が珍しく心配してくる。
「いや、大丈夫。お前は隙を見て戻ってろ。一人くらいは連れて戻るから」
「……そう、わかったよ。ほどほどにね」
 後ろにいる日森の顏は見えないが、またなんともいえない表情をしていることは、声色から想像できた。
 オレは邪魔なフードを取り払って、日傘を構え直した。
 相手は四人。全員が男と同じくらいの強さを持つなら、相当苦戦を強いられるだろう。それならばむしろ嬉しいくらいだ。相手が強いことに越したことはない。
「……ん?」
 しかしいつまで経っても相手が武器を構える様子はない。
 彼らはオレの方を見て動揺しているようにも見えた。しかも四人全員だ。
 オレが想定以上に戦えることが動揺に繋がったのか? 少なくとも剣を交えた男は、そんなことで動揺するような性質には見えなかったが。
「おい、あれって――」
「もしかして、適合者じゃない?」
 彼らの言葉にオレは眉を寄せる。
 適合者?
 ああ、そうか。日森が確か、こいつらもオレと同様、感染者である可能性があると言っていた。オレが彼らと同じ感染者だと言いたいのだろうか。
 それにしても彼らの表情は、同じ境遇の仲間を見つけたにしては動揺しすぎている。信じられないものに遭遇したような目つきで、オレをじっと見つめている。
「おい、本部に連絡しろ……」
 男の一人が後ろに控えていた若い男に指示した。
「適合者らしき人物が見つかったと、急ぎで応援を呼べ」
「了解です」
 若い男が走り去っていき、それをカバーするように若い女も後を追う。
 状況はよくわからないが、応援を呼ぶと言っていたことだけは理解できた。戦う相手が増えることは大歓迎だが、なんだか面倒な展開になったような感じがする。応援を呼びに行った若い二人を追うべきだろうか。しかし男は指示をしながらも、オレを警戒することを怠っていない。オレが動けば即座に反応してくるだろうから、安易に動くことはできない。
 ちらりと背後を見る。
 日森はもういない。本当に逃げ足だけは早い奴だ。辺りはすっかり暗くなってきたが、車まで無事に戻れただろうか。
「……適合者って一体どういうことだ?」
 答えは期待していなかったが、問いかけてみる。
 代わりに返ってきたのは、男の問い詰めるような言葉だった。
「いつ噛まれた?」
「……は?」
「体温は低いようだな。肌の色や目の色も変化している。食欲は? 最後に食事したのはいつだ?」
「…………」
 オレはだんだんと現状を面倒に感じ始めていた。
 奴らはオレとまともに会話する気はないようだ。こうやって話していてもオレが得する情報は何も得られないだろう。むしろ無駄に時間を過ごせば過ごすほど、状況が不利になることは明確だった。
「聞き出したいのなら、力づくでこい」
 オレの苛立ちを含んだ挑発に、男と女は顔を見合わせて頷きあった。
「それもそうだな」
 男が武器を構える。女の方はポーチから何かを取り出した。手に収まるサイズの端末だ。武器には見えない。携帯電話だろうか。
 女がそれを操作する。ボタンを押すだけの動作に見えた。
「……あぐっ……!?」
 同時に酷い頭痛がオレを襲い、思わず頭を押さえる。
 今まで体験したことのない頭痛。まるで尖った金属が頭の中を暴れまわっているようだ。立っていることすら困難で、今にも地面に倒れこみ、意識を手放してしまいそうだった。
「これが効くということは……本当に適合者のようだな」
 男の声がすぐそばで聞こえ、はっとして身構えたが、遅かった。
 横薙ぎに振るわれた鉄パイプをまともに食らって、オレは路地に転がった。
「う……」
 酷い頭痛と、横っ腹に食らった一撃が重なって、一瞬意識が飛ぶ。それでもなんとか気絶しないで済んだのは、倒れこんだ場所が思いのほかごつごつしていて、寝心地が悪かったからかもしれない。
「ちょっと! 怪我させてどうすんのよ」
「仕方がないだろう。相当の手練れだ。少しは弱らせておかないと」
「手足でも縛っておけばいいのよ。どうせこれを食らったら、ロクに動けないんだから……」
 どうやらオレを拘束する気らしい。起き上がらなければ、と思うものの、今の状態では意識を保つことだけで精いっぱいで、立ち上がることなんてとても出来そうにない。
「……っ……」
 拘束されたら逃げることはほぼ不可能だ。なんとかこの場から逃げるか、奴らを無効化しなくては。視界の隅に迫ってくる奴らの足が見える。ヤバいと思いながらも、体が動かない。
 その時、キキーッという甲高い騒音が聞こえた。
 どこかで聞いた覚えのある音だな、と思ったと同時に、突っ込んできた黄色の暴走車が、二人を次々と跳ね飛ばしていた。
「…………」
 唖然として見守る中、運転席が開いて日森が飛び出してくる。
「詩くん、大丈夫!?」
「……お前……マジか……」
 日森のとんでもない行動に文句の一つでも言いたかったが、もう限界だった。遠のく意識の向こうで、日森がうるさく騒いでいる声だけが最後まで聞こえていた。
 
 ふと目を開けると、もうすっかり見慣れてしまった、車の天井が見えた。
 室内は暗い。きっと夜だろう。車内は揺れているから、走行中のようだ。
 オレが体を起こすと、運転席の日森とミラー越しに目が合う。日森は物凄い勢いでこちらを振り返った。
「詩くん!? 起きたの!?」
「うわっ、おい、前! 前!」
 危うくカーブを曲がり切れず、ガードレールに正面衝突するところだった。ぎりぎりでカーブを乗り越えたあと、また日森がこちらを見ようとしたから、オレは慌てて助手席に移動した。
「頼むから前を見てくれ……」
「そんなことより、ぐったりしてたけど、体調は大丈夫なの?」
「ああ、大丈夫……というか、なにがどうなった?」
 オレが大丈夫だと分かって安心したのか、日森はようやく運転中は前を見るという常識を思い出したようだ。
「俺も何がなんだかわからないけど……車で詩くんのところに戻ったら、あの男たちが倒れてる詩くんを縛ろうとしててね。慌てて車で突っ込んだんだよ」
「ああ、うん……そこはよく覚えてる……」
「残念なことに、スピードは落としたから二人とも大した怪我じゃなかったよ。流石に車が心配だったから」
 心配するところはそこではないと思うが、日森の助けがなければ、今ごろオレはどうなっていたか分からない。文句を言える立場でもないだろう。ただ一つ言えることは、軽自動車でなければ、日森は容赦なくスピードを出していただろうということだ。
「で、とりあえずその場を離れてるところってわけ」
「どのくらい時間が経ってる?」
「三十分くらいかなぁ。とりあえず、今のところ誰も追ってきてないようだけど――」
 日森はハンドルを握りながら、ちらりと様子を伺うような眼差しを向けてくる。
「詩くん、まさかあいつらに負けたの?」
「……というか、戦ってすらいない。急に酷い頭痛がして、まともに立っていられない状態だったんだ。奴らが妙な装置を取り出して、起動した途端だったから、あれのせいかもしれない」
「妙な装置? もしかして、これのこと?」
 日森が懐から取り出したのは、見覚えのある端末。オレは先ほどの拷問のような頭痛を思い出して、思わず身構えた。
「なっ、なんでそれを……」
「あの場所に落ちてたから、なんかに使えないかなって持ってきたんだよ」
「おい、変なところ押すなよ……」
 勢いのよい日森のことだ、うっかりボタンを押してしまうことだってあり得る。慌ててそれを奪い取って、オレの手に収める。
 それは電化製品を販売する大手メーカーの名前が書かれていて、小さな液晶と、ボタンがいくつかついているだけのものだった。ボタンは再生や停止ボタン、または録音ボタンのようだ。
「これって……ボイスレコーダーか? これが原因じゃなかったのか?」
 どこからどう見ても普通のボイスレコーダーだ。こんなものが原因で、あの酷い頭痛が起こったとは思えない。
「どういうことか、聞いてみたらいいんじゃない?」
「このボイスレコーダーをか?」
 またあの頭痛に襲われたらと思うと、ついボタンを押すことを渋ってしまうが、確かにそれは手の一つだ。ボタンを押すだけで確認ができるのだから、もっとも手軽な確認方法だろう。
 オレが思い切ってボタンを押す前に、日森はまるで危険物を取りあげるような動作で、片手でボイスレコーダーを取り上げた。
「ではなくて、さっきのおじさんに。後ろにいるから」
「……は?」
 すぐに後部座席を覗き込む。さっきまでオレが寝ていたから、他には誰もいないはずだ。
 残るスペースはラゲッジスペースだ。軽自動車のラゲッジスペースは広くない。しかしそこに積んだはずの荷物が後部座席の足元に移動してあることに気づいた。
 つまり、今のラゲッジスペースには、別の何かが積んであるということだ。
 嫌な予感がする。
 後部座席に移動し、恐る恐るラゲッジスペースを覗き込んでみる。そこには手足を縛られて拘束された男が、苦しそうに丸まった体勢で詰まっていた。
 あちらこちら怪我をしている。これは日森に轢かれた時にできた怪我だろう。ただ思ったよりも酷い怪我ではなく、ほとんどがかすり傷とか打撲のように見えた。意識はあるらしく、睨むようにオレを見上げてきている。ガムテープで口が塞がれていなかったら、怒声が飛んでくるような形相だった。
 オレはそっと助手席に戻った。今の状況だけ見ると、オレたちのほうがよっぽど犯罪者のように思えるのは、きっと気のせいではない。
「……積んでるのは、一人だけだよな?」
 つい確認してしまったのは、見えないところに女性の方も詰め込まれているのではないかという恐怖にかられたからだ。
 日森はオレの懸念を笑い飛ばした。
「アハハ、流石にもう一人は無理だよ。軽自動車だからね」
 きっとスペースがあったら積んでいただろう。軽自動車で本当によかったと心底思った。


〈日森サイド〉

 俺たちは安全に休憩できる場所を探すことにした。
 捕まえた男からいろいろ話を聞くためだ。夜道をうろつく感染者や追手のことを考慮すると、走行中の車内の方が安全なんだろうけど、男が暴れた場合を考えると狭い車内は危険だと考えた上だった。
 もう一つの目的は休憩だ。一日中運転をしていた俺も流石に疲れていたし、できれば足を伸ばして眠れる場所が欲しかった。車内で寝てもいいんだけど、やっぱり狭いし、なによりも隙間風が寒い。
 できればきちんと施錠ができて、感染者と隙間風のない場所が良かった。駐車場があるとなおよしだ。
 いろいろ探した結果、二階建ての小さなオフィスにお邪魔することにした。
 一階が駐車場になっていて、二階がオフィスになっているタイプのやつだ。見たことのない社名が書かれていたけど、インターネットも使えないからなんの会社か調べることもできない。たぶんだけど名前的にデザイン会社じゃないかと思う。
 ここを選んだ理由は、人が入り込んだ気配がないこと、手動だけどシャッターが降りる駐車場があること、そして無用心にも二階の窓が開いていたことが決定打となった。まぁ窓が開いていたといっても、一センチ未満の隙間だったから、詩くんの人間離れした目がなければ絶対気づくことはなかったと思う。
 一階の車庫に車を停めて、シャッターを下ろす。
 駐車場の横にあった階段から二階に上がり、オフィスに入る。先に詩くんが忍者のように窓から室内に入って中から鍵を開けてくれたおかげで、俺はぐるぐる巻きにされた男を引きずりながらも、楽々と入室することができた。
 室内はまったく荒らされた形跡がなくて、めちゃくちゃ埃っぽかった。たぶんパンデミック以来誰も訪れていないんじゃないだろうか。
「おっ、クッキーだ。食べれるかな?」
 デスクの引き出しを何気なく開けると、なんと未開封のクッキーを見つけた。見たところカビは生えていない。もちろん賞味期限はとっくに過ぎているけど、保存料もめっちゃ入ってるクッキーだし、意外といけるかもしれない。
 詩くんはクッキーに興味を示さなかった。床に転がした男の前に立つと、口をふさぐガムテープを強引に取り外して、睨む男の目前にボイスレコーダーを突き付けた。
「これはなんだ?」
 詩くんは冷静を保っていたけど、声色は不快な様子を隠せていない。たぶんだけど、強い相手を戦える機会を奪ったと思われる謎の機械に対して、あまり良くない感情を抱いているんじゃないだろうか。
 男は答えないんじゃないかと思ったけど、意外にも素直に口を開いた。
「それは、特定の周波数を録音したものだ」
「周波数?」
「普通の人間には聞こえない音だ。しかし一部の者には不快な音として認識されると言われている」
「つまり、その一部の者ってやつが詩くんってこと?」
 俺が口を挟むと、男は不愉快そうな表情で俺を見たけど、素直に頷いた。
「そうだ。適合者には非常に効果があるとされている」
「あのさ、知ってて当然のような感じで言わないでほしいんだけど、適合者? ってなに? ゾンビに噛まれたけど、ゾンビの仲間入りしなかった人のことを言ってる?」
「正確に言うと、違う」
 違うんだ。それはちょっと意外だ。てっきり、感染しながらも人間性を保っている人たちのことを適合者と言うのかと思ったんだけど。
「お前たちがゾンビと呼ぶものは、正確にはH+ウイルス感染者と言う。H+ウイルスに感染したものは、潜伏期間を得て、三つのパターンに変化する」
 男が淡々とした声で説明した内容は、要約するとこんな感じだった。
 一つ目のパターンは「不適合者」
 そこら中に溢れているアレだ。H+ウイルスに適合できなかった彼らはすみやかに肉体が破壊され、精神が崩壊する。彼らの行動原理はいたって単純で、生きるためだけの行動を繰り返すことになる。頭をつぶされない限り生き続けるのは、唯一ともいえるH+ウイルスの恩恵だ。
 二つ目のパターンは「不確定期」
 H+ウイルスに適合したのではなく、潜伏期間が長引いている状態らしい。彼らの状態は非常に不安定で、突如H+ウイルスが全身を侵し、状態が変化することがある。観測の結果、今のところ百パーセントの確率で不適合者に変化するようだ。彼らの外見は普通の人間と大差ないけど、不適合者のように夜行性で、人間離れした身体能力を引き出すことができる。一見するとすごく良い状態にも思えるけど、いつ発症して不適合者になるかわからない状態は、安全面はもちろん精神面的にも非常にリスクが高いとかなんとか。
 三つ目のパターンは「適合者」
 H+ウイルスに感染しながらも、肉体と精神を完全に保つことができる。H+ウイルスの超人的な力を完璧に使いこなすことができる存在だ。生きた適合者は今のところ見つかっていない。
 つまり、詩くんがその「超珍しい適合者」なんだと、このおじさんは主張しているというわけだ。
「いや、そもそもH+ウイルスってなに? めちゃくちゃ怪しげなウイルスってことはわかるけど」
「俺もH+ウイルスについて、詳細は知らん。俺はただの下っ端にすぎないからな」
 自分で下っ端っていう人、初めて見た。
 まぁ予想通りではある。組織のお偉いさんが数人の部下だけを連れてあんな場所をうろうろしているわけないからね。
「えーっと、じゃあ、君たちの目的は? そのくらいなら流石に知ってるでしょ」
「上層部の目的は、適合者を作り出す方法を見つけることだ。そして俺たちは組織によって集められた感染者の集まり。つまり――」
「感染したけど人間性は保っていて、でもいつ変化するか分からない存在ってこと?」
「そうだ。不確定期とはいえ、俺たちはH+ウイルスに侵されているから、普通の人間よりは身体能力や回復能力が優れている。だからこそ普通なら重体になっていてもおかしくはない状況……たとえば自動車に跳ね飛ばされても、打撲程度の怪我で済んでいるというわけだ」
 男は「お前の攻撃なんぞ効いてないぞ」というように得意げだった。もしかしたら自分の能力を見せつけて俺たちをビビらせる目的もあるのかもしれない。でも逆に考えると、すごい力を持ってるわりに一般人の俺に負けた上に、こうやってぐるぐる巻きにされちゃうんだって、拍子抜けしてしまう。
「あっそうなんだ。最初に教えてよ。それなら遠慮せず、もっとスピード出せたのに」
 俺が心底残念に思った。おじさんは怒っているような、不快感を露わにするような、複雑な表情を浮かべた。
「その、H+ウイルスっていうのは……」
 今までずっと黙っていた詩くんが口を開く。
「急に全国に広がったようだけど。それは、お前の言う組織が関係しているのか?」
「……そうだ。聞いた話じゃ、意図的にH+ウイルスの感染を広めたらしい」
「それはどうやって行った? 例えば……たくさんの人を拉致して、無理やりH+ウイルスに感染させたとか?」
 詩くんの言いたいことが分かった。詩くんを拉致した奴らが、この組織の一部なのではないかと疑っているようだ。
 おじさんは肯定とも否定ともとれる曖昧な態度で首を振った。
「具体的な方法は知らん。ただ上層部の方が、適合者を見つけるために手っ取り早く感染者を増やしたと言っているのを聞いただけだからな」
「……」
 詩くんは何も答えなかった。考え込んでいるというより、何か気になるところがあるみたいだけど、現状ではそれを口にする気はないような様子だった。
 また俺が口を挟む。
「で、おじさんはそのお偉いさんの命令で、適合者ってやつを探してたんだ? 人を誘拐してたのもそれ関係?」
「結果論でいえば、そうなる」
「どういう意味?」
「俺たちに下された命令は三つだ。一つ目、適合者を探すこと。二つ目、不確定期の人間を組織に勧誘すること。三つ目、研究用の不適合者の餌となる人間を確保すること」
「餌って……」
 おじさんのとんでもない発言に反応する前に、強い力に押されて、俺は床に尻もちをついていた。
 俺を突き飛ばしたのは詩くんだ。おじさんは全身をバネのようにして、俺に飛びかかってきたらしい。唯一自由のきく口を大きく開けて。詩くんが突き飛ばしてくれなかったら、今頃俺はおじさんに噛みつかれていただろう。
 空ぶったおじさんは、顔面から床にダイブした。詩くんは容赦なくおじさんの首を踏みつけて押さえつける。
「ぐっ……」
「やけにぺらぺらと話すと思ったら、最初からこれを狙っていたようだな。お前がやたらと日森のほうばかり気にしているから、警戒しておいて正解だった」
「びっくりしたなぁ。詩くんが助けてくれなかったら、いまごろ俺のカッコいい顔に傷がつくところだったよ」
 詩くんは呆れたように溜息を吐いてみせたけど、俺が無傷でホッとしているのは、その表情を見れば明らかだった。詩くんは安堵で緩んだ口元をきゅっと結ぶと、踏みつけているおじさんを見下ろす。
「お前が噛みついたら、日森も感染するのか?」
「……そうだ。不確定期とはいっても、感染していることには変わりない」
「なるほど。日森を感染させて、その騒動に紛れて拘束を解くつもりだったようだな。ここを見ろ、拘束がほどけかけてる。たぶん会話中に少しずつ仕込んでいたんだろう」
「うわ、本当だ。ぜんぜん気づかなかった」
 部屋が暗かったっていうのもあるけど、俺たちに気づかれずに逃走の準備をしていたおじさんは、思っていた以上にやり手のようだ。詩くんがいなかったら、きっと俺は噛まれていただろうし、おじさんは容易く拘束をほどいて逃亡していただろう。
「まだ何か企んでいるようだな」
 詩くんがおじさんを睨む。詩くんに踏みつけられているおじさんは苦しそうな顔をしていて、俺には何か企むどころか、非常に余裕がなさそうに見える。
「詩くん、ちなみにだけど、どのあたりを気にかければそういうのがわかるのかな?」
「それは……勘だ」
「そっか。それはちょっと、俺には無理そうだね」
 たぶんおじさんの些細な行動や言葉から、違和感とか緊張なんかをなんとなく感じ取っているんだろう。ということにしておく。
「答えろ。何を企んでる?」
「…………」
「答えないのなら、それはそれで構わない。だけど、首の骨を折るくらい、オレにも簡単にできるってことを分からせてやろうか」
 おじさんを踏みつける足に力がこめられる。おじさんは詩くんの言葉が脅しではないと感じ取ったのか、慌てて口を開いた。
「ま、待て。わかった、答える」
 蛙が潰されたような声だった。詩くんはそれ以上力を込めることはやめたけど、それは決しておじさんの可哀そうな声に同情したとかではなく、どちらかというと会話の妨げになることを恐れたからという感じだった。証拠に、容赦なくおじさんを踏みつけることはやめない。
「ふん、それで?」
「お、俺がお前たちの質問に素直に応じていたのは、確かに逃げるチャンスを作るためだ。ただそれ以上に、知られても構わないと思っていたからでもある……」
「知られてもいい? どう考えても機密情報だと思うけど」
「そ、それは……知られたとしても、問題は起こらないからだ。つまり、その……」
 おじさんはなかなかはっきり言わない。イライラし始めた詩くんがまた足に力をこめると、押しつぶされたような声をあげて、おじさんは絞り出すように言葉を続けた。
「どのみち、お前たちは組織に捕まるからだ!」
「…………」
「お、俺たちの行動は常に監視されている……俺がどのルートを通り、どの場所に留まっているか、すべて本部は把握している。この場所に留まったのは、組織にとって好都合のはずだ。俺はただ、応援がくるまで、時間稼ぎをすればいい……」
「……そういうことか」
 だらだらと会話を長引かせていたのは時間稼ぎのため。躊躇なく情報漏洩をしていたのは、どの道俺たちが捕まる未来にあると確信していたから。俺は思わず大きく舌打ちをした。
「やられたね。どうする? おじさんを置いて出発する?」
「いや、だいぶ時間を取られた。もう近くまできていてもおかしくない。外に出て鉢合わせたら厄介だ。先にオレが外に出て、周りを見てくる」
「狙われてるのは詩くんでしょ。一人で出てったらヤバいって」
「お前がいても大して変わらない」
 それはまぁ、確かに。詩くんの言う通り、俺は危険な囮役を買ってでるつもりもないし、詩くんをフォローできるほど喧嘩慣れもしていない。
「オレが外に出ている隙に、お前は――」
 詩くんが不自然に言葉を途中で止めたと思ったら、急に後ろに数歩下がった。倒れそうになったのをなんとか堪えたように見えたから、俺は咄嗟に手を伸ばす。詩くんは手すりにすがりつくようにして俺につかまって、唸るように言葉を続けた。
「……くそ、頭痛が……」
「それって……例の周波数? もう奴らが来てるってこと?」
「いや……まだ、そう近くはない……さっきより、痛みがマシだし……」
 詩くんは振り絞るようにそれだけ言うと、痛みをこらえるように、目を伏せて黙り込んでしまう。脂汗が額に滲んで、吐き出される吐息も痛みのあまり震えている。見ているだけで痛みの強さがわかる。ピーク時の痛みはとても俺には想像がつかない。
 俺はとりあえず辛そうな詩くんを壁に寄りかけて座らせてから、窓に顔を寄せて外の様子を確認する。目視した限りでは誰の姿も見えない。でもなんとなく何かが潜んでいるような気がしてしまう。たぶんこれは先入観のせいだと思うけど、少なくとも詩くんが痛みを覚えてるってことは、周波数が届く範囲に追手がいることは確かだ。
 もちろん、周波数がどのくらい届くのかは分からないけど。
「……」
 座り込む詩くんが何か言いたげに目線だけ投げてきた。たぶん大きな声で話すのが辛いから、もっと近寄れという意味合いの目線だろう。
「外……」
 俺が横に座ると、詩くんか細い声で話し始めた。その声はたどたどしい。まるで一言発するたびに、酷い痛みが全身を走っているみたいだ。
「ん?」
「……どうだった?」
「見た限りでは、まだ誰もいないよ。シャッターのあがった音もしないから、建物内にはまだ入ってないと思う」
 二階へあがるにはまずは手動のシャッターをあげて車庫に入る必要がある。
 他の侵入口は窓くらいだ。二階だから容易く侵入はできないだろうし、もちろん施錠もしてある。いくら奴らが身軽で窓から入れたとしても、さすがに窓が無理やり開けられれば俺も気づく。
「なら……早く、逃げたほうがいい。車なら、逃げ切れるかも……」
「まぁ、そうだね。でも詩くん、歩けないでしょ。俺が背負うから、急いで車に――」
「え……」
 詩くんはきょとんとして俺を見上げた。まるで予想外の提案を受けたような表情だ。
「なに?」
 いたって現実的かつ効率的な提案をしたつもりだった。おかしなことは言っていないはず。俺が首をかしげると、詩くんは戸惑うように視線を落とした。
「お前はてっきり……一人で逃げるものかと……」
 詩くんは独り言のように呟いた。
 それでようやく納得した。詩くんの中で形成されている俺の人格は、随分と自己中心的で、自分を守るためなら他者を切り捨てることも躊躇わない冷血漢になっているようだ。だからこそ詩くんは自分が見捨てられると確信していたらしい。
「うわ、心外だなぁ! 俺が詩くんを置いて一人で逃げると思ったわけ?」
「……これまでの経緯で、そう思わない方がおかしくないか?」
 俺は大袈裟なくらい溜息を吐いて、傷ついた表情を浮かべてみせた。
「俺が詩くんを置いて一人で逃げるのは、そうすべき時だけだよ。つまり、俺がいたって邪魔になる時だけってこと。それは俺が詩くんなら大丈夫だろうと信頼しているからであって、詩くんがどうしようもなくて困ってる時に、見捨てたりはしないよ」
 もちろん、それは詩くんと俺のように持ちつ持たれつの関係性だからこそ成り立つ信頼関係であって、俺は誰にでもこんなに寛容ってわけじゃない。例えば相手が宮野さんだったら。依存するばかりのお荷物は必要ない。俺は迷わず宮野さんを見捨てるだろう。もちろんこの情報は伝える必要はないから、伏せておく。
「さっきだって詩くんを置いて逃げないで、助けに戻ったでしょ。詩くんも何度も俺を助けてくれたし。ここまで一緒に支えあってきた相棒ってことじゃん。それなのに酷いなぁ、詩くんは。俺のことは信頼してくれてなかったんだ?」
「……それは……」
 詩くんはまじまじと俺を見つめて、それから深く考え込むように黙り込んだ。今までのことを思い返しているのかもしれない。やがて自分の中で納得がいったのか、小さく頷いた。
「そうだな……オレが悪い。お前にはいろいろ助けられていたのに。失礼なことを言って、ごめん」
 詩くんは随分と素直な様子で謝罪を口にした。頭痛のせいで余計なことを考える余裕がないっていうのもあるだろうけど、たぶん詩くんは根っこが純粋で素直な性格だというのも大きいだろう。
 俺は別に怒っていたわけでもなかったし、笑顔で頷いてみせた。
「別にいいよ」
「じゃあ……悪いけど、車まで……」
「もちろん。行こうか」
 俺たちは車に乗り込んで、さっさとこの場を退散するつもりだった。
 けれどシャッターが開かれる音が建物中に響いたことで、その計画はあっさりと崩されてしまう。
「タイミング悪いなぁ。ちょうど入ってきたみたいだ」
 忍ばせた足音が、階段を上ってくる気配がする。
 出入口の扉はもちろん施錠しているけど、鍵は旧式のもので、時間稼ぎにはあまり役立ちそうにない。すぐに扉を無理やりこじ開けようとしている気配が伝わってくる。
 詩くんは一層辛そうな状態になって、もう座っているのすらやっとの様子だ。俺は出来る限り詩くんを扉から遠ざけた場所に連れて行った。
 それから持ち込んでいた鞄を漁る。
 ホームセンターで見つけたものが早速役立ちそうだ。とはいえ相手はたぶん相当の手練れだ。いくら道具が揃っていても、喧嘩慣れしていない俺が真正面から戦って対抗できるとは思えない。
「……たぶん五人だ」
 扉を睨んでいた詩くんが唸るように言った。今にも気を失いそうな状態でも、人間離れした感覚は健在らしい。
「五人か。それならなんとかなるかもね」
「近くにいるのは……だけど。外に……いるか、までは……」
「十分だよ。詩くん、ちょっと血をもらっていい?」
「……なんだって?」
 詩くんは聞き間違えたと思ったのか、怪訝そうな様子で聞き返してくる。だけど、俺が鞄からカッターと水鉄砲を取り出したのを見て、すぐに俺の作戦を察したようだった。
「……気を付けろよ……」
 詩くんは手を差し出してくる。たぶん自分で切る気力はないから、勝手にやってくれということだろう。
「でも……意味あるのか……?」
「たぶんね。俺の推測が正しければ、だけど」
 詩くんの血液入り水鉄砲が完成したのとほとんど同時に、破壊音がする。扉の鍵が壊された音だ。
 俺は扉から数メートルほど距離をあけて立つ。
 扉が開け放たれて、複数の人影が一気に部屋になだれ込んできた。詩くんが言った通り五人だ。そいつらがどういった奴らなのか、観察する余裕はない。敵が出入口に固まっているという好機を逃してしまったら終わりだからだ。
 俺は間髪入れず、右手に持っていたそれを奴らの顔面目掛けて噴射した。
「なっ……」
 予想通り、奴らの全員が軽装で、顔を覆うようなことはしていない。だからこそ室内に飛び込んだ瞬間に噴射されたそれを避けることはできなかった。
「ぐっ……ああああ!!!」
 あっという間に室内は悲鳴でいっぱいになった。
 俺が噴射したのはクマ撃退スプレーだった。それも外国製の超強力なやつ。ほとんどの人がクマ撃退スプレーの中身って知らないと思うけど、主な成分は唐辛子なんだとか。しかもタバスコとかチリパウダーとは比べ物にならないくらい濃度が高くて、少しでも皮膚に付着したら最後、焼けるような痛みに襲われるらしい。すべて暇つぶしで見た動画で得た知識だけど、まさかこんなところで役立つとは。
 そんなものをモロに顔面に浴びてしまった奴らの状態は悲惨だった。痛みのあまりぎゅっと閉じた両目から、ぼろぼろと涙を流して、鼻水を垂れ流し、少しでも痛みから逃れようと顔面を搔きむしっていた。
 それでも大ダメージを与えられたのは、前の方にいた三人だけだった。後ろの二人には少し付着しただけで、戦意喪失できるほどのダメージではない。
 俺はさっさと次の武器、左手に持っていた水鉄砲を構えた。後ろの二人にめがけて、水鉄砲を放つ。
 この一切の隙も与えない流れ作業が重要だ。
 飛び込んだ直後、阿鼻叫喚と化して、何が何だか分からない状態で水鉄砲を放たれる。普段なら水鉄砲なんて避けられるだろうけど、それどころじゃない奴らは水鉄砲すら回避する余裕をなくしているわけだ。
 想定通り、水鉄砲から放たれた液体は二人の顔面に直撃した。
「よっしゃ! 作戦成功!」
 俺はやることだけやって、さっさと後退した。鍬を手にもって詩くんを守るように立つ。
 クマ撃退スプレーをまともに浴びた三人のうち二人は、目もまともに開けられず、悲鳴をあげながら、地に伏している。この二人はもう戦力外と思っていいだろう。残りの一人は、付着した量が少なかったのか、涙と鼻水で顔面が酷いことになっているのに、戦意を失っていない。まるで親の仇を見るような目つきで俺を睨んでいる。
 残りの二人はほとんど無傷だ。顔面に降りかかった水鉄砲に戸惑ったようだったけど、それがクマ撃退スプレーのような威力がないとわかると、もうそのことなど忘れてしまったように、俺の――正確には俺の後ろに座り込む詩くんを見据えている。
「…………」
 俺はまだクマ撃退スプレーを持っている。だから奴らは軽々しく距離を詰めることはしない。
 三人は小声で何かを言い合うと、互いに大袈裟なくらい間隔を空けて、慎重に俺たちへ距離を詰めてくる。なるほど、これじゃあ仮にクマ撃退スプレーを噴射したとしても、せいぜい一人にしか当たらないだろう。
 まぁそもそも、奴らに噴射できるほど中身は残っていないんだけどね。わざわざ律儀に教えてやる必要はないけども。
 奴らは徐々に距離を詰めてくる。
 さぁ、ここからの展開は神のみぞ知るってやつだ。
「……うっ……」
 その時は、あっけないほど直ぐに訪れた。
 水鉄砲を受けた二人が、急によろめき出した。と思ったら、その場に勢いよく吐瀉物を吐き出した。
「お、おい、どうした?」
 奴らの仲間が思わず声をかけるが、二人は返事をしない。言葉の代わりに胃の中を全て吐き出すと、今度は酸欠状態のようにゼエゼエと荒い息をし始めた。まるであの二人の周辺だけ酸素が薄くなってしまったようだ。
 二人はついに床に倒れ込んで、もがくように手足をバタバタとさせ始めた。自分たちの吐瀉物に顔を突っ込んでいるのは全く気にならないらしい。
 彼らの顔色はみるみるうちに真っ青になり、唇は紫色になった。最終的には、二人はピクリとも動かなくなって、死んだように静かになった。
 この急展開は、わずか一分にも満たない時間だった。
「い、一体、何をした?」
 唯一まともに動ける奴――名前がないと不便だから、メガネ男と呼ぼう。もちろん眼鏡をしているからだ――が、明らかに狼狽した様子で俺を睨む。
 実は俺自身も、ここまで上手くいくとは思っていなかったからすごく驚いていた。もちろん表情には出さないけど。全て計算通りみたいな顔をして、水鉄砲を構える。
「見てたよね? 水鉄砲を当てただけだよ。もちろん、中身は普通の水じゃないけど。あ、無闇に近寄らない方がいいよ。水鉄砲の中身は、まだまだあるからね」
「…………」
 脅しの効果は抜群だった。メガネ男は水鉄砲を恐れて迂闊に飛びかかることができず、距離を保ったまま硬直する。俺たちの間に緊張感と共に沈黙が広がった。
 メガネ男が慎重であればあるほど、俺にとって有利になる。
 何故かと言うと、水鉄砲の中はもう空だからだ。
 つまり俺の手元に残った武器は、使い慣れていない鍬だけってことになる。何度も言うようだけど、俺は喧嘩慣れしていない。例え一対一の状況に持ち込んだとしても勝ち目があるとは言えない。
 どのくらい向き合っていただろう。
 めちゃくちゃ長い時間のように感じたけど、たぶん数分……下手したら三十秒くらいだったかもしれない。
「うぐう……」
 水鉄砲を受けて倒れこんでいた二人が唸った。
 俺とメガネ男は思わずそちらに視線を向ける。ほぼ同時に、二人が起き上がった。
 その様子は、灰色に変色した肌に、白く濁った瞳という、あからさまな感染者の形相だった。
「なっ……」
 メガネ男が驚いて飛びのく。非適合者と化した二人は、急に動いたメガネ男に視線を向けたが、すぐに興味を無くしたように顔をそむける。適合者の詩くんもそうだったけど、不確定期の彼らも、感染者の捕食対象にならないらしい。
 つまりこの室内にいる彼らの獲物は、俺だけってことになる。
「……!」
 二人の感染者たちは、ちょっとした衣擦れの音を感知して、弾かれたように俺の方を見た。
 二人は迷いなくこちらに突進してくる。これは計算のうちだから俺は慌てなかった。頭を使う人間よりも、猪突猛進に突っ込んでくる感染者の方が数倍やりやすい。
 冷静に鍬を使って奴らの頭を狙う。
 一発目は奴らの頭部に見事に鍬がクリーンヒットして、地に倒れこんで動かなくなった。
 続け様にもう一体に鍬を食らわせる。だけど当たり所がいまいちだったようで、倒れるには倒れたけど、すぐに身を起こしてきた。
 急いでトドメをささないと――
「そういうことか……」
 メガネ男がぼそりと呟いた。まるで俺の作戦をすべて理解したような態度だった。
 俺は詩くんほど感覚に優れていないし、視野も狭い。感染者に気を取られていた俺は、メガネ男の不穏な呟きに咄嗟に反応することはできなかった。
 気配を感じて振り返った時には、メガネ男はもうすぐ目の前まで迫っていた。手には斧を持っていて、俺に向かって振りかぶっている。
「待て、やめろ――」
 詩くんが俺を庇うように、俺とメガネ男の間に割り込んできた。
 詩くんは完全に無防備な状態だった。ただ最後の気力を振り絞って俺の前に飛び出したようだった。メガネ男は「やばい」と言いたげに目を見開いたが、勢い付いた斧は、急には止められないようだった。
 斧が詩くんの頭部めがけて振り下ろされている。
「っ!」
 俺は詩くんを引っ張って庇うように抱きしめていた。
 パニックのあまり狂ったわけじゃない。
 俺は至って冷静だし、状況を誰よりも理解できている。その証拠に、目の前に振り下ろされる斧の切っ先を、じっと見上げるくらいの余裕はあったし、その切っ先が詩くんに当たらないように、彼を庇うくらいの余裕もあった。
 俺は自らの選択の結果なら、例え死ぬときだって冷静だ。
「おわっ!!」
 メガネ男がバカっぽい悲鳴をあげた。
 急に飛び出してきた感染者が、メガネ男めがけて突進をしたせいだ。その勢いでメガネ男はバランスを崩し、斧の切っ先は俺の頭上スレスレのところで通り過ぎていく。
 メガネ男と感染者、二つの体は折り重なって、ごろごろと転がっていった。
「一体なにがっ……」
 メガネ男はすぐに立ち上がって、懲りずに俺たちへ――正確には俺へ――向けて殺意を向けた。すると倒れていた感染者はまた立ち上がり、メガネ男へ向かって飛びかかっていく。
「おい、やめろ! なんで、うわ……」
 メガネ男が斧を振るっても、感染者は決してひるむことはなく、メガネ男の喉に食らいついた。悲鳴と、ぐちゃぐちゃという肉を噛みちぎるような音が部屋に響く。赤い血だまりがどんどんと広がっていって、中心部にいるメガネ男が静かになるまで、そう時間はかからなかった。
 おかしい。メガネ男は不確定期で、捕食対象ではないはずだ。
 そもそも仮に捕食対象であったとしても、奴らは「殺す」目的で人を襲わない。感染者はただ目の前の食事に飛びつくだけだからだ。最初から急所を狙ってを攻撃するなんて、そんな感染者は見たことがない。
「…………」
 感染者は動かなくなった目の前の食事を放置して、じろりと俺を見た。俺は思わず身構えたけど、感染者はすぐに視線を逸らした。彼の視線の先には、他の襲撃者――ぐるぐる巻きにされたおじさんと、クマ撃退スプレーを浴びて悶絶している二人に向けられた。感染者は俺を放置して、襲撃者たちを襲い始めた。相変わらず食事ではなく殺しを目的とした襲撃だ。
「……どうなってんの?」
 俺が思わず呟きを漏らしても、感染者は反応すらしなかった。
 まさか俺も感染した?
 いや、怪我なんてした覚えはない。そもそも体調になんの変化もないから、やっぱり感染しているとは思えない。
 詩くんが急かすように俺の袖を引いた。同時に苦しそうなうめき声も聞こえてくる。そういえば庇うように抱きしめたままだったことを思い出す。
「……まぁいいや。今がチャンスだ」
 俺は詩くんを抱え込んで、部屋を飛び出した。その時の俺は相当忙しない動きをしていたと思うけど、やっぱり感染者は見向きもしなかった。
 階段を駆け下りて、車庫に入る。付近に潜んでいる襲撃者はいなかったから、遠慮なく車で逃走することができた。
 車でしばらく走り続ける。
 ある程度距離が稼げたところで、後部座席で寝ていた詩くんが、ふらつきながらも助手席に移動してきた。
「もう大丈夫そう?」
「ああ……もう痛みはない」
 詩くんはまだ顔色は悪かったけど、痛みを我慢している様子はなかった。
「さっき……何が起こったかわかるか?」
「いや、ぜんぜん。途中までは作戦通りだったけどね」
「クマよけのスプレーと、水鉄砲のことか? あいつらが俺の血液でああなるなんて、考えもしなかった。それもあんなすぐに発症するなんて……お前、それを知ってたのか?」
「それは――」
 俺は無意識に言葉を詰まらせた。流れるように微笑みをもらす。まるで得意げな笑みを見せつけるために息を吸ったかのように。
「なにか起こりそうだとは思ってたよ。あいつらはなんちゃらウイルスの潜伏期間状態だっていうし、適合者である詩くんの血液を取り込んだらバランスが崩れるんじゃないかってね。だといいなぁ程度の考えだったけど、まさかあんなに効果があるとはさすがに思わなかったなぁ」
「……ふぅん……」
 詩くんは俺の言葉を吟味するように唸った。
 余計なことまで考えてほしくなかった。大学での襲撃、詩くんの頬から流れた血、襲撃者の急な発症、そして引き起こされたのは宮野さんの死。確証はない。でも結びつけることはできなくはない。できれば大学で怪我をしたことを詩くんがすっかり忘れてくれていればいいんだけど、と思った。
 詩くんはしばらく黙って考えていたようだったけど、そのぼんやりと遠くを見るような表情は、俺の心配を的中するものではなかった。詩くんにとって怪我は日常茶飯事で、大学での負傷はほとんど記憶に残っていないのかもしれなかった。あるいは他に心配事があって心ここに在らずの状態にも見えた。
「なるほど……まぁ、こういう形で知れたことは良かったのかもしれない。これからはもう少し気を付けたほうがいいな」
「そうだね。うっかり俺の口に入らないように気を付けなきゃ」
「でも、それだけじゃ最後の状態は説明がつかない」
「あの感染者たちが俺たち以外を襲い始めたこと?」
 あの出来事は完全に予想外だった。あの場所で感染者の捕食対象になるのは俺だけだったはずなのに。
「さっぱりわからないね。無理やりそれらしいことを言おうとすると……うーん。あいつら二人は詩くんから感染したわけだから、他と違う特別な習性があるのかもしれない」
「特別な習性?」
「あくまで想像だけど、例えば詩くん以外の感染者を襲うとか」
 あの感染者たちの異常行動は二つだ。
 捕食ではなく殺害を目的に人を襲っていたこと。不確定期の襲撃者たちは襲われて俺は襲われなかったこと。
 後者に限っては、俺と襲撃者たちの違いを挙げていけば、ある程度は条件を絞ることができそうだ。感染しているか、感染していないか。または詩くんに近い距離にいたか、距離があったか。
 あるいは、奴らは詩くんが適合者であると直感的に悟っていたんだろうか。
 適合者である詩くんに害なす者を排除しようとしていた?
 そうすれば前者の理由にもなる。
 いや、さすがにそれは飛躍しすぎかな。俺はぶっ飛んだ考えを振り払うように首を振った。
「俺が襲われなかったのは、詩くんと引っ付いていたからかもしれないね。なんにしても、詩くんにくっついていれば安全ってことだ。これからは詩くんを抱きしめて行動しなきゃ」
「オレから感染した奴に限る話なら、ほとんど意味のない方法だけどな」
「あっ、そうか」
 会話をしながら無意識に出た欠伸をかみ殺す。そういえば今晩は一睡もできなかったことを思い出す。時刻的には早朝だし、眠気に限界がきてもおかしくない。
「……オレが運転変わろうか」
 欠伸に気付いた詩くんが気の利いた提案をしてくれるけど、俺は詩くんの善意に感謝するより先に根本的な疑問が先にでる。
「免許持ってないのに?」
「取り締まる警察がいないんだから、別にいいだろ」
「違反は気にしないけど、事故死はしたくないからなぁ」
「……それだけはお前に言われたくない」
 詩くんはふてくされたように唇をほんの少し尖らせたけど、あっさりと引き下がった。たぶん俺を心配して提案してくれたんだろうけど、運転技術に自信がなかったから、簡単に引き下がったようだった。気持ちだけで十分だったから結局俺はハンドルを譲らなかった。
「もう少しだけ走ったら、どこかで休憩しようか」
「そうだな」
 詩くんは窓に寄りかかり、長い前髪から覗き込むようにして俯きがちに外の景色を眺め始めた。
 光源は車が照らす弱々しいヘッドライトだけだから、辺りを眺めるには不十分だ。眺めていても何も見えないはずだけど、詩くんはまるで夜目が利くように外を見つめている。あるいは視線を向けているだけで、何かを見ているわけではないのかもしれない。
「これから、どうすべきか……」
 詩くんの声が車内に落ちる。小さな声だったけど、今までのどの声よりも弱々しく、不安げに震えているようにも聞こえた。
 彼の不安も仕方がないと思った。
 詩くんが妙なウイルスの適合者だということがわかった。妙な企みを持つ組織の存在も明らかになった。
 奴らはこれからも非人道的な活動を続けるだろうし、適合者である詩くんを狙ってくるだろう。奴らの組織の規模も戦力も、よくわからない。そんなものに狙われることになった詩くんのプレッシャーや不安は計り知れないだろう。
 そもそも適合者というのもよく分かっていない。これから先、詩くんの身に問題が起こらないとも言い切れない。
 詩くんはそういった不安を抱えているはずなのに、相変わらずの無表情で、ネガティブな発言は口にしなかった。だけど、途方にくれているような様子は隠しきれていなかった。
 俺は不安を笑い飛ばすような声で笑って、あっけらかんと言うことにした。
「目的地忘れた? 遊園地に行くんだよ」
「……そんな場合でもない気がするけど」
「あいつらの企みなんてどうでもいいよ。勝手に企んでくれればいい。俺たちはただ自由に行きたいところに行って、やりたいことをやる。その上で邪魔をしてくるのなら相手をしてやればいいんじゃない?」
 俺は少し声のトーンを落とした。決して暗い声ではなく、真剣な様子で。
「それでもし俺たちが負けて捕まったとして……死んだとしても。それまでが楽しかったらそう悪くはないと俺は思う。少なくとも変に構えて、あいつらに行動を縛られることになるよりは、百倍もマシだ」
 詩くんは青い目をまん丸にして俺の言葉を聞いていた。その発想はなかった、とでも言いたげな表情だ。俺は「驚いてる猫に似ているな」と密かに思った。
「俺と詩くんならそれができると思うんだけど、君はどう思う?」
 俺の笑顔の問いかけに、詩くんは思わずといった様子でふふっと顔をほころばせ、
「そうだな……オレも悪くないと思う」
 そして不安を吐き出すように小さく息を吐いた。
「日森、いろいろと、ありがとう」
 消え入りそうな声で呟いた。照れ隠しのあまり小声になったみたいな声だった。
 横目で詩くんの表情を確認したけど、彼はもう無表情に戻っていて、また暗闇を眺めていた。だけどもう俯いていなかった。詩くんの無表情は相変わらず何を考えているのか分からなかったけど、彼の表情から不安が消えていることだけは確かだった。