灼熱の太陽が照りつける、地方球場の三塁側ベンチ。
人工芝の熱気と、焦げ付くような土の匂い。
これが、僕の最後の一日になる。
スコアは2対5。
九回裏、二死一、三塁。
一打出れば同点、あるいは逆転のチャンス。
けれど、球場全体の視線は、バッターボックスに立つ僕ではなく、三塁ランナーであるエースや、次打者でスタメンの後輩に向けられていた。
「代打、送るぞ」
監督の声に、心臓が跳ねた。
「辞めたい」なんて、何度言っただろう。
中学の時、自分が「最強」ではなく「平均以下」だと知ったあの日から、野球は僕にとってただの苦行だった。
試合に出られなくて当たり前。
エラーをして当たり前。
期待されるのが怖くて、あきらめることで自分を守ってきた。
ネクストバッターズサークルで膝をつき、バットを握りしめる。
バックネット裏のスタンドには、彼女がいた。
一つ年上の幼なじみ。
あの日、「センスないんだから辞めれば」と言い放った彼女が、身を乗り出すようにして僕を見つめている。
(……一回でいい。一回だけでいいから、あいつに「やってよかったんだ」って思わせてやりたい)
バッターボックスに向かう背中に、ベンチからの野次馬じみた声援が飛ぶ。
「頼むぞ!」「お前ならやれる!」
柄にもない熱い言葉が、泥だらけのユニフォームに染み込んでいく。
初球、外角低めのストレート。
少年野球の頃なら、迷わず振り抜いていただろう。
けれど今の僕は、ボールを長く見すぎて、バットが出なかった。
二球目、三球目。ファウルで粘る。
手に伝わる衝撃が、僕の三年間を逆再生するように響く。
放課後の地味なティーバッティング。
監督の悪口を言い合いながら食べたコンビニの肉まん。
カバンの奥でくしゃくしゃになった退部届。
(……野球なんて、大嫌いだ)
歯を食いしばり、四球目。
吸い込まれるような白球に、僕は身体中の力を込めてバットを振り抜いた。
「――っ!」
芯で捉えた、確かな感触。
打球は鋭いライナーとなって、左中間を割るかと思われた。
一瞬だけ、歓声が爆発した。
僕も、走り出した。
これまでの劣等感も、惨めさも、すべてをあの一打が塗り替えてくれると信じて。
けれど。
「アウトッ!」
跳ね上がるような歓声は、一瞬で相手校のものに変わっ
た。
相手校の外野手が、ボールを掴んでいた。
あと数メートル、あるいは数センチ。
僕の三年間を救ってくれるはずだった一打は、ただの「外野フライ」としてグローブの中に収まった。
呆気なかった。
奇跡なんて起きなかった。
僕は、僕のまま、何も変えられないまま終わったんだ。
あと少し、数センチ角度が違えば逆転のタイムリーになっていたかもしれない。
けれど、その数センチを埋められないのが「僕」という選手だった。
「……わりぃ」
ベンチに戻る僕と入れ替わりで、バッターボックスに向かう後輩と肩がぶつかる。
彼は僕の顔を見ようとしなかった。
ただ、僕の泥だらけの肩を一度だけ強く叩いて、足早にボックスへと入っていった。
二死、一三塁。
最後の望みは、チームで一番ストイックな、あの生意気な後輩に託された。
(……打てよ。お前なら、行けるだろ)
僕はベンチの最前列でフェンスにしがみつき、祈るように彼の背中を見つめた。
あの日、僕を引き止めた後輩。
僕の情けない独り言を全部聞いて、それでも「先輩の野次がないと寂しい」と言ったあいつ。
初球、後輩は迷わず振った。
凄まじいスイングの音がベンチまで聞こえてくる。空振り。
彼はまるで獲物を狙う獣のような鋭い眼差しで、ピッチャーを睨みつけていた。
そして、運命の五球目。
カィン、という硬い音が響く。
打球は三遊間を襲う鋭いゴロ。抜ける、と思った。
けれど、相手のショートが深い位置から回り込み、一塁へ矢のような送球を投じる。
「走れ……っ! 走れ!!」
僕は叫んでいた。
後輩は、もうなりふり構わず土に飛び込んでいた。
一塁へのヘッドスライディング。
右手がベースに届くのと、ファーストのミットにボールが収まる音は、ほぼ同時だった。
「……アウトッ!!」
審判の右手が、残酷に上がる。
その瞬間、僕たちの夏は、唐突に幕を下ろした。
後輩はベースに突っ伏したまま、しばらく動かなかった。
白いユニフォームが、一瞬で真っ黒に汚れ、砂にまみれている。
あんなに野球が上手くて、あんなにストイックな彼が、
「……しまらねーな、最後まで」
整列に向かう足が震える。
視界が急激に滲んで、足元の土がどろどろに溶けて見えた。
おかしい。
野球なんて、大嫌いだったはずだ。
早く辞めたかった。
土で汚れるのも、打てなくて惨めな思いをするのも、もう十分だったはずなのに。
「……っ、……ぁ、」
喉の奥から、自分でも聞いたことがないような、情けない声が漏れた。
隣で、同じように泥だらけになった後輩が、僕のユニフォームを掴んで泣きじゃくっている。
「ごめんなさい、……最後っ、僕が、打てなくて……ごめんなさい、……っ!」
「……馬鹿。お前が謝んなよ。来年、勝てよ」
先輩らしいことを言いたいのに、声が震えて、まともな音にならない。
球場の外に出ると、案の定、幼なじみがいた。
「……何泣いてんだよ、ばーか」
いつも通り、乱暴に頭を叩かれる。痛い。
言い返そうとして見上げた彼女の、真っ直ぐに僕を見つめる瞳。
その目元が、ほんの少しだけ、赤く腫れているのが見えた。
「……センスないんだから、泣くほど頑張んなきゃよかったのにさ」
「でも3年間お疲れ様」
いつもはぶっきらぼうな彼女の声が、今日だけは、どこまでも優しく僕の耳に届いた。
人工芝の熱気と、焦げ付くような土の匂い。
これが、僕の最後の一日になる。
スコアは2対5。
九回裏、二死一、三塁。
一打出れば同点、あるいは逆転のチャンス。
けれど、球場全体の視線は、バッターボックスに立つ僕ではなく、三塁ランナーであるエースや、次打者でスタメンの後輩に向けられていた。
「代打、送るぞ」
監督の声に、心臓が跳ねた。
「辞めたい」なんて、何度言っただろう。
中学の時、自分が「最強」ではなく「平均以下」だと知ったあの日から、野球は僕にとってただの苦行だった。
試合に出られなくて当たり前。
エラーをして当たり前。
期待されるのが怖くて、あきらめることで自分を守ってきた。
ネクストバッターズサークルで膝をつき、バットを握りしめる。
バックネット裏のスタンドには、彼女がいた。
一つ年上の幼なじみ。
あの日、「センスないんだから辞めれば」と言い放った彼女が、身を乗り出すようにして僕を見つめている。
(……一回でいい。一回だけでいいから、あいつに「やってよかったんだ」って思わせてやりたい)
バッターボックスに向かう背中に、ベンチからの野次馬じみた声援が飛ぶ。
「頼むぞ!」「お前ならやれる!」
柄にもない熱い言葉が、泥だらけのユニフォームに染み込んでいく。
初球、外角低めのストレート。
少年野球の頃なら、迷わず振り抜いていただろう。
けれど今の僕は、ボールを長く見すぎて、バットが出なかった。
二球目、三球目。ファウルで粘る。
手に伝わる衝撃が、僕の三年間を逆再生するように響く。
放課後の地味なティーバッティング。
監督の悪口を言い合いながら食べたコンビニの肉まん。
カバンの奥でくしゃくしゃになった退部届。
(……野球なんて、大嫌いだ)
歯を食いしばり、四球目。
吸い込まれるような白球に、僕は身体中の力を込めてバットを振り抜いた。
「――っ!」
芯で捉えた、確かな感触。
打球は鋭いライナーとなって、左中間を割るかと思われた。
一瞬だけ、歓声が爆発した。
僕も、走り出した。
これまでの劣等感も、惨めさも、すべてをあの一打が塗り替えてくれると信じて。
けれど。
「アウトッ!」
跳ね上がるような歓声は、一瞬で相手校のものに変わっ
た。
相手校の外野手が、ボールを掴んでいた。
あと数メートル、あるいは数センチ。
僕の三年間を救ってくれるはずだった一打は、ただの「外野フライ」としてグローブの中に収まった。
呆気なかった。
奇跡なんて起きなかった。
僕は、僕のまま、何も変えられないまま終わったんだ。
あと少し、数センチ角度が違えば逆転のタイムリーになっていたかもしれない。
けれど、その数センチを埋められないのが「僕」という選手だった。
「……わりぃ」
ベンチに戻る僕と入れ替わりで、バッターボックスに向かう後輩と肩がぶつかる。
彼は僕の顔を見ようとしなかった。
ただ、僕の泥だらけの肩を一度だけ強く叩いて、足早にボックスへと入っていった。
二死、一三塁。
最後の望みは、チームで一番ストイックな、あの生意気な後輩に託された。
(……打てよ。お前なら、行けるだろ)
僕はベンチの最前列でフェンスにしがみつき、祈るように彼の背中を見つめた。
あの日、僕を引き止めた後輩。
僕の情けない独り言を全部聞いて、それでも「先輩の野次がないと寂しい」と言ったあいつ。
初球、後輩は迷わず振った。
凄まじいスイングの音がベンチまで聞こえてくる。空振り。
彼はまるで獲物を狙う獣のような鋭い眼差しで、ピッチャーを睨みつけていた。
そして、運命の五球目。
カィン、という硬い音が響く。
打球は三遊間を襲う鋭いゴロ。抜ける、と思った。
けれど、相手のショートが深い位置から回り込み、一塁へ矢のような送球を投じる。
「走れ……っ! 走れ!!」
僕は叫んでいた。
後輩は、もうなりふり構わず土に飛び込んでいた。
一塁へのヘッドスライディング。
右手がベースに届くのと、ファーストのミットにボールが収まる音は、ほぼ同時だった。
「……アウトッ!!」
審判の右手が、残酷に上がる。
その瞬間、僕たちの夏は、唐突に幕を下ろした。
後輩はベースに突っ伏したまま、しばらく動かなかった。
白いユニフォームが、一瞬で真っ黒に汚れ、砂にまみれている。
あんなに野球が上手くて、あんなにストイックな彼が、
「……しまらねーな、最後まで」
整列に向かう足が震える。
視界が急激に滲んで、足元の土がどろどろに溶けて見えた。
おかしい。
野球なんて、大嫌いだったはずだ。
早く辞めたかった。
土で汚れるのも、打てなくて惨めな思いをするのも、もう十分だったはずなのに。
「……っ、……ぁ、」
喉の奥から、自分でも聞いたことがないような、情けない声が漏れた。
隣で、同じように泥だらけになった後輩が、僕のユニフォームを掴んで泣きじゃくっている。
「ごめんなさい、……最後っ、僕が、打てなくて……ごめんなさい、……っ!」
「……馬鹿。お前が謝んなよ。来年、勝てよ」
先輩らしいことを言いたいのに、声が震えて、まともな音にならない。
球場の外に出ると、案の定、幼なじみがいた。
「……何泣いてんだよ、ばーか」
いつも通り、乱暴に頭を叩かれる。痛い。
言い返そうとして見上げた彼女の、真っ直ぐに僕を見つめる瞳。
その目元が、ほんの少しだけ、赤く腫れているのが見えた。
「……センスないんだから、泣くほど頑張んなきゃよかったのにさ」
「でも3年間お疲れ様」
いつもはぶっきらぼうな彼女の声が、今日だけは、どこまでも優しく僕の耳に届いた。
