幼なじみと後輩と1ヶ月

最後の大会、前日。

夕暮れのグラウンドには、明日の本番を待つ静寂と、どこか焦れたような熱気が同居していた。

結局、僕のユニフォームの背中に「一桁」が踊ることはなかった。

三年間、誰よりも「野球なんて嫌いだ」と嘯き、逃げ道を作ってきた代償。

ベンチ入りの末席、背番号「16」の重みが、今の僕にはあまりに皮肉で、そして痛いほどに重たい。

部室の隅、自分のロッカーの前に座り込むと、泥の染み付いたグラブが目に飛び込んでくる。

幼なじみに「頑張れ」と言われてからのこの一ヶ月、僕は死ぬ気でバットを振った。

手のひらのマメが潰れ、血が滲んでも、自分を追い込み続けた。

けれど、心の奥底で冷めた声が響く。

(……もっと早く、本気になっていれば)

二年前、いや、一年前の自分に殴りかかりたい衝動に駆られる。

サボり方を覚え、適当に流していたあの日の自分。

「どうせ俺なんて」と冷めたフリをしていたあの時間。

その「失われた時間」のすべてが、今、残酷な結果になって僕の前に並べられていた。

「明日で、終わるんだな」

口に出すと、喉の奥がキュッと締め付けられる。

あんなに辞めたかったはずなのに。

あんなに苦痛だったはずなのに。

いざ終わりを突きつけられると、取り返しのつかない

「未練」が澱のように胸に溜まっていく。


「……なんすか先輩。お通夜みたいな顔して」

静寂を切り裂くように、生意気な声がした。

ショートのスタメン、後輩のあいつだ。

彼はいつも通り、一点の曇りもない真っ白なユニフォームを涼しげに着こなし、ピカピカに磨き上げたグラブを指先で回している。

「……うるせぇよ。明日の先発メンバー様は、余裕があっていいな」

「当たり前じゃないっすか。僕、天才なんで。先輩みたいに前日になって慌てて素振りし始める泥縄タイプとは違うんすよ」

「お前、マジで一回殴らせろ」

いつもの、中身のない罵り合い。

けれど、後輩はふいっと視線を逸らすと、ロッカーに立てかけた僕のバットを指先で弾いた。

「……先輩。昨日、居残りで僕がノック打ったとき。あの三遊間の当たり、捕ったじゃないっすか。あんなに泥だらけになって」

「……ああ。必死だったからな」

「……一年前の先輩なら、絶対にあきらめてましたよ。……だから」

後輩は再び僕を真っ直ぐに見据えた。

その瞳には、いつもの挑発的な色はなく、一人の「内野手」としての真剣な光が宿っていた。

「準備しといてくださいよ。スタメンじゃなくても、僕がエラーしたらカバーしなきゃいけないんすから。……明日、僕が絶対繋ぎますから。先輩が代打で出てくる場面、作りますから」

「……」

「ま、僕がエラーするわけないんで、先輩の出番があるとしたら僕が猛打賞で試合決めた後の消化試合っすかね! ははっ!」

あいつはそう言い残すと、軽やかな足取りで部室を出ていった。

一人残された部室で、僕はもう一度、自分のボロボロのグラブを手に取った。

後悔は消えない。不安も、足の震えも止まらない。



結局、最後までスタメンの壁は高かった。

もっと早く、あの「辞める」なんて腐っていた時間に一回でも多くバットを振っていれば。

そんな終わりのない後悔が、暗い部屋の中で何度も頭をもたげては僕を締め付ける。

震える手でスマートフォンの画面を見る。

時刻は夜の八時を回ったところだ。

明日、負ければ僕の三年間は無風のまま終わる。

その時、手の中でスマホが激しく震えた。

画面に表示された名前を見て、心臓が跳ね上がる。

幼なじみの彼女からだった。

「……もしもし」

努めて冷静に、低い声で出た。

けれど、受話器の向こうからは沈黙が返ってくる。

ガサゴソという衣擦れの音と、彼女の少し急いだような呼吸の音だけが聞こえてくる。


「なんだよ、間違い電話か?」

「……ちがうわよ」

ようやく返ってきた声は、いつもの気の強い彼女とは違って、どこか震えていた。

「なに。用がないなら切るぞ。明日早いんだから」

「待って。……あのさ」

彼女はそこで一度言葉を切った。

電話越しでも、彼女が意を決して唇を噛んでいるのが分かるような気がした。

「……あんた、センスないし。たぶん明日も、かっこいいところなんて見せられないと思うけど。でも」

「なんだよ」


「……誰よりも、応援してるから。……頑張りなさいよ。おやすみ!」



プツッ、という無機質な切断音。

あまりに唐突で、あまりに直球な言葉だった。

「…………え?」

スマホを耳に当てたまま、僕は固まった。

心臓が、さっきの緊張とは別の理由で激しく肋骨の裏を叩いている。

あの、いつも僕を「センスなし」とこき下ろし、弱音を吐けば「辞めれば」と突き放してきた彼女が。

間違いなく、今の声は、照れを隠しきれない女の子の声だった。

「…………っ、なんだよ……それ」

数秒後、ようやく意識が現実に戻ってきた。

熱が顔中に一気に昇り、耳まで熱いのが自分でも分かる。

暗い部屋の中で一人、僕はスマホを握りしめたまま、ぐしゃぐしゃに顔を歪めてベッドに突っ伏した。

「……あー、クソ。反則だろ、そんなの」

さっきまで胸を支配していた不安や後悔が、彼女のたった一言で、どこか遠くへ吹き飛ばされていた。

単純な自分に呆れる。

けれど、身体の芯に、昨日までの猛練習でも得られなかったような、静かで熱い力がみなぎっていくのが分かった。

スタメンじゃない。センスもない。

けれど、彼女が応援している。

たったそれだけの理由が、今の僕には、どんな理論的なアドバイスよりも、どんな感動的なスピーチよりも、僕をバッターボックスへと突き動かす最強のエネルギーになった。

僕はスマホをサイドテーブルに置くと、もう一度天井を見上げた。

視界はさっきよりもずっとクリアで、明日の朝、泥だらけになる準備はもう、十分に整っていた。