練習試合から一夜明けた、月曜日の放課後。
グラウンドには、昨日までの生温い湿気を吹き飛ばすような、暴力的なまでの西日が降り注いでいた。
僕は、誰よりも早く部室を出て、グラウンドの隅で泥だらけになっていた。
昨日までは、ボールを追うことさえ「どうせ届かない」
「無駄な体力の消耗だ」と理屈をつけて、どこか冷めた目で見ていた。けれど、今は違う。
昨夜、幼なじみの前で引き裂いた退部届の、あのバリバリという乾いた音が、今も耳の奥で鳴り止まない。
(……逃げない。もう、自分に嘘はつかない)
「おい! もっと足動かせ! 突っ込め!」
監督の怒鳴り声が飛ぶ中、僕は三遊間に放たれた鋭いノックの打球に向かって、文字通り身体を投げ出した。
右肩が硬い地面に叩きつけられ、口の中に砂が入り込む。
ジャリリとした不快な感触と、鈍い痛み。
普通なら顔をしかめるはずのその感覚が、今の僕には「生きている実感」として、たまらなく心地よかった。
「……うわぁ、熱いっすねぇ。見てるこっちが火傷しそうっすよ」
土を払って立ち上がろうとした僕の視界に、汚れ一つない真っ白なユニフォームの裾が映った。
顔を上げると、そこにはショートの定位置で、指先で器用にボールを弄んでいる後輩がいた。
「……何がだよ」
「いや、何がって。先輩、今朝からずっとその顔じゃないっすか。獲物を狙う野良犬っていうか、あるいは自分のケツに火がついたことにようやく気づいた先輩っていうか。正直、ちょっと……いえ、かなり引いてます」
後輩はニヤニヤと、人を食ったような笑みを浮かべて僕を覗き込んできた。その瞳には、いつもの生意気な光の奥に、隠しきれない驚きが混じっている。
「……お前に言われた通りだよ。あんなダサいサードゴロで、自分から走るのやめるような終わり方、二度としたくねーんだよ」
僕は吐き捨て、グラブを膝に叩きつけて土を落とした。
「へぇー。……幼なじみさんに、何かいいことでも言われたんすか? 『頑張ったらチューしてあげる』とか。あ、でも先輩のあの顔じゃ、泣いて逃げられちゃったかな?」
「……お前、マジで一回殴らせろ。昨日、部屋で二人きりだったこと、なんで知ってんだよ」
「勘っすよ、勘。先輩、今朝部室に来た時、カバンの奥を触る手が全然震えてなかったっすもん。あの退部届、ようやく捨てたんすね」
後輩はそう言うと、グローブをパチンと鳴らした。
その瞬間、彼の表情から茶化すような色が消え、一人の「天才内野手」としての鋭い眼差しが僕を射抜いた。
「顔つき、変わりましたね。昨日までの先輩は、僕の隣にいても透明人間みたいでした。そこにいるのに、戦う意思が透けて見えちゃうっていうか。正直、三遊間に飛んできても『僕が獲らなきゃな』って諦めてたんすよ」
「……」
「でも、今の先輩なら、まあ……僕が弾いたボールくらいは、拾ってくれるかもしれないっすね。あ、もちろん、僕が弾くことなんて万に一つもないっすけど」
「……誰が拾うか。お前が捌けない分まで、俺が全部獲ってやるよ。見てろよ」
「ははっ! 言いましたね? じゃあ、次のノック、死ぬ気で飛び込んでくださいよ。僕が全部、先輩の目の前に『わざと』弾いてあげますから!」
後輩はそう言い残すと、軽やかなステップで守備位置へと戻っていった。
「……あいつ、本当にムカつくわ。でも……」
僕は小さく毒づき、再び腰を落として構えた。
センスがない。才能がない。平均以下の、代打要員。
そんな事実は、一晩で変わるわけじゃない。
でも、後輩のあの生意気な笑顔や、幼なじみがバッグの奥に突っ込んだ退部届の破片を思い出すたびに、足に得体の知れない力が宿る。
「来い……っ!」
放たれたノックの打球に向かって、僕は昨日までなら諦めていた最初の一歩を踏み出した。
地面を蹴り、空を飛び、泥の中に突っ込む。
肺が焼けつくような苦しさ。
でも、不思議と気分は悪くなかった。
大嫌いだったはずのこの場所が、今は、自分が自分を証明するための、唯一の聖域に見えていた。
「先輩! 今の、一歩目が遅いっすよ! もっと泥食ってください!」
「うるせぇ! 見てろ、次は絶対獲ってやる!」
西日に照らされたグラウンドで、僕たちの罵り合いが響き渡る。
練習を終え、駅へと向かう道すがら。
街灯が一つ、また一つと点灯していくたびに、僕の身体からは気化しきれなかった汗の匂いと、自分でも制御しきれないほどの熱が立ち上っていた。
右肩には、三遊間へダイブした時の重苦しい痛みが居座っている。
口の中をゆすいでも、奥歯の隙間にはまだグラウンドの砂の感触が残っている。
けれど、その不快なはずの感触が、今は僕が「逃げなかった」証のように思えて、ひどく愛おしかった。
最寄り駅の改札を出ると、昨夜と同じ場所、同じ街灯の下に彼女が立っていた。
昨日、僕が「辞める」と口にし、彼女が「ガッカリした」と背を向けた、あの場所だ。
「……よう」
僕が声をかけると、彼女はスマホから顔を上げ、じっと僕の姿を見つめた。
その視線は、昨日までの「汚いものを見るような目」でも、冷めた憐れみでもなかった。
泥だらけの膝、泥が乾いて白くなったユニフォームの袖、そして何より、自分でもギラついているのが分かる僕の瞳を、値踏みするように、確かめるように射抜いていた。
「……なによ、その格好。昨日より三倍くらい汚いんだけど。泥人間か何かなの?」
彼女は呆れたように鼻を鳴らした。
けれど、言葉の端々から昨日の氷のような冷たさは消え、いつもの、腐れ縁ならではの「呆れ」という名の温度が戻っていた。
「……ああ。昨日、お前にあんなこと言わせちゃったからな。今日からは、泥食ってでもあがくって決めたんだよ。センスねーなら、量で稼ぐしかねーだろ」
並んで歩き出す。夜の空気は冷たくて心地よい。
昨日と同じ道。
昨日と同じ、付かず離れずの距離。
けれど、二人の間に流れる空気は、劇的に変わっていた。
「……ねえ、あんた。さっき、後輩のあの子に何か言われたでしょ」
「あ? なんで分かんだよ」
「顔に書いてある。あの子、あんたのこと大好きだもんね。生意気なこと言いながら、あんたが腐るのを一番怖がってたの、あの子なんだから」
彼女は、昨日僕が破り捨てた退部届が入っているはずのバッグを、少しだけ強く握りしめた。
「……まあ、あいつにも、お前にも、センスねーって散々言われたしな。俺、本当はセンスがないって認めんのが怖かっただけなんだわ。認めたら、自分がただの『その他大勢』になっちゃう気がして。だから、わざと野球なんて嫌いだ、興味ねーってフリをして自分を守ってたんだ」
歩きながら、僕はこれまで誰にも言えなかった本音を、ポツリポツリと零した。
昨日、部屋で彼女に「逃げない」と誓ってから、僕の中の「見栄」という名の化け物は、少しずつ姿を消していた。
「……あんた、バカね。今さらよ」
彼女が、ふいに足を止めた。
街灯の光が、彼女の横顔を淡く照らし出す。
その瞳が、僕を真っ直ぐに捉えた。
「私、あんたがホームラン打つのなんて期待してない。あんたが『最強』じゃないことなんて、中学の時から知ってる。……でもね、泥だらけの顔で、前だけ向いて走ってるあんたは、誰よりも……」
彼女はそこで言葉を切り、急に恥ずかしくなったのか、早歩きで僕を追い越していった。
「……誰よりも、なんだよ」
「知らない! 続きはヒット打ったら教えてあげる!」
彼女の背中に向かって、僕は思わず笑みがこぼれた。
昨日、絶望の中で見上げた夜空と、今日、希望を抱いて見上げる夜空。
同じ星空のはずなのに、光の強さが、昨日よりもずっと鮮明に感じられた。
「見とけよ、ばーか! 絶対、お前に一番高いアイス買わせてやるからな!」
冗談を言い合いながら、僕たちは暗い住宅街を進んでいく。
右肩の痛みも、口の中の砂の味も、今はすべてが心地よかった。
大嫌いだったはずの野球が、今は、彼女との明日を繋ぎ止めるための、かけがえのない「理由」に変わっていた。
別れ際、いつもの玄関先。
「ちょっと」
彼女が僕を呼び止めた。
「なんだよ」
「……明日も、汚れてきなさいよ。野球部員さん」
彼女はそれだけ言うと、今度こそ振り返らずに家へと駆け込んでいった。
僕は、彼女が消えた玄関の扉を、しばらくの間、ただ静かに見つめていた。
カバンの奥で、破り捨てられた退部届の破片が、僕の決意を静かに見守っている気がした。
グラウンドには、昨日までの生温い湿気を吹き飛ばすような、暴力的なまでの西日が降り注いでいた。
僕は、誰よりも早く部室を出て、グラウンドの隅で泥だらけになっていた。
昨日までは、ボールを追うことさえ「どうせ届かない」
「無駄な体力の消耗だ」と理屈をつけて、どこか冷めた目で見ていた。けれど、今は違う。
昨夜、幼なじみの前で引き裂いた退部届の、あのバリバリという乾いた音が、今も耳の奥で鳴り止まない。
(……逃げない。もう、自分に嘘はつかない)
「おい! もっと足動かせ! 突っ込め!」
監督の怒鳴り声が飛ぶ中、僕は三遊間に放たれた鋭いノックの打球に向かって、文字通り身体を投げ出した。
右肩が硬い地面に叩きつけられ、口の中に砂が入り込む。
ジャリリとした不快な感触と、鈍い痛み。
普通なら顔をしかめるはずのその感覚が、今の僕には「生きている実感」として、たまらなく心地よかった。
「……うわぁ、熱いっすねぇ。見てるこっちが火傷しそうっすよ」
土を払って立ち上がろうとした僕の視界に、汚れ一つない真っ白なユニフォームの裾が映った。
顔を上げると、そこにはショートの定位置で、指先で器用にボールを弄んでいる後輩がいた。
「……何がだよ」
「いや、何がって。先輩、今朝からずっとその顔じゃないっすか。獲物を狙う野良犬っていうか、あるいは自分のケツに火がついたことにようやく気づいた先輩っていうか。正直、ちょっと……いえ、かなり引いてます」
後輩はニヤニヤと、人を食ったような笑みを浮かべて僕を覗き込んできた。その瞳には、いつもの生意気な光の奥に、隠しきれない驚きが混じっている。
「……お前に言われた通りだよ。あんなダサいサードゴロで、自分から走るのやめるような終わり方、二度としたくねーんだよ」
僕は吐き捨て、グラブを膝に叩きつけて土を落とした。
「へぇー。……幼なじみさんに、何かいいことでも言われたんすか? 『頑張ったらチューしてあげる』とか。あ、でも先輩のあの顔じゃ、泣いて逃げられちゃったかな?」
「……お前、マジで一回殴らせろ。昨日、部屋で二人きりだったこと、なんで知ってんだよ」
「勘っすよ、勘。先輩、今朝部室に来た時、カバンの奥を触る手が全然震えてなかったっすもん。あの退部届、ようやく捨てたんすね」
後輩はそう言うと、グローブをパチンと鳴らした。
その瞬間、彼の表情から茶化すような色が消え、一人の「天才内野手」としての鋭い眼差しが僕を射抜いた。
「顔つき、変わりましたね。昨日までの先輩は、僕の隣にいても透明人間みたいでした。そこにいるのに、戦う意思が透けて見えちゃうっていうか。正直、三遊間に飛んできても『僕が獲らなきゃな』って諦めてたんすよ」
「……」
「でも、今の先輩なら、まあ……僕が弾いたボールくらいは、拾ってくれるかもしれないっすね。あ、もちろん、僕が弾くことなんて万に一つもないっすけど」
「……誰が拾うか。お前が捌けない分まで、俺が全部獲ってやるよ。見てろよ」
「ははっ! 言いましたね? じゃあ、次のノック、死ぬ気で飛び込んでくださいよ。僕が全部、先輩の目の前に『わざと』弾いてあげますから!」
後輩はそう言い残すと、軽やかなステップで守備位置へと戻っていった。
「……あいつ、本当にムカつくわ。でも……」
僕は小さく毒づき、再び腰を落として構えた。
センスがない。才能がない。平均以下の、代打要員。
そんな事実は、一晩で変わるわけじゃない。
でも、後輩のあの生意気な笑顔や、幼なじみがバッグの奥に突っ込んだ退部届の破片を思い出すたびに、足に得体の知れない力が宿る。
「来い……っ!」
放たれたノックの打球に向かって、僕は昨日までなら諦めていた最初の一歩を踏み出した。
地面を蹴り、空を飛び、泥の中に突っ込む。
肺が焼けつくような苦しさ。
でも、不思議と気分は悪くなかった。
大嫌いだったはずのこの場所が、今は、自分が自分を証明するための、唯一の聖域に見えていた。
「先輩! 今の、一歩目が遅いっすよ! もっと泥食ってください!」
「うるせぇ! 見てろ、次は絶対獲ってやる!」
西日に照らされたグラウンドで、僕たちの罵り合いが響き渡る。
練習を終え、駅へと向かう道すがら。
街灯が一つ、また一つと点灯していくたびに、僕の身体からは気化しきれなかった汗の匂いと、自分でも制御しきれないほどの熱が立ち上っていた。
右肩には、三遊間へダイブした時の重苦しい痛みが居座っている。
口の中をゆすいでも、奥歯の隙間にはまだグラウンドの砂の感触が残っている。
けれど、その不快なはずの感触が、今は僕が「逃げなかった」証のように思えて、ひどく愛おしかった。
最寄り駅の改札を出ると、昨夜と同じ場所、同じ街灯の下に彼女が立っていた。
昨日、僕が「辞める」と口にし、彼女が「ガッカリした」と背を向けた、あの場所だ。
「……よう」
僕が声をかけると、彼女はスマホから顔を上げ、じっと僕の姿を見つめた。
その視線は、昨日までの「汚いものを見るような目」でも、冷めた憐れみでもなかった。
泥だらけの膝、泥が乾いて白くなったユニフォームの袖、そして何より、自分でもギラついているのが分かる僕の瞳を、値踏みするように、確かめるように射抜いていた。
「……なによ、その格好。昨日より三倍くらい汚いんだけど。泥人間か何かなの?」
彼女は呆れたように鼻を鳴らした。
けれど、言葉の端々から昨日の氷のような冷たさは消え、いつもの、腐れ縁ならではの「呆れ」という名の温度が戻っていた。
「……ああ。昨日、お前にあんなこと言わせちゃったからな。今日からは、泥食ってでもあがくって決めたんだよ。センスねーなら、量で稼ぐしかねーだろ」
並んで歩き出す。夜の空気は冷たくて心地よい。
昨日と同じ道。
昨日と同じ、付かず離れずの距離。
けれど、二人の間に流れる空気は、劇的に変わっていた。
「……ねえ、あんた。さっき、後輩のあの子に何か言われたでしょ」
「あ? なんで分かんだよ」
「顔に書いてある。あの子、あんたのこと大好きだもんね。生意気なこと言いながら、あんたが腐るのを一番怖がってたの、あの子なんだから」
彼女は、昨日僕が破り捨てた退部届が入っているはずのバッグを、少しだけ強く握りしめた。
「……まあ、あいつにも、お前にも、センスねーって散々言われたしな。俺、本当はセンスがないって認めんのが怖かっただけなんだわ。認めたら、自分がただの『その他大勢』になっちゃう気がして。だから、わざと野球なんて嫌いだ、興味ねーってフリをして自分を守ってたんだ」
歩きながら、僕はこれまで誰にも言えなかった本音を、ポツリポツリと零した。
昨日、部屋で彼女に「逃げない」と誓ってから、僕の中の「見栄」という名の化け物は、少しずつ姿を消していた。
「……あんた、バカね。今さらよ」
彼女が、ふいに足を止めた。
街灯の光が、彼女の横顔を淡く照らし出す。
その瞳が、僕を真っ直ぐに捉えた。
「私、あんたがホームラン打つのなんて期待してない。あんたが『最強』じゃないことなんて、中学の時から知ってる。……でもね、泥だらけの顔で、前だけ向いて走ってるあんたは、誰よりも……」
彼女はそこで言葉を切り、急に恥ずかしくなったのか、早歩きで僕を追い越していった。
「……誰よりも、なんだよ」
「知らない! 続きはヒット打ったら教えてあげる!」
彼女の背中に向かって、僕は思わず笑みがこぼれた。
昨日、絶望の中で見上げた夜空と、今日、希望を抱いて見上げる夜空。
同じ星空のはずなのに、光の強さが、昨日よりもずっと鮮明に感じられた。
「見とけよ、ばーか! 絶対、お前に一番高いアイス買わせてやるからな!」
冗談を言い合いながら、僕たちは暗い住宅街を進んでいく。
右肩の痛みも、口の中の砂の味も、今はすべてが心地よかった。
大嫌いだったはずの野球が、今は、彼女との明日を繋ぎ止めるための、かけがえのない「理由」に変わっていた。
別れ際、いつもの玄関先。
「ちょっと」
彼女が僕を呼び止めた。
「なんだよ」
「……明日も、汚れてきなさいよ。野球部員さん」
彼女はそれだけ言うと、今度こそ振り返らずに家へと駆け込んでいった。
僕は、彼女が消えた玄関の扉を、しばらくの間、ただ静かに見つめていた。
カバンの奥で、破り捨てられた退部届の破片が、僕の決意を静かに見守っている気がした。
