幼なじみと後輩と1ヶ月

翌日、五時半。

目覚まし時計が断末魔のような悲鳴を上げる前に、僕はそれを力任せに叩き伏せた。

窓の外は、まだ夜の残り翌朝香が漂う薄暗い群青色。

僕は、机の引き出しから封筒を取り出した。

「退部届」

丁寧に書かれた三文字が、まるで僕という人間の「敗北宣言」を額装したみたいで無性に腹が立つ。

今日、これを顧問に渡す。

それで全部終わり。

泥にまみれるのも、打てなくて惨めな思いをするのも、もう辞めだ。

カバンの底にその封筒を滑り込ませ、僕は家を出た。

部室の扉を開けると、古い革の匂いと、誰かの使いすぎた制汗剤の甘ったるい匂いが混じり合って鼻を突いた。

まだ六時過ぎだというのに、先客がいた。

「……うわっ、先輩。なんすか、その死に損ないみたいな顔」

部室の隅で、パイプ椅子に踏ん反り返ってグラブを磨いていたのは、あの生意気な後輩だった。一学年下ながら、ショートのスタメンを張っている「自称・天才内野手」。

彼は僕が入ってきたことに気づくと、これ見よがしに嫌そうな顔をして、磨きかけのグラブを振ってみせた。

「……うるせぇ。お前こそ、朝っぱらから何してんだよ。不審者か?」

「失礼だなあ。グラブの手入れですよ。昨日、三遊間のゴロを先輩が全部僕に押し付けてきたおかげで、こいつが悲鳴を上げてたんすよ。あー、重労働だったわー」

「誰が押し付けたって? お前、さっきから一言余計なんだよ」

僕は自分のロッカーを開け、適当にユニフォームを引っ張り出した。

カバンの奥にある封筒の角が指先に触れる。その冷たい感触に一瞬だけ指が止まるが、後輩のニヤニヤした視線に気づいて、慌てて背中を向けた。

「先輩、今日練習試合っすけど、気合入ってんすか? 昨日の電車、乗り過ごしそうになるくらい動画に集中してた僕を見習ってくださいよ。内野手なら一歩目の速さが命っすから」

「……乗り過ごせばよかったのによ。お前さ、電車であんなもん熱心に見て、マジでプロにでもなるつもりか?」

「いやー、才能溢れる僕としては、あいつらの動きも
『まあ、参考程度にはしてやってもいいかな』って感じっすね。先輩みたいな『平均以下』の内野手には分からない領域っすよ」

「お前、マジで一回殴らせろ」

僕は吐き捨てると、シャツを脱ぎ捨てた。

部室の中は、いつも通りの、毒と冗談が入り混じった空気。

でも、後輩はグラブを磨く手を止めると、ふいに少しだけトーンを落とした。

「……で。辞めるんすか? その、カバンの中のやつ、出してから試合出るんすか?」

心臓がドクンと跳ねた。

「……何のことだよ」

「いや、バレバレなんすよ。先輩、カバン触る時だけ、あほみたいにビクビクしてんだもん。……つーか、辞める前にちゃんと一発、ヒットくらい打ってくださいよ。昨日のバッティング、マジで草生えましたからね。あんな情けない打球、僕なら恥ずかしくて一生部室から出られないっす」

「草とか言うな、高校生だろ。……だいたい、打てるわけねーだろ。俺だぞ」

「だからっすよ。センスない先輩が、まぐれで一本打って、ニヤニヤしながら引退する。……それ、最高にダサくて面白いじゃないっすか」

後輩はそう言って、再びシャカシャカと軽快な音を立ててグラブを磨き始めた。

「僕、今日の試合は三遊間全部捌くんで。先輩が代打で出てくる頃には、たぶん僕も暇すぎてベンチで鼻くそほじってると思うんで、その隙にドカンと一発お願いしますよ」

「……誰が鼻くそほじってる間に打たなきゃいけねーんだよ」

呆れたように言い返すと、自分でも驚くほど、指先の震えが止まっていた。

ムカつく。

あいつも、彼女も、僕のことを「センスがない」と断定して、面白がっているみたいだ。

「……辞めるかどうかは、試合終わってから決めてやるよ」

僕はカバンの底の封筒を、さらに深くへと押し込んだ。
一番奥で埃を被っていた、形の崩れたグラブ。

手入れもろくにしていないそれは、今の僕の心そのもののようで、触れるだけで胸がざわつく。

「あ、今の台詞、ちょっと主人公っぽかったっすね! 録音しとけばよかったー」

「うるせぇ! さっさとグラウンド出ろ!」

僕は、後輩の背中に向かって汚れた帽子を投げつけた。
センスも才能もない。

でも、あいつに「草が生える」ような打球を見せたまま終わるのは、あまりに癪に障る。

今日、最後の一打席。

昨日よりも一ミリだけでもマシな当たりを飛ばして、あの生意気な笑顔を黙らせてやる。

それから、あの幼なじみの前で、「野球なんてせいせいした」と笑って辞めてやるんだ。

僕は、重い足取りながらも、ほんの少しだけ顔を上げて、光の差し込むグラウンドへと歩き出した。

試合開始を告げる声が、重苦しい曇り空を切り裂くように響き渡った。

僕はベンチの端、一番監督から見えにくい特等席に腰を下ろし、代打の出番が来るまで、あるいはこのまま一度も名前を呼ばれずに試合が終わるのを待つだけの「仕事」に入った。

グラウンドでは、あの生意気な後輩がショートのポジションに就いている。

あんなに部室でふざけ倒して僕を馬鹿にしていたくせに、守備位置に就いた瞬間のあいつは、まるで別人のように冷徹な勝負師の顔をしていた。




三回表。相手チームの四番、いかにもパワーのありそうな大柄なバッターが打席に入る。

初球、外角低めのストレート。

快音とともに放たれた打球は、三遊間を真っ二つに割るかのような、痛烈な鋭いライナーだった。

(……抜けた!)

ベンチにいた全員がそう確信した、その刹那だった。

後輩の身体が、まるでバネが弾けたように左側へと飛んだ。

一歩目の速さが、僕とは次元が違う。彼は空中で身体を限界まで伸ばし、逆シングルでその強烈な打球をグラブに収めた。それだけでは終わらない。

着地と同時に、回転するような滑らかな動きで立ち上がり、そのまま一塁へ矢のような送球を投じたのだ。

「アウトッ!」

審判の右手が上がる。

ベンチが、そしてスタンドの一部が、今の「超プレー」にどよめき、沸き立った。

「今の見たかよ!」「マジか、あいつ……」

同級生たちが興奮気味に叫ぶ中、僕は一人、フェンスを握る手に力が入りすぎて、指先が白くなっていた。

(……これが、センスってやつか)

残酷なまでの現実が、目の前に転がっていた。

僕なら、あの一歩目さえ出せなかっただろう。運良く追いついたとしても、あんな体勢から一塁へストライクを送るなんて、夢のまた夢だ。

あいつが部室で「三遊間は全部僕が捌く」と言ったのは、決して慢心や冗談なんかじゃなかった。あいつにとって、あの神懸かったプレーは「当たり前」の範疇なのだ。


グラウンドで、後輩が何食わぬ顔で帽子を脱ぎ、額の汗を拭っている。

そして、ふとベンチの方へ視線を向け、僕と目が合うと、ほんの一瞬だけ、挑発するように口角を上げた。

「……クソが」

僕は吐き捨てて、視線を足元の砂に落とした。


隣にいる控えの部員たちは「あいつ凄すぎだろ」と笑っている。

彼らにはもう、あいつと比較して落ち込むようなプライドさえ残っていないのかもしれない。

けれど、僕はまだ、その「諦め」の境地にすら立てていなかった。

昨夜、彼女に言われた「センスなかったし」という言葉。

今、目の前で見せつけられた「本物のセンス」。

その二つが、僕の胸の中で嫌な化学反応を起こし、どろどろとした嫉妬と、自分への嫌悪感が混ざり合う。

それでも、あいつが守備を終えてベンチに戻ってきた時、僕は無意識に声をかけていた。

「……ナイスプレー」

後輩は、ペットボトルの水を飲み干すと、僕の顔を覗き込んでニヤリと笑った。

「あー、危なかったっす。先輩がベンチから変な念送ってくるから、グラブが弾かれそうになりましたよ」

「送ってねーよ。……つーか、あんなのよく捕ったな」


「まあ、日頃の動画勉強の成果っすね。先輩も、あんな情けないサードゴロばっか打ってないで、今の僕みたいにカッコいいところ一回くらい見せてくださいよ。バックネット裏、見てますよ? 彼女さん」


心臓が跳ねた。

言われるがままにバックネットの向こう側に目を向けると、フェンスにしがみつくようにして、こちらをじっと見つめる私服姿の彼女がいた。

(……本当に、来てる)

彼女は僕と目が合うと、ふいっと顔を背けた。

その仕草だけで、昨日吐かれたあの冷たい言葉が蘇る。

彼女は、僕が活躍するのを期待して見ているのではない。

僕が野球に区切りをつける瞬間を、その引導を渡す場面を見届けに来たのだ。

「……わかってるよ」

スコアボードの数字は、無慈悲に「2対5」を示していた。

九回裏。ツーアウト。走者一、三塁。

どんよりとした曇り空から、今にも泣き出しそうな湿った風が吹き抜け、ベンチの熱気をさらっていく。

「代打、送るぞ」

監督の、ひどく事務的な声が響いた。

僕はベンチの端で、自分の名前が呼ばれるのを、恐怖と期待が入り混じった矛盾だらけの感情で待っていた。

「……はい」

喉の奥が張り付いて、情けないほど枯れた返事が出た。
隣でヘルメットを脱いでいた後輩が、僕の顔を覗き込み、いつもの生意気な笑みを浮かべる。

「チャンスじゃないっすか、先輩。あそこで一本打てば、今日のヒーローっすよ」

「……うるせぇよ。俺が打てるわけねーだろ」

僕は震える手でヘルメットを被り、泥だらけのバッティンググローブのベルトをきつく締め直した。

心臓の音がうるさすぎて、周囲の応援が遠い世界の出来事のように聞こえる。

一歩、グラウンドに踏み出す。

地面を叩くスパイクの金属音が、妙に高く、澄んだ音で脳内に響いた。

バットを一本掴み、ネクストバッターズサークルへ向かう。そこは、世界で一番孤独な場所だった。

(……なんで、俺なんだよ)

自分を呪う言葉が、何度も何度も頭の中を巡る。

中学の時に「平均以下」だと悟ってから、僕は一度も自分の可能性を信じてこなかった。

練習は苦行で、試合は公開処刑。野球なんて、大嫌いだった。

でも、ネクストバッターズサークルで膝をつき、大きく深呼吸をした時、視界の端に「あの影」が映った。

バックネット裏。フェンス越しに、じっとこちらを見つめる私服姿の彼女。

彼女は昨夜、僕を「センスがない」と切り捨てた。

それなのに、なぜ彼女は今、あんなに必死な顔でフェンスにしがみついているんだろう。

彼女と視線がぶつかった。

距離があるはずなのに、彼女の瞳が、何かを激しく訴えかけているのが分かった。

「逃げるな」

そう言われている気がした。

僕がこれまで野球を続けてきたのは、辞め方が分からなかったからじゃない。

センスがないと知りながら、それでも「まだ終わっていない」と信じてくれている彼女や、生意気な口を叩きながらも僕に繋ごうとする後輩の期待から、逃げ出す勇気がなかっただけだ。

「……クソ。本当に、センスねーな、俺は」

自嘲気味に呟き、僕はゆっくりと立ち上がった。

三年間、誰よりも下手くそで、誰よりも野球を嫌いになろうとして、それでも捨てきれなかったこの泥だらけの日々。

そのすべてを、あの一振りに込めてやる。

彼女の視線を背中に受けながら、僕はバッターボックスへと歩き出した。

ピッチャーの指先から放たれた初球、真ん中低めのスライダー。

僕はそれを、祈るように振り抜いた。
「――っ」

カツッ、という情けない音が響く。

芯を外した打球は、勢いもなくサードの目の前を力なく転がった。

「走れ!」というベンチの叫びが聞こえる。

けれど、一塁へと駆け出した僕の目の前で、サードが悠々とボールを掴み、ファーストへ送球した。

「アウトッ!」

審判の声がゲームセットを告げる。

砂埃の中に立ち尽くした僕の視界で、相手校の選手たちが歓喜の声を上げてマウンドに集まっていく。

僕はと言えば、バットを引きずるようにしてベンチへ戻ることしかできなかった。

結局、僕は僕のままだった。

奇跡なんて起きない。センスがない奴が、どれだけ「最後だから」と願ったところで、現実は残酷に、ただのボテボテのサードゴロを突きつけてくるだけだ。

逃げるように着替えを済ませ、重いエナメルバッグを肩にかけ、僕はグラウンドを後にした。

駐車場へ向かう途中、自動販売機の陰に見慣れた人影があった。

幼なじみだ。

彼女は僕と目が合うと、すぐに視線を逸らした。

あんなに熱心にバックネット裏に張り付いていたくせに、いざ僕が近くに来ると、まるで見たくないものを見るような顔をしている。

声をかけたが、彼女は何も言わず、母親が運転する車の助手席にさっさと乗り込んだ。

バタン、というドアの閉まる音が、僕と彼女の間の深い亀裂を象徴しているようだった。

「お疲れさま、惜しかったわね。あの子、朝から楽しみにしてたのよ」

窓越しに彼女の母親がかけてくれた言葉が、ナイフのように胸に刺さった。楽しみにしていて、あのサードゴロ。期待させて、あの結末。

情けなくて、惨めで、地面に自分の影ごと消えてしまいたかった。




その日の夕方。僕は彼女を自分の部屋に呼んだ。


部屋の中は、昨日から続く気まずい沈黙が充満していた。僕は学習机の引き出しから、カバンの奥でくしゃくしゃになった封筒を取り出した。

「退部届」の文字が、夕暮れの光に照らされて嫌に鮮明に見える。

「これ。出すつもりだったんだ、今日」

僕はそれを、彼女の前の机に置いた。

彼女は机の上の封筒を見つめたまま、微動だにしない。窓から入る風が、彼女の髪を少しだけ揺らす。


「……怒ってんのか?」

僕が震える声で聞くと、彼女はようやく顔を上げた。その瞳は、怒りというより、深い失望に濡れていた。

「怒ってない」

彼女の声は、驚くほど冷えていた。


「ただ、ガッカリしただけ」


「……」


「センスがないなんて、あんたの1番近くにいた私が1番知ってる。昨日も言ったでしょ。でも、私は……あんたがどんなに下手でも、最後まで食らいつくところが見たかっただけなの。今日のあの走塁、何? サードゴロ打った瞬間に、もう諦めてたじゃない。自分から『僕はセンスないですから』って顔して走ってたじゃない。本当にガッカリした」

彼女は椅子を乱暴に引き、立ち上がった。


「……待てよ、」

必死に声をかけたが、彼女は振り返ることもなく、僕の部屋を出て行った。

一人残された部屋。

僕は机の上の「退部届」を見つめた。

彼女に嫌われたことよりも、自分の「センスのなさ」を言い訳にして、一番大切な局面で自分から逃げていたこと。

それを見抜かれていたことが、何よりも痛かった。

僕は震える手で、その封筒を手に取った。

昨日までは、これを出すことが唯一の「逃げ道」だと思っていた。

けれど、今は違う。

「……クソ。本当に、ダセぇな……俺は」

僕はその封筒を、ゆっくりと二つに引き裂いた。

バリバリという、紙が破れる音が静かな部屋に響く。

野球なんて大嫌いだ。

センスなんて、欠片もない。

けれど、このまま「ガッカリ」されたまま終わるのは、あまりに癪に障る。

引き裂いた「退部届」の破片が、西日に照らされた床の上で白く光っている。

部屋の空気は、彼女が出ていった後の冷たさを残したまま、ひどく澱んでいた。

僕は、膝をついてその破片を一つひとつ拾い集める。

パズルのように組み合わせても、もう元通りにはならない。

僕が昨日今日で壊してしまった、彼女からの信頼と同じだ。


僕は拾い集めた紙屑を握りしめたまま、部屋を飛び出した。

「待てよ……」

階段を一気に駆け下り、玄関を飛び出す。

夕暮れ時の住宅街。

アスファルトが昼間の熱を放出し、生温い風が顔に張り付く。

角を曲がった先、駅へと続く坂道の途中に、彼女の背中が見えた。

「……待てって!」

叫びながら駆け寄り、僕は彼女の数歩前で立ち塞がった。

彼女は肩を跳ねさせ、驚いたように目を見開く。

その瞳はまだ潤んでいて、僕を見た瞬間にまた、突き放すような冷たい光を宿した。

「……なによ。追いかけてこなくていいってば」

「悪かった」

僕は、息を切らしながら頭を下げた。

深く、地面に着くくらいに。


「昨日も、今日も、俺……逃げてた。センスがないとか、向いてないとか。そうやって自分の才能のなさを言い訳にして、傷つかないように、期待されないように、自分で自分を諦めてた。……一番ダサいのは、サードゴロを打ったことじゃなくて、あそこで走るのをやめた俺自身だった」

彼女は何も言わない。

けれど、去ろうとする足は止まっていた。

僕は握りしめていた紙屑を、彼女の目の前に差し出した。

「やっぱりあと一ヶ月、最後の大会が終わるまで、絶対に、自分から逃げない」

彼女が、ゆっくりと僕の手元を見つめた。

バラバラになった「退部」の文字が、僕の手のひらで震えている。

「センスはない。明日からもまた、お前に笑われるようなミスをするかもしれない。……でも、もうお前にガッカリはさせない。最後まで、泥臭くあがいてやる。だから……」

僕は顔を上げ、真っ直ぐに彼女の瞳を見た。

「もう一度だけ、俺の野球を見ててくれないか」

沈黙が流れた。

遠くで踏切の警報機が鳴り始め、夕闇がじわじわと街を飲み込んでいく。

彼女は鼻をすすると、乱暴に袖で目を拭った。

「……バカじゃないの。本当にバカだわ、あんた」

彼女は僕の手から紙屑をひったくるように奪い取ると、それをゴミ箱代わりに持っていた自分のバッグのサイドポケットに突っ込んだ。

「わかった。もう1回だけ、期待しないで見ててあげる。その代わり、次一歩でも手を抜いたら、本当に二度と口きかないから。もう絶交だから」

「……ああ。約束する」

「……あと、その泥だらけの顔、なんとかしなさいよ。見てるこっちが暑苦しいんだから」

彼女はふいっと顔を背けたけれど、その耳のあたりが赤くなっているのを、僕は見逃さなかった。


刺々しかった彼女の声に、いつもの、腐れ縁ならではの「温度」が戻っていた。

「……帰るよ。送って」

「……おう」

僕たちはまた、並んで歩き出した。

昨日と同じ道。

昨日と同じ、付かず離れずの距離。

けれど、僕の右肩にかかるエナメルバッグの重みは、さっきよりもずっと心地よい重さに変わっていた。

「ねえ」

「なに」

「……最後の試合、あんたがもしヒット打ったらさ、お祝いにアイスくらい奢ってあげてもいいよ」

「……アイスかよ。安いな」

「うるさい。センスないあんたへの、精一杯の投資なんだから」

彼女の冗談に、僕はようやく今日初めて、心から笑うことができた。

野球は大嫌いだ。

才能もセンスも、やっぱり僕には欠片も備わっていない。

でも、彼女とのこの「またね」を守るためなら、もう一度だけ地獄のような練習にだって耐えられる。

「見とけよ。絶対、お前にアイス買わせたるからな」

街灯がパッと灯り、僕たちの影を長く、一つに重ねた。
僕の夏は、ここから、本当の意味で始まったんだ。