幼なじみと後輩と1ヶ月

電車が駅に滑り込み、重いドアが開いた瞬間、車両を埋め尽くしていた湿った空気と「野球」という呪縛から解放されたような気がした。けれど、ホームに降り立った瞬間に感じたのは、自由ではなく、逃げ場のない空虚感だった。


エナメルバッグのストラップが、汗で張り付いた肩に食い込む。隣を歩く後輩は、駅の階段を降りる間も、まだスマホの画面を見つめていた。

さっきまで部室で一緒になって監督を「ハゲ」だの「無能」だのとなじり、冷めた一体感に浸っていたあの時間が、今では遠い昔のことのように思える。

「……じゃ、先輩。お疲れっす」

改札を抜けたところで、後輩は短く頭を下げた。

彼はそのまま、スマホをポケットにしまうこともなく、夜の闇へと消えていく。

その背中を見送りながら、僕は自分の手のひらを見つめた。

今日一日、数え切れないほどのボールを受けたはずなのに、そこには何も残っていない。

ただ、洗っても落ちない泥の臭いと、使い古した革の感触が、僕がまだ「野球部員」であることを残酷に証明しているだけだった。

「……はあ」

ため息を一つ吐き、重い腰を上げるようにして歩き出す。駅前のロータリーを抜け、住宅街へと続く道。

そこは、僕が少年野球の頃から、夢と現実の間を数え切れないほど往復してきた道だ。

オレンジ色の街灯が、点々と夜道を照らしている。

その一つ、いつものコンビニの角に、見慣れたシルエットが立っていた。

「……あ」

僕の心臓が、一つ大きく跳ねる。

一つ年上の幼なじみ。

他校に通う彼女とは、物心つく前から遊んできた。

中学の頃までは、僕が「最強」だと信じていた姿を一番近くで見ていた人間だ。

彼女は僕の足音に気づくと、スマホから顔を上げ、小さく鼻を鳴らした。

彼女は僕の泥だらけのエナメルバッグをチラリと見て、また前を向いて歩き出した。並んで歩く。

その距離感は、かつて「男兄弟」のようにふざけ合っていた頃と変わらないはずなのに、今の僕には、その数センチの隙間が果てしなく遠く感じられた。

夜の空気は冷たく、静かだった。住宅街に響くのは、僕たちの靴音と、時折通り過ぎる車のエンジン音だけ。

僕の胸の奥で、澱のように溜まっていた何かが、ふいに限界を超えた。

「なあ……」

「なに」

彼女の声は、どこか突き放すようで、でもどこか試すようでもあった。

「俺さ、もう野球辞めようかな。俺みたいなのがベンチにいても、チームの士気が下がるだけだし。……正直、もう、やってる意味が分かんねーんだわ」

口に出した瞬間、心臓がバクバクと暴れ出した。後悔と、解放感が同時に押し寄せる。

彼女なら、「そんなことないよ」と言ってくれるだろうか。

あるいは、「お疲れ様」と優しく笑ってくれるだろうか。そんな、甘い期待を抱いていた自分がいた。

けれど、返ってきたのは、僕の期待を無惨に踏み潰すような、冷え切った言葉だった。

「あっそ。じゃあ辞めれば」

足が止まりそうになるのを、必死でこらえる。

彼女の声には、何の迷いも、何の感情もなかった。

「いいんじゃない? 向いてないもんね、あんた。……昔から、センスなかったし」

食い気味に返ってきたその言葉は、僕が自分自身に、毎晩鏡に向かって言い聞かせていた呪いの言葉そのものだった



中学に上がってすぐのあの日、僕の全能感は無残に、そしてあまりにあっけなく瓦解した。

「神童」だなんて、周りが言っていたわけじゃない。

ただ、狭い少年野球の世界で少しばかり器用に立ち回れただけの僕は、自分のことを「物語の主人公」だと信じて疑わなかった。

「俺は、そこらの奴らとはモノが違う」

根拠のない万能感が、僕の血液を熱く支配していた。

それが間違いだと突きつけられたのは名門でも何でもない、隣町の平凡な中学校。

そのマウンドに立っていたのは、僕より一回りも身体が小さくどこにでもいそうな大人しい少年だった。

一打席目、僕は彼を見下していた。

(あんなヒョロいやつ、適当に合わせれば打てるだろ)

そう思って、僕は悠々とバッターボックスに入った。
けれど、初球。

「……ッ!?」

ミットが鳴らす「バチン!」という乾いた音が、僕の脳天まで突き抜けた。

見えなかった。

球速なんてせいぜい百キロちょっとだろう。

なのに、ボールが手元で急激に浮き上がるような錯覚に陥った。

審判が叫ぶ「ストライク!」の声が、僕の傲慢さを鼻で笑っているように聞こえた。


二打席目、三打席目。

僕は焦り、なりふり構わずバットを振り回した。

これまでの「自分は特別だ」というプライドが、スイングするたびに空を切る風に剥がされていく。

(なんでだ。なんで当たらない。俺が負けるはずがないだろ)


そして迎えた最終回。二死、満塁。一打逆転のチャンス。

ベンチからは仲間たちの声が飛ぶ。

その期待が、今の僕には吐き気がするほど重かった。

マウンドの少年は、淡々と、事務的にボールを投じた。
三球目、視界が急激に狭まる。

心臓の音がうるさすぎて、バットを持つ手の感覚さえ怪しくなる。

彼が投げたのは、今日一番の、唸りを上げるような真っ直ぐだった。

僕は目を瞑るようにしてバットを出した。

けれど、手に感触は残らなかった。

「ストライク、バッターアウト!」

審判の宣告が、僕の「最強」という幻想を粉々に砕いた。

ベンチへ戻る足元は、泥沼を歩いているように重かった。

隣町の、誰も知らない平凡な少年に、僕は手も足も出なかった。

その瞬間、僕は理解してしまった。

自分は選ばれた人間なんかじゃない。

努力の末に高みにたどり着く天才でもなければ、逆境を跳ね返す主人公でもない。

ただの、どこにでもいる「平均以下」の凡人。

それが、僕という人間の正体だった。


あの日以来、僕は野球を「自分の限界を確認するための、終わりのない苦行」へと格下げした。

高校に入っても、僕はその「平均以下」という殻を被り続けている。

練習試合で打ち取られても、「やっぱりな」と自分を納得させる。

スタメンになれなくても、「当たり前だろ」と冷めた笑いを浮かべる。

そうやって、傷つかないように、期待しないように、自分に保険をかけて生きてきた。

――けれど。

駅の街灯の下、夜の闇に紛れるようにして投げつけられた彼女の言葉は、あの日僕が自分に下した判決を、もう一度残酷に読み上げられただけだった。



「……だよな。はは、だよな。自分でも分かってたわ」

乾いた笑いが出る。

情けなくて、惨めで、でもそれを否定するだけの材料を、僕は持っていない。

彼女は一度もこちらを見ようとしなかった。

横顔さえ、夜の闇に隠れてよく見えない。

それきり、会話は途絶えた。

無言のまま歩く道は、さっきよりもずっと長く、ずっと
暗く感じられた。


街灯に照らされた僕たちの影が、一度も交わることなく、アスファルトの上を並んで揺れている。

別れ際の「またね」は、いつもの習慣として、僕たちの間に形だけ残った。

けれど、彼女の背中が夜気に消えていくのを見届けた時、僕の胸を刺したのは、解放感などではなかった。

それは、言いようのない孤独感。


僕を縛り付けていたはずの野球を捨てようとした瞬間に、僕は彼女との、そして世界との唯一の接点を、自ら断ち切ってしまったような、そんな取り返しのつかない後悔だった。

部屋に戻り、電気を点けずにベッドに倒れ込む。

明日の試合で終わりにしよう。

カバンの中には、まだ出していない「退部届」が入っている。

それを明日、顧問に渡せば、僕はもうあの泥だらけのグラウンドに立つ必要はなくなる。