「あ〜、抜き足差し足忍び足、抜き足差し足忍び足……」
楽しげな鼻歌が耳に届く。
この鼻歌が私の耳に聞こえている段階で、もうすでに抜き足差し足忍び足ではないと思うのだけれど、声の主はまたいつものように私の寝室のドアを開けた。
「お嬢ちゃーん、夜這いに来たよ〜」
ベッドで寝ている私に明るく声をかけるのは、先週からうちに居候することになった風磨隼人。
私よりも二歳年上なのに、落ち着きがなく、チャラい。
しかも、私の学校について来て、友人たちを軟派するという不届き者だ。
父と彼の父親が旧友ということもあって、このチャラ男をうちでしばらく預かることになったのだが、この男には胸を鷲掴みにされたから同じ屋根の下にいるだけで落ち着いて寝ていられない。
ベッドから起き上がり、彼をじっとりと見る。
「また来たの?本当にしつこい男ね」
「お嬢ちゃ〜ん、お楽しみタイムといこうか」
ニヤニヤしながら隼人が私のベッド目掛けて飛んでくるが、バンと私の結界に弾かれ壁に激突する。
その音と共に尊と琥珀くんが部屋に現れ、倒れている隼人に冷ややかな視線を投げた。
「懲りない男ですね」
「よく飽きずにやるよなあ。ある意味感心する」
気のせいだろうか?
尊の結界の力が前よりも強くなった気がする。
だって、私に触れる前に隼人は弾かれたもの。
隼人も同じように感じたらしい。
「いって〜。結界の精度と強度上げてない?」
顔を歪めながら隼人は起き上がり、尊に文句を言う。
「ええ。撫子お嬢さまにもう触れられては困りますから」
尊が涼しげな顔で返すと、隼人は床を叩いて悔しがった。
「ズルすぎる。くっそー、今日こそは結界を破れると思ったのになあ」
「まあ、風磨の兄ちゃんも頑張ったけど、尊の方が上手だったってことだね」
琥珀くんが隼人の肩をポンと叩いてなだめるも、隼人は凄く残念そうに私を見た。
「今日こそはお嬢ちゃんとラブラブな時間を過ごせるかと思ったのに〜」
「あなたと恋人になった覚えはありません。普通なら国家警察に突き出すところよ」
隼人の発言を聞いて呆れ顔で言うが、彼は軽いノリで私を口説こうとする。
「え〜、俺、風磨家の次期当主だよ。俺たちお似合いだと思うんだけどな」
その目は楽しそうに笑っていて、私が思うに本気ではない。
多分、毎日この部屋に忍び込む本当の目的は、私ではなく尊の結界を破ることにあるのだろう。
尊もいい好敵手が現れたとばかりに最近生き生きとしている。
お互い切磋琢磨していて意外にいい関係なのかもしれない。
でも、巻き込まれる私にとってはいい迷惑だ。
もう最近寝不足で眠い。
チラッと壁時計に目を向ければ、まだ朝の四時を回ったところ。
夜這いという時間ではないし、起床時間でもない。
寝不足は美容に悪いのに。
「琥珀くん、そこのチャラ男を裏山にでも放り投げておいてくれる?」
琥珀くんに声をかけると、彼はニコニコ顔で返事をした。
「了解〜」
大猫に変身し、隼人をパクッと咥え琥珀くんはこの場から消える。
今この部屋にいるのは尊と私だけ。
うわー、どうしよう。
尊と何を話せばいい?
露天風呂での件があって、彼のことを意識してしまう。
今までも登校時に手の甲にキスしたり、怪我を治すために患部に口付けることはあったが、あれは冗談半分にやっていた。
でも、露天風呂でのキスは違う。
尊は野生のオスのような目で私に口付けてきて……。
しかも、私の胸に触れた。
それだけじゃない。
露天風呂で気を失った私に浴衣も着せたのだ。
尊が私のベッドまで来て、酷く緊張した。
「まだ起きるのは早いですから、寝ていてください。目の下に隈が出来ていますよ」
屈んで彼が私の顔に触れてきてドキッ。
その目は私をまっすぐに見つめている。
絶対に私の動揺も尊に伝わっているはず。
「そ、それはあのチャラ男が私の睡眠を邪魔するからよ」
彼を正視できず俯いて視線を逸らす私の頭に彼はそっと手を置いた。
「もう許可なくこの部屋には入らせませんから。さあ、寝てください。授業中居眠りされては困ります」
「そうなったとしたら全てチャラ男のせいよ」
わざとムッとしてみせてベッドに横になると、尊が布団をかけた。
すぐに部屋を出て行くと思ったのに、彼はまだいる。
目を閉じるが、気になって眠れない。
シーンと静まり返り、それで逆に緊張してしまって息が詰まりそうだ。
ああ〜、尊に「どうしてキスなんかしたの?」って聞けたらいいのに。
聞けない自分が情けない。
まともに彼を見ることすら出来なくて、ふたりきりになるとどうしていいのかわからなくなる。
兄ならキスなんかしない。
そもそも、冗談で手や傷に口付けるなんてこともしないんだけどね。
別荘から戻ってきてから私と彼の関係はなんだかギクシャクしている。
「眠れないようですね?」
尊の声がして、心臓がバクバクした。
なんて答えていいかわからず寝たふりをする。
すると、琥珀くんが戻ってきたのか声がした。
「あれ、姉ちゃんもう寝ちゃったんだ」
「隼人はどうしました?」
尊の質問に琥珀くんは面白そうに答える。
「裏山に投げてきた。カラスが集ってたから戻ってくるのに時間がかかると思う」
「ご苦労さま。琥珀も休んでていいですよ」
尊にそう言葉をかけられたが、琥珀くんはすぐに退出しなかった。
「……なあ、尊、ちょっと気になることがあってさ。さっき外に出た時、姉ちゃんの学校のある方角に赤い雲が見えた」
躊躇いがちに言う琥珀くんの話に尊は少し驚いた声で聞き返した。
「赤い雲……?」
「ちょっと不気味な感じがしたから」
琥珀くんがそう思ったということは、妖絡みなのかもしれない。
尊も同じことを思ったのか、真剣な声で返事をする。
「紅羅のこともありましたし、気をつけますよ」
「うん。尊は休まないの?」
琥珀くんがそう尋ねると、尊はベッドの端に腰掛けて私の頭を撫でながら言った。
「もう少しここにいます」
すぐに琥珀くんはいなくなると思ったのだけど、彼は少し心配そうな声で尊に言い返した。
「尊、別荘から戻ってきて以来、そんな寝てないよね。人間なんだから身体壊すよ」
「私はあまり睡眠を取らなくても大丈夫なんですよ」
「でもさあ、姉ちゃんの結界だけじゃなく、この屋敷の結界だって強化してるよね?なんかあるの?」
琥珀くんの話に驚かずにはいられなかった。
私の結界の他に屋敷にも結界を張っていたなんて。
尊が強いのは知っているけど、琥珀くんが言うように彼は人間だ。
無理をすれば倒れてしまう。
それに、そこまで用心するなんて何か起こるんじゃないかと気になった。
「紅羅のことがあって懲りただけです。彼女が傷つく姿をもう見たくない」
その声には彼の無念さや悔しさが込められていたように感じた。
「本当に大事なんだね」
クスッと笑う琥珀くんの言葉に、尊は優しい声で相槌を打つ。
「ええ。自分の命よりも大事ですよ」
その告白に胸がジーンとなった。
尊……。
彼の言葉が嘘じゃないことは私が一番よくわかっている。
昔から私に何かあると真っ先に駆けつけてくれたのは尊だったし、私が病気や怪我の時も付きっきりでそばにいてくれる。
『命よりも大事』と聞いて嬉しいけれど、自分のことも気にかけてほしい。
私にいつも説教ばかりするけれど、彼だって私のために無茶をする。
いつの間にか琥珀くんはいなくなったのか、彼の声はしなくなった。
目に熱いものが込み上げてきて泣くのを我慢していたのだが、尊にはしっかりとバレていて……。
「撫子お嬢さま、狸寝入りとはいいご趣味ですね。さっさと寝ないと習い事を増やしますよ」
そんな意地悪なことを言いながらも、彼は私の瞼にキスを落とした。
「尊……」
目を閉じたままその名を呼ぶと、彼は私の耳元で囁いた。
「寝てください」
「絶対に眠れない」と言い返そうとしたのだけど、急に睡魔に襲われて意識が遠のく。
それは、温かくて優しい眠り。
きっと尊が私に何か術をかけたに違いない。
そう頭の隅で思いながらも、抗うことなく意識を手放した。
☆
「……起きてください。撫子お嬢さま、起きてください」
尊の声で目を開けると、彼が私の顔を見て微笑んだ。
「う……ん、今何時?」
目を擦りながら起き上がって尋ねたら、彼はカーテンを開けながらにこやかに返した。
「六時半です。眠れましたか?」
「ええ。四時に隼人に起こされた割には頭がスッキリしてるわ」
尊の目を見て笑顔で頷くと、彼は満足そうな顔で言う。
「それはよろしゅうございました」
「尊こそ、ちゃんと休んでる?」
スッとベッドを出て確認したら、彼はニコッと笑った。
「ええ。ちゃんと睡眠はとってますよ」
この顔が怪しい。
多分、しっかり寝ていないのだろう。
「じゃあ、いつも何時間寝てるの?」
さらに突っ込んで聞いたら、彼ははぐらかした。
「日によって違いますからね」
「ズルイわ。尊はそうやって大事なことをいつも誤魔化すの」
尊の腕を掴んで文句を言うと、彼はクスッと笑みを浮かべた。
「そんなに私の睡眠が大事ですか?」
思わぬ彼の切り返しにドキッとする。
「そ、それは尊に倒れられたら困るもの。またチャラ男に襲われそうになったら誰が助けてくれるのよ」
つっかえながらそう言い訳する私に彼はどこか面白そうに目を光らせた。
「旦那さまも秋さまも、それに琥珀もおりますよ」
「それはそうだけど、いつだって一番に駆けつけるのは尊じゃないのよ」
尊が私にとって一番身近な存在なのだ。
当然のようにそう答えるが、彼はさらに聞いてくる。
「理由はそれだけですか?他にもあるんじゃないですか?」
「他の理由?え?」
尊を見つめて問い返したら、彼はひとり納得した様子で頷いた。
「ああ。まだ自覚してないんですね。まあ、いいでしょう。じっくりといくのも一興ですし」
「え?ちょっと……一体何を言っているの?」
私だけ置いてけぼりを食った感じ。
「ほらボーッとしてると遅刻しますよ。まずは着替え」
尊に急かされ、結局うやむやになる。
着替えて茶室に向かうと、またもや隼人と琥珀くんがちょこんと正座していて入るのを躊躇った。
隼人が来てから、毎日こんな感じ。
ふたりがいるといろいろ騒ぎ出して余計に集中できない。
「では、今日は隼人に亭主をやってもらいましょうか」
尊が隼人に目を向けると、隼人は意外そうな顔をしつつもノリノリの態度で引き受ける。
「俺?いいよ」
きっと作法の「さ」の字も知らず雑にやるだろうと思っていたのだが、彼のお手前は茶道の先生くらい見事だった。
動きに無駄がなく、出されたお茶も綺麗に泡立っていて……。
普段チャラチャラしてても彼はやっぱり風磨家の跡取りなんだなあ。
やろうと思えば、ちゃんと出来るのだ。
「美味しい……」
飲んで思わず感想を口にした私を見て、隼人はニンマリ。
「ね。俺って凄いでしょう?やる時はやるのよ。お嬢ちゃんにも手取り足取り教えてあげる」
彼が私に抱きつこうとしてギョッとするが、また結界に弾かれて壁に激突。
それで壁に大きな穴が空いた。
「あー、いって〜」
壁に嵌まり込んだ隼人に尊は厳しい視線を投げた。
「また派手にぶつかりましたね。壁はちゃんと戻しておいてください」
隼人を残して私と尊と琥珀くんは茶室を出る。
「尊のいけず〜」と隼人の叫び声が聞こえたが、みんな無視した。
その後、朝食を食べていつものように車に乗ろうとしたら、運転席に隼人がいて頭痛がした。
まず人間の姿の琥珀くんが運転席の後ろに乗り込み、隼人の頭をポコポコ叩く。
「隼人、もう茶室の壁直したんだ」
「いてて。ふふん、俺は風磨家の次期当主だよ。侮ってもらっちゃ困るな」
後部座席の方を向いて不敵な笑みを浮かべる隼人をギロリと睨みつける。
「どういうつもり?また、私の友人を軟派するつもりでしょう?」
「心外だな。水瀬家に居候してる身だし、役に立とうと思って」
彼のヘラヘラした物言いが信用できず、スーッと目を細めた。
「役に立ちたい人が女の子の寝室に勝手に入って襲う?」
「尊だってお嬢ちゃんの寝室に出入りしてるじゃないか」
チラッと尊に目を向けて反論する隼人にすぐに反応したのは私ではなく尊だった。
「私は執事として撫子お嬢さまのお世話をしているだけです。襲ってはいませんよ」
無表情でそんな主張をする尊に突っ込みたくなる。
別荘の露天風呂で私に触れてキスしたのは誰よ。
だが、口に出しては言わず、仏頂面で彼に命じた。
「尊、車からこのチャラ男を追い出してよ」
「もう時間がないからこのまま行きます。撫子お嬢さま、早く乗ってください」
懐中時計を見ながら言う尊の言葉に従い、車に乗車すると彼も続いた。
「隼人、早く車を出してください」
尊が隼人に命じると、隼人は明るく返事をした。
「了解〜!」
フンフン鼻歌を歌いながら車を運転する隼人を見てハーッと溜め息をつく。
このチャラ男の運転で学校に行くなんて最悪だわ。
いつもの尊なら害虫のように隼人を遠ざけるのに、今日はどうしたんだろう。
なんかピリピリしてない?
琥珀くんが言ってた赤い雲が気になるのだろうか。
しかも、今日は私は真ん中の席。
いつもは私が運転席の後ろで、琥珀くんが真ん中に座るのに。
普通、運転席の後ろが上座なのだが、琥珀くんが座っても尊は注意しなかった。
まるで琥珀くんと尊が私をガードするような座り方。
私の隣にいる琥珀くんに小声で聞く。
「ねえ、今は学校の方に何か感じる?」
「姉ちゃんおいらの話聞いてたんだ。うーん、全然。おいらの気のせいだったのかもしれない。朝早かったし。まあ、何かあれば尊やおいらもいるから」
「俺もいるよ」
鼻歌を歌っていた隼人がすかさず割って入ってくるが、呆れ顔で返した。
「大丈夫。チャラ男は当てにしてないから」
私の返答に「そんなあ」とガクッと項垂れる隼人。
お陰で側溝にタイヤがはまり車がガガガッと揺れた。
「キャッ!」
前のめりになる私を尊がすかさず支える。
「大丈夫ですか、撫子お嬢さま?」
彼の顔が目の前にあってドキッ。
「う、うん」
動揺しながらも返事をすると、尊が隼人を注意した。
「隼人、もっと慎重に運転するように」
「ハハッ、ごめん。風磨家にいた時、いつも車は運転手がしてたからさあ」
隼人の言い訳に後部座席に乗っている私たち三人が冷ややかに言った。
「だったら運転席に座るな!」
「ごめーん。でも免許はちゃんと取ったから」
基本ポジティブシンキングの隼人はへこたれずに、運転を続ける。
私が「大丈夫なの?」と声を潜めて尊に問うと、彼は溜め息交じりに答えた。
「私がアシストしますから大丈夫です。それに、もう彼にハンドルは握らせませんよ」
「それなら安心ね」
ホッとして後部座席のシートに持たれるが、あることに気づいた。
尊とこんな密着して座るのは初めてだ。
彼の体温が伝わってきてドギマギしてしまう。
あ〜、なんでこんなに尊を意識しちゃうの?
私が子供の頃から一緒にいるのに。
尊と目が合わないようずっと下を向いていたら、彼に声をかけられた。
「撫子お嬢さま、着きましたよ」
「あ、うん」
尊の後に続いて車を降りると、彼がいつものように私の手を取って口付けた。
「ねえ、このキス必要なの?今日は長くない?」
頬を赤くしながら尊に抗議すると、彼は少し楽しげに目を光らせた。
「悪い虫がつかないようにしてるんです」
「あっ、じゃあ俺もお嬢ちゃんに虫除けのチューを」
私に顔を寄せる隼人の顔を尊が思い切り叩いた。
「あなたが悪い虫なんですよ」
冷淡に告げる尊の横で、隼人は「いって〜」と呻いている。
「隼人は懲りないな〜」
やれやれといった様子で肩をすくめる琥珀くんの言葉に相槌を打つ。
「ホント、救いようがないわね。風磨家の将来が不安だわ」
「さあ、撫子お嬢さま、あれは無視して行ってください」
害虫を見るような目で隼人を見ると、尊は隙のない笑顔で私を送り出す。
「ええ。行ってきます」
尊や琥珀くんに手を振り、学校の門をくぐると春乃もやって来て、一緒に教室に向かった。
席に座って窓の外を見ていたら、隼人が登校して来た女子学生に声をかけている。
「もう、あのチャラ男は〜」
小さく悪態をついたその時、男性の声がして驚いた。
「誰か不審者でもいるのか?」
私の目の前にいたのは年が三十くらいの紺の背広姿の男性。
背は尊よりもさらに高くて、少し筋肉質な体型をしている。
髪は明るい茶色で、肌は小麦色。
近くでは見ないタイプのハンサム。
この人……誰?
「……いえ。変な虫が飛んでいたもので」
その顔をじっと見ながら答えたら、男性はクスッと笑った。その手には出席簿が握られている。
「そうか。じゃあ、みんな席に着いて」
教壇に立つ彼を見て悟った。
先生だったのか。
でもうちの学校で男性教諭というのは珍しい。
校長以外は女の先生だったのに。
それに担任の立花先生はどうしたのだろう。
そんな疑問を抱いたその時、先生がみんなに告げた。
「え〜、立花先生が入院されて、しばらく私が代理で
来ることになった。私は渡辺煌。三十歳、独身。好きな食べ物はすき焼きだ」
自己紹介しながら先生は黒板に自分の名前を書く。
字は達筆で力強い。
親しみやすそうな先生でよかった。
たまには男の先生というのもいいかもしれない。
授業になると教え方もうまくて、英語の発音は完璧だし、数学もわかりやすく教えてくれる。
「いいか、この公式は絶対に覚えておくように。次のテストで出すぞ。できなかった子には、私の手厚い補講が待っている」
そう言って爽やかに笑う先生。
「では、水瀬さん、早速だがこの問題を解いてもらおうか」
先生に当てられ、「はい」と返事をして黒板まで行く。
この数式は尊にしごかれたから簡単だ。
チョークを掴んでスラスラ問題を解くと、先生が目を細めて私を見た。
「おお。正解だ。水瀬にはご褒美にこのイチゴキャンディーをやろう」
先生が上着のポケットからピンクの包み紙に包まれたキャンディーを私に差し出す。
それは女の子の間で人気のキャンディーで、入手も難しい。
一度式神に買いに行ってもらおうとも考えたのだけど、父も兄も私に式神を貸してくれなかった。
「ありがとうございます」
わー、嬉しい。
食べ物に目がない私はニコッと微笑んだ。
先生、なかなか生徒のことわかってますね。
優しくていい先生じゃないの。
教室にいる他の女の子たちも私と同じような印象を持ったようで休み時間になると先生に群がった。
そんな光景を楽しげに眺めながら、先生にもらったキャンディーを口の中に放り込む。
あー、このほどよい甘さがいいのよね。
至福のひとときだわ。
ひとり幸せに浸りながら舐めていると、春乃が私の席までやってきた。
「渡辺先生モテモテだね」
彼女の言葉に笑って頷く。
「まあハンサムだもん。校長先生は五十八歳だし、今までうちの学校に若い男の先生いなかったしね」
「そんなハンサムな先生を見ても撫子が興味持たないのはやっぱり尊さんがいるからかなあ」
彼女がからかってきて、ギクッとする。
「ちょ……そういうんじゃないから」
慌てて否定したが、春乃はさらに続けた。
「その反応が怪しい。最近尊さんと何かあった?なんか撫子、尊さんを見ると挙動不審よ」
「べ、別に普通だよ」
別荘でのことは春乃にも言っていない。
露天風呂で胸を触られてキスされたなんて知ったら、お嬢さまの彼女は驚いて失神するかも。
動揺しながら言い返したその時、近くの窓ガラスがガシャンと割れて、カラスが教室に飛び込んで来た。
咄嗟に春乃に覆い被さると、身体中にいくつも細かいガラスの破片が突き刺さる。
……痛い。
顔をしかめて痛みを堪えながら春乃に目を向けると、彼女は無事だった。
「おい、大丈夫か!」
カラスを教室から追い出した先生が私たちの元に駆け寄った。
「私は大丈夫ですけど、撫子は?」
春乃が私に目を向けたので、咄嗟に笑って誤魔化した。
「大丈夫だよ。ビックリしただけで」
笑いながらガラスの破片を手で払ったら、渡辺先生に手を掴まれてハッとした。
「血が出てるじゃないか」
え?血?
掴まれた手を見ようと思ったら、先生が私の傷口を舐めてきて狼狽えた。
「先生……何を!」
「応急処置だ」
彼はそう言って背広の上着のポケットからハンカチを取り出して私の傷口を止血する。
その手際のよさに周りの生徒はうっとりしていたが、私は他にもある傷の痛みを我慢していてそれどころではなかった。
「水瀬さん、早退したらどうだ?」
先生にそう勧められたが、「大丈夫です。たいしたことありません」と痩せ我慢してそのまま授業を受けた。
早退なんかしたら尊が心配するし、あまりみんなに騒がれたくはない。
大丈夫。小さなガラスの破片が刺さっただけ。
それに、今日は赤い着物を着てきたから、血が出てもそんなにみんなには気づかれない。
それからそのまま授業を受けていたのだが、なんだか身体がふらふらする。
まるで大量の血を抜かれたみたいだ。
あともうちょっとで授業が終わるから。
あと……もう少しの……我慢。
そう自分に言い聞かせ、授業が終わると、重い足取りで校門に向かう。
「ねえ、撫子、顔色悪いけど大丈夫?」
春乃が私を気遣ってそう声をかけてきたが、もう答える気力もなかった。
校門の前には尊、琥珀くん、隼人の三人がいたが、目が霞んだ。
尊の姿を見たら安心してフッと身体の力が抜けて倒れそうになった。
「撫子!」
尊が血相を変えて私を抱き留める。
「尊……今日は習い事……無理かも」
最後の力を振り絞ってそんなことを言ったら、彼に怒鳴られた。
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょう!何があったんですか!」
ああ……尊怒ってる。
でも……もう……起きていられ……ない。
瞼も重くなって、暗い闇が私を包み込んだ。
楽しげな鼻歌が耳に届く。
この鼻歌が私の耳に聞こえている段階で、もうすでに抜き足差し足忍び足ではないと思うのだけれど、声の主はまたいつものように私の寝室のドアを開けた。
「お嬢ちゃーん、夜這いに来たよ〜」
ベッドで寝ている私に明るく声をかけるのは、先週からうちに居候することになった風磨隼人。
私よりも二歳年上なのに、落ち着きがなく、チャラい。
しかも、私の学校について来て、友人たちを軟派するという不届き者だ。
父と彼の父親が旧友ということもあって、このチャラ男をうちでしばらく預かることになったのだが、この男には胸を鷲掴みにされたから同じ屋根の下にいるだけで落ち着いて寝ていられない。
ベッドから起き上がり、彼をじっとりと見る。
「また来たの?本当にしつこい男ね」
「お嬢ちゃ〜ん、お楽しみタイムといこうか」
ニヤニヤしながら隼人が私のベッド目掛けて飛んでくるが、バンと私の結界に弾かれ壁に激突する。
その音と共に尊と琥珀くんが部屋に現れ、倒れている隼人に冷ややかな視線を投げた。
「懲りない男ですね」
「よく飽きずにやるよなあ。ある意味感心する」
気のせいだろうか?
尊の結界の力が前よりも強くなった気がする。
だって、私に触れる前に隼人は弾かれたもの。
隼人も同じように感じたらしい。
「いって〜。結界の精度と強度上げてない?」
顔を歪めながら隼人は起き上がり、尊に文句を言う。
「ええ。撫子お嬢さまにもう触れられては困りますから」
尊が涼しげな顔で返すと、隼人は床を叩いて悔しがった。
「ズルすぎる。くっそー、今日こそは結界を破れると思ったのになあ」
「まあ、風磨の兄ちゃんも頑張ったけど、尊の方が上手だったってことだね」
琥珀くんが隼人の肩をポンと叩いてなだめるも、隼人は凄く残念そうに私を見た。
「今日こそはお嬢ちゃんとラブラブな時間を過ごせるかと思ったのに〜」
「あなたと恋人になった覚えはありません。普通なら国家警察に突き出すところよ」
隼人の発言を聞いて呆れ顔で言うが、彼は軽いノリで私を口説こうとする。
「え〜、俺、風磨家の次期当主だよ。俺たちお似合いだと思うんだけどな」
その目は楽しそうに笑っていて、私が思うに本気ではない。
多分、毎日この部屋に忍び込む本当の目的は、私ではなく尊の結界を破ることにあるのだろう。
尊もいい好敵手が現れたとばかりに最近生き生きとしている。
お互い切磋琢磨していて意外にいい関係なのかもしれない。
でも、巻き込まれる私にとってはいい迷惑だ。
もう最近寝不足で眠い。
チラッと壁時計に目を向ければ、まだ朝の四時を回ったところ。
夜這いという時間ではないし、起床時間でもない。
寝不足は美容に悪いのに。
「琥珀くん、そこのチャラ男を裏山にでも放り投げておいてくれる?」
琥珀くんに声をかけると、彼はニコニコ顔で返事をした。
「了解〜」
大猫に変身し、隼人をパクッと咥え琥珀くんはこの場から消える。
今この部屋にいるのは尊と私だけ。
うわー、どうしよう。
尊と何を話せばいい?
露天風呂での件があって、彼のことを意識してしまう。
今までも登校時に手の甲にキスしたり、怪我を治すために患部に口付けることはあったが、あれは冗談半分にやっていた。
でも、露天風呂でのキスは違う。
尊は野生のオスのような目で私に口付けてきて……。
しかも、私の胸に触れた。
それだけじゃない。
露天風呂で気を失った私に浴衣も着せたのだ。
尊が私のベッドまで来て、酷く緊張した。
「まだ起きるのは早いですから、寝ていてください。目の下に隈が出来ていますよ」
屈んで彼が私の顔に触れてきてドキッ。
その目は私をまっすぐに見つめている。
絶対に私の動揺も尊に伝わっているはず。
「そ、それはあのチャラ男が私の睡眠を邪魔するからよ」
彼を正視できず俯いて視線を逸らす私の頭に彼はそっと手を置いた。
「もう許可なくこの部屋には入らせませんから。さあ、寝てください。授業中居眠りされては困ります」
「そうなったとしたら全てチャラ男のせいよ」
わざとムッとしてみせてベッドに横になると、尊が布団をかけた。
すぐに部屋を出て行くと思ったのに、彼はまだいる。
目を閉じるが、気になって眠れない。
シーンと静まり返り、それで逆に緊張してしまって息が詰まりそうだ。
ああ〜、尊に「どうしてキスなんかしたの?」って聞けたらいいのに。
聞けない自分が情けない。
まともに彼を見ることすら出来なくて、ふたりきりになるとどうしていいのかわからなくなる。
兄ならキスなんかしない。
そもそも、冗談で手や傷に口付けるなんてこともしないんだけどね。
別荘から戻ってきてから私と彼の関係はなんだかギクシャクしている。
「眠れないようですね?」
尊の声がして、心臓がバクバクした。
なんて答えていいかわからず寝たふりをする。
すると、琥珀くんが戻ってきたのか声がした。
「あれ、姉ちゃんもう寝ちゃったんだ」
「隼人はどうしました?」
尊の質問に琥珀くんは面白そうに答える。
「裏山に投げてきた。カラスが集ってたから戻ってくるのに時間がかかると思う」
「ご苦労さま。琥珀も休んでていいですよ」
尊にそう言葉をかけられたが、琥珀くんはすぐに退出しなかった。
「……なあ、尊、ちょっと気になることがあってさ。さっき外に出た時、姉ちゃんの学校のある方角に赤い雲が見えた」
躊躇いがちに言う琥珀くんの話に尊は少し驚いた声で聞き返した。
「赤い雲……?」
「ちょっと不気味な感じがしたから」
琥珀くんがそう思ったということは、妖絡みなのかもしれない。
尊も同じことを思ったのか、真剣な声で返事をする。
「紅羅のこともありましたし、気をつけますよ」
「うん。尊は休まないの?」
琥珀くんがそう尋ねると、尊はベッドの端に腰掛けて私の頭を撫でながら言った。
「もう少しここにいます」
すぐに琥珀くんはいなくなると思ったのだけど、彼は少し心配そうな声で尊に言い返した。
「尊、別荘から戻ってきて以来、そんな寝てないよね。人間なんだから身体壊すよ」
「私はあまり睡眠を取らなくても大丈夫なんですよ」
「でもさあ、姉ちゃんの結界だけじゃなく、この屋敷の結界だって強化してるよね?なんかあるの?」
琥珀くんの話に驚かずにはいられなかった。
私の結界の他に屋敷にも結界を張っていたなんて。
尊が強いのは知っているけど、琥珀くんが言うように彼は人間だ。
無理をすれば倒れてしまう。
それに、そこまで用心するなんて何か起こるんじゃないかと気になった。
「紅羅のことがあって懲りただけです。彼女が傷つく姿をもう見たくない」
その声には彼の無念さや悔しさが込められていたように感じた。
「本当に大事なんだね」
クスッと笑う琥珀くんの言葉に、尊は優しい声で相槌を打つ。
「ええ。自分の命よりも大事ですよ」
その告白に胸がジーンとなった。
尊……。
彼の言葉が嘘じゃないことは私が一番よくわかっている。
昔から私に何かあると真っ先に駆けつけてくれたのは尊だったし、私が病気や怪我の時も付きっきりでそばにいてくれる。
『命よりも大事』と聞いて嬉しいけれど、自分のことも気にかけてほしい。
私にいつも説教ばかりするけれど、彼だって私のために無茶をする。
いつの間にか琥珀くんはいなくなったのか、彼の声はしなくなった。
目に熱いものが込み上げてきて泣くのを我慢していたのだが、尊にはしっかりとバレていて……。
「撫子お嬢さま、狸寝入りとはいいご趣味ですね。さっさと寝ないと習い事を増やしますよ」
そんな意地悪なことを言いながらも、彼は私の瞼にキスを落とした。
「尊……」
目を閉じたままその名を呼ぶと、彼は私の耳元で囁いた。
「寝てください」
「絶対に眠れない」と言い返そうとしたのだけど、急に睡魔に襲われて意識が遠のく。
それは、温かくて優しい眠り。
きっと尊が私に何か術をかけたに違いない。
そう頭の隅で思いながらも、抗うことなく意識を手放した。
☆
「……起きてください。撫子お嬢さま、起きてください」
尊の声で目を開けると、彼が私の顔を見て微笑んだ。
「う……ん、今何時?」
目を擦りながら起き上がって尋ねたら、彼はカーテンを開けながらにこやかに返した。
「六時半です。眠れましたか?」
「ええ。四時に隼人に起こされた割には頭がスッキリしてるわ」
尊の目を見て笑顔で頷くと、彼は満足そうな顔で言う。
「それはよろしゅうございました」
「尊こそ、ちゃんと休んでる?」
スッとベッドを出て確認したら、彼はニコッと笑った。
「ええ。ちゃんと睡眠はとってますよ」
この顔が怪しい。
多分、しっかり寝ていないのだろう。
「じゃあ、いつも何時間寝てるの?」
さらに突っ込んで聞いたら、彼ははぐらかした。
「日によって違いますからね」
「ズルイわ。尊はそうやって大事なことをいつも誤魔化すの」
尊の腕を掴んで文句を言うと、彼はクスッと笑みを浮かべた。
「そんなに私の睡眠が大事ですか?」
思わぬ彼の切り返しにドキッとする。
「そ、それは尊に倒れられたら困るもの。またチャラ男に襲われそうになったら誰が助けてくれるのよ」
つっかえながらそう言い訳する私に彼はどこか面白そうに目を光らせた。
「旦那さまも秋さまも、それに琥珀もおりますよ」
「それはそうだけど、いつだって一番に駆けつけるのは尊じゃないのよ」
尊が私にとって一番身近な存在なのだ。
当然のようにそう答えるが、彼はさらに聞いてくる。
「理由はそれだけですか?他にもあるんじゃないですか?」
「他の理由?え?」
尊を見つめて問い返したら、彼はひとり納得した様子で頷いた。
「ああ。まだ自覚してないんですね。まあ、いいでしょう。じっくりといくのも一興ですし」
「え?ちょっと……一体何を言っているの?」
私だけ置いてけぼりを食った感じ。
「ほらボーッとしてると遅刻しますよ。まずは着替え」
尊に急かされ、結局うやむやになる。
着替えて茶室に向かうと、またもや隼人と琥珀くんがちょこんと正座していて入るのを躊躇った。
隼人が来てから、毎日こんな感じ。
ふたりがいるといろいろ騒ぎ出して余計に集中できない。
「では、今日は隼人に亭主をやってもらいましょうか」
尊が隼人に目を向けると、隼人は意外そうな顔をしつつもノリノリの態度で引き受ける。
「俺?いいよ」
きっと作法の「さ」の字も知らず雑にやるだろうと思っていたのだが、彼のお手前は茶道の先生くらい見事だった。
動きに無駄がなく、出されたお茶も綺麗に泡立っていて……。
普段チャラチャラしてても彼はやっぱり風磨家の跡取りなんだなあ。
やろうと思えば、ちゃんと出来るのだ。
「美味しい……」
飲んで思わず感想を口にした私を見て、隼人はニンマリ。
「ね。俺って凄いでしょう?やる時はやるのよ。お嬢ちゃんにも手取り足取り教えてあげる」
彼が私に抱きつこうとしてギョッとするが、また結界に弾かれて壁に激突。
それで壁に大きな穴が空いた。
「あー、いって〜」
壁に嵌まり込んだ隼人に尊は厳しい視線を投げた。
「また派手にぶつかりましたね。壁はちゃんと戻しておいてください」
隼人を残して私と尊と琥珀くんは茶室を出る。
「尊のいけず〜」と隼人の叫び声が聞こえたが、みんな無視した。
その後、朝食を食べていつものように車に乗ろうとしたら、運転席に隼人がいて頭痛がした。
まず人間の姿の琥珀くんが運転席の後ろに乗り込み、隼人の頭をポコポコ叩く。
「隼人、もう茶室の壁直したんだ」
「いてて。ふふん、俺は風磨家の次期当主だよ。侮ってもらっちゃ困るな」
後部座席の方を向いて不敵な笑みを浮かべる隼人をギロリと睨みつける。
「どういうつもり?また、私の友人を軟派するつもりでしょう?」
「心外だな。水瀬家に居候してる身だし、役に立とうと思って」
彼のヘラヘラした物言いが信用できず、スーッと目を細めた。
「役に立ちたい人が女の子の寝室に勝手に入って襲う?」
「尊だってお嬢ちゃんの寝室に出入りしてるじゃないか」
チラッと尊に目を向けて反論する隼人にすぐに反応したのは私ではなく尊だった。
「私は執事として撫子お嬢さまのお世話をしているだけです。襲ってはいませんよ」
無表情でそんな主張をする尊に突っ込みたくなる。
別荘の露天風呂で私に触れてキスしたのは誰よ。
だが、口に出しては言わず、仏頂面で彼に命じた。
「尊、車からこのチャラ男を追い出してよ」
「もう時間がないからこのまま行きます。撫子お嬢さま、早く乗ってください」
懐中時計を見ながら言う尊の言葉に従い、車に乗車すると彼も続いた。
「隼人、早く車を出してください」
尊が隼人に命じると、隼人は明るく返事をした。
「了解〜!」
フンフン鼻歌を歌いながら車を運転する隼人を見てハーッと溜め息をつく。
このチャラ男の運転で学校に行くなんて最悪だわ。
いつもの尊なら害虫のように隼人を遠ざけるのに、今日はどうしたんだろう。
なんかピリピリしてない?
琥珀くんが言ってた赤い雲が気になるのだろうか。
しかも、今日は私は真ん中の席。
いつもは私が運転席の後ろで、琥珀くんが真ん中に座るのに。
普通、運転席の後ろが上座なのだが、琥珀くんが座っても尊は注意しなかった。
まるで琥珀くんと尊が私をガードするような座り方。
私の隣にいる琥珀くんに小声で聞く。
「ねえ、今は学校の方に何か感じる?」
「姉ちゃんおいらの話聞いてたんだ。うーん、全然。おいらの気のせいだったのかもしれない。朝早かったし。まあ、何かあれば尊やおいらもいるから」
「俺もいるよ」
鼻歌を歌っていた隼人がすかさず割って入ってくるが、呆れ顔で返した。
「大丈夫。チャラ男は当てにしてないから」
私の返答に「そんなあ」とガクッと項垂れる隼人。
お陰で側溝にタイヤがはまり車がガガガッと揺れた。
「キャッ!」
前のめりになる私を尊がすかさず支える。
「大丈夫ですか、撫子お嬢さま?」
彼の顔が目の前にあってドキッ。
「う、うん」
動揺しながらも返事をすると、尊が隼人を注意した。
「隼人、もっと慎重に運転するように」
「ハハッ、ごめん。風磨家にいた時、いつも車は運転手がしてたからさあ」
隼人の言い訳に後部座席に乗っている私たち三人が冷ややかに言った。
「だったら運転席に座るな!」
「ごめーん。でも免許はちゃんと取ったから」
基本ポジティブシンキングの隼人はへこたれずに、運転を続ける。
私が「大丈夫なの?」と声を潜めて尊に問うと、彼は溜め息交じりに答えた。
「私がアシストしますから大丈夫です。それに、もう彼にハンドルは握らせませんよ」
「それなら安心ね」
ホッとして後部座席のシートに持たれるが、あることに気づいた。
尊とこんな密着して座るのは初めてだ。
彼の体温が伝わってきてドギマギしてしまう。
あ〜、なんでこんなに尊を意識しちゃうの?
私が子供の頃から一緒にいるのに。
尊と目が合わないようずっと下を向いていたら、彼に声をかけられた。
「撫子お嬢さま、着きましたよ」
「あ、うん」
尊の後に続いて車を降りると、彼がいつものように私の手を取って口付けた。
「ねえ、このキス必要なの?今日は長くない?」
頬を赤くしながら尊に抗議すると、彼は少し楽しげに目を光らせた。
「悪い虫がつかないようにしてるんです」
「あっ、じゃあ俺もお嬢ちゃんに虫除けのチューを」
私に顔を寄せる隼人の顔を尊が思い切り叩いた。
「あなたが悪い虫なんですよ」
冷淡に告げる尊の横で、隼人は「いって〜」と呻いている。
「隼人は懲りないな〜」
やれやれといった様子で肩をすくめる琥珀くんの言葉に相槌を打つ。
「ホント、救いようがないわね。風磨家の将来が不安だわ」
「さあ、撫子お嬢さま、あれは無視して行ってください」
害虫を見るような目で隼人を見ると、尊は隙のない笑顔で私を送り出す。
「ええ。行ってきます」
尊や琥珀くんに手を振り、学校の門をくぐると春乃もやって来て、一緒に教室に向かった。
席に座って窓の外を見ていたら、隼人が登校して来た女子学生に声をかけている。
「もう、あのチャラ男は〜」
小さく悪態をついたその時、男性の声がして驚いた。
「誰か不審者でもいるのか?」
私の目の前にいたのは年が三十くらいの紺の背広姿の男性。
背は尊よりもさらに高くて、少し筋肉質な体型をしている。
髪は明るい茶色で、肌は小麦色。
近くでは見ないタイプのハンサム。
この人……誰?
「……いえ。変な虫が飛んでいたもので」
その顔をじっと見ながら答えたら、男性はクスッと笑った。その手には出席簿が握られている。
「そうか。じゃあ、みんな席に着いて」
教壇に立つ彼を見て悟った。
先生だったのか。
でもうちの学校で男性教諭というのは珍しい。
校長以外は女の先生だったのに。
それに担任の立花先生はどうしたのだろう。
そんな疑問を抱いたその時、先生がみんなに告げた。
「え〜、立花先生が入院されて、しばらく私が代理で
来ることになった。私は渡辺煌。三十歳、独身。好きな食べ物はすき焼きだ」
自己紹介しながら先生は黒板に自分の名前を書く。
字は達筆で力強い。
親しみやすそうな先生でよかった。
たまには男の先生というのもいいかもしれない。
授業になると教え方もうまくて、英語の発音は完璧だし、数学もわかりやすく教えてくれる。
「いいか、この公式は絶対に覚えておくように。次のテストで出すぞ。できなかった子には、私の手厚い補講が待っている」
そう言って爽やかに笑う先生。
「では、水瀬さん、早速だがこの問題を解いてもらおうか」
先生に当てられ、「はい」と返事をして黒板まで行く。
この数式は尊にしごかれたから簡単だ。
チョークを掴んでスラスラ問題を解くと、先生が目を細めて私を見た。
「おお。正解だ。水瀬にはご褒美にこのイチゴキャンディーをやろう」
先生が上着のポケットからピンクの包み紙に包まれたキャンディーを私に差し出す。
それは女の子の間で人気のキャンディーで、入手も難しい。
一度式神に買いに行ってもらおうとも考えたのだけど、父も兄も私に式神を貸してくれなかった。
「ありがとうございます」
わー、嬉しい。
食べ物に目がない私はニコッと微笑んだ。
先生、なかなか生徒のことわかってますね。
優しくていい先生じゃないの。
教室にいる他の女の子たちも私と同じような印象を持ったようで休み時間になると先生に群がった。
そんな光景を楽しげに眺めながら、先生にもらったキャンディーを口の中に放り込む。
あー、このほどよい甘さがいいのよね。
至福のひとときだわ。
ひとり幸せに浸りながら舐めていると、春乃が私の席までやってきた。
「渡辺先生モテモテだね」
彼女の言葉に笑って頷く。
「まあハンサムだもん。校長先生は五十八歳だし、今までうちの学校に若い男の先生いなかったしね」
「そんなハンサムな先生を見ても撫子が興味持たないのはやっぱり尊さんがいるからかなあ」
彼女がからかってきて、ギクッとする。
「ちょ……そういうんじゃないから」
慌てて否定したが、春乃はさらに続けた。
「その反応が怪しい。最近尊さんと何かあった?なんか撫子、尊さんを見ると挙動不審よ」
「べ、別に普通だよ」
別荘でのことは春乃にも言っていない。
露天風呂で胸を触られてキスされたなんて知ったら、お嬢さまの彼女は驚いて失神するかも。
動揺しながら言い返したその時、近くの窓ガラスがガシャンと割れて、カラスが教室に飛び込んで来た。
咄嗟に春乃に覆い被さると、身体中にいくつも細かいガラスの破片が突き刺さる。
……痛い。
顔をしかめて痛みを堪えながら春乃に目を向けると、彼女は無事だった。
「おい、大丈夫か!」
カラスを教室から追い出した先生が私たちの元に駆け寄った。
「私は大丈夫ですけど、撫子は?」
春乃が私に目を向けたので、咄嗟に笑って誤魔化した。
「大丈夫だよ。ビックリしただけで」
笑いながらガラスの破片を手で払ったら、渡辺先生に手を掴まれてハッとした。
「血が出てるじゃないか」
え?血?
掴まれた手を見ようと思ったら、先生が私の傷口を舐めてきて狼狽えた。
「先生……何を!」
「応急処置だ」
彼はそう言って背広の上着のポケットからハンカチを取り出して私の傷口を止血する。
その手際のよさに周りの生徒はうっとりしていたが、私は他にもある傷の痛みを我慢していてそれどころではなかった。
「水瀬さん、早退したらどうだ?」
先生にそう勧められたが、「大丈夫です。たいしたことありません」と痩せ我慢してそのまま授業を受けた。
早退なんかしたら尊が心配するし、あまりみんなに騒がれたくはない。
大丈夫。小さなガラスの破片が刺さっただけ。
それに、今日は赤い着物を着てきたから、血が出てもそんなにみんなには気づかれない。
それからそのまま授業を受けていたのだが、なんだか身体がふらふらする。
まるで大量の血を抜かれたみたいだ。
あともうちょっとで授業が終わるから。
あと……もう少しの……我慢。
そう自分に言い聞かせ、授業が終わると、重い足取りで校門に向かう。
「ねえ、撫子、顔色悪いけど大丈夫?」
春乃が私を気遣ってそう声をかけてきたが、もう答える気力もなかった。
校門の前には尊、琥珀くん、隼人の三人がいたが、目が霞んだ。
尊の姿を見たら安心してフッと身体の力が抜けて倒れそうになった。
「撫子!」
尊が血相を変えて私を抱き留める。
「尊……今日は習い事……無理かも」
最後の力を振り絞ってそんなことを言ったら、彼に怒鳴られた。
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょう!何があったんですか!」
ああ……尊怒ってる。
でも……もう……起きていられ……ない。
瞼も重くなって、暗い闇が私を包み込んだ。
