暗闇の中、赤鬼が私の首筋に牙を立て、血を啜る。
深い深い闇。
『お姉さんの血、美味しいね』
鬼は楽しげにそう言って私の首をペロッと舐めた。
『い……や』
全身の力が抜けて抵抗しようとしても動けない。
これが……鬼。
下級の妖とは違う圧倒的な存在感と力。
水の術を使えない私は非力だ。
この鬼に血を吸われてただ死を待つしかない。
『こんなに美味しい血は初めてだよ。力が漲ってくる。最後の一滴まで頂くよ』
「や……めて」
声を絞り出すようにそう呟いたら、尊の声がして明るい光が見えた。
「撫子、大丈夫だ。もう鬼はいない」
その甘く優しい声に闇が徐々に消えていく。
赤鬼の姿も消えて、邪悪なものが浄化されていくような感じがした。
「み……尊?」
目を開けると私はベッドで寝ていて、尊が椅子に座って私の手を握っている。
赤鬼はいない。
夢を見ていたのか。
ここは……自分の部屋。読書灯だけがついていたが、真っ暗ではなくて安心した。
壁時計を見ると、午前二時過ぎ。
確か……鬼に血を吸われて……それで尊が来てくれたんだっけ。
血を吸われた時の感触が忘れられず、ゾクッとした。
「悪い夢でも見ましたか?酷くうなされていましたよ」
私が起きたのに気づき、尊が身を屈めながら私の額の汗を拭う。
「ちょっと……赤鬼が夢に出て来ちゃって。でも、平気よ」
ゆっくりと上体を起こすと、ニコッと笑ってみせた。でも、強がっているのはバレバレのようで……。
「身体が震えてますよ」
彼は冷静にそう指摘するも、私を包み込むように抱きしめた。
「尊?」
彼の突然の行動に狼狽える私。
「怖かったですね。駆けつけるのが遅くなって申し訳ありませんでした」
尊の表情は見えないが、その口調は重々しく、心から悔いているようだった。
でも、尊は何も悪くない。
悪いのは勝手な行動をした私だ。
「……違う。尊は悪くない。私が寄り道なんてしたからあんなことになったの。ごめんなさい」
彼の胸に手を当てて謝ったら、クスッと笑い声がした。
「今日はやけに素直ですね。いつもそうだといいのですが、逆に気持ち悪い」
その失礼な物言いにカッとなって彼の腕を掴んだ。
「尊、あのねえ!」
「そうそう、それですよ。お嬢さは元気でなければ困ります。但し、もう勝手な行動は慎むように」
ちょっと意地悪く、それでいて優しく目を細める彼。
元気づけ、注意もちゃんとするところは流石だと思う。
「はい。すみません」
しゅんとなる私に彼は執事らしい口調で尋ねた。
「喉が渇きませんか?」
「うん。喉カラカラかも」
素直にそう答えたら、尊が椅子か立ち上がり、近くのテーブルの上に置いてあった水差しを掴んでコップに水を入れ私に差し出す。
「さあ、どうぞ。なんなら、私が口移しで飲ませましょうか?」
澄まし顔で言う彼の軽口に顔がカーッと熱くなる。
「あ、あのね、乙女の唇をなんだと思ってるのよ。自分で飲みます!」
動揺しながら尊に噛み付くと、彼の手からコップを受け取ってゴクゴクと飲んだ。
「もういいわ」
コップを返すと、彼は私をまた寝かせた。
「寝てください。まだ起きるのには早いですよ」
「尊も自分の部屋で寝なさいよ。私は大丈夫だから」
もっと優しく言えればいいのに、こんなかわいくない言い方しかできない自分に腹が立つ。
「いいえ。今日はそばにいます。急変したら困りますから」
彼の口調も素っ気ない。
だが、私のことを何とも思っていないのなら、ここにはいないでさっさと自室で寝ているはず。
きっとずっと私についていたのだ。
意地悪でドSな彼だが、なんだかんだ言っても心配性。
「……尊」
囁くような声でその名を呼ぶと、彼は椅子に腰掛けながら私に目を向けた。
「はい、何ですか、お嬢さま?」
今回の件でかなり彼に心配をかけてしまった。
私のそばを離れないのがその証拠だ。
赤鬼に血を吸われ、普通なら私は死んでいただろう。
身体はだるいけど、あれだけ鬼に血を吸われたのに痛みが全くない。
それは、またいつものように彼が私を治癒してくれたからに違いない。
昔から私が怪我をすると、彼が治癒の術を使って治してくれた。
そう、彼も私と同じ術を使えるのだ。
「どうして私のそばにいてくれるの?」
彼は頭脳明晰だし、執事なんかにならなくても医者でも政治家でもなんでもなれたはず。
「水瀬の家に引き取られたからって恩義を感じなくていいのよ。お父さまだってそう思ってるはずだわ。もっと自由に生きていいのよ」
私が思い切って話を切り出せば、彼は穏やな声で返した。
「私はこの家が……ここの人達が気に入っているのですよ。ここにいるのは、私が望んだからです」
その言葉に嘘はない。
彼の目は一点の曇りもなく澄んでいて、とても綺麗だった。
「尊……」
胸がジーンとなっていたのに、彼は悪戯っぽく目を光らせる。
「それに、じゃじゃ馬の撫子お嬢さまを放ってはおけないでしょう?」
せっかく感動していたのに、その発言でぶち壊しじゃないのよ。
「私、ちゃんとひとりでも生きていけるわ」
ムスッとして反論する私に彼は冷ややかに突っ込んだ。
「今日死にそうになったのは誰でしたっけ?一生おそばにおりますので、覚悟してください」
「一生って……私がお嫁に行ってもついてくるつもり?」
ギョッとして聞き返したら、尊は冷淡に返す。
「その体たらくで嫁の貰い手が見つかるとは思えませんが」
「あ〜、言ったわねえ!私、絶対にお嫁に行くわ!」
声を大にして宣言する私を彼はどこか楽しげに見る。
「お嬢さまの晴れの日が来ることを楽しみにしておりますよ」
フッと笑みを浮かべるこの男を見てムッとした。
全く信じていない。
行かず後家になると決めつけてるわね。
「見てなさい。いつか尊が驚くくらい綺麗な花嫁姿を披露してみせるんだから」
「はいはい。もういいから、寝てください」
尊は軽くあしらって、私に布団をかける。
じっとりと彼を見ると、からかわれた。
「眠れないなら子守唄でも歌いましょうか?」
「結構です!」
尊に背を向けてギュッと目を閉じると、彼が私の頭を撫でた。
「おやすみください。また夢に妖が出ても私がいるから大丈夫ですよ」
急に優しくなるのは反則だと思う。
その言葉に胸がキュンとなる。
いつからだろう。
尊は父よりも兄よりも身近な存在になっていた。
彼がうちにやって来た時は二番目の兄のように思っていたけど、今は違う気がする。
うまく表現出来ないけれど、一番私のことをわかっていて、いつもそばにいてくれる人。
彼がいるから安心……。
何があっても私を守って……くれる。
穏やかで温かな眠りに誘われ、そのまま意識を手放した。
☆
カーテンの隙間から差し込む日差しに気づいて目が覚めた。
視界に移るのはじっと私を見つめている尊。
ずっと起きていたのだろうか。
私と目が合って尊がニコッと微笑む。
「おはようございます。起こされずに目覚めるとは珍しいですね。気分はどうですか?」
「寝てだいぶ回復したかも」
起き上がって、乱れた髪をかき上げながら答える。
もう怠くはない。
「では、早速治療といきましょう」
彼がベッドの端に腰掛け、私の首の傷に触れ、顔を近づけて来た。
「え?ちょっ……み、尊!」
思わずのけぞる私の頭をガシッと掴んで彼が私の首筋に口付ける。
温かいその唇に身体の力が抜けた。
トクンと大きく高鳴る心臓。
赤鬼に血を吸われた時とは違う衝撃を受け、首がじわじわと熱くなる。
これは……何?
「み、尊……突然何を?」
激しく狼狽えながら問うも、彼に「黙って」と冷たく言われ、そのまま固まる。
「うーん、もうちょっとですかね」
私の首の傷をまじまじと見つめてそんな言葉を呟く彼にもう一度尋ねた。
「尊、今のは何なの?」
「何って治療だと申し上げたでしょう?」
「首にキスするののどこが治療なのよ。このエロじじい!」
「失礼な。傷が少し治っているのがわかりませんか?」
彼に言われ、首の傷にそっと触れる。
赤鬼に深く噛まれたはずなのに、傷が浅い。
「まだ、終わってません。もう一度」
また彼が私に顔を近づけてきたので慌てた。
「ちょっと……ちょっと待ちなさいよ。いつもは手をかざして治してたじゃない。なんでキスで治すの?こんなの……恥ずかしい」
真っ赤になりながら文句を言うが、彼はしれっとした顔で言い返した。
「恥ずかしくなければお仕置きにならないでしょう?もう二度と無茶はしないようにキスで治療しているんです」
ああ……もうやめてよ。
「このドS執事!」
思い切り罵るも、彼は強引に私の身体を押さえつけてきた。
「その元気があれば学校に行けそうですね」
悪魔のように妖艶に微笑み、尊は私の首に再び顔を近づける。
彼の吐息が首にかかって気がおかしくなりそうだった。
「み……尊、ダメ」
弱々しい声でそう言っても彼は止まらない。
「治療です。我慢してください」
楽しげに言って私の首の傷に口付ける。
鬼の時と同じで、抵抗できない。
甘い痺れに襲われ、つい声が出た。
「あ……ん」
「お仕置きなのに、感じていては意味がないですね」
クスッと尊が笑ったその時、バンッと勢いよくドアが開いて、頬に傷がある着物姿の少年が入って来た。
「みーこーとー、朝食出来た……って、あっ、お楽しみ中だった?」
少年の登場にポカンとしていたら、尊が私から離れた。
「治療です。今終わったところですよ。すぐに行くと皆さんに伝えてください」
尊の言葉に頷き、少年は部屋を出て行く。
「へーい」
あの子は誰だろう?
「今の男の子、誰?」
私の着替えの準備をしている尊に問うと、彼はうっすら口角を上げた。
「あなたが昨日助けた猫の妖です。名前は琥珀」
私が助けた……あっ!
「あの猫、妖だったんだ。元気になってよかった」
尊の言い方が気になるも、気にせず喜ぶ私。
すると、彼が私をギロッと睨んだ。
「元気になってよかった……じゃありません!治癒の術は使うなとあれほど言ったでしょう!」
拳で尊が私の頭をぐりぐりする。
「い、痛いよ、尊〜。だって……車に轢かれて可哀想だったの!」
顔をしかめながら言い訳するが、彼は手を止めない。
「それで鬼に目をつけられたんじゃないですか?」
彼の追及にギクッとして、目を逸らした。
「そ、そんなの知らないわ」
「動揺しまくりですね。いいですか、もう決してその術は使ってはいけません」
彼が強い口調で言い渡すが納得いかない。
「尊は使ってるじゃないの」
「私は撫子お嬢さまにだけしか使いません。それに日頃から鍛錬しているので、治癒の術を使ってもあなたほどダメージは受けないのですよ」
せっかく治癒の術があるのだ。
使わなかったら何の意味もないじゃないの。
「でも、怪我をしているのに放っておけないでしょう?」
尊を説得しようとするが、彼は頑固だった。
「それで自分の身体を悪くするんですよ」
スーッと目を細めて冷たく言い放つ尊。
美形が怒ると凄く怖いが、私もここで引かなかった。
「その言葉、聞き飽きたわ」
尊を睨み返したら、軽く流される。
「撫子お嬢さまがちっとも言う事を聞かないからです。さあ、着替えますよ」
彼が私の夜着に触れてハッと気づいた。
「そう言えば、私……いつの間に夜着に着替えたのかしら?」
私の独り言に尊が平然とした顔で返す。
「寝苦しいかと思って私が着替えを」
「人が寝てる間に何してるのよ!」
一応嫁入り前の娘になんてことをするのか。
「何度も着替えさせてるではありませんか。何を今更」
「私の裸とか見てないわよね?」
疑いの眼差しを向けたら、彼は呆れた様子で言った。
「昔は一緒にお風呂に入ったのに、何を恥ずかしがっているんですか」
答えをはぐらかしたわね。
「私、もう子供じゃないわ。十八よ!」
ぷんぷん怒る私に彼は冷淡に嫌味を言う。
「ええ。知ってますよ。しかし、今も子供のようなものですけどね。全く私の言う事を聞かないですし。ほら、脱いでください」
彼は私の夜着の腰紐に手をかけ、襟をガバッと開いた。
「きゃっ!」
勢いよく夜着を脱がされ、思わず声をあげる。
昨日と同じパターンだわ。
その後、尊は素早く私に着物と袴を着せた。
私の体調が万全でないせいか、彼は今日は茶室に寄らずにそのまま食堂に私を連れて行く。
食事中は彼に怒っていてずっと無言だった私。
学校に向かう車の中でも尊とは口を聞かず、一緒に乗ってきた琥珀くんと話をした。
彼は私と尊の間に座っている。
尊の説明によると、うちに住み込みで働くことになったらしい。
妖と一緒に住むというのも変な話だけど、琥珀くんは人を殺めない。
人間のおばあさんに育てられたそうで、人と同じものを食べるとか。
「尊に脅されてうちに連れて来られたんじゃないの?」
横目でチラリと尊の方を見て尋ねれば、琥珀くんはハハッと苦笑いした。
「うーん、半分そんな感じだったけど、おいらも行くとこなかったからちょうどよかったんだ」
「親御さんとか心配しないのって……妖に親っているんだっけ?」
妖の生態はよくわからない。
「おいらにはいたよ。でも、父ちゃんも母ちゃんもあの赤鬼にやられちゃった。おいらの傷も赤鬼につけられたんだけど、尊が倒してくれて嬉しかったんだ」
彼が頬の古傷を指差す。
「もう尊凄かったんだよ。ネクタイをスッと外して、それにフーッて息を吹きかけてシャキーンと氷の剣に変えてさあ。で、紅羅の胸にズブッと突き刺したんだ」
琥珀くんは興奮しているせいか、やたらと擬音が多い。
こうして見てみると、妖に見えないな。
元気な普通の男の子だよ。
「琥珀、喋りすぎですよ」
尊が注意すると、琥珀くんは「ごめん」とペロッと舌を出して謝る。
尊が止めるということは、あまり私に聞かれたくないってことなのだろう。
彼がネクタイを剣に変えるなんて見たことないんだけど……。
深く追及せず、琥珀くんの話に軽く相槌を打つ。
「そうなんだ。琥珀くんが赤鬼に襲われなくてよかったよ。ちなみに琥珀くんって何歳なの?」
人間と同じで十歳くらいと思ったら、とんでもない答えが返ってきた。
「えーと、四百九十九歳」
指を何回も折って数えながら彼は答える。
「ええ〜、もう五百年も生きてるの〜!」
おじいちゃんじゃないの。
素っ頓狂な声をあげたら、彼はそんな私を見て面白そうに笑った。
「妖の中では若い方だし、妖は五百歳から大人なんだ。何千歳っていうのもいるしね」
琥珀くんの話に一瞬絶句する。
何千歳の妖から見たら、私なんて赤子のようなものよね。
「……何千歳なんているんだ。凄いね」
「でも、人間みたいに短命の方がおいらはいいと思う。桜みたいでさあ」
琥珀くんの発言を聞いて、彼の肩をポンと叩いた。
「おっ、桜のよさがわかるとはおぬし通よのう。週末は花見に行こう」
琥珀くんを誘うが、過保護な執事に反対される。
「こらこら勝手に決めないでください。週末は日舞の稽古がありますよ」
「花見くらいいいじゃないの。桜はすぐに散っちゃうのよ」
「そうそう。姉ちゃん怪我したんだし、湯治も兼ねてちょっと遠出しようよ」
思わぬ援護射撃に、嬉しくなってはしゃいだ。
「いいわね。最近どこにも行ってない。温泉に入ったら怪我の治りも早いわ」
琥珀くんときゃっきゃ言い合う私を見て尊が溜め息交じりに言った。
「もう傷は私が治したんですけどね」
深い深い闇。
『お姉さんの血、美味しいね』
鬼は楽しげにそう言って私の首をペロッと舐めた。
『い……や』
全身の力が抜けて抵抗しようとしても動けない。
これが……鬼。
下級の妖とは違う圧倒的な存在感と力。
水の術を使えない私は非力だ。
この鬼に血を吸われてただ死を待つしかない。
『こんなに美味しい血は初めてだよ。力が漲ってくる。最後の一滴まで頂くよ』
「や……めて」
声を絞り出すようにそう呟いたら、尊の声がして明るい光が見えた。
「撫子、大丈夫だ。もう鬼はいない」
その甘く優しい声に闇が徐々に消えていく。
赤鬼の姿も消えて、邪悪なものが浄化されていくような感じがした。
「み……尊?」
目を開けると私はベッドで寝ていて、尊が椅子に座って私の手を握っている。
赤鬼はいない。
夢を見ていたのか。
ここは……自分の部屋。読書灯だけがついていたが、真っ暗ではなくて安心した。
壁時計を見ると、午前二時過ぎ。
確か……鬼に血を吸われて……それで尊が来てくれたんだっけ。
血を吸われた時の感触が忘れられず、ゾクッとした。
「悪い夢でも見ましたか?酷くうなされていましたよ」
私が起きたのに気づき、尊が身を屈めながら私の額の汗を拭う。
「ちょっと……赤鬼が夢に出て来ちゃって。でも、平気よ」
ゆっくりと上体を起こすと、ニコッと笑ってみせた。でも、強がっているのはバレバレのようで……。
「身体が震えてますよ」
彼は冷静にそう指摘するも、私を包み込むように抱きしめた。
「尊?」
彼の突然の行動に狼狽える私。
「怖かったですね。駆けつけるのが遅くなって申し訳ありませんでした」
尊の表情は見えないが、その口調は重々しく、心から悔いているようだった。
でも、尊は何も悪くない。
悪いのは勝手な行動をした私だ。
「……違う。尊は悪くない。私が寄り道なんてしたからあんなことになったの。ごめんなさい」
彼の胸に手を当てて謝ったら、クスッと笑い声がした。
「今日はやけに素直ですね。いつもそうだといいのですが、逆に気持ち悪い」
その失礼な物言いにカッとなって彼の腕を掴んだ。
「尊、あのねえ!」
「そうそう、それですよ。お嬢さは元気でなければ困ります。但し、もう勝手な行動は慎むように」
ちょっと意地悪く、それでいて優しく目を細める彼。
元気づけ、注意もちゃんとするところは流石だと思う。
「はい。すみません」
しゅんとなる私に彼は執事らしい口調で尋ねた。
「喉が渇きませんか?」
「うん。喉カラカラかも」
素直にそう答えたら、尊が椅子か立ち上がり、近くのテーブルの上に置いてあった水差しを掴んでコップに水を入れ私に差し出す。
「さあ、どうぞ。なんなら、私が口移しで飲ませましょうか?」
澄まし顔で言う彼の軽口に顔がカーッと熱くなる。
「あ、あのね、乙女の唇をなんだと思ってるのよ。自分で飲みます!」
動揺しながら尊に噛み付くと、彼の手からコップを受け取ってゴクゴクと飲んだ。
「もういいわ」
コップを返すと、彼は私をまた寝かせた。
「寝てください。まだ起きるのには早いですよ」
「尊も自分の部屋で寝なさいよ。私は大丈夫だから」
もっと優しく言えればいいのに、こんなかわいくない言い方しかできない自分に腹が立つ。
「いいえ。今日はそばにいます。急変したら困りますから」
彼の口調も素っ気ない。
だが、私のことを何とも思っていないのなら、ここにはいないでさっさと自室で寝ているはず。
きっとずっと私についていたのだ。
意地悪でドSな彼だが、なんだかんだ言っても心配性。
「……尊」
囁くような声でその名を呼ぶと、彼は椅子に腰掛けながら私に目を向けた。
「はい、何ですか、お嬢さま?」
今回の件でかなり彼に心配をかけてしまった。
私のそばを離れないのがその証拠だ。
赤鬼に血を吸われ、普通なら私は死んでいただろう。
身体はだるいけど、あれだけ鬼に血を吸われたのに痛みが全くない。
それは、またいつものように彼が私を治癒してくれたからに違いない。
昔から私が怪我をすると、彼が治癒の術を使って治してくれた。
そう、彼も私と同じ術を使えるのだ。
「どうして私のそばにいてくれるの?」
彼は頭脳明晰だし、執事なんかにならなくても医者でも政治家でもなんでもなれたはず。
「水瀬の家に引き取られたからって恩義を感じなくていいのよ。お父さまだってそう思ってるはずだわ。もっと自由に生きていいのよ」
私が思い切って話を切り出せば、彼は穏やな声で返した。
「私はこの家が……ここの人達が気に入っているのですよ。ここにいるのは、私が望んだからです」
その言葉に嘘はない。
彼の目は一点の曇りもなく澄んでいて、とても綺麗だった。
「尊……」
胸がジーンとなっていたのに、彼は悪戯っぽく目を光らせる。
「それに、じゃじゃ馬の撫子お嬢さまを放ってはおけないでしょう?」
せっかく感動していたのに、その発言でぶち壊しじゃないのよ。
「私、ちゃんとひとりでも生きていけるわ」
ムスッとして反論する私に彼は冷ややかに突っ込んだ。
「今日死にそうになったのは誰でしたっけ?一生おそばにおりますので、覚悟してください」
「一生って……私がお嫁に行ってもついてくるつもり?」
ギョッとして聞き返したら、尊は冷淡に返す。
「その体たらくで嫁の貰い手が見つかるとは思えませんが」
「あ〜、言ったわねえ!私、絶対にお嫁に行くわ!」
声を大にして宣言する私を彼はどこか楽しげに見る。
「お嬢さまの晴れの日が来ることを楽しみにしておりますよ」
フッと笑みを浮かべるこの男を見てムッとした。
全く信じていない。
行かず後家になると決めつけてるわね。
「見てなさい。いつか尊が驚くくらい綺麗な花嫁姿を披露してみせるんだから」
「はいはい。もういいから、寝てください」
尊は軽くあしらって、私に布団をかける。
じっとりと彼を見ると、からかわれた。
「眠れないなら子守唄でも歌いましょうか?」
「結構です!」
尊に背を向けてギュッと目を閉じると、彼が私の頭を撫でた。
「おやすみください。また夢に妖が出ても私がいるから大丈夫ですよ」
急に優しくなるのは反則だと思う。
その言葉に胸がキュンとなる。
いつからだろう。
尊は父よりも兄よりも身近な存在になっていた。
彼がうちにやって来た時は二番目の兄のように思っていたけど、今は違う気がする。
うまく表現出来ないけれど、一番私のことをわかっていて、いつもそばにいてくれる人。
彼がいるから安心……。
何があっても私を守って……くれる。
穏やかで温かな眠りに誘われ、そのまま意識を手放した。
☆
カーテンの隙間から差し込む日差しに気づいて目が覚めた。
視界に移るのはじっと私を見つめている尊。
ずっと起きていたのだろうか。
私と目が合って尊がニコッと微笑む。
「おはようございます。起こされずに目覚めるとは珍しいですね。気分はどうですか?」
「寝てだいぶ回復したかも」
起き上がって、乱れた髪をかき上げながら答える。
もう怠くはない。
「では、早速治療といきましょう」
彼がベッドの端に腰掛け、私の首の傷に触れ、顔を近づけて来た。
「え?ちょっ……み、尊!」
思わずのけぞる私の頭をガシッと掴んで彼が私の首筋に口付ける。
温かいその唇に身体の力が抜けた。
トクンと大きく高鳴る心臓。
赤鬼に血を吸われた時とは違う衝撃を受け、首がじわじわと熱くなる。
これは……何?
「み、尊……突然何を?」
激しく狼狽えながら問うも、彼に「黙って」と冷たく言われ、そのまま固まる。
「うーん、もうちょっとですかね」
私の首の傷をまじまじと見つめてそんな言葉を呟く彼にもう一度尋ねた。
「尊、今のは何なの?」
「何って治療だと申し上げたでしょう?」
「首にキスするののどこが治療なのよ。このエロじじい!」
「失礼な。傷が少し治っているのがわかりませんか?」
彼に言われ、首の傷にそっと触れる。
赤鬼に深く噛まれたはずなのに、傷が浅い。
「まだ、終わってません。もう一度」
また彼が私に顔を近づけてきたので慌てた。
「ちょっと……ちょっと待ちなさいよ。いつもは手をかざして治してたじゃない。なんでキスで治すの?こんなの……恥ずかしい」
真っ赤になりながら文句を言うが、彼はしれっとした顔で言い返した。
「恥ずかしくなければお仕置きにならないでしょう?もう二度と無茶はしないようにキスで治療しているんです」
ああ……もうやめてよ。
「このドS執事!」
思い切り罵るも、彼は強引に私の身体を押さえつけてきた。
「その元気があれば学校に行けそうですね」
悪魔のように妖艶に微笑み、尊は私の首に再び顔を近づける。
彼の吐息が首にかかって気がおかしくなりそうだった。
「み……尊、ダメ」
弱々しい声でそう言っても彼は止まらない。
「治療です。我慢してください」
楽しげに言って私の首の傷に口付ける。
鬼の時と同じで、抵抗できない。
甘い痺れに襲われ、つい声が出た。
「あ……ん」
「お仕置きなのに、感じていては意味がないですね」
クスッと尊が笑ったその時、バンッと勢いよくドアが開いて、頬に傷がある着物姿の少年が入って来た。
「みーこーとー、朝食出来た……って、あっ、お楽しみ中だった?」
少年の登場にポカンとしていたら、尊が私から離れた。
「治療です。今終わったところですよ。すぐに行くと皆さんに伝えてください」
尊の言葉に頷き、少年は部屋を出て行く。
「へーい」
あの子は誰だろう?
「今の男の子、誰?」
私の着替えの準備をしている尊に問うと、彼はうっすら口角を上げた。
「あなたが昨日助けた猫の妖です。名前は琥珀」
私が助けた……あっ!
「あの猫、妖だったんだ。元気になってよかった」
尊の言い方が気になるも、気にせず喜ぶ私。
すると、彼が私をギロッと睨んだ。
「元気になってよかった……じゃありません!治癒の術は使うなとあれほど言ったでしょう!」
拳で尊が私の頭をぐりぐりする。
「い、痛いよ、尊〜。だって……車に轢かれて可哀想だったの!」
顔をしかめながら言い訳するが、彼は手を止めない。
「それで鬼に目をつけられたんじゃないですか?」
彼の追及にギクッとして、目を逸らした。
「そ、そんなの知らないわ」
「動揺しまくりですね。いいですか、もう決してその術は使ってはいけません」
彼が強い口調で言い渡すが納得いかない。
「尊は使ってるじゃないの」
「私は撫子お嬢さまにだけしか使いません。それに日頃から鍛錬しているので、治癒の術を使ってもあなたほどダメージは受けないのですよ」
せっかく治癒の術があるのだ。
使わなかったら何の意味もないじゃないの。
「でも、怪我をしているのに放っておけないでしょう?」
尊を説得しようとするが、彼は頑固だった。
「それで自分の身体を悪くするんですよ」
スーッと目を細めて冷たく言い放つ尊。
美形が怒ると凄く怖いが、私もここで引かなかった。
「その言葉、聞き飽きたわ」
尊を睨み返したら、軽く流される。
「撫子お嬢さまがちっとも言う事を聞かないからです。さあ、着替えますよ」
彼が私の夜着に触れてハッと気づいた。
「そう言えば、私……いつの間に夜着に着替えたのかしら?」
私の独り言に尊が平然とした顔で返す。
「寝苦しいかと思って私が着替えを」
「人が寝てる間に何してるのよ!」
一応嫁入り前の娘になんてことをするのか。
「何度も着替えさせてるではありませんか。何を今更」
「私の裸とか見てないわよね?」
疑いの眼差しを向けたら、彼は呆れた様子で言った。
「昔は一緒にお風呂に入ったのに、何を恥ずかしがっているんですか」
答えをはぐらかしたわね。
「私、もう子供じゃないわ。十八よ!」
ぷんぷん怒る私に彼は冷淡に嫌味を言う。
「ええ。知ってますよ。しかし、今も子供のようなものですけどね。全く私の言う事を聞かないですし。ほら、脱いでください」
彼は私の夜着の腰紐に手をかけ、襟をガバッと開いた。
「きゃっ!」
勢いよく夜着を脱がされ、思わず声をあげる。
昨日と同じパターンだわ。
その後、尊は素早く私に着物と袴を着せた。
私の体調が万全でないせいか、彼は今日は茶室に寄らずにそのまま食堂に私を連れて行く。
食事中は彼に怒っていてずっと無言だった私。
学校に向かう車の中でも尊とは口を聞かず、一緒に乗ってきた琥珀くんと話をした。
彼は私と尊の間に座っている。
尊の説明によると、うちに住み込みで働くことになったらしい。
妖と一緒に住むというのも変な話だけど、琥珀くんは人を殺めない。
人間のおばあさんに育てられたそうで、人と同じものを食べるとか。
「尊に脅されてうちに連れて来られたんじゃないの?」
横目でチラリと尊の方を見て尋ねれば、琥珀くんはハハッと苦笑いした。
「うーん、半分そんな感じだったけど、おいらも行くとこなかったからちょうどよかったんだ」
「親御さんとか心配しないのって……妖に親っているんだっけ?」
妖の生態はよくわからない。
「おいらにはいたよ。でも、父ちゃんも母ちゃんもあの赤鬼にやられちゃった。おいらの傷も赤鬼につけられたんだけど、尊が倒してくれて嬉しかったんだ」
彼が頬の古傷を指差す。
「もう尊凄かったんだよ。ネクタイをスッと外して、それにフーッて息を吹きかけてシャキーンと氷の剣に変えてさあ。で、紅羅の胸にズブッと突き刺したんだ」
琥珀くんは興奮しているせいか、やたらと擬音が多い。
こうして見てみると、妖に見えないな。
元気な普通の男の子だよ。
「琥珀、喋りすぎですよ」
尊が注意すると、琥珀くんは「ごめん」とペロッと舌を出して謝る。
尊が止めるということは、あまり私に聞かれたくないってことなのだろう。
彼がネクタイを剣に変えるなんて見たことないんだけど……。
深く追及せず、琥珀くんの話に軽く相槌を打つ。
「そうなんだ。琥珀くんが赤鬼に襲われなくてよかったよ。ちなみに琥珀くんって何歳なの?」
人間と同じで十歳くらいと思ったら、とんでもない答えが返ってきた。
「えーと、四百九十九歳」
指を何回も折って数えながら彼は答える。
「ええ〜、もう五百年も生きてるの〜!」
おじいちゃんじゃないの。
素っ頓狂な声をあげたら、彼はそんな私を見て面白そうに笑った。
「妖の中では若い方だし、妖は五百歳から大人なんだ。何千歳っていうのもいるしね」
琥珀くんの話に一瞬絶句する。
何千歳の妖から見たら、私なんて赤子のようなものよね。
「……何千歳なんているんだ。凄いね」
「でも、人間みたいに短命の方がおいらはいいと思う。桜みたいでさあ」
琥珀くんの発言を聞いて、彼の肩をポンと叩いた。
「おっ、桜のよさがわかるとはおぬし通よのう。週末は花見に行こう」
琥珀くんを誘うが、過保護な執事に反対される。
「こらこら勝手に決めないでください。週末は日舞の稽古がありますよ」
「花見くらいいいじゃないの。桜はすぐに散っちゃうのよ」
「そうそう。姉ちゃん怪我したんだし、湯治も兼ねてちょっと遠出しようよ」
思わぬ援護射撃に、嬉しくなってはしゃいだ。
「いいわね。最近どこにも行ってない。温泉に入ったら怪我の治りも早いわ」
琥珀くんときゃっきゃ言い合う私を見て尊が溜め息交じりに言った。
「もう傷は私が治したんですけどね」
