オリフィス




「うおおおおお!」

 水飛沫が高く跳ねる。ウォータースライダーから勢いよく飛び出した俺は、派手な音を立ててプールに着水した。プールに深く潜ってから顔を上げると、塩素の匂いが鼻に抜ける。着地地点の少し離れたところで、祈本が腰まで水に浸かったままこちらを見ていた。

「楽しそうだね」
「ウォータースライダーなんか楽しいに決まってんだろ」

 俺は濡れた前髪をかき上げながら言った。俺が滑るのはこれでもう三回目だ。

「お前も滑ろうぜ」
「俺はいい」
「なんでだよ」
「……見てるほうが楽しいから」
「見てるほうが楽しいものなんてこの世に存在しない。スポーツもクイズもウォータースライダーも、実際にやるほうが圧倒的に楽しいに決まってるんだから」
「俺は全部、見るほうが好きだけど」
「なんで?」

 祈本は少し黙った。水面がゆらゆら揺れて、プールに浸かった祈本の白い体を歪ませている。水の中の彼は、輪郭がほどけて、どこか別の場所にいるみたいに見えた。

「……スポーツは下手だし、クイズはわからないし、ウォータースライダーは怖いし……」
「じゃあ、なんで見るのは好きなんだよ」
「…………」

 答えに困ったように祈本は視線を落とした。沈黙が長い。俺は待ちきれずに口を開いた。

「別に無理に答えなくていいけどさ」
「……まだ聞かれて5秒も経ってない」
「基本的に人の会話は平均0.2秒で返し合っているらしいよ」
「じゃあ人の言葉の出力が早すぎる。しっかり考えてない」
「適当だよ。会話って、全部正解を言ってるわけじゃないから」
「でも……ちゃんと考えてから言わないと、間違ったことを言うかもしれない」
「考えても人は間違えるし、もし間違ったことを言ったとしても、あとからあれ間違ってたって言えばいいじゃん」
「ええ?」

 祈本は、本気で信じられないものを見るような顔をした。

「一度言った言葉は消せないよ」
「いくらでも修正可能だろ」
「………」

 また黙る。祈本は水面を見ていた。俺はここで初めて、全く掴めない祈本のコアを見たような気になった。

 そのときだった。

 ズゾゾゾゾゾゾゾゾ……………

 聞いたことのない低い音が、どこかから響いた。
 俺と祈本は同時に顔を上げた。音は、ウォータースライダーのある大きなプールではなく、奥のキッズ用プールのほうから聞こえてくる。

「この音……」

 祈本がそちらを見る。俺は一瞬でプールサイドへ上がり、出口へ向かおうとした。もう十分だ。ウォータースライダーも滑った。帰る理由しかない。

「待って」

 祈本の声に振り返る。彼もいつのまにかプールサイドへ上がっていた。相変わらず、タイルに足の裏がぺたりとつくのが嫌なのか、つま先立ちでふらふらしている。祈本は逆光の中で、にいっと楽しそうに口角を上げた。

「……帰るぞ」
「ちょっと見るだけ」
「嫌だ」
「怖いんだ」
「怖いだろ」
「啜り泣く女が出るかもしれないから?」
「そんなものいない」
「じゃあなんで怖いの」
「この音の原因がわからないからだろ!!」

 キャーーーー!!

 俺が叫んだ瞬間、女の高い叫び声が重なってびくりと体を震わせた。背中から冷たいものが流れる。汗なのか、プールの水滴なのかわからない。次第に声は、キイーーーン……と耳鳴りに変わった。この音は叫び声なんかじゃなく、最初から単なる耳鳴り。俺の恐怖心が勝手に女の悲鳴へ変換しただけ。きっとそうだ。ただの思い違いのはずなんだ。
 しかし祈本も、同じ方向を見ていた。やっぱり、奥の子ども用プールのほうだった。

「なにもいないよ」

 祈本は静かに言った。

「それを確認しに、ここまで来たんだ」

 そう言って、祈本は俺の手を握った。
 なんて冷たい手なのだろう。最初に握手したときも、さっきシャワーの下で掴んだときも思った。なんでこいつの手は、こんなにも生きた人間の温度がしないんだ。
 こんな状況で楽しそうに笑う祈本が理解できない。怖い。けれど今は、その不確かな存在にもすがりたかった。プールサイドで一人で立ち止まって待っているより、二人で行く方がずっとましだ。俺は、祈本の手を握り返した。

 気づけば、高い音は消えていた。
 午前の光が窓から差し込み、タイルに長い影を落としている。つま先立ちでひょこひょこ歩く祈本についていくように、俺は冷たいタイルを裸足で踏みしめた。ひた、ひた、と足音がする。手をつないだ二人の影が、ゆらゆら伸びていた。プールの水面は、青く煌めいている。

 子ども用プールへ近づくと、波が不自然に揺れていた。底に描かれたタコやイルカの絵も、水の歪みでにやにや笑っているように見える。スン、スン、と鼻をすするような音がした。啜り泣きに聞こえる。近づくほど、その音ははっきりしてきた。
 思わず薄目になった。耳を塞ぎたい。でも祈本の手を握っているから、できない。プールの円のいちばん手前で立ち止まる。スン、スン。音がする。俺はとうとう目をぎゅっと閉じ、祈本の手をさらに強く握った。

「これ……」
「なに!? なんかいんの!?」

 目を閉じたまま叫ぶ。

「……いや。久我山、見て」

 今、目を開けたら、視界いっぱいに人の顔があったらどうしよう。
 一瞬でもそう考えてしまったら、もう駄目だった。俯いた俺の顔を、誰かが真下から覗き込んでいる。そんな一枚絵がやけに鮮明に脳内に浮かんでしまう。ない。ありえない。絶対にない。そう自分に言い聞かせ、気合いでゆっくり目を開けた。
 プールの底のタコと目が合った。
 そのすぐ近くに排水溝があった。穴の上を鉄格子が塞いでいる。水は浅く、波が引くたび、そこからズゾゾゾゾ、と水を吸い込む音がした。角度によっては、スン、スン、と鼻をすするようにも聞こえる。どうやら、流れるプールのように水を循環させる仕組みらしい。

「………はぁー」

 全身の力が抜けた。
 俺はそのまま祈本の肩をぐっと抱いた。つま先立ちしていた祈本は、俺に引っ張られて足の裏をぺたりと床につける。

「馬鹿みてぇじゃん、俺ら」

 祈本の肩に頭を寄りかからせる。本当によかった。幽霊を信じてたわけじゃないけれど、やっぱりそうだよな、と思った。毎日定期的な時間に水の循環が行われていただけだ。

「あの高い音はなんだったの?」
「多分、この壁の先、タンク室じゃね? 止水栓の締めすぎとか、パッキンが劣化してたりとかでたまに鳴るやつだろ」
「……そっか」
「はー、疲れた。帰ろーぜ」

 プール内の時計は九時半を指していた。俺は祈本の肩から手を離し、一人で出口の方へ歩き出す。
 途中でふと振り返ると、祈本は自分の足先を見ていた。さっきまであんなに嫌がっていたタイルに、足をぺたりとつけたまま。

「……うん」

 祈本も歩き出した。もう、つま先立ち歩きではなく、ぺた、ぺたと足をつけて歩いている。
 出口へ向かう途中、ウォータースライダーが視界に入った。祈本が足を止める。まだ、ズズズ、とか、スンスン、とかいう音は聞こえていたが今は怖くない。だってそれは排水溝の音だと、もう知っているから。

「……久我山!」

 祈本が声を張った。
 俺は振り返る。祈本がこんなに大きな声を出したのを、初めて聞いたかもしれない。

「……ウォータースライダー、一回だけ……滑ってみたい」
「いいじゃん」

 俺は軽く返した。けれど祈本は、その場に立ったまま動かない。俺が歩み寄らないのを見て、少し焦ったような顔をした。

「……どうした?」

 祈本はしばらく黙っていた。5秒くらい。早く滑ってこいよ、と言いかけて黙る。せっかちな俺にとっては、かなり長い5秒だった。

「…………久我山、一緒に滑ろう」

 ようやく出てきた言葉に、俺はすぐ頷く。

「いいよ」

 0.2秒だった。
 俺は笑ってプールに飛び込んだ。俺を中心にして、水面に大きな波紋が広がる。ゆらゆらと、青く、白く、中心からプールの縁までかがやいて。



「……ほら、この暗くて狭い穴に落ちてく感じ、怖くない?」
「……そうかぁ?」

 ウォータースライダーの入口は、確かに丸くて、暗くて、狭かった。お化け屋敷やホラーゲームは苦手な俺でも、ウォータースライダーを怖いものだと思ったことはない。あれは楽しいものだ。誰にとってもそうだと、勝手に思っていた。

「まあ、穴恐怖症ってあるもんな」
「そんなのあるの?」
「お前、Wikipediaの恐怖症一覧読んだことないの?」
「あるわけないだろ」
「あれ読むと、人間の恐怖の対象じゃないものはこの世に存在しないと感じるね」
「あるでしょ。全然怖くない、明らかにかわいいものとか」
「明らかにかわいいものってなんだよ」
「……スイーツ?」
「あー、スイーツは……どうだったかな」
「絶対ない」
「でもピーナッツバター恐怖症はあるよ」
「ピーナッツバター恐怖症!?」

 祈本の反応に思わず笑った。俺はウォータースライダーの入口にしゃがみ込む。

「行くぞ」

 先に座ると、祈本は後ろから恐る恐るくっついてきて俺の両肩を掴んだ。指先に力が入っている。

「せーの」

 体を前へ滑らせる。祈本が息を呑んだのがわかった。けれど、俺が落ちれば、掴んだ肩ごと一緒に落ちるしかない。

「うおおおおおお!」
「うわあああああ!」

 暗い筒の中へ体が一気に吸い込まれた。
 水が背中を押す。声が狭い壁にぶつかって、何度も跳ね返ってくる。右へ、左へ、体ごと振られて、遠くに見えた白い光がぐんぐん近づいたと思った瞬間、視界いっぱいに水飛沫が弾けた。

 ザブン、と体がプールへ投げ出される。
 水の中で一瞬、音が遠くなった。すぐに水面から顔を出すと、祈本が俺の肩から手を離して、息を乱しながら浮き上がってきた。

「はぁ……はぁ……」

 祈本は顔にかかった水を手のひらで拭い、濡れた前髪をかき上げた。白い頬から顎へ、水が何本も伝って落ちていく。

「どうだった?」

 俺が聞くと、祈本はしばらく黙った。

「……一瞬だった」
「ほら。怖いのは滑る前だけで、滑ってみたら案外怖くなかっただろ?」
「怖かったよ」
「あ、そうなの?」
「もう滑り出したら、やめたくても止まらなかっただけで……」

 その言い方があまりに真面目で、笑ってしまった。
 水はまだ、俺たちの周りでゆらゆら揺れている。青くて、白くて、さっき落ちてきた筒の暗さが嘘みたいに明るい。祈本はその真ん中で、濡れた髪を額に貼りつかせたまま、小さく息を整えていた。

 幽霊の正体を暴いた俺たちは、二人で学校をサボって県外のプールで遊んだという事実だけが残った。祈本が一人だったら、きっとウォータースライダーを滑るなんてことはしなかっただろう。
 俺だって、一人なら絶対にここへ来なかった。