「水着忘れたぁ!?」
山の中腹にある寂れた複合施設『川獺の夢』へ入るなり、俺は間抜けな声を上げた。
祈本は、きょとんとしている。
「そっか。プールって、水着必要なのか」
「なにしに来たんだよ」
思わず本気で突っ込んだ。
こいつは駄目だ。普段から何も考えずにぼんやり生きているのだろう。こんな朝早くから電車とバスを乗り継いで、山の中の曰く付きのプールまで来ておいて、水着を持ってきていない。そもそも、行くと言い出したのは祈本なのに、これでは俺ひとりでプールに入ることになる。そんなのは絶対に嫌だ。幽霊なんか信じていないが、ひとりで曰く付きのプールに入るのは、普通に怖い。本当に、俺はこんなところまで何をしに来たんだろう。完全に気持ちが萎えかけたそのとき、祈本は「あ」と言った。
「水着レンタルあるって」
その声に顔を上げると、受付の横に古びた看板が見えた。『水着・タオル レンタルあります』と書かれている。
「よかった」
はー、と溜め息をついた。プールに入りたいわけじゃないけれど、このままとんぼ返りをする羽目にはならなそうだ。
『川獺の夢』。ここは、屋内プール、アミューズメント施設、お食事処が入っている古めかしい複合施設だ。どれも少しずつ色褪せ、昭和の終わりに置いていかれたまま、どうにか令和まで持ちこたえたような場所だった。
平日の朝九時。開館直後ということもあり人は一人もいない。施設全体で見ても俺たちが一番乗りだ。
さっそく脱衣所に入ってみても、やはり誰もいなかった。人の声も足音もしない。あるのは錆びたロッカーの金属臭と、古い床の湿った匂いだけ。
「誰もいないし、こんなところで朝から女子高生をリンチしてるなんてことはなさそうだな」
俺はロッカーを開けながら言った。
「……そうだね」
「幽霊もいるわけねーよ。ダンだって心霊スポットの99%は幽霊がいないって言ってるし。これまでも何回か付き合わされたことあるけど、結局何もなかったからな」
俺は学ランのボタンをはずしシャツを脱いだ。そしてスラックスもパンツと一緒に下ろし、去年海に行ったときに買ったオレンジ色の派手なサーフパンツに着替えた。陽気なヤシの木の柄は、山奥の屋内プールでは少し浮いている。
島国育ちというのは悪くない。日本にいればどこでも海を見たり、入ったりできる。波の音とか、水平線とか、潮の匂いとか、俺たちはみんなそういうものを知っていて、勝手に物語を感じる。もし俺が内陸国生まれで、国外へ出ない限り海を見られない人間だったらきっと違っていた。出自ひとつで、俺というものは簡単に変わり得るのだ。
「その1%かも」
そう言った祈本を見ると、学ランのシャツを脱いでいた。体が白く細くて、首の骨が浮いていた。
「幽霊とか、そんな非科学的なものを簡単に信じるな。特にお前みたいなぽやんとして世の中の物事をなんにも知らない奴がオカルトを信仰したら、行き着く先は地獄だぞ」
祈本はベルトに手をかける。そのまま下着と一緒にスラックスを下げた。レンタルの青いサーフパンツは少しサイズが大きいらしく、腰の紐をきゅっと強く結んで、その腹の薄さを強調させた。
「……地獄」
祈本は細い指で紐を蝶々結びにしながら、ぽつりと呟く。
「地獄はあるんだ」
「比喩表現。行くぞ」
祈本は笑って、俺の後ろについてきた。
人一人いない朝の屋内プールは、しんとしていて、広かった。青くて、白い。水とタイルと光だけでできた、冷たい建造物だ。高い窓から午前の太陽が差し込んでいる。
「普通の、ボロいプールじゃん」
俺は言った。
昭和の匂いがする、古い田舎のプールだった。
エリアは二つに分かれている。ウォータースライダーのある大きなプールは、縦に長く、思ったより広い。もう一つはキッズゾーンのような浅い丸いプールで、底に大きなタコやイルカの絵が描かれていた。その絵が水面の揺れで歪み、にやにや笑っているようにも見える。
祈本も、周囲をゆっくり見回した。
朝だからか、幽霊が出るような雰囲気ではなかった。むしろ、誰にも使われていないことのほうが不気味だ。俺は、ひた、ひた、と裸足でタイルの上を歩く。ところどころ黒ずんだタイルは冷たく、湿っている。祈本はというと、嫌そうな顔をして、つま先立ちでひょこひょこ歩いていた。
「なにその歩き方」
「……汚いなって」
「まぁ、そんな綺麗じゃないけど。消毒とか掃除はしてあるだろ」
「そうかもしれないけど……なんか、汚いのもそうだし、こういう古いタイルって足の裏が冷たくてペトペトする感じが……ゾワっとする」
「なにそれ。潔癖症?」
「え、そうなのかな……?」
つま先立ちで変な歩き方をする祈本と共に、プールの周囲を一周した。青いウォータースライダーを見る。こんなに広くて大きい施設なら、数十年前には子どもたちで賑わっていたのだろう。
でも今は、市内に新しい屋外プールやナイトプールまである。交通の便が悪い山奥の、ところどころ錆びている屋内プールにわざわざ来る人は少ないのだろう。
どこかのクイズ大会で聞いた『リミナルスペース』という言葉を思い出した。人がいるために作られたのに、人がいない場所。大きなものへのかすかな崇拝、清廉さ、そして少しの恐怖。ここには、その全部があった。
結局、どこを見ても、幽霊も、人もいない。
「……なにもいない」
「やっぱそうだよな」
俺は安心したような、予定調和なことが寂しいような不思議な感情になった。
「あーあ、またダンに騙された。あとで文句言ってやろ」
プールを一周して、何もいないことを確認した祈本は、もう脱衣所へ戻ろうとしていた。その横で、俺は入口付近にあるシャワーのボタンを押す。
「冷たっ!」
天井に固定されたシャワーから、勢いよく水が落ちてくる。温泉施設によくある、ワンタッチ式のシャワーだ。出てきたのは完全に水だった。
祈本は、少し離れた場所から、不思議そうにつま先立ちのまま見ている。
「なに突っ立ってんだよ。こっち来いって」
俺は祈本の細い手首を掴んだ。
冷たくて、ぺとりとした感触。まるでタイルのようで、しかし肌と肌の触れ合う感触は無機質なそれとも違う。内なる生命の温かさを感じて、鳥肌が立った。
そのまま祈本をシャワーの下へ引き寄せる。その飛沫の中に潜り込む時、祈本は反射的に目をぎゅっと閉じた。シャー、と細かな水飛沫が飛ぶ。祈本の髪を濡らし、肩を濡らし、白い肌の上を流れていく。水滴が、彼の睫毛から落ちた。それを見て、なぜか胸が少し詰まった。祈本が、少し俯いたままゆっくり目を開ける。俺は、冷たい水を浴びながらようやく目を開けた祈本を見て、ふっと笑った。水飛沫が俺の肩に跳ね、腕に跳ね、朝の光を受けてスパンコールのようにきらきら輝いている。
誰もいない朝の屋内プールで、シャワーの音だけが高い天井に反響していた。青く見える水、白いタイル、古びた窓、差し込む光。冷たいものばかりの場所で掴んだ手首は、さっきよりはっきりと熱を持っている。祈本はその手を振りほどかなかった。だから俺も、もう少しだけそのまま掴んでいた。
