「おはよう」
「……おー」
───ああもう、なんで俺は来てしまったんだ!
夜と朝の境目、午前五時。空は薄い藍色で、太陽はまだ顔を出していない。住宅街は、眠ったまま水の底に沈んでいるみたいだった。
祈本が指定した駅が俺の最寄駅だったからって、いつもより二時間も早く家を出るんじゃなかった。白シャツが眩しい制服姿で現れた祈本は、俺がここに来たことについてさほど驚かずに朝のあいさつをした。夏の制服と肌の白さだけが、まだ朝になりきらない駅の中で浮いている。もしかして彼は、俺が今日ここにくることを知っていたのか?
───この駅が、俺の家の最寄駅だってことも?
回送列車が、がたん、がたん、がたん、と音を立てて俺たちの前を通り過ぎていった。涼しい風が凪いで二人の制服の裾を揺らす。
……なわけねーか。
今から心霊スポットへ向かうと思うせいで、脳みそが全部怖い方向へ考えてしまう。しばらく無言で電車を待った。そもそも俺たちは、別に仲良しでもなんでもない。昨日、祈本がクヌギ先生に言った言葉のせいで少し勘違いしそうになったけれど、まだ出会って二か月と少しの、よくわからない先輩と後輩でしかなかった。
でも、こいつは俺と仲良くなりたいと思っているんだよな。
そう思って、ちらりと祈本を見る。すると祈本は、もうずっとこちらを見ていたらしく、すぐに目が合った。
ぞわっと背中が冷える。こいつの目は、怖い。光の入らない黒い目。揺れているようで、据わっている。何を考えているのかまったく読めない真っ黒な瞳孔。その目を見ると、知らない生き物にじっと観察されているような、生理的嫌悪感が湧いてくるような気持ちになる。
「電車が到着します。ご注意ください」
まだ明るくなりきらない早朝。祈本と二人きりのホームで、音割れした奇妙で明るい発着メロディを聞いた。
電車が滑り込んできて、扉が目の前で開く。祈本は迷わず乗り込んだ。
俺は一瞬、足を止めた。
これに乗ってもいいのだろうか。そもそも俺は、庄内のプールになんか行く気はなかった。早朝の青は、人の温度を感じさせない。ここに生きている人間がいること自体が場違いで、世界の裏側へ向かう入口みたいだった。今なら引き返せる。家に帰って、何食わぬ顔で学校へ行くこともできる。
そうやって二の足を踏んでいる俺を、祈本が車内から振り返った。
「久我山、行こ」
そう言って、祈本は手を差し出した。
細くて青白い手だった。初めて握手したときの、あの粘土みたいな冷たさを思い出した。俺はなぜか引き寄せられるようにその手を握って、気付けば電車に乗り込んでいた。
電車に乗ってしまえば、あとは勝手に運ばれていく。
早朝の車内は空いていた。ボックス席に対面で座ると、お互いの膝と膝が当たって気まずかった。距離が近い。それに、さっきからずっと見られている気がする。しかし、いちいち咎めて変な空気になるのも嫌だった。
俺は制服のポケットからスマホを取り出し、暗記アプリを開いた。電車とバスと徒歩を全部合わせれば、片道四時間の旅である。仙台駅で乗り換えるまで、まだ少し時間があった。
──Q.トンボの眼のように、小さな眼が無数に集まった器官を何という?
A.複眼
──Q.英語では「stage directions(ステージ・ディレクションズ)」という、芝居の脚本でセリフ以外に書かれる、俳優の動きや場面の状況などを指示したものは何?
A.ト書き
──Q.「近江茶」「近江弁」「近江牛」などと言う時の「近江国」がかつてあったのは現在の何県?
A.滋賀県
覚えた問題はダブルタップ。覚えていないものはそのまま次へスワイプする。そうすると、まだ覚えていない問題だけの単語帳が作成される。便利な時代である。俺はひたすら画面をタップし続けた。
何度か乗り換えをして、数時間が経ったころだろうか。
「あ」
祈本が声を出した。俺はようやく、同乗者の存在を思い出して顔を上げる。
「川」
祈本は窓の外を見ていた。
「倉津川だな」
俺も外を見る。なんの変哲もない川だった。
「春にはここら辺一体に枝垂れ桜が咲く」
「……綺麗」
「……そうかぁ? こんなのどこにでもある……」
倉津川を見る。久我山はこの季節の倉津川を特別綺麗だと思ったことはなかった。どこにでもある田舎の川だ。それより、荒川や鯉川のほうが……。
「綺麗だよ」
祈本が言うので、俺はもう一度、ちゃんと見た。
朝七時に近い光が、水面に斜めに差している。小さな波が、きらきらと細かく光を反射させる。たしかに綺麗だった。けれど、それはこの川が特別だからではない。この川じゃなくても、どの川でも、むしろ川でなくたって、水と太陽光があればこういうふうに光る。でも。
祈本を見る。こいつはさっきまで俺ばかり見ていたのに、今は俺を見ずに、川を眺めていた。電車は俺たちの体を勝手に運んでいき、川は少しずつ後ろへ流れて見えなくなる。祈本が教えてくれなければ見なかっただろうその水と光の屈折と煌めきが、まだ網膜と虹彩のあいだでゆらゆらと波打っていた。
そこからは、スマホを見ずに車窓を眺めることにした。名の知らない山、名の知らない川、名の知らない建物。窓の向こうに、見慣れない造形が次々と浮かび上がっては流れていく。けれど俺は、知らないものを知らないまま楽しむのがあまり得意ではない。あの建物が何なのか、あの山の名前は何なのか、知ったほうが好きになれる気がする。美術品だって、描かれた時代背景を知ってからのほうが美しさや意図がわかることがある。名前があると、世界は少し近づいてくる。
巨峰がぶどうだとすら知らなかった祈本は、何も知らないまま、あるがままのものを見て、その感覚だけで生きているのだろうか。歴史も、言葉も、名前もない世界を、ただ目と耳と皮膚だけで受け取って生きる。それは自由なのかもしれない。けれど俺には、あまりに孤独なことのように思えた。
結局、むずむずして、気になったものはスマホで調べて、祈本に共有した。
「あれ、たぶん古い浄水場だな」
「このへん、昔は宿場町だったっぽい」
自分だけが喋って、祈本はずっと外を見ていた。彼がちゃんと聞いているか聞いていないかわからなくって、こっちを全然見ないからさみしかった。
電車を降りると、そこは見事な田舎だった。山に囲まれた景色は、うちの学校の周辺と大きく変わらない。それでも、人の気配がないだけでこんなに廃れて見えるのか。
クビキリギスのジイーンという声と、ニイニイゼミのジーという声も聞こえる。七月初旬、都会に比べたら涼しいとは言え、そろそろ東北にも本格的な夏が来るらしい。
しばらくしてバスが来た。
乗り込むと、車内にはちゃんとサラリーマンや学生がいた。それを見て、こんなところにも人がいるんだな、と思う。
俺は東京生まれで、小学校五年生まで東京で育った。だから、朝の時間にバスで確実に座れるというだけで、奇跡みたいに思える。このあたりの学生たちは、どこの学校へ行くのだろう。スタバも映画館もカラオケもなさそうなこの町で、何を考え、何をして暮らしているのだろう。
彼らのルーティン、単なる背景、つまり日常。それは俺の非日常である。長方形の箱に一緒くたに詰められ、同じ方向へ運ばれていく。この出会いとも呼べない、一生に一度きりのすれ違いが不思議な気持ちにさせた。
平日の朝八時過ぎ。彼らがこのバスに乗っていつも通り会社や学校へ行こうとしているとき、たまたま同じ学校で同じ部活の俺たちは、プールに出るという啜り泣く女の幽霊を見に行こうとしている。意味不明すぎて、少し笑えた。予定調和の人生を裏切っているような、清々しい気持ちよさだ。うちの学校では、そろそろ朝の会が始まるころだろう。俺はバスに揺られながら、外を見ている祈本の横顔を眺めた。
