麻雀はダンの勝利で終わった。卓の上に残った牌を片づけ、折りたたみ式の麻雀卓を部屋の隅へ寄せると、さっきまであれほど賑やかだった美術準備室が急に放課後の物置に戻った。
部活はお開きになり、俺と祈本は部室の鍵を閉めるため職員室へ向かっていた。廊下には夕方の光が斜めに差し込んでいて、窓の外ではまだ運動部の掛け声が遠く響いている。
「……さっきの話」
「さっき?」
祈本は首を傾げた。
「啜り泣く女の話。あれマジで行く気?」
「うん」
祈本があまりにも普通に頷くので、俺は思わず顔をしかめた。
「あいつの言うこといちいち間に受けんなって。霊なんかいるわけねーんだから。日本列島にホモ・サピエンスが渡来したのって4万年前だぞ? もし死者が霊になるなら、日本全土、霊でぎゅうぎゅう詰めだって」
「…………」
「怨念ある者のみ霊になるとしたって、甲冑を着た霊とかべらんめえ口調の霊とかめちゃくちゃいるはずじゃん。江戸走りの霊とかさ」
俺はわざと調子よく言いながら、廊下で江戸走りの真似をした。腕を横に振らず、腰を落として、妙に忙しない足取りで進む。
「ふふっ」
祈本が笑う。呆れ笑いに近かった。笑顔って不思議だ。彼はいつも静かで何を考えているのかいまいちわからないから、その短い笑い声を聞いて少し安心した。
「……お前一人で行くの?」
「うん」
「なんで? 幽霊とか怖くねえの?」
「幽霊も怖いけど……泣き叫ぶ女が生きた人間だったら一番怖いから」
「は?」
「事件自体が本当にあったのなら、模倣犯って可能性もゼロじゃないし……」
「……ない、ないって。霊もいないしリンチもない。ネット民お得意の虚言だよ」
「………」
祈本はそれ以上何も言わなかった。反論しないのに考えを変えた感じもしない。こいつの沈黙はいつもそうだ。納得したのか、聞いていないのか、ただ言葉を選んでいるだけなのか、外側からはまったくわからない。
職員室に着くと、俺はいつもの調子で声を張った。
「美術準備室の鍵、返しにきましたー」
職員室に一歩踏み出したところで、「祈本」と呼び止めたのは、クイズ研究部顧問のクヌギ先生だった。
「どう? クイズ研究部は」
「えーと……」
祈本は困ったような顔で俺を見た。
「仲良くやってますよー。な?」
俺は祈本の肩を抱いて、にっこり笑う。
「う、うん……」
「お前さ聞いてねえし、先輩には敬語使え」
「あでっ!」
クヌギ先生にノートで軽く小突かれ、俺は大げさに声を上げた。
「あーっ、クヌギ先生、暴力反対ー」
「……クヌギ先生?」
祈本が、不思議そうに聞いた。
「ほら。クヌギのどんぐりの帽子みたいな髪型してるだろ」
パーマを当てたクヌギ先生の髪の毛を指差すと、すぐにその指を掴まれた。
「人に指差さない。そんで、意地でも祈本に敬語使わない気だな」
「……だって、クイズ歴で言えば俺の方が長いし。部活じゃ俺が祈本に教える立場だし」
「クイズ歴とか関係ねーだろ。お前はクイズ強いし部長だけど三年で、祈本は四年」
「同じ学校の同じ生徒なのに年齢で序列があるのって不思議ですよね」
「それは俺でなくて世界の一般常識さ言ってくれ。年上に敬語使う。それだけで人の輪に入れるんだから楽じゃねえか」
クヌギ先生は呆れたようにため息をつき、それから祈本のほうを見た。
「祈本、本当に大丈夫か? 久我山も悪い奴じゃねえんだけどこれだからな。なんかあったら顧問の俺に言えよ?」
祈本は少しだけ黙ったあと、静かに言った。
「……久我山は……いいやつです」
驚いて祈本を見る。祈本に名前を呼ばれたのも、褒められたのも、たぶん初めてだった。俺は祈本の肩を抱いたままだった。彼の綺麗な横顔が近い。
「……コイツに言わさってない?」
クヌギ先生が疑うように言う。
俺と祈本は同時にふるふると首を振った。その様子が、クヌギ先生には長年連れ添った相棒同士みたいに見えたのか、ふっと笑った。
「お前ら、もしかして仲良い?」
返事に困っていると、祈本が先に言った。
「……これから仲良くなれたらいいな、って思ってます」
その声は小さかったけれど、はっきりしていた。
職員室を出てから、俺たちはしばらく無言で歩いた。廊下の窓から入る夕方の光が、床を薄いオレンジ色に染めている。俺は少し気恥ずかしかった。祈本に言われた言葉が意外で、でも嬉しかったからだ。お互い性格が違うし、こいつには苦手なタイプだと思われているかもしれないと勝手に思っていた。
俺は、人から好かれるのが好きだ。褒められたり、好かれたりすると、少し好きになってしまう。単純だとは思うが、人間なんてだいたいそんなものだろう。
美術準備室が見えてきたころ、祈本がぽつりと言った。
「……庄内のプール」
「……」
「明日の朝五時、陸前高砂駅の電車に乗って行くよ」
「……勝手にしろよ」
俺はそっけなく返した。しばらくして、ぽつりと聞く。
「…………明日の授業どうすんの?」
明日は水曜日だ。平日ど真ん中である。
祈本は俺を見て、にたっと笑った。その笑い方は、ひどく不穏で、楽しげだった。
