七月に入ってから、空の青が少しずつ濃くなった。
まだ真夏ではない。けれど、校舎の窓から差し込む光はもう白く、山のほうから吹いてくる風も春のように軽くはなかった。湿気を含んで肌にまとわりつく。遠くのグラウンドでは運動部の掛け声が途切れ途切れに響き、まだ下手な蝉の声が、ジジ、と短く鳴いていた。
美術準備室は、夏になるととにかく暑い。もともと美術部の物置だった場所だから、空調なんて当然ない。窓を開けても風はほとんど通らず、乾いた絵の具と埃と、古い紙の匂いが、ぬるい空気の中でじっと滞留している。その部屋の真ん中に、ダンが半年前に持ち込んだ折りたたみ式の麻雀卓が置かれていた。
俺は、祈本の後ろに座って手牌を覗き込み、耳元で小さく指示を出した。
「それは切らない。こっち」
「……これ?」
「そう」
祈本の指は細く、牌を持つ動きもどこかぎこちなかった。祈本は俺に指示されるがまま牌をつまみ、卓の中央へそっと捨てた。牌が卓に当たる音は、タン、と小さく涼しい。
桐葉中高クイズ研究部の部室。今年度、新入部員の祈本綴を入れて部員は四名となった。それはつまりどういうことか。晴れて、四人麻雀が可能になったのである。
麻雀が好きなダンと俺は思った。会話がしやすいという点で、麻雀はコミュニケーションに優れた遊びである。知り合って約二か月とはいえ、部活は週に二度しかない。正直、祈本とは未だ仲良くなれていなかった。麻雀はちょうどいいきっかけになると思ったのだ。
しかし、やはりというべきか、祈本は麻雀のルールを全く知らなかった。基本的なルールは最初に説明したけれど、見学会で早押しクイズをしたときのように、無知な祈本を部員みんなでフルボッコにする流れになるのは躊躇われる。とはいえ、麻雀は聞き慣れない用語が多すぎるのも事実だ。聞いて覚えるより、やったほうが早い。だから今は俺以外の三人で卓を囲み、俺が祈本の後ろについて指示を出す、実質三人麻雀のような形で、まずは流れを覚えさせていた。
「クイ研って麻雀できるから最高ですよね」
ダンが、タンッと音を立てて牌を捨てながら言った。
「オカ研のほうが部員多いじゃん。そっちではしないの?」
俺が聞くと、ダンは少し肩をすくめた。
「ルール知らないし興味ないって言われちゃいました」
「覚えたら面白いのに」
「ですよね」
「まあ、麻雀って覚えるまでが大変だからね。カンとかポンとかリーチを覚えても、役がありすぎる上に、点数も覚えにくいもん。一回覚えちゃえば、なんてことないんだけど」
ココロ先輩が、牌を指で弄びながら言った。片側を三つ編みにした髪が、首元で少し汗ばんでいる。
「でも、ココロ先輩はすぐ覚えましたよね」
「ココロ先輩は賢いから物覚えがいいんだろ」
俺が言うと、ココロ先輩は小さく笑った。
「そんなんじゃないよ。君らが麻雀の話ばっかりするから、いつも私だけ話に入れなくて嫌だっただけ」
「あ、そうだったんですか?」
ダンが意外そうに目を丸くする。
「ココロ先輩ってなんでも一緒にやってくれますよね。麻雀もそうだし、クイズも全然触ったことなかったのに去年は市内のクイズ大会にまで一緒に参加してくれたし。ダンは全然来ないのに」
「土日は心霊スポット巡りで忙しいので」
「忙しさの方向性が終わってる」
俺が言うと、ダンは悪びれもせず笑った。そのとき、俺の前に座っていた祈本が、遠慮がちに声を上げた。
「……あの……」
全員の視線が、一斉に祈本へ集まる。祈本は一瞬だけ困ったように瞬きをして、それから牌を見つめたまま言った。
「……麻雀って結構してるんですか?」
「去年は週一でしてたね」
ココロ先輩が答える。俺も続けた。
「ダンが麻雀卓持ってきたからな」
「みんなそれぞれ何かしら好きなもの持ち込んで、好きに遊んでるんです。ボクは麻雀で、久我山先輩は早押し機とクイズの問題集」
ダンが言うと、ココロ先輩が戸棚のほうを見た。
「私は漫画が好きで、面白かった本は部員に布教してるよ。祈本くんって漫画読む?」
「あ、えっと……、読みます」
「ほんと!?」
ココロ先輩の顔がぱっと明るくなった。彼はすぐに立ち上がり、戸棚を開ける。そこには、ロボットものやバイク旅、任侠ものやどこの出版社から出ているのかよくわからないマイナー作品まで、外見の柔らかさに反してかなり男臭い漫画のラインナップがびっしり並んでいた。
「ここの戸棚にたくさんあるから好きに読んでいいからね」
「あ、ありがとうございます」
「ねえ、なんの漫画が好きなの?」
ココロ先輩は嬉しそうに身を乗り出し、祈本の肩に軽く触れた。オタクというものは、自分の好きなものを好きだと言われると距離感バグを起こす。これは仕方ない。俺にも覚えがある。
「えっと……」
祈本は戸惑いながら考え込んだ。
「………『さくら45号線』とか………」
「えっ……? 聞いたことない」
ココロ先輩がそう言ったので、ダンは目を丸くして驚いた。
「ココロ先輩が聞いたことないタイトルって存在するんですか?」
「名前だけなら結構知ってるんだけどなあ……。出版社どこ?」
「あ……えっと……、なんだっけ………忘れちゃいました」
ココロ先輩が訊ねると、祈本がヘらっと笑った。その言葉の間も、笑顔も、違和感が強く残る。
俺は、ココロ先輩が少年漫画や少女漫画を広く深く知っていることをよく知っている。クイズでも、漫画ジャンルになれば負けなしだ。俺も人並み以上には読むほうだという自負があるが、マニアックな漫画の問題になれば絶対にココロ先輩には勝てない。そんなココロ先輩に、知らない漫画なんて存在するのだろうか。いや、そりゃ存在はするだろう。日本のすべての漫画を知ることはできない。でも。
「……ま、そういうこともあるよね」
ココロ先輩はそれ以上深掘りしなかった。フォローするように軽く笑って、わかりやすく話題を変える。
「うちはクイズ研究部とは言いつつ、クイズばっかりしてるわけじゃないの。漫画を読んだり、麻雀したり、ボードゲームしたり自習や宿題やったり、喋ったり……本当になんでも」
「そもそもクイズで久我山先輩と張り合える人なんてウチにはいませんしね」
ダンが言った。
「うちにはっていうか、全国の学校を探してもいないよ」
ココロ先輩が言う。それから祈本に向き直った。
「久我山くんは『栄光杯』っていう、全国で一番大きいアマチュア競技クイズ大会の前年優勝者なの」
「あ……」
祈本がこちらを見た。黒い目が少しだけ開く。
「ああ、それ聞いたときホッとしました。久我山先輩とクイズしてると自分がとんでもなく無知な人間のように思えてきますけど、この人がなんでも知ってるだけだったんだって」
ダンが言う。俺は、恥ずかしくも少し嬉しかった。特に、自分が価値を置いていることで褒められると嬉しすぎてにやけてしまう。顔に出ないようにしたつもりだが、たぶん少し出ていた。
「お前は自然科学より超常現象を信じてるもんな」
恥ずかしくて俺が軽口を叩くと、ダンは「あぁー」と妙に含みのある声を出した。
その瞬間、俺は思った。あ、ミスった、と。
「科学と超常現象は、対立する存在だと一概には言えないんですよねぇ」
ダンの目が、わずかに輝く。まずい。スイッチが入った。
「超常現象は太古から存在していますが、現在では科学の力を使って証明できないのであればすべて『無い』ことと同じですから、要は超常現象が市民の信用を得られないのは、現代科学の技術不足とも言えるんです。自分の目に見えているものを自分だけの力で証明してみせるという熱い魂を持ったオカルト研究家もいますが、ボクは霊能力者と技術者が協力して霊魂が映るカメラでも作らない限り、非霊能力者の方々を納得させる証明は不可能なんじゃないかと思っています。それか、視える人が三十人に一人くらいまで一気に増えて、みんなが同じことを証言するとかでもいいんですけど。共感覚のメカニズムが完全には解明されていないのに霊魂が見えるって言うよりも数字に色が見えるって言ったほうが信用されやすいのも、所持者の母数の差でしかないですから。まあ実際のところ、オカルトの市民権とか証明に関してボクはそこまで興味なくて、これをオカ研で言ったら糾弾されるので言えないんですけど、なんなら超常現象が実在するかどうかだってどうでもよくて、たとえボクらが見ている霊が脳のバグや何かの病気だとしても、自分の中にある真実が真実たり得るだけで充分なんですけどね。ああそうだ、久我山先輩。庄内のプールに出る『啜り泣く女』って知ってます?」
「知らないし、知りたくない」
オカルトオタクにオカルトの話を振ったのが間違いだった。
そう思いながら、牌を並べる手を止めずに喋り続けるダンを見ていた。そして、ふと半年前のことを思い出した。こいつと初めて出会った日のことだ。
それは去年の秋のことだった。
俺はその日、中等部の男子たちでサッカーをしていた。クイ研は週二日しか活動がない。だから、部活のない日は、文化部の連中や、引退した運動部の先輩たちと校庭で適当にボールを蹴ることが多かった。
そこに、当時一年生だったダンもいた。背が低く、声変わり前の少し鼻にかかったような声で、見た目だけなら小学校から上がってきたばかりの子どもにしか見えなかった。けれど、ボールを持った瞬間、その印象はすぐにひっくり返った。ダンは、とんでもなくサッカーがうまかった。俺はサッカーが特別うまいわけではない。走るのは嫌いじゃないし、体を動かすのも好きだけど、ボールを扱う技術はだいたい勢いで誤魔化している。だから、気づけばダンにパスを出す係になっていた。ダンに渡せば、なんとかなる。そう思わせるだけのものが、彼にはあった。結局、その日はほぼダンのおかげで俺たちのチームが勝った。
「お前強いな。サッカー部?」
そう声をかけると、彼は少しだけ首を傾げて言った。
「オカルト研究部です」
「オカルト研究部!?」
予想外の回答に、思わず声が大きくなった。
「オカ研は週二日しか活動なくて暇なので、今日はサッカーに参加しにきただけです」
「じゃあ、うちで一緒にクイズしない? 俺、クイズ研究部なんだけど」
「やですよぉ。ボク、頭悪いんで」
「関係ないって。てか、この学校来てる時点で、そこそこ出来るだろ」
うちは私立の中高一貫校だ。宮城県内ではそれなりの偏差値があり、周辺の学校が少子化で定員割れしている中でも、いまだに倍率が二倍近くある。だから「頭が悪い」は、まあ謙遜か、面倒くさいことを避けるための言い訳だと思った。
しかしダンは真顔で言う。
「ボクのおじいちゃんは、ボクが通ってた小学校の校長先生でした」
「……うん?」
「ボクのお母さんは町一番の美人で、六年生のときの担任の先生のお気に入りだったんです。つまり、内申点で推薦をどうにかしました」
「なんかすげー嫌なこと聞いた。聞かなかったことにするわ」
俺はすぐに話題を変えた。
「あ、ほら。えーと、お前オカルト好きなんだろ? クイズって勉強系だけじゃなくて、オカルトクイズとかもあるしさ」
「あぁ〜……」
ダンは、やけに含みのある声を出した。それから、なにもわかってないな、とでも言いたげな顔をした。
「オカルトって一括りにされますけど、もともとは占星術、錬金術、魔術の実践を指していて、広義的にはESPと呼ばれるテレパシーなどの超能力や、念力、死者の霊魂が見える心霊、UFOやネッシーなどの未確認生物、口裂け女みたいな都市伝説や、河童などの妖怪、そのほかにも様々な分野に分かれるんですよねぇ。だから、オカルトが好き?と聞かれたら、うーん、部分的にそう、という感じなんですが」
あ、なんか変なやつに話しかけちゃったかも。
そう思ったときには、もう遅かった。
「ボクの専門は心霊です」
ダンが、にこりと微笑んだ。
挙げられた中で、俺の最も嫌いなやつだ、と思った。
「……啜り泣く女?」
祈本が、ダンを見て言った。
「バカ、訊くな」
俺は後ろから抱きつくようにして祈本の口元に手を当てた。しかし、一度口から出た言葉はもう口の中へ戻せない。一旦ダンに別の話を振って怪談話はどうにか回避しようと考えていたのに、祈本の一言によってその作戦は水の泡になってしまった。
ダンは待ってましたとばかりに目を輝かせた。
「庄内の『川獺の夢』にあるプールで、啜り泣く女の声と殴打するような音が聴こえるみたいです。あそこ昔、女子高生がバッドで殴られリンチされた殺人事件があった場所で、その霊だと言われています。オカ研の先輩から聞いて、ネット上でも証言がちらほら」
「『川獺の夢』ってだいぶ古い複合施設だよね? ゲーセンとかご飯屋さんが入ってるとこ?」
ココロ先輩が言う。
「そうです。来月に閉館が決まってて」
「そうなんだ。まあ、かなり廃れてるもんね。あそこ、プールは行ったことないけどゲーセンには行ってたなぁ、小さい頃」
「…………」
俺は黙っていた。ダンは何事もないかのように牌をツモり、打牌した。
「久我山先輩、リサーチしてきてくれません?」
「なんでだよ! ゼッテーやだ!」
「幽霊信じてないんでしょ?」
「信じてない。けど行きたくない」
「なんで?」
「フツーに怖いじゃん!」
「やっぱり久我山先輩って幽霊信じてますよね?」
「いるわけないだろ、そんなの!」
「じゃあ、いいでしょ。閉館になる前に行きましょうよ」
「いや、お前が行けよ」
「ここから庄内まで遠いじゃないですか〜。ボク、今月すでに東北地方の心霊スポット二箇所行ったせいで、お小遣い使い果たして親に追加のお駄賃せびったあとなんで、もう言い出しづらくって」
「知らねえ〜。オカ研の奴らに行かせたらいいじゃん」
「オカ研メンバーは流行りのゲームの影響で都市伝説の解析にハマってて、最近はオカ研っていうより民俗学サークルみたいになってるので心霊系の依頼は断られました」
「じゃあココロ先輩でいいだろ。この人なんにも怖くないんだから」
「ええ? 私だって怖いものくらいあるよ」
ココロ先輩がのんびり言う。説得力はまったくなかった。
「霊を怖がっている人、つまり信じている人のほうが霊感が強い傾向にあるんです。ココロ先輩はまっったく、心の底から霊を信じていないので、たぶん視えたり聴こえたりしません」
「じゃあそれは幽霊じゃなくて恐怖による幻覚だ」
「でも、みんな同じ場所で同じものを視るんですよ? 集団幻覚にしたって不思議じゃないですか?」
「知らん。とにかく俺はゼッテー行かない」
「俺が行く」
祈本の声に、全員の視線が一斉に集まった。
「えー! ほんとですかぁ!」
ダンの目が露骨にきらきら輝く。
「お前、まじか!?」
「祈本くんって幽霊とか好きなの?」
ココロ先輩が尋ねると、祈本は少しだけ困ったように視線を落とした。
「好き……というわけではないんですけど……」
祈本がツモった牌を一緒に見る。清一色狙いだから、一萬はいらない。俺は祈本の後ろから腕を伸ばし、一萬の牌の上を、トン、と軽く叩いた。祈本は、俺に示されるがまま、その牌を場に置く。
「ロン」
その瞬間、ダンの声がやけに明るく響いた。
ぱたりと手牌が倒されていく。卓上にさらされた牌の並びを見て、俺はすべてを理解した。
「四暗刻」
ダンが、にこにこと告げる。祈本は固まっていた。目の前で何が起きたのか、まだよくわかっていない顔だった。対局を見守っていた俺は「はぁー……」と重苦しい溜息を吐き出し、天を仰いで頭を抱えた。
「三万二千点です。久我山先輩の責任なので、悪く思わないでくださいね」
ダンは、祈本に右手を差し出して笑っていた。
