オリフィス




 トロフィーを抱えたまま控え室の椅子に腰を下ろすと、ようやく体の芯に残っていた熱が少しずつ引いていくのがわかった。指先はまだ震えている。金色のトロフィーは思っていたより重く、その重みだけが、今起きたことを現実だと教えてくれていた。
 コンコン、と扉が鳴る。

「はい」

 返事をすると、勢いよくドアが開いた。

「祈本くん、やっぱ強いねー!」

 比嘉 璃羽(ひが りう)が、いつもの明るい笑顔で手を振っていた。その少し後ろには、仲宗根 希羽(なかそね きう)がいる。希羽は、悔しさを隠しきれていない目をしていた。

「……ありがとう」

 俺が短く返すと、希羽は肩をすくめるようにして言った。

「最後、押し負けた。『laQ』企画者って、選択肢結構あったじゃん」
「まあでも、出すなら久我山さんか藤崎さんだよね。だから希羽も押したんでしょ?」

 璃羽がそう言うと、希羽の顔がわずかに暗くなった。悔しいのだろう。悔しがれるのは、強い人間の証拠だ。

「最後の問題は、少し運がよかったよ」

 自分でも驚くくらい、声が柔らかく弾んでいた。

「押した瞬間、絶対にそうだって思ったんだ」
「……へえ」

 希羽が興味深そうに目を細める。

「クイズ始めて二年で『laQ』優勝って、やばすぎでしょ。私たち、中一からやってるのに。ね、希羽?」
「……別に。クイズに歴なんか関係ないでしょ」

 希羽はそう言って、璃羽の袖を引いた。

「もう行こ」

 二人は軽く手を振り、控え室を出ていった。閉まりかけたドアの向こうで、希羽の背中に、黒く濡れた影がひたりと寄り添っているのが見えた。少しだけ心配になったけれど、すぐに思い直す。希羽には璃羽がいる。あんなにまぶしくて、まっすぐな相方がそばにいるなら、きっと大丈夫だ。

 恐怖は、いつだってすぐそばにある。見ないふりをしても。逃げることなんてできない。それでも自分が目的に向かって頑張るかぎり、欲しいものがあるかぎり───それと共に歩いていくしかないのだ。



 静けさが戻った控え室で、トロフィーのその輝きを眺めていると、すうっと影がひとつ落ちた。振り向くまでもなく、わかった。

 入ってきたのは、やはり彼だった。

 久我山 唯人(くがやま ゆいと)。病室の小さなテレビの中で、懸命に笑う幼い彼に出会ったのは、俺が九歳の頃だった。古い教育番組。サロペット姿の、丸メガネの男の子。大人に言われた通りの笑顔をつくりながら、それでも画面の中で世界を面白がろうとしている子。
 ただの偶然、一瞬の出会いだった。
 俺はもうその時から、彼に憧れていたのだと思う。中学生になってから、ゆいちゃん──久我山唯人がもうこの世にいないと知った。あんなに一生懸命に笑って、働いて、知って、覚えて、クイズをして、それでもすべて、人の行き先は同じ死なのだ。やっぱり神様なんていないんだと悟った。

 体が思うようにならない日々の中で、世界はひどく遠かった。知識も、学校も、未来も、全部が自分とは関係のないものに見えた。けれど、すべてが途切れたはずのあの夜、なぜか俺は十五歳の久我山に出会った。

 テレビで見る限り、もっと育ちのいい、優等生みたいな人だと思っていた。けれど実際の彼は、思ったよりガサツで、よく喋って、怖がりで、負けず嫌いで、普通の男子だった。

 俺は何度も救われた。その泥臭さに。優しさに。強さに。努力に。好きなものを好きだと言い切る眩しさに。

 何も好きなものがなく、何も知らず、ただぼんやりと世界の端に立っていた俺は、少しずつ彼に引っ張られていった。クイズを覚えた。問題集を読んだ。ボタンを押した。間違えることを怖がりながら、それでも答えを言った。

 あれは、今思えば天国だったのかもしれない。
 それとも、長い夢だったのかも。

 一年半前、俺は夢を見ていた。もういないはずの憧れの人がそばにいて、無知な俺にクイズを教えてくれて、俺の名前を呼んでくれる夢。

 ずっと、あの場所にいたかった。
 でも、久我山があまりに本気だから。あまりに楽しそうに、悔しそうに、苦しそうに、それでも夢の中で懸命に生きていたから。
 俺も、生きたいと思った。
 この人の分まで、世界を見たいと思った。
 スタジオの壇上で、客席にいる久我山が泣いているのを見たとき、あの春も夏も秋も冬も、夢ではなかったのだとわかった。いや、最初からわかっていた。夢のはずがない。あれほど濃い季節を、雪の冷たさを覚えている。雨のぬるさを覚えている。蝉の声を覚えている。早押しボタンの音を覚えている。だから。

 ――─今日は、優勝の神様が、自分に降りてきた日なのだ。

「……優勝おめでと」 

 久我山が言った。

「てか俺、死んでるってマジ?」

 彼は冗談めかして笑った。口元には自嘲のような笑みが浮かんでいる。まだ信じられないのだろう。俺だって、本当はまだ信じきれていない。

 ここにいる久我山が本物なのか、それとも俺だけが見ている幻なのか、そんなことはわからない。
 でも、いま目の前に彼がいる。
 それだけが俺にとっての真実だ。

「お前は――」

 言いかけて、息を整える。

 伝えたいことがありすぎて、言葉が喉で詰まった。ありがとう。会いたかった。あなたのおかげでここまで来た。あなたがいなければ、俺は世界を知ろうとはしなかった。

 でも、その全部を言うには、きっと一生かかってしまう。
 だから、いちばん言いたいことだけを言った。

「お前は、誰よりも生きてたよ」

 久我山は一瞬、目を見開いた。

 それから、ふっと力を抜いたように笑った。少し荒っぽくて、意地っ張りで、でも本当はびっくりするくらい優しい笑い方。俺はそれを知っている。ずっと、誰よりも、よく知っている。

 俺はトロフィーを机に置いた。

 そして、偉大な先輩の、思っていたよりも小さな体を、包み込むようにそっと抱きしめた。