数時間の喧騒をくぐり抜けて、俺はスタジオの客席に身を沈めていた。
招待状など持っていない。けれど、最後列の空席に紛れ込み、いかにも関係者です、という顔で座っていると、見回りのスタッフは何度か通り過ぎたものの、誰も俺を咎めなかった。まるで、最初からそこにいていい人間だったみたいに。
スタジオのあちこちには、『laQ』というロゴが輝いていた。巨大なモニター、照明の吊られた天井、三つ並んだ目立つ色の解答席。そして、それぞれの前に置かれた早押しボタン。どう見ても、クイズ番組のセットだった。
俺は客席を見回し、思わず小さく呟く。
「女子、多すぎだろ……」
客席の半数以上が、若い女性で埋まっていた。クイズ大会というより、ライブ会場に近い。熱気というよりは、どこかコンサート会場に近い、浮き足立った期待感が漂っていた。
「2035年に『laQ(ラキュー)』が始まって以来、過去最大となる三万人の参加者。従来の早押しクイズに加え、画像、音声、さらには謎解きまで含む過酷な関門を潜り抜け、数日にわたる激闘を制した者たちが、今、ここに集結しました!」
スピーカーから響く司会の声に、俺は耳を疑った。
「三万人……?」
国内最大級の『栄光杯』でさえ、参加者は千六百人ほどだった。高校生向けの学校別テレビクイズでも、せいぜい二万人規模のはずだ。しかも、少子化で若者は減っている。
一つのクイズ大会に、三万人。その数字は、クイズの大会というより、ひとつの社会現象に近かった。
「ついに本日、決勝! ここまでのし上がってきた猛者は、この三人です!」
高らかな宣言とともに、選手入場のゲートが開く。
「わああああっ!」
「きゃああっ、頑張ってー!」
拍手と歓声が、スタジオを震わせた。
最初に現れたのは、眩しいほどの営業スマイルを振りまく二人の少女だ。
「千難高校一年、比嘉 璃羽(ひが りう)。得意ジャンルは文学、ファッション」
「同じく千難高校一年、仲宗根 希羽(なかそね きう)。得意ジャンルは同じく、文学、ファッション」
二人はハーフアップのお団子ヘアで長い髪を揺らし、客席に向かって手を振った。表情も、歩幅も、笑い方さえ似ている。
「やっぱ、リウキウコンビだよねー!」
「双子ヘアじゃん! 可愛い!」
客席の声が一段高くなる。
その華やかさとは対照的に、最後に名前を呼ばれた少年は、静かに舞台へ歩いてきた。
「桐葉高校二年、祈本綴。得意ジャンルは、歴史、天文」
大型モニターに祈本の顔がアップで映し出された瞬間、客席がざわめいた。
「かっこよくない?」
「え、綺麗……」
俺も、思わず画面を見つめていた。
改めて見ると、祈本はひどく整った顔をしていた。白い肌、黒い目、薄く結ばれた唇。光の中でそれらの輪郭がはっきりしていく。
けれど、会場の空気は完全に、少女二人を主役として迎えていた。
「双子ではないかという噂も出るほど息の合った『リウキウコンビ』ですが、いざ戦うとなっていかがですか?」
司会者が笑顔でマイクを向けると、璃羽がぱっと明るく答えた。
「絶対、希羽にも、祈本さんにも勝ちまーす!」
続けて、希羽が不敵に笑う。
「璃羽とは得意ジャンルが被っているので、食い合って自滅しないように、全部私が取るつもりで頑張ります」
「幼馴染なんですよね。沖縄から出てきて、今は東京の同じ高校に通っている。いやあ、ドラマチックですねえ」
司会者は彼女たちのエピソードを丁寧に掘り下げ、会場を盛り上げていく。客席は笑い、拍手し、二人の名前を呼んだ。クイズの決勝でありながら、どこか青春ドキュメンタリーの一場面のようだ。ひとしきり彼女たちの話題で温まったあと、司会者はようやく祈本へ視線を向けた。
「さて、祈本綴くん。君も高校二年生、彼女たちとは同学年対決になるね。それにしても……かっこいいねえ!」
「キャーーッ!」
観客席から歓声が跳ねた。
祈本は、その騒ぎをどこか遠くの音のように聞き流し、短く答えた。
「……ありがとうございます」
「では、意気込みをお願いします!」
祈本は少しだけマイクを持ち直した。
「優勝します」
たった一言。
それだけで、客席がまた沸いた。
実力だけではない。この決勝に残った三人は、それぞれ違う形で、人の視線を引き寄せる力を持っていた。スター性、という言葉が浮かぶ。クイズの強さが、もう内輪の称号ではなくなっている。画面に映り、編集され、切り抜かれ、それを見た人がクイズを応援したくなるような時代が来ていた。
「では、始めましょう。――laQ王決定戦」
合図とともに、スタジオの照明が激しく明滅した。三人の頭上に、鋭いスポットライトが落ちる。重低音のBGMが鳴り、さっきまでの浮ついた空気が、一瞬で真剣勝負の温度に塗り替えられた。
「五日間続いた今大会も、ついに決勝。ルールは最もシンプルにして頂点である、7〇3×。二セットを先取した者が、頂点に立ちます」
静寂が訪れる。
俺は最後列の客席で、無意識に拳を握っていた。スポットライトは俺の体をすり抜け、床を白く焼いている。テレビスタジオの熱、機材の低い唸り、客席の息遣い、張りつめた空気。すべてが、目の前の三つの解答席へ吸い寄せられていく。
これは、クイズ界の頂点を決める決勝戦だ。
解答台に立つのは、若き天才たち三人。
クイズ界の勢力図が塗り替えられる瞬間が、今、始まろうとしていた。
「問題。俗に人の悪い夢を食べる——」
静寂を最初に破ったのは、璃羽の指だった。
ピーン。
「バク」
「正解!」
速い。
その一押しだけで、客席の空気が跳ねた。璃羽の指先は迷いがなかった。問題文の先を予見しているみたいに、正確で鋭い。そこから先は彼女の時間だった。
「問題——」
ピーン。
「問題——」
ピーン。
彼女は、答えを奪うというより、もともと自分のものだったものを取り返しているように正答を重ねていく。希羽が食い下がる。祈本も一瞬遅れて押そうとする。けれど、そのわずかな差を璃羽は許さない。
二つの誤答こそあったが、その傷さえ彼女の勢いを止められなかった。
7〇2×。
第一セットは、あっという間に璃羽が獲った。
客席が盛り上がる。歓声、拍手、悲鳴に近い声。璃羽は笑って手を振り、希羽が悔しそうに唇を噛む。祈本は、ただ前を見ていた。
第二セット。
空気が、変わった。
祈本の背中から冷たい圧が立ち昇るのが見えた。さっきまで客席を包んでいた華やかな熱が、すうっと引いていく。スタジオの温度が、一段下がったようだった。
「問題。1969年、アポロ11号が——」
ピーン。
「静かの海」
ピンポーン。
祈本の押しは、速いというより、静かだった。派手さがない。力みもない。けれど、確実に相手の前へ出る。問題文が終わる前に、すでに答えのある場所へ立っている。まるで、全部知っていたみたいに。
「いわゆる『ギャップ萌え』もこれによって説明できる、相手に対して、最初にマイナスの印象を与え——」
ピーン。
「ゲインロス効果」
ピンポーン。正解。
「問題。世の中はあっという間に変化するということを、『三日見ぬ間の——』」
ピーン。
「桜」
ピンポーン。また正解。
……おかしい。
俺は、息を飲んだ。
クイズは、知識の引き出しを競うゲームだ。問題文を聞き、記憶を探り、答えを引っ張り出す。その速度と精度を削り合う遊びだ。
けれど、今の祈本は違う。
引き出していない。探していない。問題が読まれた瞬間、もう答えを手に持っている。西暦、地名、心理学用語、ことわざ、天文、歴史。読まれる言葉が、祈本の中では最初から一本の道になっている。
「……嘘でしょ」
璃羽が焦り始める。指がボタンの上でわずかに震え、祈本の呼吸を乱そうとするように、小さなフェイントを混ぜた。希羽はその横で、二人が一瞬でも読み違えるのを待っている。目が鋭い。獲物を見失わない獣みたいだった。
けれど、祈本は揺れない。
表情も、呼吸も、押し方さえ変わらない。感情の見えない黒い目で、ただ問題文の先を見据え、淡々とボタンを支配していく。
やがて、祈本のスコアボードに7つ目の〇が灯った。
7〇0×。
パーフェクト・セット。
「……信じらんねえ」
思わず呟いた。
これは単なる知識の競い合いじゃない。過去と未来、そして現在を繋ぐ糸の上で、三人の天才が互いの精神を削り合う、極限の殺し合いだ。押すか、待つか。踏み込むか、耐えるか。次の問題が読まれるたび、俺の心臓は自分のものではないみたいに跳ねた。
この世界への違和感。
それは、目の前で繰り広げられる「知の格闘技」の熱狂にかき消されていく。
「やべえ……面白すぎるだろ、これ」
俺の呟きは、誰にも届かなかった。たとえこの世界が自分のいるべき場所じゃなくても──今だけは、すべてどうでもいい。
俺はただ、この伝説的な一戦の結末を、一秒でも長く、一問でも多く、この目に焼き付けていたかった。
「第一セットは比嘉璃羽さんが勝利。第二セットは祈本綴さんが一度も誤答せずに勝利しました。さあ、第三セットです。比嘉さんが勝っても、祈本さんが勝っても、その瞬間に優勝が決まります。仲宗根さんもまだまだ食らいついてください。では、運命の第三セット、開始!」
璃羽と希羽の押し合いは、火花そのものだった。問題文が空気に触れた瞬間、二人の指が動く。迷いも、ためらいもない。そこには、幼馴染だからこそ知っている呼吸の読み合いがあった。
「シラノ・ド・ベルジュラック!」
「春遠からじ!」
「島崎藤村!」
璃羽のスコアが6〇2×に達した瞬間、会場の空気が一段高く張りつめた。
あと一問。
次に璃羽がボタンを灯せば、すべてが終わる。
誰もがそう思った、そのときだった。沈黙を守っていた祈本が、わずかに前へ出た。
「問題。例年ノーベル賞の授賞式——」
ピーン。
早すぎる。
確定ポイントなど、まだ遥か先だった。祈本は、崖っぷちからのダイブを試みた。
「12月10日!」
ブー。
非情な音が、スタジオに響いた。
「あーっと、残念! 正解はストックホルムです。ここで、誤答ゼロの伝説を持つ祈本さん、痛恨の1×!」
司会の声に、客席から大きなため息が漏れる。
けれど、俺だけは違った。
胸の奥が熱くなった。
俺の知る限り、それは祈本が初めてつけた×だった。人前で間違えることを、あれほど怖がっていた祈本が。確定しなければ押せなかった祈本が。今、勝つために、間違える可能性のある場所へ飛び込んだ。ボタンをつけたいと、相手につけさせるものかと、その闘志が燃えている。
心の中で大きな拍手をした。普通のクイズプレイヤーなら、俺なら当たり前にするプレイング。しかしこいつにとっては震えるほどに熱い、その誤答に。
「問題。『長い単語への恐怖症』でありながらも、アルファベット35文字という長い綴り/」
「……ヒポポトモンストロセスキッペダリオフォビア!」
ピンポーン。正解音が鳴る。
祈本、6〇1×。璃羽、6〇2×。
優勝の行方は、完全にわからなくなった。
……やっぱり、クイズって面白い。
さっきから、俺にはわからない問題が多い。それでも、このひりつくような知の最前線に、混ざりたくて仕方がなかった。あのボタンの前に立ちたい。あの緊張の中で、読み上げられる一音に神経を尖らせたい。正解したい。誤答して、悔しがって、それでも次の問題に手を伸ばしたい。
「クイズがしたい……! 俺もそっち側で戦いたかった……! もっと……!」
なぜ自分はここに座っているのか。なぜ誰も僕に話しかけないのか。その根源的な恐怖と哀しみが、どろどろとした涙になって頬を伝った。
「なんで……なんでなんだよぉ……!」
わかっていた。わかっていたけど分かりたくなかった。
ICカードを持っていないのに、バスにも電車にも乗れた。招待状もないのに、テレビ局へ入れた。番組の客席で一人大声で叫んでいるのに誰にも止められない、その理由も。
つう、と涙が伝う。
そして、第八回『laQ』の最後となる問いが読まれた。
「問題。今大会『laQ』の立ち上げと企画者の一人であり、2027年には最年少——」
ピーン——。
祈本の解答権が灯る。マイクが、彼の激しい吐息を拾った。その指先は、まるで魂を削り出したかのように激しく震えている。
「…………っ、───久我山 唯人(くがやま ゆいと)!!!」
それは解答ではなかった。呼び声だ。
祈本の視線が客席へ向いた。その瞬間、目が合った。祈本が、はっと目を見開く。その黒い瞳の中に、泣きじゃくる俺の姿が映っていた。
………ピンポーン!
「正解! おめでとうございます! 優勝は、桐葉高校二年、祈本 綴(きのもと つづる)ーー!!」
歓声が爆発した。
銀のテープが宙を舞い、照明が眩しく跳ねる。拍手、叫び声、カメラのシャッター音。その嵐の中で、客席のあちこちから小さな声が生まれ始めた。
「久我山唯人(くがやま ゆいと)って誰?」
「知らない」
「懐かしい! ゆいちゃんだ。あんたも昔、この子が歌う九九の歌、聴いてたよ」
「そんな古い芸能人の問題? 難しくない?」
観客たちが次々にスマートフォンを取り出す。検索欄に、俺の名前が打ち込まれていく。青白い画面の光が、涙で滲む視界にいくつも浮かんだ。
【久我山 唯人(くがやま・ゆいと)】
2013年生まれ、2032年没。
2027年、十四歳で当時最大規模のアマチュア競技クイズ大会『栄光杯』に最年少優勝。
東京大学経済学部入学後、藤崎心らと共にクイズ番組『laQ』の立ち上げに携わる。
享年19。
そこに載っていた写真は、今より少しだけ大人びていたけれど、間違いなく自分自身だった。
「ああ………」
声にならない息が漏れた。
俺の名前が、呼ばれている。
忘れられていたはずの名前が、検索され、読まれ、口にされている。日本中のSNSが、「忘れ去られた天才」の名でざわめき始めていた。
ステージの上では、璃羽と希羽もまた、祈本とほとんど同時にボタンへ指を伸ばしていた。彼女たちも知っていたのだ。歴史の隙間に落ち、誰かの記憶から遠ざかっていた、俺の名前を。
涙で視界が滲む。
そのとき、カメラが客席を一瞬だけ映した。
客席の片隅に、青いミサンガを巻いた男がいた。彼はかつての友を偲ぶように、静かに拍手をしていた。舞台袖では、髪をバツ印のピンで留めた男が、満足げに口角を上げたのを、俺だけは見た。祝福の拍手が、時代を超えて響き合っていた。
司会者は、ひときわゆっくりと言葉を区切り、その名を告げた。
「今大会『laQ』の立ち上げと企画者の一人であり、2027年には『栄光杯』最年少優勝を果たした、教育番組『メガトン博士とお弟子の世界歩き』で、初代お弟子の子役を務めたのは誰でしょう。正解は――久我山 唯人(くがやま ゆいと)」
ざわめきは、すぐには収まらなかった。
最後の一問。その答えは、少し古く、誰もが知るほど有名ではない名前。決勝の土壇場で、押さずに見送られても不思議ではない。だが、彼は押した。ほとんど反射のような速さで。
司会者が、感心したように笑う。
「今の問題、スルーでもおかしくなかったと思うんですが……押しが早かったですね。優勝してみて、今のお気持ちは?」
マイクを渡された祈本は、一瞬だけ目を伏せた。それから顔を上げる。どこか遠くを見ているような、静かな目だった。
「実は、最後の問題――自分にとって、憧れの人の名前だったんです」
言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「だから、ああ……これは僕が一番早く押さなきゃいけない問題なんだって。そんなふうに神様に言われた気がして、押しました」
司会者は少し驚いたように眉を上げる。
「ええ? でも、世代はだいぶ違いますよね」
「はい。彼が生きていれば十歳違います」
祈本は、かすかに笑った。
「小さい頃、久我山さんが出ていたテレビ番組のビデオを、何度も何度も見ていたんです」
「よくそんな古いビデオがありましたねえ」
「はい。本当に、偶然だと思います。でも……そこから、クイズに興味を持ちました」
一度、言葉を切る。会場のざわめきが、少しずつ遠のいていく。誰もが次の言葉を待っていた。
「久我山さんには、感謝しています。クイズの面白さだけじゃなくて――世の中に疑問を持つことや、努力する人の強さを教えてもらいました」
彼の言葉は、勝者のスピーチというよりも、どこか祈りに近い響きを帯びていた。
「人はいつか、必ずいなくなります。でも――」
祈本は少しだけ視線を揺らし、それでも言い切った。
「こうやって、誰かの中に残り続けることはできる。だから僕も、いつか……誰かの心に残って、こうやってずっと名前を口にしてもらえるような人生を歩みたいです」
言い終えたあと、すぐに拍手は起こらなかった。ほんの一拍、静かな空白。それから、波のように拍手が広がっていく。最初はまばらに、やがて大きく、スタジオ全体を包み込むように。
祈本は、差し出された賞金ボードと金色のトロフィーを受け取った。その重みを確かめるように、一度だけ手元を見下ろす。
そして、ふっと笑った。
その笑顔は、勝者のものというより――ようやく誰かに自分の存在が届いたと知った人間のものだった。
