オリフィス




「問題。日本で最も面積が広い都道府県は北海道ですが、最も面積が狭い都道府県はどこ?」
「………」
「香川県」

 ピンポーン。

「問題。五円硬貨にデザインされている3つの産業モチーフは、稲穂、歯車とあと一つは何?」
「………」
「水」

 ピンポーン。

 明るいはずの正解音が、美術準備室の中でどこか白々しく響いた。早押しボタンはコードで正誤判定機につながっていて、赤を押せば正解音、青を押せば不正解音が鳴る。問読(といよ)みと判定を兼ねている俺は、答えが出るたびに赤いボタンだけをゆっくり押していく。十問ほど読み終えたころ、部屋には言葉にしにくい沈黙と、じわじわとした焦りが満ちていた。

 きっかけは、見学に来た彼だった。クイズは未経験だというので、俺が問読(といよ)みと呼ばれる出題者側に回り「5◯先取(最初に5問正解した人が勝利)・誤答による失格なし・誤答したら他の人が誤答するまで休み」という初心者向けのルールでクイズを始めた。しかし、彼は一向に押す気配がない。

 ココロ先輩やダンが、問題文のほとんどを聞き終えてから遠慮がちにボタンを押しているのに対して、彼だけはボタンの前に静かに正座したまま、俺の口元をじっと見つめている。その視線があまりに動かないので、読んでいるこっちの舌の位置まで見られているような気がした。
 ココロ先輩たちの気まずさが伝わる。俺は問題集のページをめくりながら、なるべく簡単な問題を探した。

「問題。『甲州』『甲斐路(かいじ)』『巨峰』などの種類がある、山梨県で多く生産される果物は何?」

 紙の匂いと乾いた絵の具の匂いがする。誰も押さない。彼は相変わらず背筋をぴんと伸ばして、まるで人形みたいに座っている。

「……ぶどう」

 ぎりぎりのところでダンが答えた。
 ピンポーン。
 小学校範囲の問題だ。ココロ先輩はもちろん、二年生のダンでさえ、全文を聞き終える前には答えが浮かんでいたはずだ。おそらく、あえて待っていた。この形式では、全文読み上げ後五秒でスルーになる。その五秒間が経つ直前に、ダンは仕方なくボタンを押した。

 なんで、こんな簡単な問題すら――。

 喉元まで出かけた言葉を飲み込んだ。これは勉強ができるかどうかの問題ではない。普通に生きていれば、どこかで自然に触れるはずの知識だ。巨峰を知らない日本人がいるのか、という驚きは、偏見だとわかっていても消えない。白いシャツに皺ひとつなく、背筋をぴんと伸ばし正座を崩さずに座る彼は、ドラゴンボールや大谷翔平を知らない日本人のような奇妙さで、ただそこにいた。

 問題集をめくる。だが、どのページにも、彼が答えられそうな問題は見当たらない。歴史、文学、地理、科学、芸能、スポーツ。クイズの問題というのは、当たり前だが、何かを知っている人間に向けて作られている。けれど、こんな弱小部の扉をわざわざ開けて「クイズがしたい」と言ってくれた彼に、一問の正解の喜びすら経験させないまま帰らせるのはあまりに後味が悪かった。俺は、クイズを「できないもの」として人に持ち帰らせたくはない。いま自分が一番熱中しているこの遊びを、頭でっかちがやるクソゲーではなく、少しでも面白いものだと思ってほしかった。

 考えて、ふと思いつく。問題集の中ではない。今、この瞬間に頭に落ちてきた問い。知識の差ではなく、誰でも参加できる類のもの。砂漠の中心でオアシスを見つけたかのように、気持ちがパッと明るくなる。

「問題。日本で1番多い苗字は『佐藤』ですが、2番目に多い名字は何でしょう?」

 ピーン。
 間髪入れず、ダンが押した。

「田中!」

 ブブー。
 すぐにココロ先輩が続く。

「加藤」

 ブブー。
 再びダンがボタンを叩く。

「斉藤!」

 ブブー。
 誤答音が、立て続けに鳴った。俺は青いボタンを機械的に押しながら、わずかに口元を引き結ぶ。

「えー、なんだろう……高橋とか?」

 ブブー。

「え、ボクもそれだと思いました」

 ダンが驚いたように言った。

 そしてその真ん中で、彼だけがまるで置き去りにされたように、じっと動かなかった。とうとう俺も痺れを切らし、しかし声だけは柔らかく保つようにして訊いた。

「押さないの?」
「……わからないから」

 俯いたまま、彼は答えた。

「思いついた苗字をテキトーに言えばいいんだよ。こいつらだってそうしてるだろ」

 俺がそう言っても、彼は沈黙したままだった。代わりにココロ先輩が明るく笑う。

「そうだよ。クイズは人生と同じ」
「……え?」
「間違い放題ってこと」

 彼はほんのわずかに顔を上げて、ココロ先輩を見た。けれどすぐに視線を落とし、何も言わなくなった。

 俺には、理解できなかった。だって、苗字なんかいくらでもある。ここにいる全員が正解を知らないのだから、よくある苗字をいくつか口にすれば、もしかしたら当たるかもしれないのに。

 ──ピーン。

 重く湿った空気を裂いて、ダンがボタンを押した。早押しボタンの赤いランプが点灯している。

「鈴木?」

 一瞬、唇を噛んだ。それから、赤いボタンを押す。

 ピンポーン。
 正解音が、どこか虚しく響いた。ダンが5ポイントを積み、勝利が決まる。

「そうなの!? 知らなかった」

 ココロ先輩が驚きの声を上げた。

「ボクの周り、伊藤とか斉藤とか『藤』のつく苗字がやたら多いから、鈴木が2位なの、なんか不思議です」
「地域性もあるのかな。私も藤崎だしね」

 ココロとダンがそうやって話している中、彼は解答を聞いても驚きも悔しがりもせず、ただぼうっと座っていた。頭の中にも、体の中にも、何かがちゃんと詰まっているのかわからないほど空虚に思えた。何問打っても響かない。伽藍堂(がらんどう)だ。彼にとって、クイズは心揺さぶるものではなかったのだろう。久我山は、自分が一番熱中していて、ほかの誰にも負けたくなくて、そのぶんの価値があると思いたいものを「取るに足らない些末なものだ」と否定されたような気がして、悔しいような、悲しいような、初めての、よくわからない気持ちでいた。

 気づけば、時計は午後六時を回っていた。
 美術部の女子生徒たちが美術準備室にノックもせず入ってきて、床に這うコードや、地べたに座り込む俺たちを露骨に邪魔そうな目で見た。美術部だって地味部のくせに、男数人がよくわからない機材を使って知識自慢をしているという印象のクイズ部よりは、自分たちの立場が上だと思っているらしい。その強気さが少し腹立たしかったが、実際ここは美術準備室なので何も言えなかった。

 結局、その日はそのままお開きになった。誰も口には出さなかったが、きっと三人全員が同じことを思っていた。見学に来た彼が、ここに来ることはもう二度とないだろう、と。


 だから、翌週の火曜日、クイズ研究部顧問のクヌギ先生とともに彼が再びその姿を現したときには心底驚いた。

「四年の祈本 綴(きのもと つづる)です。よろしくお願いします」

 そう言って差し出された手。その距離感も、言葉の温度もどこか噛み合っていない。目は視線は据わっているのか、揺れているのか判別できず、見つめていると底の見えない深淵に落とされそうでゾッとした。まっすぐ自分に差し出された青白い手を取る。その手の冷たさと言ったら──人の手とは思えないほど硬く、粘土のようにひやりとしていた。