オリフィス




 チュンチュンと鳥の声が聞こえる。これはアオバズクじゃない。スズメだ。ゆっくりと目を開けたら、眩しくて眩暈がした。朝だった。木と空と校舎が視界いっぱいに広がり、どこかで生徒の声がする。
 しばらく、何も考えられなかった。
 それから、心臓が一拍遅れて跳ねた。

「…………祈本っ!」

 上体を起こす。そこは高等部校舎の足元だった。木にでも引っかかったのか、それとも何か別の力が働いたのかわからない。とにかく、俺は生きていた。落ちたはずなのに、体は不気味なほど軽い。痛みもない。夜だったはずなのに、朝になっている。もうずいぶん長いこと眠っていた気がした。

「祈本!」

 周りを見渡しても、祈本はいなかった。木の陰にも、校舎の壁際にも、どこにもいない。
 一人で帰ったのか。もしそうなら、かなりひどい。いや、ひどいとかそういう問題じゃない。まず今が何時なのか知りたかった。校庭の時計を見ようとして歩き出すと、向こうから生徒たちがわらわらと流れてきた。登校時間はとっくに過ぎているらしい。
 その列とすれ違った瞬間、聞き覚えのある声がした。

「緊張してる?」
「ちょっとね」

 俺は反射的に振り返った。
 祈本だ。
 祈本は、知らない生徒たちに囲まれていた。数人に話しかけられながら、自然にその輪の中を歩いている。いつも下ろしている前髪を分けているせいか、表情が少し明るいせいか、いつもの祈本とは雰囲気が違って見えた。それでも、聞いていると落ち着くその声は、確かに祈本綴のものだ。

「……祈本?」

 背中に向かって呼びかける。
 聞こえなかったのか、無視をしたのか、祈本は立ち止まらなかった。そのまま知らない生徒たちと一緒に校門へ向かっていく。
 胸の奥がざわついて、その背中を追いかけた。



 祈本含め十五人ほどの生徒が向かったのは、学校の最寄りのバス停だった。
 朝から全員でバスに乗るのか。なんで。
 少し離れて見ていると、すぐにバスが来た。祈本たちは慣れた様子で乗り込んでいく。俺も慌てて後に続いた。

 車内はぎゅうぎゅうだった。制服の肩が触れ合い、吊り革が揺れ、誰かのリュックが俺の腕に当たる。その中で、祈本たちは普通に喋っていた。

「祈本、ちゃんと眠れた?」
「うん。十一時には寝た」

 嘘つくな。昨日の二時に、一緒に飛び降りただろ。
 じっとりとした目で見つめていると、祈本はリュックからペットボトルのお茶を取り出した。そして、それに口をつける。
 俺は目を見開いた。
 祈本が、飲み物を飲んでいる。
 たったそれだけのことなのに、奇妙だった。喉が動く。唇が濡れる。そんな当たり前の動作を、俺は初めて見たのだ。
 そりゃ、飲むだろう。人間なんだから。
 そう思うのに、違和感が拭えない。俺の知っている祈本は、何も食べず、何も飲まず、ただ静かにそこにいるやつだった。今の祈本は、朝のバスの中で友達に囲まれて、普通にお茶を飲んでいる。
 その姿を見て、また実感する。
 ああ、祈本って、人間だったんだ。
 バスを降り、電車に乗り、新幹線に乗り、また電車に乗った。俺はずっと、祈本の後をつけた。



 たどり着いた場所を見て、俺は足を止めた。
 東京の、とあるテレビ局だった。
 幼い頃、俺が『メガトン博士とお弟子の世界歩き』に出ていたとき、何度も通った場所。

「……なんで?」

 声が漏れた。
 仙台駅で他の生徒たちとは別れ、ここまで来たのは見たことのない先生らしき人と祈本だけだ。
 先生は入口の前で祈本に手を振る。

「頑張ってこい!」
「優勝して帰ってきます」

 祈本はそう答えた。

 優勝。何の。
 胸の奥が、また妙にざわついた。
 祈本は迷いのない足取りでテレビ局に入っていく。その背中は、俺の知っている祈本よりずっと遠かった。

 あれは、本当に祈本綴か?

 俺は息を飲み、後を追った。