ミーン、ミンミンミン。ジージージー。
開け放した窓の向こうで、ミンミンゼミとアブラゼミが競うように鳴いていた。真夏の音だった。
セミの成虫の寿命は一週間、という話は有名だが、実は正しくない。種類や環境にもよるが、二週間から四週間、長いものでは一か月ほど生きるらしい。それでも、地中で過ごす三年から五年という歳月を思えば、地上の時間はあまりにも短い。それを知っているだけで、この耳障りな命短し声にも少しだけ寛容になれる。
「あーづーい!」
美術準備室兼、クイズ研究部部室。ダンが日に焼けた腕で体操着の裾をめくり、まだ日焼けしていない薄い腹をさらした。
「なんでここ、暖房ないんですか!」
「部室っていうより美術部の物置だからね」
祈本は問題集をめくりながら、淡々と言った。
「ボクたちは物じゃないのに。やっぱクイ研って人権ないですよねぇ……」
「確かに、今日は熱中症になりそうな暑さだな。俺からクヌギ先生に相談してみようか?」
「いいんですか? さすが祈本先輩、頼りになる〜! オカ研も映研もちゃんとした空き教室を使ってるのに、クイ研だけ扱いが雑なんですよ」
「……ってことなんだけど、久我山、いい?」
「なんで俺に聞くんだよ。ていうかお前ら、何? めっちゃ仲良いじゃん」
俺がそう言うと、祈本とダンは顔を見合わせた。
「そりゃ、久我山先輩が祈本先輩にクイズで負けて拗ねて部活に来なくなったせいで、半年近く二人きりでしたから」
「すっ、拗ねてねえ!」
「はぁい、そういうことにしておきます」
ダンは左手を前に出して、俺の抗議を軽く止めた。手首で青いミサンガが揺れる。そのミサンガには、何か呪術的な意味があるらしい。詳しく聞いたことはない。聞いたら最後、きっと長い話が始まる。
俺は、自分の頬と頭が熱くなっているのを自覚した。暑さのせいだけではない。ダンの生意気さには、前より明らかに拍車がかかっている。しかも、いつのまにか声変わりが終わっていた。あの高くて幼い声ではなく、少し低い声になっている。
こめかみを汗が伝う。窓を開けても風は入ってこない。空気は部屋の中で煮詰まり、古い画材の匂いと、紙と、埃と、男たちの体温が混ざっていた。
「……あっちー……」
俺が制服の袖で汗を拭うと、ダンがふと思いついたように顔を上げた。
「涼しくなるような話してあげましょうか」
「やだよ。どうせまた怖い話だろ」
「そんな怖くないですよう。むしろワクワクする話です」
「聞かせて」
祈本がすぐに言った。
「なんで!? 俺絶対やなんだけど!」
「ダンの持ってくる話って面白いじゃん。好奇心が煽られるというか」
「……祈本ってオカルト話結構好きだよな」
オカ研に行った方がいいんじゃねえ、そう言いかけて、俺は口をつぐんだ。祈本なら、たぶんあっちでもそれなりに楽しめる。でも、絶対に行くな。
「まあ、よくある学校の怪談ですよ」
ダンがそう前置きしたので、俺はあぐらをかいて地べたに座りながら両耳の耳珠(じじゅ)――耳の穴の前側にある小さな出っ張り――に指を添えた。いつでも耳を塞げる体勢である。
「……十年くらい前の話です。午前二時の丑三つ時に、ここの高等部の屋上からある生徒が飛び降りたそうなんですけど」
あ、もう怖い。俺は少し耳を塞いだ。
「その人、奇跡的に助かったんです。でも、打ちどころが悪かったのか、頭がおかしくなっちゃったみたいなんです。言ってることも支離滅裂で、合戦がどうこうとか、なんとか様を返せ!とか……。真面目な生徒だったのに、まるで別人みたいになってしまって。退院して学校に復帰してからも、何度も何度もここの屋上に足を運んでは、取り憑かれたように自殺未遂を繰り返したそうです」
ひっ。俺の口から情けない声が漏れた。
祈本の方をそっと見る。相変わらず、感情の読めない顔をしていた。怖がっているのか、興味を持っているのか、それとも別のことを考えているのか、まったくわからない。
ダンは、少しだけ声を落として続けた。
「そしてある時、ついに頭から真っ逆さまに落ち、首の骨を折って死んでしまいました」
「………」
「それから、高等部の屋上には自殺願望を引き出す幽霊がいると噂が立ち、これを機に学校は生徒への屋上開放を禁止したそうです。それ以前は、お昼休みに屋上でご飯を食べたりしていたそうですよ。青春って感じで羨ましいです。ボクも一回は屋上行ってみたかったなぁ」
「…………よし、耐えた」
俺は深く息を吐いた。耳に添えていた指を、そろそろと離す。
「あれ、久我山先輩、怖くなかったですか?」
ダンが意外そうな顔をする。
「話は怖いけど、屋上なんか行かないからヨシ」
「あー、わかります。お風呂とかトイレとか、日常で絶対使う場所にいる霊の方が怖いですもんね」
「おい、絶対その話すんなよ。一生風呂トイレ行けなくなる」
「フリですか?」
「フリじゃねえ!」
俺が本気で言うと、ダンは楽しそうに笑った。
その横で、祈本だけが黙っていた。正座をしたまま、顎に手を当てて考え込んでいる。その横顔は、怪談を怖がっているというより、何か別の手がかりを拾おうとしているように見えた。ダンはそんな祈本の反応をじっと伺っていた。二人の沈黙が、妙に引っかかった。
窓の外で、またセミの声が強くなる。ミーン、ミンミンミン。ジージージー。命を燃やす歌は、暑さを少しもやわらげてはくれなかった。
「じゃーまた金曜なー」
「おつかれさまでーす」
部活が終わると、廊下の向こうでダンが手を振る。俺も軽く手を上げて返し、それから祈本と二人で昇降口へ向かった。
祈本は何も言わなかった。
けれど、その沈黙を俺はもう気まずいとは思わなくなっていた。こいつは喋るときは喋るし、喋らないときは本当に喋らない。不機嫌なわけでも、怒っているわけでもない。ただ、そういうやつなのだと今ではわかっている。まあ、何を考えているのかは相変わらずよくわからない。それでも、悪いやつではないことは知っている。
「……久我山」
不意に、祈本が俺の名前を呼んだ。
「ん?」
「あの日……俺がクイ研に来た日」
「ああ」
「ごめん。何もクイズに答えられなくて」
「なに急に? いいよ別に。いいよって言うのもおかしいけどさ」
「うん」
「あの時じゃ考えられないほど強くなったし。まさか巨峰がぶどうだとわからない奴が、一年半後にはペーパー一位取るとは思わなかった」
「うるせー」
祈本が低く言った。
さっきは、ダンとずいぶん仲が良くなったな、と思ったけれど、こうして並んで歩いていると、やっぱり違う気がする。俺と話すときの祈本は少し雑で口も悪い。そのぶん、いちばん素に近い顔をしているように見える。それに気づいてしまうと、胸の奥がほんの少し明るくなった。
「……あの時の俺は、何も知らないっていうのもあったけど、間違えることを極端に嫌がってた。今も、それはそうなんだけど……」
「そうだよ。3×で失格のルールなら、2回までは誤答できるんだから、誤答しとかないとむしろ損だろ」
「……普通は無理だよ」
祈本はゆっくりと言った。
「大きな大会なら、千人以上の人に一斉に見られる。その中で、答えに確信を持つ前に押して、みんなの前で考えて堂々と答える。間違えても、またすぐボタンを押せる。お前は……メンタルと度胸が違う」
「馬鹿にしてる?」
「尊敬してる」
祈本と目が合った。俺には何がすごいのかわからなかった。だってそれは、人前で間違えるということは、幼い頃からテレビに出て何万人という人に見られながらクイズに答えていた自分にとって、当たり前のことだったからだ。
「……あ、そ」
それだけ返すと、祈本はほんの少しだけ笑った。
昇降口に着く頃には、外は夕暮れになっていた。淡いオレンジ色の光が、下駄箱の金属の縁や、床に落ちた砂埃をやわらかく照らしている。
祈本は靴を履き替えると、こちらを向いて小さく手を振った。
「じゃあね」
「え、一緒に帰んないの?」
「うん。お母さんが待ってるから」
「車?」
「……そう」
「そっか。じゃあまた金曜な」
「…………」
祈本はなにも言わずに微笑んだ。そのやさしさが、まるでもう会えないかのようだった。夕暮れのオレンジ色が現実じゃないみたいに綺麗に祈本を照らしていた。黒いビー玉みたいな目が、名残惜しむように、じっと俺を見ている。その視線に引き止められながら、それでも俺は背を向けた。
廊下を出て、校門へ向かうあいだも、ずっと後ろから視線を感じていた。行かないで、とでも言われているみたいに。
