「…………アレ、お前にも見えてたよな?」
優勝カップを抱えたまま、俺はホールの廊下で祈本に尋ねた。舞台裏では、さっきまでいろんな人に肩を叩かれ、握手を求められ、褒めそやされていた。おめでとう、すごかった、最後の押しは鳥肌が立った。そういう言葉が、まだ耳の奥でわんわん反響している。
けれど、こいつにはまだ聞かなければならないことが残っていた。
「なにが?」
祈本はいつものように、少し首を傾ける。
「あの、気持ち悪い着ぐるみを被ってる黒いやつだよ」
そう言うと、祈本は「ああ」と、あまりにも普通の声を出した。
「ヌヌダラヘロマンニャのこと?」
「え?」
「ん?」
俺たちは、互いに同じくらい間の抜けた顔をして見つめ合った。最近、知らない単語や、聞いたことのない固有名詞にぶつかることが多すぎる。だから一瞬、また世界のほうが妙な場所へずれてしまったのかと思った。
「ヌヌ……?」
「あれ? そんな名前じゃないの?」
「いや、初めて聞いたんだけど」
「昔、お母さんがそう言ってたんだよね」
「お母さんも知ってんの?」
「うん。みんな知ってるんだと思ってた」
「いや、少なくとも俺は知らない。……待って、検索する」
スマホを取り出し、震えの残る指で文字を打った。ヌヌダラヘロマンニャ。検索結果は、何も出てこなかった。最近の検索は、存在しないはずのものまで平然と差し出してくるから、何も出ないことに、俺はかえって少し安心した。
「出ないな」
「ほんとだ。じゃあお母さんが作った造語だったのかな」
「……あれの正体って、何なんだよ」
「知らない」
祈本はあっさり答える。
「でも、入院してた頃、よく布団の中にいたから。怖いって思ったときに、誰のところにでも来るものなんじゃないかってずっと思ってた」
「お前、入院してたのか?」
「え? うん」
さらりと言われたせいで、意味が少し遅れて脳に届いた。
「八歳の時、お医者さんに、あと二年も生きられないかもしれないって言われて」
「え!?」
「あ、でも毎年更新してるんだ。もう十七だけど、生きてるし」
だから大丈夫、と祈本は笑った。心配をかけないようにするための笑い方だった。明るいふりをしたその声が、あまりにも不自然で、俺は反射的に祈本の腕を掴んでいた。
「その話、嫌じゃなかったら、ちゃんと聞かせて」
「あー……うん。ちゃんとって言ってもな」
祈本は困ったように目を伏せた。
「俺も、よく知らないんだ。お母さんが教えてくれないから」
「…………」
「中学くらいになってから、症状とか飲んでる薬の名前で検索して、たぶんこれかな、っていう病名はある。でも、本当のところはわからない。まあ、実際……いつどうなるかも、よくわかんないんだよね」
「……そう、なのか」
「そんな顔すんなよ。確率が違うだけで、明日死ぬ可能性があるのはみんな一緒だろ」
祈本は、まるで天気の話でもするみたいに言った。その軽さが、かえって痛かった。
「……まあ、俺はすぐ死ぬんだろうなってずっと思ってたし、仕方ないとも思ってた。ずっと入退院繰り返すのもしんどかったし、長く苦しむくらいならもういっそのこと早く死にたいなって思ったこともあったけど……」
「………」
「でも、今は思わない。もっとクイズ強くなりたいし。というか、もっと物事を知りたい」
「……なんで?」
祈本は、ゆっくり俺を見た。
「わからない……わからないけど、わからないまま終わるのが怖かった。世界を知りたかった。お前を……」
その目が、まっすぐ俺を射抜いた。
「……お前が、どうしてそんなに楽しそうにクイズをするのか、知りたかった」
「……え?」
「早押しクイズなんて、丸暗記でしかないこともあるだろ。名前を知っていても、中身は何も知らないことだって山ほどある。受験勉強でもしておく方がよっぽど実用的だ。でも、それだって余命を宣告され続けてきた俺には、ずっと意味がわからなかった。知識なんて、死んだら終わりだ。死ななくたって、頭が壊れたらどうする? 覚えたものが全部、次の日には使えなくなったら?」
祈本の声は静かだった。けれどその奥には、ずっと蓋をしてきた熱があった。
「Wikipediaを読んで、Google Earthで世界遺産を上から眺めて、知らない言葉をひとつずつ覚えて。そんなことをしているより、外に出て、花とか鳥とか、山とか川とかをちゃんと見て、世界を旅行して死ぬ方が、よっぽど有意義だ。それなのに、なんでだろう。今は知りたいことがたくさんあるんだ」
祈本は少し笑った。
「お前に影響されたのかも」
俺は、息をするのを忘れていた。
祈本がそんなふうにクイズを見ていたなんて、思ってもみなかった。ただ記憶力がよくて、向いているからやっているのだと思っていた。底の見えないやつだとは思っていた。その彼への低い解像度を恥じた。
「久我山は?」
祈本が聞く。
「なんでクイズしてるの?」
「……や、俺は、ただ……」
いつもなら、もっとそれらしいことを言えたと思う。考えれば、いくらでも言葉は出てくる。でも今は、上手い答えを言ってはいけない気がした。祈本が本当のことを言ったのだから、俺も小賢しい言い回しをするべきではない。
「………クイズって……、楽しいから……」
あまりにも簡単な答えだった。拍子抜けするほど、子どもみたいな理由。時に苦しくても続けるたった一つの答えだ。
祈本は一瞬きょとんとして、それから、ふはっ、と笑った。
「……本当のことだろ!」
「うん」
俺が言い返すと、祈本はまだ笑っている。
「本当のことだな」
去年の春。クイズ研究部の扉を叩いた祈本と出会ってから、もう一年と少しが経つ。それなのに、今の今まで知らなかった。それは、ひゅうっと吹く風のような。葉っぱが落ちて、カラカラと地面を走るような、そんな軽やかな声で、彼は笑うのだ。
帰り道、俺たちは一緒に駅へ向かった。雨はもう上がっていた。濡れたアスファルトが夕方の光を反射し、遠くの空に薄い虹がかかっている。梅雨のなかで、夏の匂いがした。
俺は優勝カップを抱え直し、隣を歩く祈本を見た。祈本は虹を見ている。
その横顔を見ながら、俺は思った。
名前を呼ぶことも、問題に答えることも、考えてみることも、誰かと並んで歩くことも、きっと全部、消えていかないための小さな抵抗なのだ。
そして俺たちは、その抵抗を、なぜかクイズと呼んでいる。
