オリフィス




 採点が終わる頃にホールへ戻ると、祈本は座席で眠っていた。少し前まで同じ紙に向かっていたとは思えないほど、静かな顔だった。こいつはいつも寝ているな、と思って、ほんの少し笑ってしまう。そんなことで笑えた自分に驚いた。

 祈本の隣には戻らなかった。十列ほど後ろの空いている席を見つけ、そこに腰を下ろす。もう隣はごめんだった。変に惑わされてしまう。次に隣に並ぶときがあるなら、そのときは壇上だ。

「第一ラウンド、ペーパークイズの順位を発表いたします! 果たして第二ラウンドの出場権を得たのは誰なのか!」

 そのアナウンスと光とBGMの激しい演出を、観客が固唾を飲んで見守る。

「この瞬間、めっちゃワクワクする」
「ね」

 隣に座った男子高校生らしき二人組が、声をひそめながら興奮していた。

 大会でのペーパー一位は、優勝とはまた別のベクトルの凄さがある。早押しで勝ち切ることほど派手ではない。見る専門の人間にとっては、たぶん少し地味だ。けれど、実際のクイズプレイヤーには深く尊敬される称号となる。知識派クイズプレイヤーとはそういうものだった。

 隣の高校生たちとは違い、俺はワクワクというよりも、背中に冷や汗をかいていた。
 もしかすると、今回の一位って。

「映えある一位を発表いたします! 今年の知識王は、この人だ!」

 グルグルグルグル、と効果音が鳴る。名前の入った枠が高速で回転し、会場全体が息を止めた。
 ジャン。プロジェクターに、白い文字が映し出される。

『祈本綴』

 その文字を見た瞬間、ぐっ、と喉が閉まるような心地がした。

「……桐葉中高二年、祈本 綴(きのもと つづる)!」

 わああああ、と歓声が上がる。拍手が弾ける。会場が一斉に彼の名を受け入れていく。
 祈本はゆっくり立ち上がり、少し戸惑ったように周囲を見回した。それから、なぜかすぐに俺を見つけた。照明の落ちた広い会場の中で、十列も離れている俺を、まるで最初からそこにいると知っていたみたいに。
 目が合う。
 祈本は微笑んだ。柔らかく、静かな笑みだった。



 祈本は客席を離れ、舞台袖へ向かっていく。俺は拍手をしながら、その背中を見送った。拍手をしないのは負けたみたいで嫌だから、しっかり手を叩いた。叩きながら、胸の奥がざらざらと荒れていくのを感じていた。

 そのあとも、名前は次々と呼ばれていった。大学生が多い。知っている顔の高校生もいる。そして、去年までなら聞いたこともなかった中学生の名前も。次世代は勝手に追いついてくる。簡単に追い抜こうとしてくる。
 怖い。人の才能が、努力が、クイズにかける熱意が怖い。それでも、俺だってそれは、負けていないのだ。

「第三十八位――」

 司会の声が響いた。残りは、あと三枠。
 呼んでくれ。
 お願いだから、俺の名前を呼んでくれ。
 胸の前で指を組む。

 グルグルグルグル……

 心臓が、その音と一緒に回っている気がした。

 ……ジャン!

『久我山唯人』

「っしゃあっ!!!」

 気づいたときには、立ち上がっていた。拳を握り、腹の底から声が出た。

「桐葉中高一年、久我山 唯人(くがやま ゆいと)!」

 隣の人がびくりと肩を揺らした。けれど、その直後に歓声と拍手が起こった。俺の名前が、光の中にある。俺の名前が、会場の中で呼ばれている。

 勝った。まだ早押しはしていないのに、そう感じた。勝った。勝つ。今日勝たないでいつ勝つ。今日は神様が見放してない。
 それに、俺は勝ったのだ。ペーパーにではない。祈本にでもない。あの瞬間、左を見れば救われるかもしれないと思った、あの汚い誘惑、自分自身に。



 ペーパーを抜けた四十名は、拍手に送られて舞台袖へ向かった。すぐに第二ラウンドが始まる。袖に入ると、先に呼ばれていた祈本がこちらを見た。

「おめでとう」

 その声は、嬉しそうだった。それが、どうしようもなく気に食わなかった。

「喜んでて良いわけ?」
「……」
「このセット、同卓になったら絶対に俺が勝つ」

 そう言い捨てて、俺は祈本から離れた。お前は敵じゃないと言われているようで嫌だった。もっと恐れてほしかった、対等に見てほしかった。俺は、振り返らなかった。



 第二ラウンドで、俺と祈本は別のセットに分かれた。俺は第一セットを一抜けした。祈本は最後の一枠に滑り込み、連答で一気に勝ち上がった。第三ラウンド、第四ラウンドも、俺たちは別々の卓で勝った。そうして第五ラウンド、決勝に残った三人の名前が呼ばれる。

 久我山 唯人(くがやま ゆいと)。
 祈本 綴(きのもと つづる)。
 後藤 肇(ごとう はじめ)。

 会場の照明が落ち、壇上だけが白く浮かび上がった。観客席のざわめきが一段低くなる。俺は早押しボタンの前に立ちながら、喉の奥が乾いていくのを感じていた。

 決勝のルールは、7◯(マル)3×(バツ)。七問正解で優勝。三問誤答で失格。単純で、残酷で、いちばん競技クイズらしいルールだ。
 左隣に祈本が立っている。この一年、何度も一緒に大会へ出たのに、同じ卓につくのはこれが初めてだった。祈本は自分の爪を見ている。ささくれでも気になるのか、親指で何度も擦っていた。
 そのさらに向こうで、後藤肇が軽く肩を回していた。東大生で、知識箱と呼ばれる有名プレイヤー。見るクイ勢の女子たちが、客席のどこかで息を殺しているのがわかる。
 俺は息を吸った。すぅ、と吸って、吐く。落ち着け。落ち着け。クイズの調子は悪くない。しかし、少し上がっている。落ち着け。自分のクイズをするんだ。

 祈本の視線が一瞬だけ、俺の肩の向こうへ逸れた。
 俺の後ろ。
 だが、すぐに祈本は何もなかったみたいに目を伏せた。俺も振り返らなかった。壇上で後ろを気にするなんて馬鹿みたいだし、そもそも決勝の最中にそんな余裕はない。
 けれど、首筋だけが少し冷たかった。
 会場の空調だろう。そう思うことにした。スポットライトは熱い。額には汗が滲んでいる。それなのに、背中の上の方だけ、水を一滴落とされたように冷えていた。

「それでは、決勝戦を始めます。ルールは7◯3×。7問正解で優勝、3問誤答で失格です」

 司会の声が、会場に広がる。

「果たして、この三名の中で勝利の女神が微笑むのは誰なのか!」

 俺は早押しボタンに指を乗せる。爪先がボタンの縁に触れ、カツ、と硬い音を立てた。大会前は、こうして爪の長さと形を整える。その方が、ボタンの引っ掛かりがいい気がするからだ。

「問題」

 その声に、自然と前傾姿勢になる。

「アガサ・クリスティの作品に登場する、灰色の脳細胞を持つ/」

 ピーン。
 光ったのは後藤肇のボタンだ。

「エルキュール・ポアロ」

 ピンポーン。正解の音。

 速い。押しが速いだけじゃない。答えが出てから口にするまでの無駄がない。正解というより、最初からそこに置いてあったものを拾ったみたいな声だった。
 観客席から小さなどよめきが起きる。そのどよめきの奥に、ぺた、と小さな音が混じった気がした。
 床の音。
 濡れた足の裏が、硬い床に触れるような音。
 俺は瞬きをして、意識をボタンに戻した。

「問題。もともとは囲碁の白黒どちらの陣地でもない目のことで/」

 ピーン。また後藤肇。

「駄目」

 ピンポーン。
 客席がどよめく。俺は奥歯を噛んだ。焦るな。まだ始まったばかりだ。焦って飛び込んだやつから死ぬ。

「問題。現在は盛岡市の一部となっている、」

 あ、と思った。
 思った瞬間、指が動いていた。昨夜、自分が作問アプリに打ち込んだ問題文と、書き出しが寸分違わず重なった。自作問題だ。そう確信した瞬間、身体が思考より先に動いていた。
 ピーン。
 場違いなほど早い音が鳴る。会場の視線が、一斉に俺へ集まった。
 口を開く。けれど、答えが出ない。正確には、出せなかった。押したあと、問読みの口から滑るように漏れた続きを聞いてしまった。俺の作った問題と、似ている。けれど同じではない。決定的な語が、まだ読まれていない。
 失格までの5カウントが始まる。

「……原 敬(はら たかし)」

 ブー。
 誤答音が、耳の奥で割れた。
 やってしまった。いきなり1×。この誤答は痛い。そう、頭ではわかっているのに。
 俺の周囲だけ、少し温度が下がったみたいだった。お前は間違っている。壇上から降りろ。ここはお前の場所ではない。そう言われた気がした。
 なんだか頭がぼーっとする。それなのに体はソワソワして、落ち着かなくて貧乏ゆすりが止められない。
 そのとき、背中に湿った感触がした。
 ぞわ、と肩甲骨のあいだが粟立つ。
 振り返るな。
 今、振り返ったら終わる。

「問題――」

 問題文が耳に入ってくる。けれど、意味としてつながらない。単語だけが切れ切れに飛んでくる。押すべきか。待つべきか。今押したらまた分岐するんじゃないか。確定したか。まだか。いや、もう遅い。
 かつての俺なら、確定ポイントの数文字手前で押せた。問題文の先に答えが置かれているのが見えた。手が勝手に伸び、声が勝手に出た。そういう状態を、人は調子がいいと言う。去年の栄光杯では、確かにそれがあった。
 ピーン。
 祈本のボタンが光った。全文に近いところまで読まれてからの押しだった。

「ビョゴロヴィ・ドフ」

 ピンポーン。解答を聞いても知らないその単語。隣の解答席からは、小気味よい電子音と共に次々と正解をもぎ取っていく。

「残火照(ざんかしょう)」
「グニュメロン」
「秒針病(びょうしんびょう)」

 ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。
 正解音が、一定の間隔で鳴る。俺だけが、その流れの外にいた。読まれる問題は、文脈がねじれているように聞こえる。解答も知らない。惑星、偉人、地名、ネットミーム、法律名、病名。知らないものが次々に出てくる。しかも二人は、それを当然のように答える。
 本当にそんなもの、存在するのか?
 その疑いが一度頭に入ると、耳に入る言葉のすべてが信用できなくなった。

「問題――」

 聞こえない。いや、聞こえている。聞こえているのに、頭に入らない。

 それに───、
 いる。さっきから、ずっと後ろに。

  第一ラウンドのペーパークイズのときは、後ろの席に座っていた。第二ラウンドからは、背後に立っている。振り返って確認したわけではない。それなのに、わかる。首筋だけが冷たい水に沈められたみたいに冷えて、スポットライトはこんなに熱いのに、背中には湿ったものが張りついていた。
 成人男性くらいの背丈。全身を覆う黒いタイツ。頭には、大きな被り物。何のキャラクターなのか、そもそもキャラクターなのか、それすらはっきり見たことがないからわからない。わかるのは、全身が濡れていることだけ。

 ぺた。

 足音がする。裸足で水浸しの床を歩くような音。あるいは、濡れた布を床から剥がすような音。

 ぺた、ぺた。

 ひとりだけではない気もした。後ろに何人もいる気配がする。けれど確かめられない。だって、たくさんいたら怖い。けれど見なければ、何人いるのかもわからない。

「問題。三大流星群とは、ペルセウス座流星群、し/」

 ピーン。後藤肇のボタンが光った。

「双子座流星群!」

 ピンポーン。
 後藤さんも早めに勝負を決めたいのだろう。祈本は強いプレイヤーだ。スルーをさせたり、誤答するところを見たことがない。押しはまだ少し遅い。それでも、昔よりは確実に押せるようになっている。全く押せなかった頃の祈本を、それどころか何も知らなかった頃の祈本を知っている俺からすれば、それは悔しいほど大きな成長だった。

「問題。──」

 ……ああ、まただ。また、問題文の構造がわからなくなってきた。前フリからの落としが変すぎる。問題文も、解答も変だ。何もかも……。
 それなのに。

 ピーン。
 押した。
 いや、俺じゃない。
 俺の指がボタンを押している。けれど、押したのは俺ではない。黒い指のようなものが後ろから伸びてきて、俺の指を無理やり押した。濡れている。冷たい。骨の芯まで冷える感触がある。赤いランプが眩しい。押したからには答えなければならない。問題文と解答候補が、頭の中でぐちゃぐちゃに混ざる。

 ………わからない。
 わからないわからない、問読みが言ってる意味も、なにもかもがわからないんだよ!

 会場の空気が、俺の沈黙を数えている。
 知識が引き出せない。意味がわからない。背後になにかいる。ずっといる。怖い。怖い。怖い。頭の中を、見えない手でかき回されているみたいだった。

「……ハレー彗星」

 ブー。
 誤答音が、会場に割れて響いた。
 ああ、そうだよな、と思った。俺が信じてきたクイズは、全部間違っていたのだ。知識も、努力も、積み上げた時間も。ここ数ヶ月、世界はずっと俺の知らない方向へねじれている。

「……クソッ……!」

 声が漏れた。
 その瞬間、祈本がこちらを見た。目が合った、と思った。けれど違う。祈本の視線は、俺を通り過ぎていた。俺の肩の向こう。背後。そこに、ぴたりと止まっている。祈本の黒い目が、わずかに見開かれた。

「……あ」

 その小さな声で、心臓が跳ねた。

 あ?

「問題。英語で突然死」

 ───知ってる。
 ピーン。
 今度は、自分で押した。

「サドンデス」

 ピンポーン。

Q.英語で突然死という意味の言葉で,転じてスポーツなどにおいて先に得点した方が勝利となりその時点でゲームが終了するようなシステムのことを何と言うでしょう?
A.サドンデス

 久しぶりの正解音が鳴る。その音を聞きながら、俺は祈本を見た。祈本はまだ、俺の背後を見ている。その黒い目で、はっきりと。

 ……もしかして、お前にも見えてんの?

 そう思うと、なんだか急に恐ろしさが減った。だって、これは。後ろのこいつは自分だけにしか見えないものだと思っていたからだ。今まで、外までついてくることもあったのに、友達から何か言われたことは一度もない。だからずっと、あれをまともに見たら、認識した瞬間に取り返しのつかないことが起こる気がして、見ないふりをしてきた。

 思えば、最初にあれを見たのは五歳の頃だったかもしれない。まだ東京に住んでいて、教育番組に子役として出ていた頃だ。番組では、いつものように間違った答えを口にした。カメラが止まったあと、ゲストの大人に「これくらいわからなきゃダメだよ」と言われた。俺は、現場で覚えた愛想笑いをした。するとプロデューサーが笑って言った。

「まあ、ゆいちゃんはそういうバカなところが可愛いんじゃん」

 教育番組に携わっている大人が、そう言った。
 その瞬間、自分に求められていた役割がわかってしまって、俺は家に帰って母さんに気づかれないように布団をかぶって泣いた。そのときの布団の中に、そいつはいた。真っ暗な布の内側で、全身を濡らして、俺のすぐそばに寄り添っていた。冷たかった。

 それから、何かあるたびにそいつは現れた。直視すると壊れてしまいそうで、俺は見ないふりをした。無知が怖くてクイズにのめり込んだ。勉強をした。SNSを開いた。笑って、喋って、毎日を埋めた。それでもそいつは、少し離れたところから、ずっと俺を見ていた。

 そいつが、祈本にも見えているのだとしたら───

「問題。ドイツ語で「騒がしい幽霊」」

 ピーン。祈本のボタンが光る。

「……ポルターガイスト!」

 ───この恐怖を知っているのは、自分一人じゃない。

 ピンポーン。正解の音がする。
 今、俺の背後にいる奴が幽霊なのか何なのかなんて知らない。けれど、お前がそんなに俺のそばにいたいのなら、そこまでして俺を見ていたいのなら。
 もういい。わかった。やってやる。
 頭じゃなく、腹の底で静かに決意した。
 俺は後ろへ手を伸ばし、そいつの腕を掴んだ。冷たい。濡れている。なのに、重さだけは人間じみていた。そのまま引きずるようにして、俺から見て正面へ立たせる。

 初めてそいつをしっかりと見た。黒い全身タイツに、大きな頭部の被り物。濡れた布がぴたりと体に張りつき、足元から水が垂れている。ステージの床に、ぽたり、ぽたり、と小さな音が落ちた。しかし会場の誰もが気づいていない。
 被り物の顔は、笑っているのか、怒っているのかわからない。そもそも表情というものがなかった。黒い球体の目だけが、ぬらりと光っていた。その表面に、怯えた俺の顔が小さく歪んで映っている。
 ……近い。
 顔が近すぎる!
 黒い目が、恐怖心を見透かして俺の目を覗き込んでくる。足が震えた。指先まで冷えて、奥歯がかすかに鳴る。怖い。吐きそうなくらい怖い。けれど、もう逃げない。恐怖よりも強く、他の誰にも負けたくない、と思った。

「問題。日本神話で、イザナギが鼻を洗った時」

 ピーン。俺のボタンが光る。

「スサノオノミコト!」

 ピンポーン。正解。

「問題――」

 ピーン。また俺だった。
 読まれる言葉が、ちゃんと言葉として頭に入ってくる。知っているものは知っている。知らないものは知らない。それだけの、当たり前の世界が戻ってくる。
 俺は自分自身に向かって、心の中で叫んだ。

 知らんぷりして怯えるより、ちゃんと怖がれ!
 自分を信じろ!

「問題。「花の兄」は梅の俗称ですが、」

 ピーン。

「菊!」

 ピンポーン。

 もっと怖がれ。目を逸らすな。

「問題。童謡『Monday's Child』の歌詞で、「loving and giving(愛し、与える)」/」

 ピーン。

「金曜日!」

 ピンポーン。
 そいつの黒い目が、じりじり近づいてくる。いや、近づいているのは俺の方かもしれない。前傾姿勢になり、ボタンに食らいつく。背中に汗が流れた。怖い。怖い。けれど、怖いままで押せる。
 視界から余計な色が消えた。
 観客席も、司会者の顔も、両隣に立つ後藤さんと祈本の存在すらも霧の向こうへ追いやられる。ただ、きらきらと輝きを放つのは手元で淡々と佇む真っ赤なボタンだけ。

「問題。カプサイシンの――」

 ――来る!

 ピーン。
 脳が言語を介する前に、右手がボタンを押していた。まだ問題の全容は見えていない。だが、俺が止めたあとも、出題者の口はわずかに動いていた。
 カプサイシンの、わり。
 出題者は機械じゃないから、解答者にボタンを押されてからもすぐに口を閉じることはできない。出題者の口から漏れる一文字、半文字を拾い、答えに辿り着く。通称・『読ませ押し』。それは、競技クイズの基本テクニックだ。

「スコヴィル値!」

 ピンポーン。

Q.カプサイシンの割合から算出される、トウガラシの辛さを決定づける指標のことを「何値」というでしょう?
A.スコヴィル値

 よし……っ。
 肺の奥から、熱い息が漏れた。

 会場がどよめく。俺の中の何かが戻ってくる。知識量では祈本に勝てない。ならば、祈本が解答を確定させる数文字前、直感と経験が重なるぎりぎりの場所で勝負するしかない。
 祈本5◯0×。久我山5◯2×。後藤5◯1×。
 三人が並んだ。

「問題。心霊写真はこれが原因で生まれる、三つの点が――」

 祈本の指が動く。ピーン。

「シミュラクラ現象」

 ピンポーン。

Q. 心霊写真はこれが原因で生まれる、3つの点が集まった図形を見ると人の顔であると認識してしまう心理現象を何というでしょう?
A. シミュラクラ現象

 祈本、6◯。リーチ。
 会場の熱が一気に上がる。祈本は表情を変えない。ただ淡々と、正解を積み上げていく。高く、冷たく、どこまでも滑らかな壁。その壁に爪を立て、血を滲ませながら登っているような疲労が、全身に広がっていく。
 祈本は、次に一問取れば優勝。
 俺は、次に一問間違えれば失格。
 これ以上ないくらい、状況は悪かった。

「問題。本で、ページ数を示すためにつけられている――」

 祈本の指が沈む。

 行かせるかよ……ッ!

 祈本が「押そう」という意思を指に伝えた、その電気信号よりも早く。論理ではない、反射ですらない。ただの執念に突き動かされて、俺は押した。
 ピーン。
 ボタンを押した衝撃が、肘を伝って脳まで響いた。光ったのは、自分のボタンだ。

 ───お前ら全員、俺を見ろ!!

 この場では、ボタンを誰よりも早く押すことが観客の視線を独り占めできるたった一つの方法だ。

「……ノンブル!」

 ピンポーン。喉の奥で鉄の味がした。祈本を盗み見ると、奴の眉がわずかに歪んでいた。初めて見る顔だった。

A. 本で、ページ数を示すためにつけられている数字のことを、フランス語で「数」という意味の言葉で何という?
A.ノンブル

 祈本6◯0×。久我山6◯2×。後藤5◯1×。
 次の一問で、勝負が決まるかもしれない。

「問題――」

 会場の音が消えた。自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえる。後藤さんもまだ死んでいない。けれどもう、世界には俺と祈本と、読み上げられる声だけが残っていた。

「人生の岐路や、運命を決める重大な決断のことを、カエサル――」

 カエサル……「賽は投げられた」……いや違う!
 出題者の「ル」の音が、空気を震わせようとした瞬間。俺は、指先だけで押すのをやめた。身体ごと、魂ごと、ボタンを押し潰すように前へ。
 ピーン!
 光った。俺のボタンだ!
 俺は手を叩いてガッツポーズをする。先にボタンを押した俺が、勝つか負けるかを選ぶのだ。
 知識の海に身を投げて浸かる。海馬に長年積み上げてきたものが、たった一つの答えを静かに差し出していた。

「……ルビコン川!」

 力が抜けて、視界が揺れた。
 世界から音が消える。

「はぁ、はぁ……っ……」

 ボタンについた汗から、自分がどれほど強くボタンを握っていたのかを知る。ふと見上げると、隣にはまだ、感情の読めない目で自分を見下ろす祈本がいた。
 それから。

 ピンポーン!

 一瞬の静寂の後、世界が爆発したような大歓声に包まれた。

「決まったあー!! 優勝は、桐葉中高一年! 久我山 唯人ー!」

 わああああ、と声が響く。今日一番の歓声と拍手を体いっぱいに浴びる。幸福物質が身体中をぎゅんぎゅん駆け巡り、きもちよくてくらくらした。そうだ、このためにやってる。
 後藤さんは悔しそうに唇を噛んでいた。祈本は、平然とした顔でこちらを見ている。だが、隠すように下ろされた右手がかすかに震えていた。俺はその震える彼の指先に、自分と同じクイズプレイヤーの魂を、初めて見た気がした。

 美術準備室で、一人でクイズをしていたことを思い出す。人に囲まれていても、中学二年生でクイズ界のトップに立っても、ダンやココロ先輩と遊んで笑っていても、どこかでずっとさみしかった。
 祈本とこうして一緒に同じ舞台に立てたことが嬉しい。あの日部室で、問題を一問も押さず、ただボタンの前に座っていた祈本を思い出す。あの時の彼には、何の感情も見えなかった。その祈本が、今は俺の隣で、対等にクイズをしている。悔しがっている。俺の大好きなクイズが、俺という存在が、ようやく彼の心を揺らした。それがたまらなく嬉しくて、歓声の中で思わず泣きそうになった。