六月上旬、梅雨入りしたばかりの雨の日だった。
クイズ大会の会場になっている多目的ホールの最寄り駅で電車を降りると、一つ向こうの扉から祈本綴が出てきた。同じ電車に乗っていたらしい。湿った空気が肌にまとわりつき、ホームの屋根から落ちる雨粒が、線路脇で細かく跳ねている。
「……あ」
「……久しぶり」
祈本はそう言った。
以前より少し痩せたのか輪郭がすっきりして見えた。背も伸びたような気がする。白いシャツの上に薄い上着を羽織っているだけなのに、なぜか大人びていた。
俺が部室に行かなくなってから、もう三ヶ月以上が経っている。その間、祈本の名前は嫌でも耳に入ってきた。VOZでは、誰かが興奮気味に「クイズを始めて一年でBET杯優勝、祈本綴は天才だ」と投稿していたし、別の誰かは彼を「ポスト久我山」と呼んでいた。
俺はまだ引退してないんですけど。
そう思ったところで、言い返す場所はどこにもない。これから花が開いていく祈本と違って、俺はここ一年、思うような成績を残せていなかった。界隈ではもう、過去の人のように扱われている。去年の栄光杯を獲った中学生。早熟の天才。早熟の天才とは、現在も天才の奴には使われない異名である。
俺たちは無言のまま歩き、改札でicsca(イクスカ)をタッチした。駅の外に出ると雨の匂いが濃くなる。俺が傘を開くと、祈本も当然のように後ろからついてきた。ついてきた、というより、目的地が同じなのだろう。この旭ヶ丘駅で俺たちが降りる理由なんて、クイズ大会以外にほとんどない。
特に話しかけることはなかった。
今日は、というか今日も、こいつはライバルだ。今日また祈本に負けたら、ちょっとやそっとでは折れないつもりでいた俺の雑草みたいな自尊心も、さすがに根元からやられるかもしれない。
雨が降っていた。彼と出かけた雪の日を思い出した。冷たい足先、ひっくり返った傘。真っ白な景色のなかに祈本はいた。彼はあの日、笑っていた。それさえ、今では事実なのかわからなかった。
ホールに入り、受付を済ませる。八十人規模の、学生向けの地元の大会だった。最近は大きな大会ばかりに出ていたからちょうど良い。
適当な席に座ると、祈本が隣に来た。俺が思わず嫌な顔をすると、彼は軽く笑う。
「そんな顔するなよ」
こいつは、こんなふうに笑うんだっけ。
何も言わず、ただ席に座って周囲を見ていた。会場には友達同士で来ている参加者が多かった。問題を出し合ったり前回の大会の話をしたり、誰かを見つけて手を振ったりしている。楽しそうだった。
いいな、と少し思った。
俺は、ずっと一人だった。日本一になって天才ともてはやされた中二の夏も、栄光杯で落ちてからの中三も、そして今も。けれど、それでいい。馴れ合う必要なんかない。ここにいる全員、蹴落としてやる。
開始までの時間、俺は隣の祈本と一言も話さず、スマホをいじっていた。そのとき、会場の一角から「キャー!」という女子の声が上がった。
何事かと思って顔を上げる。
「ハジメくんだ!」
「かっこいいー!」
少し前の通路に、背の高い男が立っていた。イケメンYouTuberとして有名な東大生、後藤肇(ごとう はじめ)。今のクイズ界で彼の名前を知らない人間はほとんどいない。
最近は「見るクイ」ブームが始まりかけている。クイズを自分でやるのではなく、将棋やスポーツみたいに、強い人のプレイを観戦して楽しむ人たちのことだ。後藤肇が主催する東京の大会はYouTubeで配信され、同時接続が四万人を超えたこともあるらしい。
テレビはすぐ炎上する時代になり、バラエティは少しずつ肩身が狭くなった。今じゃ芸能人もYouTuberもVtuberも無菌室みたいなクイズ番組で笑顔を作っている。そこに、後藤肇のような眉目秀麗のタレント兼クイズプレイヤーが現れた。YouTubeショート動画で彼の神押しが拡散され、クイズは少しずつ、競技であると同時に推し活の対象にもなり始めている。
「……やだな、ああいう人たち」
祈本がぽつりと言った。
「なにが?」
「クイズしに来てるっていうより、推し活しに来てるじゃん」
たしかに、その女子たちは髪もメイクもばっちりで、服装もクイズ大会というよりライブ会場に近かった。けれど、クイズ大会は服装自由だ。誰がどんな格好で来てもいい。
「まあ、そうだろうな。でも、目的がなんであれ、未経験者がこういう地元の大会でボタンを押してみるのは悪いことじゃないだろ」
「……嫌じゃないの? 久我山は。クイズの実力じゃなくて、見た目とか知名度で注目されんの」
「別に。どんなスポーツだって、貴公子だの王子だの、本人の意思と関係なく持ち上げられることはあるだろ。それと同じだよ」
「それは、そうだけど……」
「ま、お前はイケメンだからな。これからお前のファンが俺に接触してきたりしたら、そのときは嫌な気分になるかも」
冗談のつもりで言った。祈本は少しだけ目を伏せ、それから何とも言えない顔をした。笑ったのか、困ったのか、わからない表情だった。
そのうち司会者がマイクを持って前に立ち、挨拶を始める。ざわめいていた客席が、ゆっくりと静かになった。
ペーパークイズが配られ、各々のバインダーに留められていく。雨の日の会議室は、湿気を含んだまま静まり返っていた。しばらくして、ポーン、ポーンと会場に大きな電子音が響く。
「ペーパークイズ、始め」
その一言で、八十人が一斉に紙へ向かった。俺はまず、百問の問題全体にざっと目を走らせた。
わからない。
そう思った。わからない問題が多い。見たことのある名前も、聞いたことのある言葉もある。けれど、確信を持って書けるものが少ない。頭の中に霧がかかったみたいに、知識の輪郭が曖昧だった。
それでも、解かなければならない。
第一ラウンドのペーパーを通過できるのは、八十人中四十人。ここを抜けなければ、ゲームは始まらない。早押しボタンに触ることすらできない。栄光杯の、千六百人から六十人を選ぶあの地獄みたいな倍率に比べれば、ずっとマシだ。
冬の雪辱を果たしたかった。
祈本が栄光杯で二十三位に呼ばれたこと。俺がペーパーで落ちて、壇上に立つことすらできなかったこと。その壇上で、祈本が一度もボタンを押さなかったこと。あれを客席から見て、自分なら押せたのにと、どうしようもなく悔しかったこと。
そして、その祈本以下だったのが自分だったこと。
考えないようにして、ペンを走らせた。わからない問題は飛ばす。止まったら終わりだ。空欄を恐れるな。戻ればいい。拾えるものから拾っていけ。そう自分に言い聞かせる。
そのとき、左隣から、カリカリカリ、と止まらない音が聞こえた。
祈本の鉛筆だった。
彼の手は迷っていない。ほとんど息継ぎもしないみたいに、紙の上を走っている。きっと、ほとんど全部わかるのだろう。そうだろうな、お前なら。俺と会わなかったこの数か月、お前がどれだけ勉強したのかは知らない。けれど噂では聞いていた。ボードクイズやペーパークイズでは、ほとんど満点を取る、と。
負けるわけにはいかない。負けるわけには。せめて壇上で戦わせてくれ───祈るような気持ちで次の問題に移った、その瞬間だった。
――カラン。
隣で乾いた音がした。
祈本が鉛筆を落としたのだ。
一瞬、集中が途切れた。視界の端で、祈本が身をかがめるのが見える。床に落ちたペンを拾い、姿勢を戻し、また書き始める。俺は見ないようにした。見ていない。解答そのものにピントは合わせなかった。それでも、わかってしまった。
祈本のペーパーが、こちらから見える位置にある。
心臓が、どきりと鳴った。
どき、どき、と、嫌な音が胸の奥で大きくなる。
今、左に少しだけ目をやって、焦点を合わせるだけでいい。祈本の解答をひとつ、ふたつ、拾えたなら。ペーパーさえ抜けられれば、早押しでは勝てる。こんなやつに壇上で負けるわけがない。俺は押せる。俺は戦える。必要なのは、ここを抜けることだけだ。
どき、どき。心臓の音がうるさい。
見えるようにしているほうが悪い。防衛していないほうが悪い。世の中には悪いやつがいる。俺じゃなくたって、左隣のやつからも見えているかもしれない。だったら、少しくらい。ほんの少しだけなら。
そう思ったけれど、俺は姿勢を前に倒した。紙に額がつきそうなくらい、自分の答案だけを見た。左を見ない。絶対に見ない。祈本の鉛筆の音を聞かないように、自分の鉛筆を動かす音だけを追った。
勝ちたい。
抜けたい。
栄光杯の会場が、また頭の中でちらつく。
──ペーパークイズ第二十三位、祈本綴!
あの声。あの拍手。あのときの、自分の名前が最後まで呼ばれなかった冷たさ。胃の底が沈む。怖い。答えがわからないことが怖い。自分の無知が怖い。
それでも。これ以上、自分で自分を嫌いになりたくなかった。
もしここで左を見てしまったら、たとえ壇上に上がれても、きっと俺はもう二度と堂々とボタンを押せない。勝ったとしても、その勝ちは一生、喉の奥に刺さったままになる。誰にもばれなくても、自分だけは知っている。俺が見たことを。俺が逃げたことを。そんなクイズは、もう俺のものではなくなる。
だから、見なかった。
最後の一問まで、自分の紙だけを見つめた。
ポーン、ポーン。終了の音が鳴る。
「ペーパークイズ、終了です。鉛筆を置いてください」
アナウンスが流れる。俺はゆっくり鉛筆を置いた。指先に力が入りすぎていたのか、関節が痛い。
……耐えた。耐えたぞ!
「どうだった?」
隣の祈本が訊ねた。俺は答案から顔を上げ、できるだけ何でもない顔を作った。
「ぼちぼち」
本当は、ぎりぎりだと思っていた。いや、もう駄目かもしれない、とさえ思っていた。あのとき見ておけばよかったのか。そんな考えが、情けなく頭をかすめる。
違う。
そんなことはない。
そんなことだけは、ない。
採点のための昼休憩に入ると、どっと疲れが押し寄せた。誰とも話したくなくて、一人で会場を出た。外はまだ、ひどい雨だった。傘を打つ音がうるさい。道路の端には濁った水が流れている。
近くにあったラーメン屋に入り、たいしてうまくもないラーメンを食べた。湯気の向こうで、さっきのペーパーが何度も浮かんでは消える。
雨は、まだ降り続いていた。
