オリフィス




 五月末。東北にも、もう夏の気配がある。

 新学期になっても、俺は部室に行かなかった。今年は祈本が部長をやってくれるらしい。なら、いよいよ俺は必要なかった。それより、来週にはまた仙台市内で知り合いが主催するクイズ大会がある。けれど俺は、まともに対策を打てずにいた。

「なんで明治天皇が、大日本帝国憲法の草案をパプアニューギニアで起草したことになってるんだよ。ブルネイの都市はマニラ? ……あれ?」

 自室代わりのプレハブ小屋の机の前で、俺は頭を掻きむしった。
 ネットの情報が、おかしい。
 以前のようなホラー画像や不気味な文章の荒らしは、いったん収まったように見えた。けれど今度は、もっと厄介だった。情報そのものが、少しずつ撹乱されている。年号が違う。人名が違う。国名と都市名がずれている。検索結果も、辞書サイトも、解説記事も、堂々と間違ったことを書いている。

 いや、間違っている、と言い切れるのか。

 みんなは普通にその情報を使って問題を作り、答えている。大会でも出る。授業でも出る。本屋に並んでいる参考書でさえ、俺の知らない情報でいっぱいだった。知識の前提が、目に見えない手で一枚ずつ差し替えられていくようだった。
 3×2は6のはずだ。けれど、あちこちに3×2=3だと書かれている。周りの人間も3答える。先生も3と言う。検索しても3と出る。なら、それは3なのか。いや、違う。違うはずだ。けれど、違うと俺一人で言える根拠はどこにある。

 ひた、ひた、と音がする。
 雨ではない。外は晴れている。それなのに、部屋のどこかで水が落ちるような音が続いている。
 そいつは、ずっと部屋にいる。着ぐるみか人間のような、濡れているなにか(・・・)。気づいた時には、ずっと、ずっといた。部屋の隅に立っている日もあれば、窓の外から見ている日もある。鍵のかかっていないプレハブ小屋のすりガラスに、人影が黒く滲んでいることもあった。

 俺は長らく気づいていないふりをしていた。
 気づいてしまえば、それにも名前をつけなければならなくなる。名前をつけた瞬間、それはきっと、気のせいではなくなってしまう気がした。