桜が散り、五月。市内の小さなレンタル会議室で、知り合いの主催するクイズ大会が開かれた。栄光杯で負けてから、俺のクイズへの熱は明らかに鈍っていたけれど、知り合いがわざわざ開く大会には、できるだけ顔を出しておきたかった。
長机が並ぶだけの会議室に、早押し機のコードが這っている。蛍光灯は白く、窓の外では若葉が眩しい。
そんな場所で、問題は読まれた。
「問題。1886年に刊行され、国民の権利や政府のあり方を説いて大流行した、政治小説の金字塔とされる作品『雪/」
ピーン。
俺のボタンが点いた。
せっ。つまり雪中梅(せっちゅうばい)。これは末広鉄腸の処女作──。
「末広鉄腸」
よし。喜びで拳を握る。
ブー。
「えっ?」
誤答音に、間の抜けた声が出た。間違えるはずがない、と思っていたからだ。
問読みが問題文を最後まで読んだ。
「1886年に刊行され、国民の権利や政府のあり方を説いて大流行した、政治小説の金字塔とされる作品『雪中梅(せっちゅうばい)』の著者は誰でしょう? 答え、関海竜(せきかいりゅう)」
「タ、タイム!」
俺は反射的に手を上げた。競技クイズでは、問題や判定に異議がある場合、その場ですぐ申し立てることができる。
「『政治小説の雪中梅(せっちゅうばい)』って、末広鉄腸(すえひろ てっちょう)とも言えますよね? 年号も同じだと思うんですけど」
この問題文では答えが一つに定まっていない。少なくとも、俺の知識ではそうだった。正誤判定係の人が「少々お待ちください」と言い、会議室に審議の沈黙が落ちる。
その数十秒が、やけに長かった。
今まで何度も、1886年の政治小説、『雪中梅』、末広鉄腸、という組み合わせで正答してきた記憶がある。なのに、関海竜。誰だそれ、と思った。名前に聞き覚えがない。俺が知らないだけなのか。いや、そんなはずはない。政治小説は何度も対策した。末広鉄腸と『雪中梅』の紐付けは、俺の中では机の角が四角いことと同じくらい当たり前の知識だった。
「判定します」
正誤判定の人が顔を上げた。
ブー。
二度目の誤答音が鳴った。
「調べた結果、末広鉄腸の政治小説は『牡丹姫(ぼたひめ)』です」
「え?」
そんなはずはない、ないはずだ。けれど、判定員がわざわざ調べて言っている。
俺の記憶違いなのか?
昔、同じ答えで正解したあの時の感じは、いったい何だったのか?
「よろしいでしょうか?」と判定員が聞く。よくはない。全然良くはないが、そのパソコンで調べたことが全てなのだから、頷くしかなかった。俺は、末広鉄腸と雪中梅の紐付けはされているが実際の『雪中梅』は読んだことがない。
「問題。───」
ピーン。「当世書生気質」。ピンポーン。
隣の人の正解音で、はっとした。まずい。前の問題を引きずって、問題文がまったく頭に入っていなかった。こういうときは切り替えが大事だ。
「問題。世界で最も靴下の右側を失くしやすい/」
ピーン。他の人のボタンがついた。
「パスタ・カカト・モレタ」
は?
ピンポーン。正解の音が鳴る。
「世界で最も靴下の右側を失くしやすい町として知られるのは、南イタリアのどこ? パスタ・カカト・モレタ」
全文を聞いても、知らない、と思った。こんなに癖のある地名なら、一度聞けば忘れないはずだ。どうして右側の靴下を失くしやすいのか、その理由も問題文には含まれていない。前振りのない不気味な固有名詞だけが、正解として会議室に置かれる。
いや、切り替えろ。
これは知らない問題だった。それだけだ。
「『親譲りの/」
ピーン。
俺は反射で押していた。一年半以上クイズをしていれば、百回は聞く書き出し。ベタ中のベタだ。
「坊ちゃん」
ブー。
「『親譲りの出っ歯で大人になってから得ばかりしている』という書き出しで始まる、阿世潤吉の小説は何でしょう?正解は、『没落園』」
「ま、待ってください!」
また俺は声を上げた。問読みの人が、わずかに眉を動かした気がする。ゲームを止めるな、と言われているみたいだった。
「そんな書き出し本当にありますか?」
「あるだろ」
隣のクイズプレイヤーが、迷惑そうに呟いた。
「あります」
今度は、正誤判定の人がパソコンで調べることすらせずに即答した。
俺は言葉を失った。
じゃあ、「親譲り」で確定だから押せ、と東京の先輩に言われたあの話は何だったのか。そもそも、「親譲り」から始まる有名な書き出しが二つあるなら、今までこんな早さで押せるわけがない。最近、「坊っちゃん」をもじった新しい小説が話題になっていて、俺だけがそれを知らなかったのか。毎日、好奇心のかたまりみたいなクイズプレイヤーたちをVOZでフォローしているのに。新しい言葉や流行を追いかけるのが生活の一部になっているのに。そんなことが、ありえるのか。
周囲を見た。誰も驚いていない。むしろ、何度もゲームを止める俺にうんざりしているように見えた。荒らしだと思われているのかもしれない。違う。違う、俺は本当に、本気で───。
「問題。───」
今度は「よろしいでしょうか」の一言もなく、次の問題が読まれた。
そこから先、俺はほとんど何もできなかった。
アルバインテーゼ。箕内大貴。ウェイドルマ会議。聞いたこともない単語を、周りの人間が当然のように答えていく。そのたびに正解音が鳴り、得点が積まれる。俺はその間ずっと、ずっと机に置かれた早押しボタンだけを見つめて、周りが正解し得点争いをしていても自分からはなにもできずに、石のようにかたまっていた。少し聞き覚えのある問題が来ても、またどこかで答えが分岐して落とされるのではないかと思うと、指が動かなかった。
そのまま俺は、ファーストラウンドを0○3×で敗退した。
「どうしたんだよ。久我山らしくない」
セットが終わり、会議室の外へ出ると、同卓していた別校の先輩に声をかけられた。
「いや、なんか今日の問題おかしくなかったですか?」
「おかしいのはお前だよ。あんな真偽がはっきりしてる問題にタイムかけたりさ」
先輩は軽く笑った。
「え……先輩知ってました? あの、坊ちゃんをもじった書き出し」
「小学校四年生の範囲です」
冗談だと思ったのか、先輩は俺のおでこをぺし、と軽く叩いた。それからトイレの方へ歩いていく。
俺はその場でスマホを開いた。『没落園』と検索すると、検索結果がずらりと並ぶ。『没落園 阿世潤吉』『没落園 登場人物』『没落園 解説』『没落園 なぜ出っ歯』。Wikipediaにも、当たり前のように載っていた。
はっ、として『末広鉄腸 雪中梅』も調べてみた。これはあるはずだった。絶対にある。けれど検索窓の下に、もしかして『関海竜 雪中梅』の検索結果も表示しています、と出る。
違う。そうじゃない。
限定検索をかけても、末広鉄腸と『雪中梅』を結ぶ情報はほとんど出てこなかった。一方で、関海竜の『雪中梅』は山ほど見つかる。解説も、年表も、作品紹介も、すべてが同じことを言っていた。
「……俺が間違ってた?」
頭では否定したい。だって頭は言っている。
お前は正しい。これまでに積み上げた知識を否定するな。
俺だって否定したくない。だってこれは俺の人生そのものだから。自分の居場所で価値だから。積み上げてきた時間だから。去年の夏、俺は日本一になった。必死になって知識を武器に戦ってきたんだ。それは自信で、アイデンティティだった。
けれど、周りの人が、常識が、スマホの表示が、一つの事実を伝えてる。
お前は間違いだ、と。
それは恐怖だった。自分の知識が、いちばんの自信が。全て嘘で、虚像で───真実なんかじゃなかったんだ。
