オリフィス




 ───砂時計のくびれの部分にも、名前が付いているのは知ってる?

 知らない。興味ない。クラスのみんなが口々にそう言った。

 ───「オリフィス」といいます。ほとんどの人には言っても伝わらないさね。

 先生は、少し訛りのある声でそう言った。

 ───名前は、存在です。共通認識です。では、ここで問題。誰にも呼ばれなければ、それは無いのと同じでしょうか?


 ……あれはたしか、一年生の夏。クイズ研究部の顧問兼、国語担当の佐藤先生が言った。クラスの生徒たちは誰も話を聞いていない。
 俺は、のちにクイズ研究部に入った。クラスの誰にも話を聞いてもらえない先生と、存在しているのに誰にも知られていない単語が、可哀想に思えたからだ。



ピピピピ、ピピピピ……。

「……」

 いつものプレハブ小屋で目が覚めた。懐かしくて、とても寂しい夢だった。あのときのクヌギ先生の、誰にも話を聞いてもらえずに少しだけ遠くを見るような顔を、俺はたぶん一生忘れられない。

「VOZ、日記」

 ピコン、と録音開始の音がする。眠気覚ましに、ひとつだけ言うことにした。

「朝六時。部屋のサボテンが枯れている。サボテンって枯れるんだ。送信」

 シュッ、と音がして、俺の声が投稿される。#新しい発見、というタグが自動でついた。そう、これは新しい発見だ。机の端に置いていたサボテンは、いつのまにか茶色く変色していて、指で触るとぶよぶよしていた。サボテンは強い植物で水をやらなく平気だと、俺が忘れていても勝手に生きていけるものだと思っていたけれど、どうやら違ったようだ。

 着替えながら、フォローしている人たちのVOZを新しい順に流す。

『最近、ページ荒らされすぎてやばい。全然使えない』
『AIさん、急に怖い画像出すのやめてくれー』
『また問題の裏取り中にホームページ荒らされた。大手検索エンジンもダメ。普通の単語で調べても、なぜかホラーサイトとか変なサイトが混ざる』

 俺のフォロワーは、だいたいクイズプレイヤーだ。同じような嘆きが続いていて、まだ解決していないのかとうんざりした。

 検索エンジンやホームページがおかしくなっている。
 そんな噂を初めて聞いたのは、数ヶ月前だった。最初は誰かが面白がって大げさに言っているだけだと思っていたけれど、ある深夜、俺も実際に見てしまう。歴代の偉人の顔写真が別人になっていたり、概要欄にモキュメンタリーホラーじみた文章が書き込まれていたり、意味の通らない言葉がずらずら並んでいた。
 春休みには、戦国武将について調べている途中で、不意に肉が剥き出しになったような赤い人がニヤッと笑っている画像が表示されて、ホラーが苦手な俺は本気で飛び上がった。
 それ以来、何かを調べるたびに少し身構えるようになった。クイズの問題を作るにも、このような状況では裏取り(解答が本当に正しいか調べること)がしにくい。本で調べられるものは図書館へ行くしかないし、ネットでしか追えない情報は、どうにもならない。
 ページはすぐ元に戻ることが多いらしい。だから、ネットに張り付いているような人間しか気づかない。大多数の人は噂として面白がるだけだった。それでもクイズ界隈では、それをネタにするやつもいれば、ホラー耐性がないとクイズができない時代になった、と本気で嘆くやつもいた。誰の仕業かは知らないが、怖いから本当にやめてほしい。

 俺は新しくサイズを合わせた制服に着替え、ナイキのスニーカーを履く。プレハブ小屋の扉を開けると、ガタガタガタッといつもの音がした。外には、黄色いスーパーカブが停まっている。
 ヘルメットをかぶり、カブを押して道路まで出す。跨がってエンジンをかけると、ブルルル……と小さく震えた。桜咲く、春の匂い。

 新学期。今日から俺は、晴れて四年生───高校一年生になる。

 カブのハンドル下には、油性ペンで「FIGHT‼︎」と書かれている。これは、ココロ先輩が書いたものだ。





 先月、三月十日。
 東大の合格発表の日、ココロ先輩は学校に来て、ついでとばかりに俺のクラスにも顔を出した。

「東大受かったよ〜」

 ココロ先輩は、軽い笑顔でスマホの画面を見せる。そこには、合格の文字があった。

「マジですか!? すごっ……」

 ココロ先輩なら落ちないだろうとは思っていた。それでも、うちは毎年、東大が数人出るか出ないかの地方の学校だ。そんななか、東大現役合格は凄すぎる。東京の進学校に通い、有名なスパルタ塾で揉まれているクイズ仲間たちの受験への本気度を知っているから、なおさらそう思った。

「おめでとうございます!」
「ありがとう」
「ダンたちにはもう会いましたか?」
「さっき二人まとめて部室にいたから会ったよ」
「……そうですか」

 俺は栄光杯のあと、クイズ研究部にほとんど顔を出していなかった。クイズへのやる気が落ちていたのもある。祈本と気まずいのもあった。というか、たぶん一番大きいのはそれだった。だから、祈本とダンが二人で部室にいるのは、寂しいけれど仕方ない。

「ダンが大泣きしてびっくりしちゃったよ」
「え!? あいつが?」
「うん。私が卒業して、しかも東京に行くのがよっぽど寂しいんだねぇ」
「……ダンはココロ先輩が大好きだからなぁ……」

 大きめの暴露をしたつもりだったのに、ココロ先輩は、うんうん、と当たり前みたいに頷いた。

「ね。ベッタリだったから、私が卒業したらもうクイ研来ないんじゃないかと思ってたけど、行ってるみたいでよかった」
「………」

 ぽやんとしているようで、そこは自覚済みなのかと思った。するとココロ先輩は、俺の顔を覗き込むようにして言った。

「で、なんで久我山くんは部室に行ってないの?」
「……ちょっと、いろいろあって」
「えぇ? どうしたの?」
「……こないだ、デカい大会で負けて……そんだけなんですけど、モチベ上がらないし、なんでクイズやってるのかわからなくなっちゃって」
「……そっかぁ」

 てっきり、次は勝てばいいじゃん、とか、部長なんだから行きなさい、とか、そういうことを言われると思っていた。けれどココロ先輩は何も言わなかった。ただ少しだけ考えて、それから俺の手を取る。

「久我山くん、下来て」
「下?」
「駐輪場」

 そのまま階段を降りる。ココロ先輩は、見た目も雰囲気も柔らかくて、手も女の子みたいに柔らかいのかもしれないと思っていた。けれど握られた手は俺より大きくて、しっかりした男の手だった。三つも学年が違うということを、急に思い出す。

 駐輪場には、ココロ先輩の通学用の黄色いスーパーカブが置かれていた。

「久我山くんにあげる」
「え?」
「これ去年買ったばっかだけど、東京じゃ使わないからさ。春休み中に免許取るって言ってたでしょ?」
「まあ、俺、四月に誕生日くるんで、そのあとすぐ免許取ろうとは思ってましたけど……いいんですか?」
「むしろ貰ってほしい。そのほうが楽だし」

 そう言ってふわっと笑ったココロ先輩は、眩しかった。未来に向かっている人の顔だった。それもそうだ。東大の合格発表は、今日の昼頃行われたばかりなのだから。今、彼は輝かしい未来に溢れている。

「ありがとうございます」

 俺は頭を下げた。

「あ、ここにココロ先輩のサイン書いてくださいよ」
「なんで? やだよ〜」
「お願いします。ココロ先輩には、部活で一番長くお世話になったし。俺のそばにあなたみたいな人がいたこと、覚えていたいんです」

 ココロ先輩は少し黙った。それから、困ったように笑った。

「……わかったよ」
「ほんとですか?」

 ココロ先輩は、鞄から油性のマジックペンを出した。

「……やっぱり芸能人でもないのにサインは恥ずかしいから、メッセージでいい?」





 ブロロロロ……。

 あの日のことを思い出しながら、国道三十七号線を走る。遠くに仙台大観音が見えた。朝の光の中で、白い巨人みたいに立っている。

 高等部の校舎に入り、四年のクラス表を見る。
 俺は、また四組だった。
 なんとなく、五年生の方の表も見た。祈本が何組なのか、知りたかったからだ。うちの学校は中高一貫校だからか、体育祭は学年ごとではなく組対抗で、やたら本気になる。だから組は、それなりに重要だった。

 しかし、一組、二組、三組と見ても祈本の名前はない。じゃあ四組か、と思って上から順に見ていると、後ろから友達に肩を組まれた。

「うぇーい」
「うおっ!」
「同じクラスじゃん」
「え、お前また四組?」
「そっ」
「マジかよー!」

 笑いながら、俺はクラス表から目を離す。そのまま友達と一緒に四年四組のクラスに向かった。