「寝る前にベッドの横に「私は死んでいるように見えるだけだ」という書き置きをしていたという/」
ピーン。早押しボタンの赤が光る。
「ヴィルヘルム」
ブブー。割れたような誤答音が響いた。
「あれっ」
新学期が始まったばかりの春。クイズ研究会の部室――という名の美術準備室の一角で、三年生のクイズ研究部部長・久我山 唯人は間の抜けた声を出した。
「正解は、アンデルセンです」
問題を読み、答えを告げたのは、二年生の蒲田 暖――通称・ダン。
さらさらとした黒髪に、小麦色の肌。まだ声にも顔つきにも幼さが残っている少年だ。
「あー、それだ」
「久我山先輩、3×失格です」
ダンは、《久我山 14〇2×》と書かれた紙に目を落とし、×の欄に鉛筆で一本線を書き足した。手首に結ばれた青色のミサンガが小さく揺れる。
「顔はアンデルセンだったんだよ。完全にアンデルセンが浮かんでたのに、口がヴィルヘルムって言いたがっててさ」
我ながら見苦しい言い訳だったが、言わずにはいられなかった。脳内には完全にアンデルセンの肖像があったのだ。なのに口だけが、なぜかヴィルヘルムと言った。口という器官は、たまに持ち主を裏切る。
すると、隣からのんきな声が上がった。
「あれ? 私、また勝っちゃった?」
漫画本から顔を上げたのは、六年生の藤崎 心――通称・ココロ先輩。
短めのボブヘアの片側を細く三つ編みにして、×印のピンで留めている。中性的な顔立ちと柔らかい物腰の、れっきとした男である。
スコアには、《藤崎 2◯0×》と書かれていた。
「ココロ先輩と競ってた感覚ないです」
「ひどっ」
「だって、ずっと漫画読んでましたよね?」
「久我山くんにクイズで勝てる気しないもーん」
ココロ先輩は少しも悪びれずに言った。
「クソッ……まともにクイズやる奴がいない……俺は、孤独だ……」
頭を抱えた。なぜ俺の学校には、競技クイズを真剣にやろうという人間がこんなに少ないのか。田舎だからか。
「久我山先輩はいつも人に囲まれてるじゃないですか。クイズ強くて、界隈では人気者だし」
「界隈では、という限定に棘を感じる」
「久我山くんは真の孤独を知らないな」
ココロ先輩が、漫画本を閉じながら言った。
「真の孤独を知らなくたって、孤独を語ってもいいでしょ」
俺は堂々と言い返した。孤独に資格制度があるなら、今すぐ受験してやってもいい。
「それにしても、今日も誰も来ませんでしたね」
ダンが、部屋の隅に置かれた小さな時計を見る。
俺たちは、その言葉で一斉に黙った。時刻は午後五時四十五分。今日の部活動が終わるまで、あと十五分しかない。
美術準備室の扉の前には、『クイズ研究部・新入部員募集中! 漫画やゲームのクイズもあるよ! 初めての人も大歓迎☆』という張り紙が貼ってある。メジャーな漫画からマニアックな漫画まで幅広く愛するココロ先輩が、親しみやすさを狙って描いた国民的人気キャラクターのイラストも添えられていた。ただ、それが上手いとも下手とも言いがたい絶妙な出来で、むしろ妙な圧を放っている。親しみやすさというより、部室に入るための心理的段差を少しだけ高くしているようにも見えた。
四月中旬から続いていた新入生の部活見学期間も、今日で最終日。それなのに、今年は一人も見学に来なかった。一度だけでも早押しボタンに触ってみたいという生徒すら現れない。こんな年は初めてだった。
「まあ、それはねー……」
ココロ先輩が曖昧に言って、ちらりとこちらを見る。ダンも、それにつられるように俺へ視線を向けた。
「……え? なんですか?」
俺は、二人の視線の意味がわからず、きょとんとするしかなかった。
宮城県仙台市の山奥に建つ、私立桐葉中高一貫校。この春、新しく入った一年生と四年生(うちの中高一貫校では高校一年生を四年生と呼ぶ)に向けた部活紹介でのことだ。
体育館の壇上に立った俺は学ランの襟をきっちり留め、瓶底みたいな黒縁眼鏡の奥から前を見据えて、いたって普通に、そして正確に告げた。
「クイズ研究部です。火曜日と金曜日に、高等部一階の美術準備室でクイズをしています。ぜひ、早押しボタンを押しに来てください」
余計な冗談も、派手な演出もない。内容としては、何ひとつ間違っていない紹介だった。
ただ、順番が悪かった。
クイズ研究部の直前に部活紹介をしたのが、文化部の中でも比較的明るい面子が揃う吹奏楽部だったのだ。その直後に、学ランの襟を詰めた眼鏡の三年生がひとり出てきて、淡々と「クイズ研究部です」と言う。その姿は、どうしても、ガリ勉くんが運営する暗くて癖の強い部活動に見えたようだ。
そしてそれは、実際、大きく間違っているとも言い切れなかった。
「部員の三分の二がメガネの部活って、なんかこう……青春の対極って感じがするんですよね」
ダンが冗談っぽく言う。
「関係ないだろ」
「私がメガネなのはこの時期だけだもん……、っくし」
ココロ先輩が、それは本当にくしゃみとして成立しているのか、と疑いたくなるような小さなくしゃみをした。漫画本を傍らに置き、自前のティッシュ箱を引き寄せる。マスクを顎まで下ろし、慣れた手つきで鼻をかんだ。春先の彼は、常にメガネとマスク姿でいる。そんな花粉症の彼は、目を擦りながら言った。
「ダン、問い読み交代しよっか」
「はい」
ダンはすぐに立ち上がる。その瞬間だった。床に直に置いていた早押しボタンと判定機のコードに、ダンが足を引っかけた。小さな体が、ぐらりと傾く。
「うわっ」
とっさに壁へ手をつこうとしたが、ダンはそのまま床に座っていたココロ先輩の上へ見事に倒れ込んだ。
がしゃり、と派手な音がした。
筆の入った瓶、用途不明の木製の置物、積もっていた埃、丸められたポスター、何に使うのかわからない針金の束。美術準備室らしい雑多なものたちが、一斉に崩れ落ちる。
「いてっ!」
「すみま、んんっ……すみません」
声変わり中で裏返りかけた声を、咳払いで無理やり押さえ込み、ダンは謝った。
「大丈夫ですか?」
俺は少し身を乗り出して、ココロ先輩に尋ねる。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ」
ココロ先輩はマスクを引き上げながら、軽く手を振った。
「じゃなくて、コード切れたりしてないですよね? ボタン押してみてください」
「………」
先に心配するのがそっちかよ、という目で、ココロ先輩が俺を見た。
もちろんココロ先輩のことも大事である。しかし、この早押しボタンと判定機のセットも大事なのだ。なぜなら、これは部費で買ったものではない。俺の自腹なのだ。
そもそもクイズ研究部は、学校の規定上は正式な部活動ではなく、あくまで研究会という扱いだ。したがって部費など存在しない。つまりこの機材は、俺の数少ないお小遣いと情熱と、若干の狂気によってこの部屋に存在している。
ココロ先輩は無言のままボタンに指を乗せた。
ピーン。
乾いた電子音とともにランプが淡く光る。俺は少し手を伸ばして、正誤判定機の赤いボタンを押した。
ピンポーン。
問題ない音だった。
「セーフ」
ダンが両腕を広げてやや大げさに言う。
「足元見て歩けよ」
俺はようやくダン本人に向かって注意をした。
「すみません」
「部室が狭すぎるのがいけないよね」
ココロ先輩は散らばった画材を拾い集めながら、さりげなくダンをかばうように言った。
「もはや部室ですらないですけどね」
「人権ないですねぇ、クイ研部って……」
ダンは床に転がった筆を適当に瓶へ戻していく。全て片付けたあと、俺の隣にあぐらをかいて座った。
ココロ先輩は正誤判定機の前に体育座りをして、薄い問題集を開く。
「じゃあ読むよ。7◯したら今日は終わりね」
紙をめくる音がやけに静かに響いた。
「問題。心臓音や脈拍などのように、生きている人間にだけ見られる──」
それは同時だった。
ガチャ。後ろから扉が開く音がした。
ピーン。俺のボタンが光った。
ココロ先輩の視線が、扉へと流れるのを追って振り返る。
そこには、真っ白なシャツを着た少年がぼうっと立っていた。
異様なほど白い肌だった。光を拒んでいるみたいな、深く沈んだ黒い目。整った顔立ちは、均整が取れているがゆえに温度を持たず、どこか作り物めいて見える。仄暗い美しさが、乱雑な部室の中にぽつりと浮いていた。
「───『生活反応』」
その出立ちをどこか遠くの視点で見つめながら、俺は頭に浮かんだ答えを呟く。静止と無音の世界にことばをコトリと置いて、それからしばし息もできなかった。混沌とした夕方の美術準備室に突如空白をもたらした彼が、俺の顔を見るなりその光の入らない真っ黒の瞳孔を開かせたのを、射抜かれた自分だけは見た。長い長い沈黙だった。
「……部活見学の方ですか?」
ダンの一言で、ようやく時間が動き出した。
「…………」
けれど、少年だけはまだ止まっていた。
彼は俺の顔をずっと見ていた。瞬きも少なく、表情もない。扉を開けたまま立ち尽くし、ただ俺を見ている。その視線の先が自分から離れないことに、なぜだか嫌な不安を覚えた。
「……もしかして、美術部と間違えた? ここ、一応クイ研だよ」
ココロ先輩が声をかける。
たしかに、この部屋は美術準備室だ。床には乾いた絵の具がこびりつき、画材が無造作に積まれている。その上に、早押しボタンと判定機がコードを絡ませながら直置きされている。初めて来た人間が美術部か何かと間違えてもおかしくはない。
少年の視線が、ようやく俺から離れた。
ゆっくりと、ココロ先輩を見る。
「……クイ研?」
「クイズ研究部」
俺は短く答えた。
少年は、ふたたび俺を見た。真っ黒なその目には、一点の光もない。そうだ。彼からは、普通の人が放つような人間味、熱意や生気が感じられない。死んだ目で、ただじいっと俺を見つめている。
「美術室なら出て左隣だけど」
俺は言った。
だが、少年はわずかに首を振った。
「…………いや……」
間があった。
その間に、部屋の外から吹き込んだ春の空気が、床の埃をわずかに動かす。
少年は、静かに口を開いた。
「クイズ、してみたいです」
