オリフィス



 

 家までの道は見慣れているはずなのに、どこか現実感が薄かった。日帰りのはずが、一泊二日の小旅行になったせいだろうか。朝の八時を少し過ぎたばかりで、世界はもうすっかり明るい。

 実家の門をくぐり、母屋の横にある小さなプレハブ小屋へ向かう。建てつけの悪い扉を少し持ち上げてから横に引くと、いつものように、ガタガタと頼りない音がした。ここが、俺の居場所だ。

 靴を脱ぎ、ベッドに鞄を放り投げる。黒いジャンパーを脱ぐと、急に体が重くなった。風呂に入らないといけないのに、だるい。俺は電気毛布にもぐり込み、リモコンを手に取ってテレビをつけた。

 録画していた漫才コンテストの決勝戦。栄光杯の直前の放送で見るのを我慢していた、俺が毎年楽しみにしている番組だった。

 舞台の上で、芸人たちが言葉を投げ合っている。テンポよく、鋭く、計算された間で、会場の笑いをさらっていく。うまい。頭ではわかる。構成も、伏線の置き方も、回収の鮮やかさも、声の張り方も、全部うまいと思う。

 けれど、笑えなかった。

 口元が動かない。面白いはずのところで、笑いが込み上げてこない。ただ、セリフだけが音として流れていく。去年なら、何も考えずに腹を抱えて笑っていたはずだ。今は、笑いの構造ばかりが見えてしまう。それがかえって、余計につまらなくさせているのかもしれない。疲れているからかもしれない。そう思って、もう少しだけ見続ける。次の組。さらに次。それでも、何も変わらなかった。面白い、とは思う。技術も分かる。構造も。でも、笑えない。まるで、どこか遠くの出来事みたいに感じる。やがて、優勝者が決まる。歓声。拍手。涙。そのすべてを、静かに見届けた。

 どの世界でも、一位を取るために人は頑張っている。それは自分だってそうだった。そのはずだった。けど今は、上に登れる未来が見えない。なまじ早熟の天才だと呼ばれて、早期に得意な場所を見つけてテッペンを取ってしまったせいで。もうあとは下降するしかなくなってしまった。主人公が歩むべき道とは真逆の人生。

 リモコンを手に取り、テレビを消す。ぷつん、と音がして、画面が真っ黒になった。その黒い画面に、電気毛布にくるまった自分の姿がぼんやり映る。

 そして、その背後に。
 何かが、立っていた。

 黒いタイツをまとった、細長い人影。顔には奇妙なかぶりものがあり、目のあたりは黒く濁っている。笑っているようにも、睨んでいるようにも見えた。それは、俺のすぐ後ろにいた。ぴたりと動かず、ただそこに立っている。

 俺はしばらく、黒い画面をぼんやり見つめていた。それから、何も見なかったかのように視線を外す。

「……VOZ、日記」

 思い出したように呟く。ピコン、と録音開始の音が鳴った。俺は少し間を置いてから、話し始める。

「栄光杯で、ペーパー落ちした」

 自分の声は、思ったより平坦だった。

「二連続優勝はなくとも、ペーパー落ちはヤバすぎる」

 薄く笑う。笑ったつもりだったけれど、声は乾いていた。

「ま、敗因は遊びすぎだな」

 部活のことを思い出す。麻雀。祈本にクイズを教えたこと。夜までテレビを見たこと。ゲームをしたこと。プールに行ったこと。その時間を全部クイズに使っていたら、結果は変わっていたのかもしれない。

 けれど、それでいいのか。
 俺の人生は、そんなふうにクイズだけで埋め尽くしていいものなのか。

 少し黙ってから、また口を開く。

「俺の人生、クイズだけじゃないし」

 それが誰に向けた言葉なのかはわからない。ネットの海にいる誰かに言っているようで、自分に言い聞かせているようでもあった。

「もうすぐ四年になるけど、遊びとか人との交流を全部を犠牲にしてクイズをやるべきなのか、貴重な学校生活の中で人生を賭けるその価値がクイズにあるのかってきかれたら……今は、ちょっとわかんない」

 部屋は静かだ。背後のそれも、何も言わない。

「……あと」

 自分の声が、少し低くなった。

「最近、たまに布団の中が濡れてる」