オリフィス




「……繰り返し、お客様にお知らせいたします。現在、福島県内での強風および架線トラブルの影響により、東北新幹線は上下線ともに終盤の全列車において運転見合わせを決定いたしました」

 無機質なスピーカーの声が、凍りついた東京駅のコンコースに響き渡る。一瞬の静寂の後、どよめきが波のように広がった。誰かが「嘘だろ」と言い、誰かが駅員に詰め寄り、誰かがスマホを耳に当てたまま立ち尽くしている。電光掲示板の文字は、一本、また一本と、無情な赤い【運休】へ変わっていった。

「なお、復旧の目処は立っておらず、本日の運転再開はございません。振替輸送の情報につきましては……」

 アナウンスは淡々と続いている。その声の下で、東京駅のコンコースは少しずつ混沌に沈んでいった。キャリーケースの車輪が乾いた音を立てて転がり、地べたに座り込む人がいて、スーツ姿の男が苛立ったように腕時計を見ている。遠くでは子どもが泣いていた。

「……マジか」

 俺は掲示板を見上げたまま呟いた。手に持っていたお土産の紙袋が急に重くなる。隣では、祈本が魂の抜けたような顔で、自動改札に灯る赤いバツ印を見つめていた。

「今日帰るの、もう無理ってこと?」

 祈本が訊いた。俺はゆっくり頷く。

「っぽいな」

 言葉にした瞬間、力が抜けた。今日一日のことが、ふと頭の中で逆再生される。
 今日は何もかもがダメな日だ。

「……どうする?」

 祈本の声で、ようやく現実に戻った。

「ホテル、取れると思う?」

 少し考えてから、俺は首を横に振った。

「この時間に急にじゃ、きついだろ」
「だよなあ。あと、金もない」

 祈本が言う。俺はスマホを取り出しながら、ため息をついた。

「ネカフェか、最悪カラオケになりそうだな」
「屋根さえあればどこでもいい」

 祈本の言葉に頷いてから、固まった体を軽く伸ばす。東京駅を出て、電車に乗り繁華街へと向かった。



 漫画喫茶の受付の光はやけに白かった。

「満室ですね」

 事務的な声に祈本は固まり、隣で俺はため息をついた。
 外に出ると、冷たい風がびゅうと吹いている。上半身は上着でまだましだったが、ジャージの裾から入り込む風が足を冷やしていく。

「どうする?」
「カラオケしかなくね」

 俺が言うと、祈本は黙って頷いた。徒歩圏内にはカラオケが何店舗かある。さすが都会だった。

 カラオケで受付を済ませ、フリータイムで通された部屋は狭かった。壁はくすんだ赤で、二人で入るとほとんど余白がない。仙台のカラオケなら、ヒトカラでも八人部屋のようなところに通されることがあるのに、ここでは二人で座るだけで膝と膝がぶつかりそうだった。その狭さが、ああ東京だな、と思わせる。
 部屋に入るなり、俺はタブレットを掴んだ。

「歌うぞ」
「大会直後なのに疲れてないの?」
「だから歌うんだろ」

 祈本は呆れたように俺を見て、それから、好きにしろという顔でソファに沈んだ。

「元気だな」
「お前が元気なさすぎ」

 イントロが流れた瞬間、俺はマイクを握りしめて立ち上がった。画面の歌詞を追いながら、歌うというより叫んだ。息が切れる。喉が熱い。画面の歌詞を追いながら、これは逃げだ、と思った。
 歌い終わると、祈本がぱちぱちと手を叩いた。

「うまいじゃん」
「だろ」
「そこは謙遜しろよ」
「今それやる気分じゃない」

 冗談でもうまく笑えない。しばらくして、注文したポテトとラーメンが届いた。歌うのを一旦やめ、テーブルのポテトに手を伸ばす。油の匂いがする。

「今日の大会さ」

 唐突に祈本が言ったので、ドキッとした。

「もっと早く押せたなって思った」
「最初からそう言ってんじゃん、俺。お前はもっと早く押しても、そんなに誤答連発するタイプじゃないし」
「うん……」
「そもそも誤答無しにこだわって勝ち上がれるほど、クイズって甘くない」
「こだわってるんじゃなくて押せないんだよ。はっきり答えがわからないと、指が動かなくて……」
「……お前、早押し向いてないよ」

 言ってから、少しだけ部屋の空気が冷えた気がした。それでも、言葉はもう戻せなかった。

「いくら知識が豊富でも……あの壇上で、俺がボタンをつけてやるっていう気概がないと一生押せない。長文の難問ばっかり出る大会なら、まだ可能性あるかもしれないけど……」

 祈本は何も言わない。俺もそれ以上言うのをやめた。

「まあ、もう終わったし。どうだっていいけど」

 そう言って、少し冷めたラーメンを啜る。おいしくはない。腹を満たすためだけのラーメンだった。
 祈本は黙って、ソファに横になった。部屋が狭いせいで、膝を立てたまま仰向けになるしかない。

「もう寝んの?」
「うん。もう十一時だし」
「え、まだ十一時?」

 時計を見ると、たしかに午後十一時だった。十一時なんて、夜の始まりみたいなものじゃないか。

「お前も今日、四時半起きで新幹線乗って、ずっと大会だったから疲れただろ」
「別に。え、本気で寝る気?」
「うん。お前も寝な」
「いや、さすがにまだ眠れん」
「元気だなー、中学生」
「バカにしてる?」
「早く寝ないと背伸びないよ」
「うるせーよ」

 たしかに祈本は身長が高く、すらっとしている。とはいえ、俺だって小さいわけではない。

 祈本はそれ以上何も言わず、腹の上に両手を置いて目を閉じた。俺はしばらくスマホをいじっていた。イヤホンを忘れたから、寝ている奴の横でVOZを流すわけにもいかない。日記を喋ることもできない。ネットをだらだら眺めているうちに、祈本は完全に動かなくなった。

「……マジで寝るんだ」

 返事はない。
 眠っている。そう思うのに、やけに静かだった。呼吸の音が聞こえない。

「……おい」

 小さく呼ぶ。反応はない。少し近づいて、ソファの端に腰を下ろし、顔を覗き込んだ。
 白い。思ったよりも、ずっと。
 さっきまで同じ部屋で喋っていた人間の顔とは思えないほど、色が抜けている。カラオケ画面の光が落ちて、顔の凹凸(おうとつ)をくっきりと浮かび上がらせているせいかもしれない。けれど、それにしたって、と思う。死体みたいだ。その言葉が、頭の奥でひどく自然に浮かんでしまった。
 祈本は今日も、何も食べていない。ポテトにもラーメンにも手をつけず、飲み物だって、あとで取りに行くと言ったまま、結局持ってきていなかった。
 胸の奥がざわつく。
 こいつ、やっぱり幽霊じゃないよな。

「……はは」

 ありえない仮説に小さく笑ってみる。声は乾いていた。
 そんなわけあるか。こんなところに霊がいるなら、ダンが大喜びするぞ。
 そう自分に言い聞かせながらも、視線を逸らせなかった。祈本のまぶたはぴたりと閉じられていて、睫毛の影が頬に落ちている。その影さえ、どこか冷たく見える。
 呼吸してるよな。しているはずだ。さっきまで普通に喋っていたのだから。けれど、音が聞こえない。隣の部屋から漏れる歌声にかき消されているのか、それとも自分の耳がおかしいのか。しばらく迷って、それから俺は身を乗り出した。吸い寄せられるように祈本の胸元に顔を近づけ、耳を当てる。一瞬、何も聞こえない気がして心臓がひやりとする。
 けれど、少し遅れて小さな音が返ってきた。

 ——とく、とく。

 規則的で、控えめで、それでも確かにそこにある鼓動。息を止めて、もう少しだけ聞く。胸がほんのわずかに上下している。すう、と空気を吸って、ゆっくり吐く。その繰り返しが、静かに続いている。

「……」

 生きている。
 当たり前のことなのに、それを確認してようやく、胸の奥にたまっていたモヤモヤが少しほどけた。俺はそのままじっとしていた。大きなメガネが上にずれて、なんとなく目を閉じる。右耳に伝わる鼓動と呼吸のリズムが、ゆっくりと自分の中に広がっていく。同じ空間で同じ夜を過ごしているという感覚が、現実味を帯びる。呼吸を合わせるように、浅く息を吸って、吐く。重なっている。何が、と言われるとうまく言えない。ただ、自分の中の何かと、祈本の中の何かが、わずかに触れ合っているような、そんな感覚だった。

 どれくらいそうしていたのか分からない。不意に、祈本が小さく身じろぎした。

「うぅん……」

 かすれた声が漏れた。眉がわずかに寄り、苦しそうに息を吐く。俺ははっとして身を離した。祈本はすぐにまた静かになった。ただ寝返りを打とうとしただけらしい。
 我に返って、その場に立ち尽くした。ずれたメガネの位置を直す。さっきまでの距離を急に意識して、妙に落ち着かない。

「……何やってんだ俺」

 自分の行動をなぞってみる。寝ている相手の心臓に耳を当てて、呼吸を確かめて、温度を確かめて——。

「……キモ」

 短く言い切って、俺はスマホを手に取った。
 けれど、スマホの画面を見ても何も頭に入ってこない。しばらく無意味に指を滑らせたあと、退屈に負けてリュックから問題集を取り出した。今日、会場で買ったばかりのピカピカの問題集だ。ページを開くと、印刷された文字が整然と並んでいた。

「……よし」

 小さく息を整え、読み始めた。大会中は悔しさでうまく入ってこなかったはずの言葉が、今はすっと意味を持って流れ込んでくる。

「ふうん」

 思わず声が漏れた。
 この問題、おもろ。
 答えまでの道筋を追いながら、口の端が少し上がる。

「よくこの角度で問題持ってきたな……」

 作問者の思考をなぞる。どこで気づかせるか、どの言葉を伏せるか、どの固有名詞を最後に置くか。負けたばかりなのに、腹が立つほど面白かった。
 ページをめくる。また一問。さらに一問。
 時間の感覚が薄れていく。狭いカラオケの部屋で、祈本の静かな寝息と、問題集のページをめくる音だけが続いていた。
 気づけば、時計は二時を回っていた。




 朝一番の東京駅、二十一番線ホーム。
 滑り込むように入線してきた「はやぶさ」の鋭い鼻先を見た。

 新幹線の中は、外がまだ夜みたいなせいで、照明がやけに眩しかった。ドアが閉まり、車体が静かに震えながら動き出す。
 上野を過ぎ、大宮へ向かう高架線の上で、窓の外は少しずつ夜景から暗闇へ変わっていく。赤羽のあたりで荒川を渡る瞬間、夜景がふっと途切れた。川の上だけが、ぽっかりと黒かった。東京の終わりと、関東平野の始まり。その境目を、俺たちは黙って通り過ぎていった。

 隣を見ると、祈本はもう寝ていた。昨夜あれだけ寝たくせに、よく寝るやつだ。これでは俺が仙台まで起きていなければならない。
 仕方なく、黒い窓に映った自分の顔を眺めた。大きめの黒縁メガネ。きりっと上がった眉。顔立ちそのものは嫌いでも好きでもないけれど、こうして見ると、まだどこか幼い。いつもなら髪はアイロンで真ん中分けにしてそれなりに整えているが、昨夜はカラオケ泊で風呂に入れなかったから前髪は下りたままで、少し重たく、べたついている。

 しばらくすると、新幹線は白石蔵王を通過していた。スマホを閉じ、窓の外を見る。真っ黒だった景色が、少しずつ青みを帯びていく。オレンジ色の日の出はまだ見えない。それでも、薄明かりの中に、蔵王連峰らしき影がぼんやり浮かんでいた。
 美しい、と思った。

「……おはよ」

 しばらくして、祈本が寝起きの声で言った。まぶたが重そうで、まだ半分眠っているような顔をしている。

「帰ってきちゃったなぁ、仙台」

 俺が言うと、祈本は窓の外を見たまま、ぽつりと聞いた。

「……久我山は、東京に戻りたいって思う?」
「そりゃそうだろ。好きなバンドのライブも東京だし、クイズ大会も東京ばっかりだし」

 そこまで言って、ふと引っかかった。

「……てか、俺が東京生まれって言ってたっけ?」
「……言った。言ってたよ、前に」
「そっか。でもまあ、東京に住んでたときはさ、田舎に帰省する友達がちょっと羨ましかった。夏休みに虫取りしたとか山で遊んだとかそういう話されると、良いなって。だから仙台に実家があるのは、悪くないかも。大学は東京に行けばいいだけだし。それに……」

 そこまで言って、俺は祈本を見た。
 仙台にいなければ、こいつには出会わなかった。
 出会わなかったなら、それはそれで別に何も困らなかったのかもしれない。けれど、出会ってしまった。クイズをして、麻雀をして、プールに行って、東京で負けて、帰れなくなって。こうして、朝の新幹線に並んで座っている。

「……それに?」

 祈本が聞き返した。
 そのとき、住宅街の向こうに真っ白な仙台大観音が現れた。雲を突く巨人みたいに、朝の薄明かりの中にぬっと立っている。何度見ても唐突で、何度見ても少しおかしい。
 俺は窓の外を指差した。

「それに、なんもないところにあんな大観音が立ってる街で暮らすのって、面白すぎるからな」

 車窓を指差す。祈本は、それを見た。俺は、その横顔を見ていた。

 新幹線は、俺たちを乗せたまま、仙台へ向かって走っていく。戻ってきてしまった、と思う。同時に、戻ってこられたのだとも思った。