ペーパークイズを抜けた六十名による第二ラウンドに、祈本の出場が決まった。
こいつにとっては初めての東京。初めての、日本でいちばん大きな大会。その壇上に立つ祈本は、客席から見てもわかるくらい緊張していた。背筋はまっすぐ伸びているのに、指先だけが落ち着かない。俺は自分の胸の底に沈んだ暗いものを押し殺して、舞台に上がる前に声をかけた。
「いつもよりちょっと早めに押してもお前ならいける。自分を信じろ」
「……うん」
祈本は短く頷いた。
俺は落ちた。祈本は通った。その事実は、まだ喉の奥に刺さっている。それでも、今から壇上に立つのは祈本で、俺はその背中を見送るしかなかった。祈るような気持ちと、祈りたくないような気持ちが、胸の中でぐちゃぐちゃに絡まって解けない。
「先に勝ち抜けた五名が次のステージに進みます。千六百二十二人の中から選ばれた六十人。勝利の女神が微笑むのは、果たして誰なのか!」
司会の声が会場を煽る。照明が解答席を白く照らし、問読みが静かに口を開いた。
「問題。イケチョウガイやアコヤガイ/」
ピーン。
「真珠」
ピンポーン。祈本ではなかった。
「問題。時間経過に連れて、つぼみ、ボタン/」
ピーン。
「線香花火」
ピンポーン。
また別の誰かだった。
その繰り返しだった。問題が読まれ、ボタンが鳴り、誰かが答える。正解音が響き、得点が積まれていく。祈本のランプだけが、一度も灯らない。知っているはずなのに。答えられるはずなのに。祈本はただ、ボタンの前に立ち尽くしていた。
一人目が抜ける。二人目が抜ける。三人目、四人目。残る勝ち抜け枠は、あと一つになった。
「押してけ、押してけ……」
俺は客席で、小さく呟いた。祈本に聞こえるはずがない。それでも言わずにはいられなかった。
「問題。諺(ことわざ)で、欧米では「Rのつかない/」
はっとした。これは取れる。
押せ!
けれど、祈本の指は動かなかった。ほんの一拍遅れて、別の解答者のランプが光る。
「牡蠣」
ピンポーン。
正解音が鳴った瞬間、苛立ちが募る。
……だって、さっきの問題。
新幹線の中で一緒にやった問題じゃないか!
Q.諺で、欧米では「Rのつかない月」、日本では「花見過ぎたら」食べないようそれぞれ伝えられる海産物といえばなんでしょう?
A.牡蠣
結局、祈本は一度もボタンを押さなかった。一度も誤答せず、一度も正解せず、ただ壇上に立って、何も残さないまま第二ラウンドで敗退した。
祈本はすぐに客席へ戻ってきた。何か言おうとしたように少しだけこちらを見る。けれど俺は目を逸らした。
見ていられなかった。
知識はある。答えもわかっている。なのに押さない。勝負の場に立っているのに、勝ちにいかない。そんな祈本を見ていると、腹立たしくて、悲しくて、どうしようもなく惨めになった。
なんでこいつが壇上に立てて、俺は立てなかったんだろう。
悔しかった。こいつ以下の自分が。
帰り道、人の声がやけに耳についた。
会場を出たばかりの参加者たちは、まだ大会の熱を体に残していて、誰が強かったとか、どの問題が良かったとか、あの押しはすごかったとか、好き勝手に喋っている。その中に、ひそひそとした声が混じった。
「前年優勝者もこんなもんか〜」
「ま、去年のは単なる上振れっしょ」
声の主たちは、近くに当の本人がいることに気付いていない。入賞できたのが嬉しいのか、少し浮かれた調子で笑っている。
そうか、と思った。
去年のあれは、明らかに上振れだったのだ。
目の前のこいつらは今、きっと何かを手に入れた気でいる。自分たちだけが知の高みに立ったような顔で、今日の正解を、今日の勝利を、世界のすべてみたいに語っている。優勝すれば、ほんの少し取材を受ける。写真を撮られる。界隈の人間に名前を覚えられる。けれどそれだけだ。人生が変わるわけでも、自分が特別な人間になるわけでもない。日常は、優勝の前も後も、同じ速さで過ぎていく。学校のテストみたいに内申点がつくわけでも、進路を保証してくれるわけでもない。それなのに、なんで負ければこんなにも簡単に地に落ちた気持ちになるのだろう。
「久我山」
聞き覚えのある声に呼び止められた。振り返ると、桜田さんが立っている。
「……お疲れ様です」
どうにかそう言った。
桜田さんは今回、準決勝まで進んでいた。強かった。去年は第二ラウンドで敗退して泣いていたから、よかったと思う気持ちはある。けれど同時に、去年まで俺が勝手に「知識派だけど早押しで勝ち切るタイプではない」と見ていた人が、今こうして自分よりずっと先にいることが、少し怖かった。
「今日、調子悪かったん?」
俺は少し考えた。言い訳なら、いくらでも思いつく。祈本の練習に付き合っていたこと。自分の対策が足りなかったこと。最近、遊びすぎていたこと。問題との相性。けれど、どれを口にしても惨めになるだけだ。
だから俺は、肩をすくめて笑った。
「いや、俺なんて、もともとこんなもんですよ」
ただ負けた。いや、壇上で負けることすらできなかった。その現実が今ここにあるだけだ。
桜田さんと別れたあと、俺は祈本と並んで駅のホームに立った。祈本はずっと黙っていた。何か言いたそうにも見えるし、本当に何も考えていないようにも見える。俺はぼんやりと線路を見下ろした。鉄のレールが、暗い光を細く返している。
「……なんでお前、あの問題押さなかった?」
ようやく口から出た。
新幹線の中でやった問題だ。祈本にも、すぐに伝わったはずだった。
「……あの時点では明確に名称を思い付いてなかったし……」
祈本は少し間を置いて答えた。
「別の問題に分岐するかもって考えたら……」
ザラメみたいな雪が、ホームに吹き込んできた。遠くで電車の音がする。まだ姿は見えないのに、レールだけがかすかに震えている。
───ああ、こいつは、早押しクイズという場で勝てない。
そう確信した。そうして、それは俺もそうだ。
「……まあ」
俺は小さく息を吐いた。白い息が一瞬だけ目の前に浮かび、すぐに消えた。
「現実、見れたよ」
そう言うと、祈本は曖昧に、へらりと笑った。そんな顔してほしくなかった。怒ってほしかった。そんなこと言うなって。なにも言い返してこないのがさみしくて、どうしようもなく悲しかった。
線路を見つめた。電車はまだ来ない。冷たい雪だけが、薄暗いホームの端で音もなく降っていた。
